第48話 四魔人の降臨
■不吉な夜明け
帝都の夜明けは、薄紅色の光と黒い煙が混ざり合う、異様な空模様から始まった。
アラン皇太子の死と、イザベラの残党の制圧。それらの報せは瞬く間に帝都全土へと広がり、生き残った民衆は安堵の息を漏らしていた。大聖堂前の広場には、仮設の救護所が設けられ、負傷者たちの手当てが進められている。
しかし、その平穏はあまりにも脆いものだった。
エリアーナは、大聖堂のバルコニーから帝都の市街地を見下ろしていた。
ルシアンの温かいマントが肩に掛けられている。彼の体温が伝わってくることで、自分がまだ生きているのだと実感できた。
「空の雲が、晴れないな」
隣に立つルシアンが、低く呟いた。
彼の言う通りだった。夜明けの光が差し込んでいるにも関わらず、帝都の上空には、まるで生き物のように蠢く黒い暗雲が居座り続けている。それは、アランやイザベラを操っていた悪魔王の気配そのものだった。
「……まだ、終わっていないのですね」
「ああ。悪魔王がこのまま引き下がるとは思えない。あの男は、俺たちに『幸福』を味わわせてから地獄に落とすと言っていた」
ルシアンの言葉に、エリアーナは身震いした。
1周目の記憶がフラッシュバックする。悪魔王は、ただ人を殺すだけではない。人が最も絶望する瞬間を、最も残酷な方法で演出する存在だ。
その時だった。
帝都の南区、貧民街の方角から、突如として真っ赤な火柱が上がった。
ただの火災ではない。炎は異常なほどの高さまで燃え上がり、その色は血のように赤黒かった。
「なんだ、あれは……!」
バルコニーの下にいた兵士たちが、どよめき声を上げる。
火柱は一本だけではなかった。東区、西区、そして北区からも、次々と赤い火柱が立ち上り、帝都を四方から囲い込むように燃え広がっていく。
「ルシアン!」
「わかっている。全
軍、警戒態勢を取れ! 鎮火部隊を各区画へ向かわせろ!」
ルシアンの号令が飛ぶ。しかし、その声すらも掻き消すほどの地鳴りが、帝都全体を揺るがした。
■四つの影
大聖堂の広場に、突如として突風が吹き荒れた。
砂埃が舞い上がり、兵士たちが思わず顔を覆う。風が収まった後、広場の中央には、今まで存在しなかった「四つの影」が立っていた。
彼らは人間ではなかった。
その身から放たれる圧倒的な瘴気は、アラン皇太子が怪物化した時よりも遥かに濃く、周囲の空気を凍りつかせるほどのプレッシャーを持っていた。
「……あれは、何だ」
ルシアンが剣の柄に手をかけながら、低く唸る。
四つの影は、それぞれ全く異なる姿をしていた。
一つ目は、長身痩躯の男。燃えるような赤い瞳と、焦げた炭のように黒い肌を持ち、全身から憎悪の炎を立ち上らせている。
二つ目は、中性的な美貌を持つ小柄な人物。白銀の長髪と深淵のように黒い瞳を持ち、人形のような冷たい微笑みを浮かべている。
三つ目は、華やかな貴族風の装いをした男。緑がかった金髪と黄緑色の瞳を持ち、優雅な立ち振る舞いとは裏腹に、全身から腐食性の瘴気を放っている。
そして四つ目は、最も異形な存在だった。人の形はしているものの、体の輪郭が霞のように曖昧で、見る角度によって姿が変わる。
『ご機嫌よう、帝都の愚民ども』
貴族風の男——第三の影が、芝居がかった手つきで一礼した。
その声は、広場にいる全員の頭の中に直接響き渡った。
『我らは悪魔王様の忠実なる僕。四魔人が一人、嫉妬のゼファーと申します。以後、お見知りおきを』
「四魔人……?」
エリアーナが息を呑む。
1周目の記憶にも、そんな存在は登場しなかった。悪魔王が自らの力を分け与え、直接生み出した眷属なのだろうか。
『俺はヴァルゴだ』
黒い肌の男——第一の影が、忌々しげに吐き捨てた。
『悪魔王様は随分とご立腹だ。お前たちが、せっかくの「極上の餌」を台無しにしたからな』
ヴァルゴの赤い瞳が、真っ直ぐにエリアーナを射抜いた。
その視線に込められた純粋な憎悪に、エリアーナは思わず一歩後ずさる。
『お前だ、エリアーナ・リステン。お前が憎悪を捨て、愛などという下らないものに逃げたせいで、悪魔王様の計画は狂った。俺は、お前が憎い。お前のその綺麗事のような愛が、反吐が出るほど憎い!』
