第42話 悪魔王の「最後の駒」
■悪魔王の「焦り」
光の届かない深淵の底。
果てしなく広がる魔界の玉座で、悪魔王は人間界の「盤面」を眺めながら、かつてないほどの苛立ちを覚えていた。
「……忌まわしい」
彼の指先が、黒曜石の肘掛けを苛立たしげに叩く。
「あの男も、あの女も……!」
計画が、全て裏目に出ている。
数百年ぶりの「極上の餌」として目をつけたエリアーナ。彼女を絶望の底に突き落とし、その魂を最も美味な状態で喰らうために、わざわざ時間を巻き戻してやったというのに。
彼女は絶望するどころか、ルシアンという規格外の「愛」を見つけ出し、悪魔王の干渉をことごとく跳ね除けている。
イザベラに与えた力は、ルシアンの命を削る決断とエリアーナの破魔の鏡によって打ち破られた。
ルシアンの魂を喰らうために仕込んだ死の「呪い」すらも、エリアーナが自らの生命力を分け与えるという自己犠牲の「愛」によって浄化されてしまった。
さらには、エリアーナは「回帰」の秘密をルシアンに告白し、二人の絆はもはや悪魔王の「憎悪」が入り込む隙がないほどに強固なものとなっている。
「愚かな人間どもめ。私が与えた『力』を、こうも容易く凌ぐとは……」
悪魔王は、盤面の上で暴れ回る「怪物」——アランの姿を睨みつけた。
全てを失ったアランに強大な憎悪の力を注ぎ込み、帝都を滅ぼす魔物に変えた。これこそが、エリアーナを真の絶望に突き落とす決定打になるはずだった。
だが、それすらも。
瘴気への耐性を得たルシアンの武勇と、帝都の地理を熟知したエリアーナの的確な指揮による完璧な連携の前に、無力化されつつある。
(このままでは、アランが討たれるのも時間の問題だ)
悪魔王の脳裏に、一つの疑問がよぎる。
(私が、負ける?)
(この私が……たかが人間どもに?)
その考え自体が、悪魔王のプライドをひどく傷つけた。
深淵を支配する絶対的な存在である彼が、自ら盤上に並べた小さな駒たちに翻弄されている。
数百年前、炎の中で復讐を拒絶したあの少女の瞳が、再びフラッシュバックする。
「……認めん。人間ごときの『愛』などという脆弱な感情に、私の憎悪が敗北するなど」
悪魔王の瞳に、昏い殺意が宿った。
■悪魔王の「視点」
(いや、まだだ)
悪魔王は玉座から立ち上がり、盤面を冷徹に見つめ直した。
感情に流されてはならない。相手の最も弱い部分を突き、確実に心を折る。それが悪魔のやり方だ。
(エリアーナが、今最も守ろうとしているものは何だ?)
悪魔王は、帝都の市街地で民衆を誘導し、魔物の残党を掃討しているエリアーナの姿を観察した。
彼女は自分自身の命よりも、他者の命を優先している。
(ルシアン。帝都の民衆。そして……あの忌まわしい、私の力を阻害する『大聖堂』)
悪魔王の視線が、帝都の中心で清らかな光を放つ巨大な建築物に止まった。
大聖堂。
聖域の結界が張られ、悪魔の瘴気を寄せ付けない場所。今、帝都の民衆が続々とその地下へ避難し、安全を確保しつつある。
(そうだ。あの『聖域』さえなければ)
悪魔王の唇の端が、歪に吊り上がった。
(アランは、ただの陽動だ)
皇宮で暴れるアランは、確かに強大だ。だが、ルシアンという「剣」が向かった以上、いずれは討ち取られる。
重要なのは、アランがルシアンとエリアーナの目を「皇宮」と「市街地」に釘付けにしているという事実だ。
(あの二人がアランに集中している隙に、あいつらの帰る場所——大聖堂を奪えばいい)
民衆が避難している大聖堂が炎に包まれれば、エリアーナは全てを守りきれなかったという絶望に打ちひしがれるだろう。
その時こそ、彼女の魂は最も美味な状態に熟す。
■最後の「火種」
悪魔王は、帝都の暗がりに意識を集中させた。
大聖堂の結界の内部から、微かに漏れ出ているどす黒い感情。
恐怖、混乱、そして——狂気的な「盲信」。
(見つけた)
それは、イザベラがまだ「聖女」として崇められていた頃の、彼女の「狂信者」たちだった。
彼らは、イザベラが大聖堂で無残な亡骸となって発見された後も、その事実を受け入れることができず、大聖堂の地下深く——使われていない古い地下墓地などに潜伏していたのだ。
『可哀想な者たちよ』
悪魔王は、彼らの脆弱な精神に直接語りかけた。
(誰だ……?)
