第34話 断たれた躊躇と黒い刃
■ 呪縛の連鎖
「……たすけて、エリアーナ様」
大聖堂の冷たい石床に這いずり回りながら、イザベラが哀れな声を上げる。
『破魔の鏡』の光は容赦なく彼女を照らし出し、悪魔の魔力によって維持されていた偽りの美貌を焼き尽くしていく。彼女の肌は黒く爛れ、かつて私を欺いたその顔は、もはや見る影もない醜い怪物へと成り果てていた。
(殺さなければ)
私の頭の中で、理性が冷たく告げる。
こいつは私を裏切り、無実の罪を着せ、処刑台へと追いやった元凶だ。ここで情けをかければ、再び私や、私の大切な人たちを牙にかけるだろう。
『……そうだ、エリアーナ。殺せ。お前の手で、その醜い命を絶ち切れ』
悪魔王の声が、甘い毒のように私の脳髄に直接響く。
『憎悪を解放しろ。お前が流した血の分だけ、そいつに苦痛を与えてやるのだ』
だが、私の体は鉛のように重く、一歩も動くことができなかった。
目の前で苦しむイザベラの姿に、1周目で私を「親友」と呼び、私に縋り付いてきた頃の彼女の記憶が重なってしまう。
(なぜ……)
憎いはずなのに。殺したいほど憎いはずなのに。
いざ、彼女が私の足元で死に絶えようとしているこの瞬間、私の心に生じたのは「歓喜」ではなく、どうしようもない「虚無感」と、言い知れぬ「躊躇い」だった。
「……エリアーナ!」
ルシアンが、私の名を強く呼んだ。
彼の声には、かつてないほどの焦りが混じっていた。
■ 承:破滅への自爆
「……あ……ああ……」
イザベラは、私が動かないのを見て、その爛れた顔を歪ませた。
それは、絶望の表情ではなかった。
全てを諦め、同時に全てを道連れにしようとする、狂気に満ちた破滅の笑みだった。
「……エリアーナ、さま」
イザベラの声が、急に低く、そして不気味な響きを帯びた。
「……わたくしは、一人では死にませんわ」
「……!」
イザベラの体が、不自然に膨張し始めた。
彼女の体内に残っていた悪魔の魔力が、限界を超えて暴走を始めているのだ。
「……アラン様は、わたくしのもの。……あなたには、渡さない」
イザベラは、私に向かって、最後の力を振り絞って飛びかかってきた。
彼女の目的は明らかだった。
自らの体内に溜め込んだ瘴気を爆発させ、私と相討ちになること。あるいは、この大聖堂ごと吹き飛ばすことだ。
「……危ない!」
大神官が叫び、神官たちが一斉に後ずさる。
私は、イザベラの特攻を避けようとしたが、足がすくんで動けなかった。
(……ここで、終わるの?)
イザベラの、黒く爛れた手が、私の首元に迫る。
■ 転:身代わりの刃
その時だった。
私の視界の端から、黒い影が弾丸のように飛び出してきた。
「……ルシアン!」
私が叫ぶよりも早く。
ザシュッ!
