第40話 皇宮の「怪物」
■皇宮の「静寂」
帝都の中心にそびえ立つ、豪奢な皇宮。
アランが大聖堂の包囲を解き、たった一人で逃げ帰ってから、三日が経過していた。
皇宮の巨大な鉄門は固く閉ざされたままである。
大聖堂の広場には、指揮官である「主君」を失った五万の正規軍が、どうすることもできずに立ち往生していた。
軍を動かす権限を持つのは皇太子であるアランのみであり、彼からの指示がない以上、兵士たちは撤退することも大聖堂へ突入することもできなかった。
帝都は今、「皇太子不在」という異常な政治的空白状態に陥っていた。
大聖堂の内部で、エリアーナが回復したルシアンに全てを告白し、二人が新たな絆を結んでいた頃。
皇宮の内部は、不気味なほどの「静寂」に包まれていた。
「……殿下は、どうなされたのだ」
「あの日、大聖堂から戻られてから、玉座の間に閉じこもられたままだ」
「食事も水も、一切お取りになられていないぞ。もう三日だぞ……」
皇宮に残っていたわずかな近衛兵や侍女たちは、声を潜めて囁き合っていた。
アランの異様な引きこもりに、誰もが底知れぬ恐怖を感じていた。
しかし、誰も玉座の間の重い扉を開ける勇気はなかった。
扉の向こうから、時折、獣の唸り声のような不気味な音が漏れ聞こえていたからだ。
■アランの「変貌」
玉座の間。
窓には厚いカーテンが引かれ、光が完全に閉ざされた暗闇の中。
アランは一人、豪奢な玉座に深く腰掛けていた。
「……力が、欲しい」
彼は、焦点の定まらない目で虚空を見つめながら、悪魔王との契約の言葉をブツブツと呟き続けていた。
「エリアーナを、殺す力」
「ルシアンを、殺す力」
「俺を裏切った民衆を、殺す力……!」
かつて帝国の次期皇帝として輝かしい未来を約束されていた彼の心は、もはや憎悪と絶望だけで満たされていた。
イザベラを失い、民衆の支持を失い、軍すらも動かせなくなった彼に残されたのは、自分を破滅へと追いやった者たちへのどす黒い恨みだけだった。
悪魔王は、その極上の「器」に満足し、契約通り彼に強大な「力」を注ぎ続けた。
「ぐ……ああ……っ!」
アランの体が、その強大すぎる「力」に耐えきれず、不気味な音を立てて軋み始めた。
彼の美しい金糸の髪は、生命力を吸い取られたように白銀へと変色していく。
陶器のように滑らかだった肌はどす黒く変色し、指先からは獣のように鋭い爪が伸びていく。
「力が……もっと……!」
アランは、人間としての「理性」を自ら捨て去り、悪魔王の「憎悪の力」そのものを完全に受け入れた。
彼はもはや、エリアーナへの「復讐」すら望んではいなかった。
ただ、自分を拒絶したこの世界を、全てを「破壊」する衝動に突き動かされていた。
暗闇の中で、彼の両目が紅蓮の炎のように爛々と輝いた。
■皇宮の「惨劇」
その日、玉座の間の外で警護に当たっていた侍女の一人が、異変に気づいた。
扉の隙間から、ドロドロとした黒い霧のようなものが漏れ出していたのだ。
「……殿下? お食事を……」
侍女は恐る恐る、玉座の間の重い扉を少しだけ開けた。
そして、彼女が見たもの。
それは、玉座に座る「アラン皇太子」の姿ではなかった。
紅の瞳を爛々と輝かせ、体中から黒い「瘴気」を放つ、一体の巨大な「怪物」だった。
「ひ……っ!」
「……ああ、『食事』か」
怪物は、アランの声を残したまま、歪な笑みを浮かべた。
「ちょうど、腹が空いていたところだ」
「きゃあああああああ!!」
皇宮の静寂を切り裂いて、侍女の絶叫が響き渡った。
それを合図に、皇宮の「怪物」は活動を開始した。
玉座の間から溢れ出した黒い「瘴気」は、意志を持っているかのように皇宮の廊下を這い回り、残っていた兵士や使用人たちに次々と襲いかかった。
瘴気に触れた者は、瞬く間に正気を失い、白目を剥いて倒れ込んだ。
そして次の瞬間には、彼らもまた同じように瘴気を放ち、生きた人間を襲う「魔物」へと変貌していったのだ。
「た、助けてくれ!」
「アラン様が、怪物に……!」
皇宮の固く閉ざされていた門が、内側から凄まじい力で破壊された。
生き残った侍女や兵士たちが、血まみれになって帝都の市街地へと逃げ出してくる。
