第47話 父の誇りと最後の戦場
■戦火の後の広場
大聖堂前の広場は、凄惨な戦いの痕跡を色濃く残していた。
石畳は焼け焦げ、崩れた壁の破片が散乱し、至る所に血の跡が黒く染み付いている。しかし、そこに満ちていた狂気と憎悪の気配は、すでに嘘のように消え去っていた。
リステン侯爵は、静まり返った広場の片隅で、ただ一人、深く息を吐き出した。
震える手をゆっくりと握りしめ、剣の柄から離す。刃にこびりついた血糊が、この数日間の地獄を物語っていた。
「……終わったのか」
その呟きは、誰に宛てたものでもなかった。
皇宮から立ち上っていた黒煙は細くなり、空を覆っていた重苦しい雲の隙間から、薄紅色の夜明けの光が差し込み始めている。
アラン皇太子は討たれた。
帝都を火の海にした狂信者たちも、その大半が制圧された。
長い、あまりにも長い悪夢のような夜が、ようやく明けようとしていた。
侯爵の視線の先には、二人の姿があった。
瓦礫の階段に腰を下ろす、愛娘のエリアーナ。そして、彼女の隣で静かに言葉を交わす、北の覇者ルシアン・ヴァレリウス。
二人の姿は泥と血に汚れ、疲労困憊しているのは明らかだった。しかし、その背中には、かつてないほどの確かな絆と、揺るぎない覚悟が宿っているように見えた。
(エリアーナ……)
侯爵は、娘の横顔を見つめながら、胸の奥から込み上げてくる熱いものを必死に堪えた。
彼女が初めて「アラン殿下との婚約を破棄したい」と告げてきた日のことを、今でも鮮明に覚えている。
あの時、彼女の瞳に宿っていたのは、氷のように冷たく、そして底知れぬほど深い「絶望」と「憎悪」だった。
『わたくしは、もう誰も信じません。お父様でさえも』
そう言い放った娘の言葉が、今でも胸を締め付ける。
親として、娘がそれほどの絶望を抱えるまで何も気づけなかった己の不甲斐なさを、何度呪ったことか。
彼女が一人で何を背負い、何と戦おうとしているのか。その全てを理解することはできなかったが、ただ一つだけ確かなことがあった。
それは、「父親として、何があってもこの娘を守り抜く」という決意だった。
だからこそ、侯爵は彼女の無謀とも思える計画に全てを賭けた。
リステン家の全資産を南へ移し、長年築き上げてきた帝都での地位を捨て、彼女と共に大聖堂へ逃げ込んだ。
それは、貴族としての矜持でも、権力への執着でもない。ただ純粋な、親としての愛だった。
(お前は、本当によく戦った)
侯爵は、心の中で娘に語りかけた。
一人で復讐の刃を研ぎ澄まし、皇太子という巨大な権力に立ち向かい、そして最後には、自らの内にある「憎悪」すらも乗り越えてみせた。
今のエリアーナの瞳には、あの時の冷たい絶望はない。
代わりに宿っているのは、ルシアンという確かな光と、民衆を守ろうとする慈愛の心だ。
■娘を託す父
「……侯爵閣下」
ふと、背後から声がかけられた。
振り返ると、包帯を巻いたアンナが立っていた。彼女もまた、この戦いでエリアーナのために命を懸けて戦った一人だ。
「エリアーナ様は……」
「ああ」
侯爵は、短く答えた。
「あの子は、私の誇りだ。リステン家の、いや、この帝国の誇りだ」
その言葉に、アンナは涙ぐみながら深く頷いた。
「しかし……まだ終わってはいません」
侯爵は、再び空を見上げた。
夜明けの光が差し込んでいるとはいえ、空の彼方には、未だに禍々しい暗雲が渦巻いている。
アラン皇太子やイザベラを操っていた、真の元凶。
悪魔王の気配が、完全に消え去ったわけではないのだ。
「ルシアン公爵」
侯爵は、二人のもとへ歩み寄った。
足音に気づいたルシアンが、ゆっくりと立ち上がる。その瞳には、かつての「冷酷公爵」と呼ばれた頃の鋭さはなく、ただ静かな決意が宿っていた。
「リステン侯爵。怪我は」
「かすり傷です。それよりも、公爵閣下」
侯爵は、ルシアンの目を真っ直ぐに見据えた。
「娘を……エリアーナを、どうか頼みます」
それは、臣下としての言葉ではなく、一人の父親としての切実な願いだった。
これからの戦いは、人間の手には負えない領域の戦いになる。悪魔王という人智を超えた存在との決戦に、自分はついていくことはできない。
だからこそ、この男に全てを託すしかなかった。
「……言われるまでもありません」
ルシアンは、深く頷いた。
「俺の命に代えても、彼女を守り抜きます。そして、必ず二人で生きて帰る」
その言葉に嘘偽りがないことを、侯爵は確信した。
かつて、この男に娘を託すことに一抹の不安がなかったわけではない。しかし、今の二人を見れば、そんな不安は杞憂に過ぎなかったとわかる。
二人は、互いの欠けた部分を補い合い、互いの光となっている。
「お父様……」
エリアーナが、立ち上がって侯爵の前に来た。
