第36話 悪魔王との契約
■兵士の「抵抗」
「……参りましょう、大神官様」
私が一歩を踏み出したその瞬間、広場の空気が変わった。
アランの「突入せよ」という命令は、実行されずにいた。
「殿下! なりませぬ!」
正規軍の古参の指揮官が馬を進め、アランを諌めた。
「我らは帝国を守る兵士です! 神の家を襲撃する盗賊ではありませぬ!」
「なんだと?」
アランが低い声で将軍を睨む。
「貴様、俺の命令に逆らうか?」
「命令とあらば、北のヴァレリウス公爵とも戦いましょう! ですが、神に剣を向けることはできませぬ!」
「そうだ!」「俺たちもだ!」
アランが北から連れてきた五万の兵士たちは、イザベラの「奇跡」には熱狂したが、根は敬虔な信者だった。
彼らはアランの「狂気」よりも、大神官の「正義」と「神の罰」を恐れたのだ。
「き、貴様ら……!」
アランは自分が全軍の指揮権を失いつつあることを悟った。
民衆も兵士も、誰も自分に従わない。
私は大聖堂のバルコニーからその光景を見下ろしていた。
(……兵士たちが動かない)
(……アランは、全てを失った)
そう思った。
だが、アランはまだそこに立っていた。
馬上で、ただ一人、静かに。
その沈黙が、私には不気味だった。
■アランの「絶望」と「契約」
(なんという愚かな兵士共だ……。正規軍が王法に従わなく、なんとする!? こやつらも焼き払ってやりたい!!)
その憎悪の叫びに、どこからともなく、声が応えた。
『だから俺が授けた力を使え』
アランは、その声に驚かなかった。
もうとっくに、彼の中で何かが壊れていたのかもしれない。
(ど、どうしたらいい?)
『憎め。あらゆるものを憎悪しろ。生命を、愛を、信頼を、人間を憎悪するのだ』
アランの憎悪に悪魔王が注いだ火が点火した。
憎悪がマグマのように湧き上がり続ける。
「ぐ……ああああああ!」
アランが馬上で突然絶叫した。
「殿下?」
兵士たちが驚いて彼を見る。
アランの金色の髪が、まるで生命力を失ったように白銀に変わっていた。
彼の青い瞳が、悪魔王と同じ禍々しい紅に染まっていく。
私はバルコニーからその変貌を目の当たりにして、息を呑んだ。
(……イザベラの時と、同じ)
(……悪魔王が、アランを「次の駒」に選んだ)
第35話でルシアンが倒れた後、私の心の奥で感じていた「まだ終わっていない」という予感が、今、現実となって目の前に現れていた。
■皇太子の「撤退」
「ひ……」
「殿下のお姿が……」
兵士たちがアランの「変貌」に恐怖して後ずさる。
アランはその紅の目で、大聖堂のバルコニーに立つ私をじっと見つめた。
(エリアーナ)
彼は何も言わなかった。
ただ、その唇の端を吊り上げ、不気味に笑った。
(待っていろ)
(本当の地獄はこれからだ)
アランはそう呟くと、馬首を返し、兵士たちも民衆も、イザベラの亡骸さえも放置して、たった一人で皇宮へと走り去っていった。
「あ……」
「殿下?」
「行かれたぞ?」
残された五万の軍隊と帝都の民衆は、自分たちの「主君」に見捨てられたという事実に、呆然と立ち尽くすしかなかった。
広場に、重い沈黙が落ちた。
勝利のはずだった。
イザベラは倒れ、軍勢は動かず、民衆は「真実」を目にした。
なのに、私の心には冷たい恐怖が広がっていた。
■エリアーナの「違和感」
(行ったわ)
私は、アランが一人で皇宮に逃げ帰っていく姿を大聖堂の上から見届けていた。
(勝った?)