鈍い、肉を裂く音が大聖堂に響き渡った。
「……あ……?」
イザベラが、間抜けな声を漏らした。
彼女の胸には、ルシアンが放った短剣が、深々と突き刺さっていた。
ルシアンは、私の「代わり」に、自らの手でイザベラに引導を渡したのだ。
「……ル、シアン……」
イザベラは、信じられないものを見るように、自分の胸に刺さった剣を見下ろし。
そして、そのまま糸が切れた操り人形のように、床に崩れ落ちた。
彼女の体から、暴走しかけていた瘴気がプシューと音を立てて抜け出し、霧散していく。
イザベラは、二度と動かなくなった。
「……ルシアン! なぜ、あなたが!」
私は、震える声で彼に駆け寄った。
復讐は、私の手で成し遂げなければならないはずだった。彼の手を、これ以上汚させるわけにはいかなかったのに。
「……お前が、躊躇ったからだ」
ルシアンは、荒い息を吐きながら、私を振り返った。
「……俺は、お前に『人殺し』の業を背負わせたくなかった。……それに」
ルシアンが、ふっと力なく微笑んだ。
「……お前を、失うわけには、いかない」
■ 結:黒い代償
「……ルシアン……?」
私は、彼の異変に気付いた。
彼の顔色が、異常なほど蒼白になっている。
そして、彼がイザベラを刺した右腕から、黒い「瘴気」が立ち上っていたのだ。
「……っ!」
ルシアンが、苦痛に顔を歪め、その場に膝をついた。
「ルシアン! どうしたの!」
私が彼に駆け寄ると、彼の右腕の皮膚が、先ほどのイザベラと同じように、黒く変色し始めているのが見えた。
「……イザベラの、最後の瘴気だ」
大神官が、険しい顔で駆け寄ってきた。
「……彼女を刺した瞬間、暴走した魔力の一部が、ルシアン公爵の体に流れ込んだのだ」
「そんな……! 大神官様、早く治癒を!」
「……わかっている!」
大神官がルシアンの腕に手をかざし、神聖な光を注ぎ込む。
だが、ルシアンの顔色は一向に良くならない。それどころか、彼は激しい悪寒に襲われたように震え出し、意識が混濁し始めていた。
「……エリアーナ」
ルシアンが、薄れゆく意識の中で、私の手を強く握った。
「……泣くな。……お前は、前を向け」
「ルシアン! 駄目よ、目を開けて!」
「……俺は、大丈夫だ。……だから、お前は……お前の、戦いを……」
その言葉を最後に、ルシアンの手から力が抜け、彼は完全に意識を失った。
「ルシアン! ルシアン!」
私は、冷たくなっていく彼の体を抱きしめ、大聖堂の中心で絶叫した。
私の躊躇いが、彼を傷つけた。
私が「憎悪」に徹しきれなかった甘さが、彼に致命的な代償を払わせてしまったのだ。
イザベラは死んだ。だが、その代償は、私にとってあまりにも大きすぎた。
私は、意識を失ったルシアンを抱きしめながら、自分自身の弱さを、心の底から呪った。
そして、この絶望の底で、私はついに悟ったのだ。
悪魔王が仕掛けた「ゲーム」の、本当の恐ろしさを。
悪魔王は、私の「怒り」や「憎悪」だけを利用しようとしていたのではない。
彼は、私の「愛」を武器に、私の心を崩壊させようとしていたのだ。
ルシアンを愛するからこそ、私は躊躇した。
ルシアンを失いたくないからこそ、私は動けなくなった。
そしてその「愛」が、今、ルシアンを死の淨に追いやった。
「……ルシアン」
私は、彼の冷たくなった手を再び小さく握りしめた。
彼の手は、北の黒鷲城で初めて私の手を握ったあの日よりも、ずっと冷たかった。
「……目を開けて。まだ、死ないで」
私は、彼の手の甲に额を寄せ、そうつぶやいた。
彼の手の温もりが、また私の涙を伝ってくるまで。
それまで、私はここを動かない。
彼の側にいる。
それだけが、今の私にできる、唯一のことだった。
大神官が、静かに私の肩に手を置いた。
「……彼は必ず目を覚ます。彼の精神力は、帝国一の公爵の中でも、群を抜いている」
大神官は、静かに、しかし確信を持って言った。
「……彼は、必ず戻る。その彼が目を覚ますまで、わたしと大神官様が彼を守ります」
「……ありがとうございます、大神官様」
私は、立ち上がった。
ルシアンの手を最後に一度だけ小さく握りしめてから、そっと放した。
私は彼の分も戦わなければならない。
それが、今の私にできる、彼への唯一の返答だった。
大神官が、別の神官たちに何かを指示する声が聞こえた。
大聖堂の外では、アランの軍勢がさらに大きな駆声を上げている。
彼らは、イザベラが死んだことを知らないのだろう。
そして、知ったらその怒りを全て、私に向けてくるだろう。
「……いいわ」
私は、心の中でつぶやいた。
「……全て、受けて立つわ」
ルシアンが目を覚ますまで。
それまで私が、戦い続ける。