泥だらけの顔で、しかし誰よりも美しい微笑みを浮かべている。
「今まで、わたくしの我儘に付き合ってくださり、本当にありがとうございました」
「何を言う。お前は私の娘だ。親が子供の背中を押すのは、当然のことだろう」
侯爵は、不器用な手つきで娘の頭を撫でた。
幼い頃、よくこうして撫でてやったことを思い出す。あの頃から、彼女は少しも変わっていない。優しくて、強くて、そして不器用な娘だ。
「行きなさい、エリアーナ。そして、ルシアン公爵」
侯爵は、二人の背中を押すように、力強く言った。
「お前たちの未来を、お前たちの手で掴み取ってくるんだ」
二人は深く頷き、並んで歩き出した。
大聖堂の広場から、さらにその先へ。真の決戦の地へと向かう二人の背中を、侯爵は静かに見送った。
その背中が完全に見えなくなるまで、彼は決して目を逸らさなかった。
これが、父親としてできる最後の戦いだと、心に刻み込みながら。
空の彼方で、悪魔王の暗雲が不気味に蠢き始めている。
しかし、侯爵の心に恐怖はなかった。
あの子たちなら、必ず勝てる。
その確信だけが、彼の胸の中で静かに燃え続けていた。
■礼拝堂の問い
その夜、侯爵は一人で大聖堂の礼拝堂に残った。
アンナや兵士たちが後片付けに追われる中、彼はただ祭壇の前に膝をつき、長い間、頭を垂れていた。
祈りの言葉は、出てこなかった。
神に何かを願う資格が、自分にあるとは思えなかった。
この戦いで、どれほどの命が失われたか。アランの軍の兵士たちも、狂信者たちも、元をたどれば悪魔王という存在に翻弄された被害者だ。
その命の重さを、侯爵は一つ一つ、心の中で数えた。
(お前たちの分も、エリアーナが必ず取り返してくれる)
そう信じることしか、今の自分にはできなかった。
ふと、礼拝堂の扉が静かに開いた。
大神官が、包帯に包まれた体を引きずるようにして入ってくる。
「侯爵閣下。こんな場所に一人でいらしたのですか」
「大神官様こそ。お体は」
「この程度の傷、神の御前では何ほどのことでもありません」
大神官は、侯爵の隣に静かに腰を下ろした。
しばらく、二人は無言で祭壇を見つめていた。
「エリアーナ様は、素晴らしいお方になられましたな」
大神官が、穏やかな声で言った。
「初めてお会いした時は、憎悪の炎に焼かれた、今にも燃え尽きそうな方でした。しかし今は……」
「ああ」
侯爵は、短く答えた。
「今は、誰よりも温かい光を放っている」
大神官は、深く頷いた。
「それは、閣下が娘御を信じ続けたからです。親の愛というものは、子供が思う以上に、その背中を支えているものですよ」
その言葉に、侯爵は思わず目を細めた。
信じ続けた、か。
果たして自分は、本当に娘を信じていたのだろうか。
正直に言えば、何度も不安になった。彼女の計画が失敗するのではないかと、彼女が傷つくのではないかと、何度も夜中に目が覚めた。
しかし、それでも彼女の前では弱みを見せなかった。
父親として、彼女の盾となることだけを考え続けた。
それが、自分にできる唯一の戦い方だったから。
「大神官様」
侯爵は、静かに問いかけた。
「あの子たちは、悪魔王に勝てるでしょうか」
大神官は、しばらく目を閉じてから、ゆっくりと答えた。
「勝てます。いや、勝たねばなりません。そして、あのお二人ならば……必ず勝ちます」
「根拠は」
「愛です」
大神官の声は、静かだが揺るぎなかった。
「悪魔王は、数百年の間、人の憎悪を糧として生きてきた存在です。しかし、エリアーナ様は憎悪を捨て、愛を選んだ。それは、悪魔王が最も恐れることです。愛は、憎悪を凌駕する。それが、神の定めた真理なのですから」
侯爵は、その言葉を胸の奥深くに刻み込んだ。
愛が、憎悪を凌駕する。
そうだ。あの子は、憎悪だけで戦っていたわけではなかった。
ルシアンへの愛、民衆への慈愛、そして父への感謝。
それらが全て合わさって、今のエリアーナを作り上げているのだ。
■父の最後の戦場
「……ありがとうございます、大神官様」
侯爵は、深く頭を下げた。
「私は、ここで待ちます。あの子たちが帰ってくるまで、この場所を守り続けます」
「それが、侯爵閣下の最後の戦場ですな」
大神官は、穏やかに微笑んだ。
「父親として、娘の帰りを待つ。それ以上に尊い戦いが、この世にあるでしょうか」
侯爵は、答えなかった。
ただ、再び祭壇に向かって頭を垂れた。
今度は、祈りの言葉が自然と口をついて出た。
(どうか、あの子たちを守ってください)
それだけでよかった。
父親として、それだけが今の自分に言える全てだった。
礼拝堂の高窓から、夜明けの光が差し込んでくる。
その光の中で、侯爵はただ静かに、娘の帰りを待ち続けた。