(アランは全てを捨てて逃げた)
(私たちの勝利よ)
そう思った。
だが……。
(違う)
私は言いようのない「不安」に襲われた。
アランが最後に見せたあの「笑顔」。
あれは1周目に、私を処刑台に送った時の「冷酷な笑み」とは違った。
あれはイザベラが私を嘲笑ったあの「歪んだ笑み」とも違った。
(あれは)
(私が回帰したあの夜に見た)
(あの「悪魔王」の笑みと同じ)
「ルシアン」
私は、聖堂の中でまだ意識が戻らないルシアンの元へと走り出した。
「大神官様!」
「どうした、エリアーナ」
「アランがおかしい」
「……」
「イザベラを操っていた『何か』が、今度は、アランに乗り移ったのかもしれない!」
大神官は、私の言葉を聞いて、深く目を閉じた。
「……なんということだ」
「プライドを傷つけられ、愛した女を失い、世継ぎを失い、民心を失った。……悪魔王にとって、これほど扱いやすい駒はない」
大神官は、静かに頷いた。
「……エリアーナ嬢。次の戦いは、今までとは比べ物にならない」
「……わかっています」
私の復讐は終わっていなかった。
イザベラが倒れ、今度はアランが悪魔の「駒」となって、私たちの前に立ちはだかろうとしていた。
(……ルシアン、早く目を覚まして)
私は、意識の戻らないルシアンの手を、そっと握りしめた。
冷たい石畳の廊下に、私の足音だけが響いていた。
■大神官の「備え」
大神官は、静かに大聖堂の奥へと歩を進めた。
「……エリアーナ嬢。一つお訊ねしてもよいか」
「……なんでしょう」
「……邪悪な力がアランに力を与えたとするならば、彼はすぐにはここへは来ないでしょう」
「……なぜですか」
「……憎悪を食らう存在とは、直接戦うよりも、人間の憎悪を引き出す方が彼には都合がよい。アランを駒にして、あなたたちの憎悪を引き出すことを目的とするはず」
「……私たちの憎悪を」
大神官の言葉が、私の胸に刺さった。
「……つまり、アランを使って、私たちに憎悪を解放させようとしている」
「……そうだ。アランがルシアン公爵を傷つけ、あなたの目の前で彼を苦しめる。その時、あなたの心の憎悪が爆発するかどうかをも、待っているのかもしれない」
私は、ルシアンの手を、より強く握りしめた。
(……そうはさせない)
(……悪魔王の思い通りにはさせない)
「……大神官様」
私は、大神官の目を直視した。
「……アランが来る前に、準備を整えましょう」
大神官は、静かに頷いた。
「……すでに動いています。大聖堂の地下には、帝都の各地に繋がる避難用の地下道があります。市民を逃がす時間は十分にある」
「……ありがとうございます」
「……だが、エリアーナ嬢」
大神官の声が、一段低くなった。
「……この戦いの決着は、武力ではつかない。真の敵が憎悪を食らう存在ならば、それを倒すのは、憎悪ではなく、その反対のものでなければならない」
「……憎悪の反対のもの」
「……それが何かは、あなた自身が、すでに知っているはずですよ」
大神官はそれだけ言って、静かに立ち去っていった。
私は、ルシアンの手を握りしめたまま、その言葉の意味を心の中で反芻した。
(……憎悪の反対のもの)
答えは、すでにわかっていた。
それは、ルシアンだった。
そして、ルシアンと共に歩んできたこの2周目の日々そのものだった。
私は、ルシアンの寒い手の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
(……必ず目を覚まして)
(……あなたが目を覚ます前に、私がこの戦いに決着をつけるから)
大聖堂の奥で、烰燭の灯火がゆらゆらと燃えていた。
外の帝都は静まり返っていた。
だがその静けさは、嵐の前の静けさだった。
アランは、皇宮で悪魔王の力を吸い取りながら、次の手を準備しているはずだ。
それまでの時間は、短い。
(……ルシアン。お願いだから)
私は、彼の手を握りしめたまま、静かに訓えた。




