第46話 勝利の代償と虚無の影
■戦火の後の「沈黙」
大聖堂の火災は完全に鎮火し、皇宮から立ち上っていた黒い瘴気も、朝日に溶けるように消え去っていた。
「エリアーナ」
背後から声がした。
振り返ると、そこにはルシアンが立っていた。
彼の黒い軍服はところどころ破れ、剣の柄は血に塗れていたが、その瞳はかつてないほど穏やかだった。
「ルシアン……!」
私は、煤だらけのドレスのまま彼に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。
ルシアンは血に塗れた剣を納め、私の背中に強く腕を回した。
彼の心臓の鼓動が、私の頬に伝わってくる。
「終わったよ、エリアーナ」
ルシアンは、私の耳元で静かに囁いた。
「アランは討ち取った。憎しみの連鎖は、これで断ち切った」
「ええ……ええ、ルシアン」
私は、彼の胸に顔を埋めたまま頷いた。
私たちは勝利したのだ。
1周目の絶望から始まり、悪魔王との契約を経て、ついに復讐を成し遂げた。
しかし——私の心に、歓喜はなかった。
私はルシアンの腕からそっと離れ、大聖堂の前の広場を見渡した。
鎮火したとはいえ、大聖堂の側面は焼け焦げ、広場の石畳には多くの瓦礫が散乱している。
その瓦礫の上には、火災や魔物との戦闘で傷ついた多くの負傷者が横たわり、神官たちが必死に救護活動を続けていた。
帝都の民衆も、広場の端に集まっていた。
だが、彼らは歓声を上げることはなかった。
アランという「怪物」の恐怖と、イザベラという「偽りの聖女」に騙されていたことへの絶望。
彼らの瞳に宿っているのは、勝利の喜びではなく、静かな沈黙と恐怖だった。
「エリアーナ! ルシアン公爵!」
そこに、父・リステン侯爵が駆けつけてきた。
父の鎧も傷だらけだったが、その顔には安堵の涙が浮かんでいた。
「よくやった、エリアーナ! ルシアン公爵! 帝国は救われたのだ!」
父は私の両手を強く握り締めた。
その手の震えが、父がどれほどの重圧と戦っていたかを物語っていた。
私は、父の手を握り返すことができなかった。
私の復讐が、この帝都にどれほどの血を流させ、どれほどの悲しみを生んだのか。
その重さが、今になって私の心にのしかかってきたのだ。
■憎悪の「残滓」
「エリアーナ嬢」
瓦礫の中から、神官たちに支えられて大神官が現れた。
彼は炎の中で煙を吸い込み重傷を負っていたが、その意識ははっきりとしていた。
「大神官様……ご無事でよかった」
「貴女のおかげです」
大神官は、痛む胸を押さえながら、静かに私を見つめた。
「貴女の復讐は、終わりました」
「……はい」
「しかし」
大神官の目が、鋭く細められた。
「貴女の魂の奥底には、まだ悪魔王の囁きが残っています。憎悪は、そう簡単には消えない」
大神官の言葉は、私の心の最も脆い部分を正確に突いていた。
私は、アランを討ち果たしたというのに。
イザベラも自滅し、私を陥れた者たちは全て報いを受けたというのに。
満足感どころか、胸の中にポッカリと穴が空いたような、冷たい虚無感に苛まれていたのだ。
(アランは死んだ。イザベラも倒れた。それなのに……)
(この空虚さこそが、悪魔王の残滓なの?)