しかし、その後ろからは、黒い瘴気を纏った魔物の群れが、雪崩を打って押し寄せていた。
■帝都の「危機」
同じ頃、大聖堂。
エリアーナと、回復したルシアン、そして大神官は、臨時の「議会」を開く準備を急ピッチで進めていた。
アランの「不在」を好機とし、帝国の貴族たちを大聖堂に集め、正式にアランの「廃位」を決定するためだ。
それが成功すれば、五万の正規軍も武装を解除し、無用な血を流さずに済むはずだった。
そこへ、血相を変えた若い神官が飛び込んできた。
「大変です!」
「どうしたのですか?」
「皇宮から、火の手が……! 人々が、怪物に襲われています!」
「何ですって!?」
エリアーナは血の気が引くのを感じながら、ルシアンと顔を見合わせた。
二人は弾かれたように立ち上がり、大聖堂の鐘楼へと駆け上がった。
高い鐘楼から見下ろした帝都の景色に、エリアーナは息を呑んだ。
帝都の中心にある皇宮から、黒い「瘴気」が煙のように立ち上り、空をどす黒く染め上げている。
その瘴気は市街地へと溢れ出し、逃げ惑う民衆を次々と飲み込んでいた。
あちこちで火の手が上がり、悲鳴と怒号が遠く大聖堂まで響いてくる。
それはまさに、この世の地獄絵図だった。
「アラン……」
エリアーナは、手すりを握りしめて戦慄した。
(間に合わなかった)
(悪魔王は、アランを完全な『怪物』に変えてしまった)
アランはもう、人間の心を持たない破壊の化身だ。
このままでは、帝都が、いや帝国そのものが滅びてしまう。
「ルシアン……」
「ああ。行くぞ」
ルシアンは、腰の剣に手を当てて静かに頷いた。
彼の瞳には、少しの迷いもなかった。
私たちの、そしてこの帝国の命運を懸けた最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
■大神官の「指示」
鐘楼から降りてきたエリアーナとルシアンを、大神官が険しい顔で出迎えた。
「見たか」
「ええ。皇宮から瘴気が……アランが、完全に変貌してしまいました」
「うむ。あれはもはや、人間の力でどうにかなるものではない」
大神官は重い声で言った。
「悪魔王がアランを完全な『器』として使い始めた。あの瘴気に触れた者は正気を失い、魔物と化す。このまま放置すれば、帝都は半日と持たないだろう」
「……半日」
エリアーナは唇を噛んだ。
五万の正規軍は、今や「魔物の群れ」と化しつつある皇宮の前で立ち往生している。
彼らが瘴気に飲み込まれれば、帝都はあっという間に魔物で溢れかえるだろう。
「方法は二つある」
大神官は静かに続けた。
「一つは、悪魔王の『器』であるアランを討ち取ること。アランが倒れれば、悪魔王はこの世界に留まる足がかりを失い、瘴気は消える」
「……それがルシアンの役割ですね」
「そうだ。ヴァレリウス公爵の剣だけが、あの怪物を討てる」
ルシアンは静かに頷いた。
「もう一つは?」
「民を守ることだ、エリアーナ」
大神官は真っ直ぐにエリアーナを見つめた。
「ルシアンが皇宮でアランを討つまでの間、帝都の民衆が魔物に飲み込まれてはならない。広場の軍を動かし、市街地の民を聖域へ誘導し、魔物の侵攻を食い止める。それがお前の戦いだ」
「……わたくしが、帝都の防衛を」
「お前は一度この帝都で死んでいる。この街の地理も、民の動きも、誰よりも熟知しているはずだ」
エリアーナは、窓の外に広がる黒煙と悲鳴の帝都を見つめた。
あの街には、何も知らない民衆が暮らしている。
自分の復讐に巻き込まれ、理不尽に命を脅かされている人々が。
(わたくしが始めたことだ)
(わたくしが、守らなければならない)
「……承知しました」
エリアーナは、ルシアンの目を真っ直ぐに見て頷いた。
「ルシアン、アランを頼みます」
「ああ。お前は民を守れ」
ルシアンは一瞬だけ目を細め、そして静かに頷いた。
二人は互いに頷き合い、それぞれの戦場へと向かった。
ルシアンは皇宮へ。エリアーナは帝都の民のもとへ。
帝都を覆う黒煙の向こうに、皇宮の尖塔が不気味にそびえ立っている。
最後の決戦の舞台は、すでに整っていた。