ヴァルゴが咆哮すると同時に、彼を取り巻く赤い炎が爆発的に膨れ上がった。
■憎悪の伝染
ヴァルゴの炎は、物理的な熱を持っていなかった。
しかし、その炎が広場にいた負傷した民衆や兵士たちに触れた瞬間、異変が起きた。
「……あ、ああ……」
一人の兵士が、頭を抱えて蹲った。
その瞳が、徐々に赤く染まっていく。
「なぜ、俺の弟は死んだ……? なぜ、俺だけが生き残った……?」
「そうだ。全部、アラン皇太子のせいだ……いや、貴族たちのせいだ!」
「俺たちを見捨てた大聖堂のせいだ!」
次々と、民衆や兵士たちが立ち上がり、虚ろな目で周囲を睨みつけ始めた。
彼らの口から漏れるのは、不満、怨嗟、そして純粋な憎悪。ヴァルゴの炎は、人の心に潜む僅かな負の感情を、爆発的に増幅させる力を持っていたのだ。
「やめろ! 正気を取り戻せ!」
ルシアンの部下たちが止めに入ろうとするが、憎悪に飲まれた民衆は、素手で兵士たちに殴りかかっていく。
広場は一瞬にして、再び地獄のような暴動の渦に飲み込まれた。
『素晴らしい。これこそが人間の本質だ』
白銀の髪を持つ第二の影——リュカが、人形のような微笑みを深めた。
『人間は、少しのきっかけで簡単に憎しみ合う。愛などという脆い感情は、絶望の前では何の役にも立たない』
リュカが指を鳴らすと、今度は広場の地面が黒い泥のように変絶し始めた。
泥の中から、無数の黒い手が伸びてくる。それは、この数日間の戦いで命を落とした者たちの幻影だった。
「ひぃっ……!」
「助けて、助けてくれ……!」
幻影の手に足を掴まれた者たちは、最も辛い記憶を見せられているのか、白目を剥いて絶叫し始めた。
憎悪と絶望。二つの魔人の力が掛け合わさり、帝都の防衛線は内部からあっけなく崩壊していく。
「ルシアン、このままでは……!」
エリアーナが叫ぶ。
ルシアンは舌打ちをすると、バルコニーから広場へと飛び降りた。
「俺が奴らの気を引く! お前は大神官と共に結界を張れ!」
「待って、ルシアン!」
エリアーナが制止する間もなく、ルシアンは剣を抜き放ち、四魔人に向かって一直線に駆け出した。
■孤独の宣告
『おや、北の覇者殿が自らお出ましですか』
ゼファーが嘲笑うように言う。
ルシアンは無言のまま、凄まじい踏み込みでゼファーの懐に潜り込み、剣を一閃した。
しかし、その刃はゼファーの首を捉える直前で、見えない壁に阻まれて甲高い金属音を立てた。
「……チッ」
『無駄ですよ。私の力は、あなたの剣術をそのままコピーできる』
ゼファーの手には、いつの間にかルシアンと全く同じ形の黒い剣が握られていた。
二人の剣が激しく打ち合い、火花が散る。ルシアンの圧倒的な剣技を、ゼファーは完璧に模倣して防いでいた。
『さて、それでは……仕上げと行きましょうか』
今まで無言だった第四の影——カルナが、初めて口を開いた。
その低く響く声と共に、カルナの曖昧な輪郭が大きく広がり、広場全体を覆う巨大なドーム状の結界を形成した。
「な、何だこれは……!」
結界の内側に閉じ込められたルシアンが、周囲を見回す。
先ほどまで耳を劈くようだった民衆の絶叫も、剣の交わる音も、全てが完全に消え去っていた。完全な無音の世界。
バルコニーにいるエリアーナからも、結界の中のルシアンの姿は見えなくなっていた。
黒い半球体のドームが、広場の中央に鎮座しているだけだ。
「ルシアン! ルシアン!」
エリアーナは必死に叫んだが、声が届いている気配はない。
カルナの「断絶の結界」。それは、人と人の繋がりを完全に断ち切り、対象者を絶対的な孤独の中に閉じ込める能力だった。
『無駄だ、エリアーナ・リステン』
ヴァルゴの声が、バルコニーのエリアーナに向けられる。
『奴はもう、お前の声を聞くことはできない。お前たちは、それぞれ孤独の中で絶望し、憎悪に飲まれて死ぬのだ』
四魔人の降臨。
それは、エリアーナとルシアンがようやく手に入れた「愛と絆」に対する、悪魔王からの最も残酷な試練の始まりだった。
帝都の空は、完全に黒い暗雲に覆い尽くされていた。