『貴様たちの美しき聖女は、あの忌まわしい魔女に殺められたのだ』
悪魔王の甘い囁きが、狂信者たちの脳髄に直接響く。
(やはり! あの魔女め!)
(聖女様は、あの女の陰謀で……!)
『エリアーナは今、ルシアンと共に帝都を乗っ取ろうとしている。貴様たちの聖女を貶め、自分たちが英雄として君臨するために』
狂信者たちの心に、どす黒い憎悪の火が灯る。
(許せん……!)
(偽りの英雄どもめ!)
『聖女様の仇を、討ちたいか?』
悪魔王の問いかけに、彼らは一斉に呼応した。
(討ちたい! 討ちたい!)
(我らが聖女様のために!)
狂信者たちは、悪魔王の囁きにいとも簡単に染まっていった。
彼らにとって、真実などどうでもよかった。自分たちが信じた「聖女」が正しく、それを否定した「魔女」が悪であるという理由さえあれば、それで十分だったのだ。
■悪魔王の「最後の指示」
『ならば、最後の「力」をくれてやろう』
悪魔王は、アランに注ぎ込んでいた力の残りを全て、この狂信者たちに分け与えた。
皇宮のアランへの供給を少し減らすことにはなるが、構わない。アランはすでに十分に暴れ回り、陽動としての役割を果たしている。
地下墓地に潜む狂信者たちの体が、異様に膨張し、皮膚が黒く変色していく。
彼らは悪魔の「力」を得て、もはや人間ではなくなった。
知性を残したまま、破壊と憎悪だけを目的とする異形の怪物へと変貌したのだ。
『お前たちの敵は、エリアーナだ』
悪魔王は、最後の指示を下した。
『そして、エリアーナが拠点としている、あの『大聖堂』だ。あそこには今、魔女に騙された愚かな民衆どもが逃げ込んでいる』
「おお……」
「聖女様の、無念を晴らすのだ」
狂信者たちは、濁った声で呻いた。
「あの忌まわしい大聖堂を、民衆も神官もろとも、浄化せよ」
「大聖堂を、焼き払え……!」
彼らは松明や油を手に、地下墓地から、民衆が避難している備蓄庫の方角へと動き出した。
悪魔王は、深淵の玉座で深く背もたれに寄りかかった。
アランという派手な「陽動」の裏で、大聖堂そのものを内側から破壊し、エリアーナとルシアンを精神的に追い詰める。
これは、彼が放った最も陰湿で、最も確実な「一手」だった。
(愛だか何だか知らんが)
(守るべき民衆も、帰るべき場所も……全てを失った時、貴様らはどんな顔をするかな?)
悪魔王は、炎に包まれる大聖堂と、絶望に泣き叫ぶエリアーナの顔を想像し。
暗闇の中で、静かに、そして楽しげに笑った。
■深淵の「問い」
笑いが収まった後、悪魔王はふと、深淵の底に封じ込めているはずの「声」が聞こえた気がした。
(……本当に、それでいいの?)
数百年前の、あの少女の声。
炎の中で両親を失い、それでも復讐を拒絶した、あの瞳。
悪魔王は眉をひそめた。
「うるさい」
彼は短く吐き捨てた。
「愛などという幻想が、人間を救うものか。守ろうとすればするほど、失うものが増えるだけだ。それが人間の本質だ」
深淵に声はない。
あの少女はとうの昔に死んでいる。
悪魔王の心に響いたのは、ただの残滓だ。
(それでも)
声は続く。
(あなたは、本当は知っているはずよ。人間が憎悪だけで動く生き物ではないことを)
「黙れ」
悪魔王は玉座の肘掛けを叩き割った。
砕けた黒曜石の欠片が、深淵の闇に消えていく。
(知っているから、怖いのでしょう?)
悪魔王は、立ち上がって背を向けた。
人間界の盤面を見るのをやめ、深淵の奥へと歩き出す。
「私は怖くない。私は悪魔だ。恐怖など感じない」
その言葉が、誰への言い訳なのか。
深淵の底では、誰も問わなかった。
ただ一つ確かなことは、悪魔王が最後の「駒」を動かしたという事実だ。
大聖堂の地下で、狂信者たちが今まさに松明に火を灯している。
帝都の民衆が逃げ込んだ、最後の聖域が、内側から炎に包まれようとしていた。
エリアーナとルシアンが、この「一手」に気づく前に。