私は、父や兵士たちが勧める勝利の祝杯を拒否し、瓦礫の山となった大聖堂の正面階段に、一人座り込んだ。
朝の冷たい風が、私の頬を撫でていく。
隣に、静かな足音が近づいてきた。
ルシアンが、私の隣に腰を下ろした。
彼の重い腕が、私の肩にそっと置かれる。
「……虚しいか」
ルシアンは、前を見たまま尋ねた。
「ええ……ルシアン」
私は、自分の膝を抱え込んだ。
「私は、憎しみのためだけに生きてきたのね。復讐が終わったら、私には何も残っていない……」
■ルシアンの「責任と愛」
「違う、エリアーナ」
ルシアンは、私の肩を抱き寄せ、もう片方の手で私の髪を優しく撫でた。
「お前は、憎しみだけで俺を助けたわけではない。憎しみに満ちた俺自身を愛し、共犯者になってくれた」
彼の言葉が、冷え切った心に少しずつ熱を灯していく。
「そしてお前は、帝都の民の命を救った。俺が皇宮で剣を振るえたのも、お前が大聖堂を守ってくれたからだ」
ルシアンは立ち上がり、私に向かって手を差し出した。
「憎しみが終わったなら、次は愛と責任のために生きる番だ」
「愛と、責任……」
「今の帝都には、皇帝がいない。秩序がない。貴族どもは、誰が権力を握るか怯えている」
ルシアンの瞳に、北の覇者としての力強い光が宿った。
「だからお前が、憎悪の鎖を断ち切ったのなら、次は俺と共に、憎悪を生み出さない帝国を創るんだ」
その言葉は、私の心に新たな使命を与えてくれた。
私はもう、復讐者ではない。
これからは、帝国の未来を担うルシアンの「伴侶」として、彼と共に生きるべきなのだ。
私は、ルシアンの差し出した手を、しっかりと握り返した。
■悪魔王の「決断」
その頃。
帝都の上空、厚い雲間に隠れた深淵の空間から、悪魔王は不機嫌そうに下界を見下ろしていた。
「……馬鹿なエリアーナめ。憎悪を愛で上書きするなど」
悪魔王の苛立ちは、頂点に達していた。
アランの消滅は、悪魔王にとって人間界からの「最大の憎悪の供給源」を失うことを意味した。
このままでは、エリアーナとの契約が「愛による昇華」という形で破棄されてしまう。
それは、悪魔王にとって最大の屈辱だった。
「許さぬ」
悪魔王は、暗闇の中で低く呟いた。
契約の代償として、彼女の魂と、彼女の愛する者の魂を、力尽くでも奪い取る。
「幸福を味わえば味わうほど、その後の地獄は耐え難い苦痛と憎悪に満ちるものだ」
悪魔王は肩を揺らし、静かに笑い始めた。
これまで以上の絶望を与え、最終的に、より深い憎悪に染め上げてやる。
「見ているがいい……。小賢しさがいかに愚かしいか。思い知るだろう」
悪魔王の高笑いが、誰にも聞こえない深淵の空間に響き渡った。
帝都の空に、再び見えない暗雲が立ち込めようとしていた。
■新体制の「発足」
ルシアンは、その日の午後には早くも動き始めた。
帝都の主要な貴族を大聖堂前の広場に集め、臨時政府の樹立を宣言した。
アランの独裁政治によって歪められた帝国の統治機構を、一から立て直すための第一歩だ。
「本日より、ヴァレリウス公爵家が帝国の摂政を担う。異論のある者は今ここで申し出よ」
ルシアンの言葉は短く、しかし圧倒的な威圧感を持っていた。
貴族たちは誰一人として反論しなかった。アランという「怪物」を討ち取った男に、今の帝国で逆らえる者はいない。
私は、ルシアンの隣に立っていた。
「摂政公妃」として、彼の政治の表舞台に立つことを、私自身が選んだのだ。
「エリアーナ・リステンを、摂政公妃として登用する。彼女は帝国の民政を担う」
ルシアンの宣言に、貴族たちがざわめいた。
「魔女」と呼ばれていた女が、帝国の政治の中枢に立つ。
それは、帝国の歴史上、前例のないことだった。
しかし、広場に集まっていた帝都の民衆は、静かに拍手を始めた。
最初は一人、次に二人、やがてそれは大きな波となって広場全体に広がっていった。
「エリアーナ様!」
「摂政公妃様!」
民衆の声が、帝都の空に響き渡った。
私は、その声を聞きながら、胸の奥に何かが満ちていくのを感じた。
(これが……私の居場所)
復讐のためではなく、民のために立つ。
それが、2周目の私が選んだ道だった。
■アンナの「涙」
式典が終わり、私が大聖堂の仮設医務室へ向かうと、アンナが待っていた。
彼女は私の姿を見た途端、声を上げて泣き始めた。
「エリアーナ様……! よかった……! 本当によかった……!」
「アンナ……」
私は、アンナの肩を抱いた。
彼女は子供のように泣きじゃくりながら、私にしがみついてきた。
「私、ずっと怖かったんです……。エリアーナ様が、いつか憎しみに飲まれてしまうんじゃないかって……」
「……ごめんなさい、心配させて」
「でも、よかった。エリアーナ様は、エリアーナ様のままでいてくれた」
アンナの言葉が、胸に刺さった。
私は、自分が憎悪に飲まれかけた瞬間を思い出した。
大聖堂の炎の中で、残党の男に剣を振り上げたあの瞬間。
あの時、私は確かに「怪物」になりかけていた。
(でも、私は踏みとどまった)
ルシアンの言葉が、私を引き戻してくれた。
アンナの信頼が、私を支えてくれた。
「ありがとう、アンナ」
私は、アンナの背中を優しく撫でた。
「あなたがいてくれたから、私は私でいられたわ」
アンナは、涙を拭いながら顔を上げ、ぐしゃぐしゃの笑顔を見せた。
「これからも、ずっとそばにいます!」
「ええ。よろしくね」
帝都の空は、夕暮れに染まり始めていた。
橙色の光が、瓦礫の広場を柔らかく照らしている。
勝利の代償は大きかった。
しかし、私たちは確かに前へ進んでいた。
新しい帝国の夜明けへ向かって。




