第31話 イザベラの暗躍(聖女)
■ 帝都の「噂」
大聖堂に、エリアーナとルシアンが籠城してから六日目。
帝都の民衆は混乱していた。
アラン皇太子は北の国境線から帝都の近衛兵に対し、「大聖堂の包囲を続けよ。兵糧攻めだ」と厳命していた。大聖堂への食料や物資の搬入が停止されたのだ。
だが、同時に別の「噂」が民衆の間で流れ始めていた。
「おい、聞いたか? 大神官様が、皇太子殿下に逆らったらしいぞ」
「……なんでも、ルシアン公爵のお父様は『無実』だったとか」
「……皇室が罪を捏造したって……」
「……じゃあ、魔女を匿っているんじゃなくて、無実の人を守っているのか?」
アランが流した「エリアーナ魔女説」が、大神官の「正義」によって揺らぎ始めていた。大神官の決意が外部に漏れ始めているのだ。
民衆は、アランと大神官のどちらを信じるべきか迷い始めていた。
「もし、大神官様の言う通りなら、俺たちはとんでもない間違いを犯しているんじゃないか?」
酒場の片隅で、一人の男が声を潜めて言った。
「ああ。ルシアン公爵のお父様といえば、かつて北の国境を命懸けで守り抜いた英雄だ。その英雄が、無実の罪で殺されたのだとしたら……」
「皇室は、俺たちをずっと騙していたことになる」
噂は、風に乗って帝都の隅々にまで広がっていく。アランが力で押さえつけようとすればするほど、民衆の疑念は膨れ上がり、静かな怒りへと変わろうとしていた。
エリアーナが仕掛けた「情報戦」の種は、確実に芽を出し始めていたのだ。
大神官の沈黙は、雄弁な抗議として民衆の心に響いていた。
これまで皇室の権威を無条件に信じてきた者たちも、次第にその足元を疑い始める。
「もし、皇室が自らの権力を守るために、罪のない者を次々と陥れてきたとしたら……?」
その疑念は、帝都の地下水脈のように静かに、しかし確実に広がり、やがては皇室の根幹を揺るがす大きなうねりとなろうとしていた。
アランの武力による弾圧は、皮肉にもそのうねりを加速させる結果となっていたのだ。
■ 悪魔王の「囁き」
北の陣営。
アランは、帝都の「不穏な噂」に激しく苛立っていた。
「……あの老害め! 俺に逆らう気か!」
「アラン様、お気を鎮めて。民はすぐに忘れますわ」
イザベラがアランをなだめる。だが、彼女の内心も焦っていた。
(……大神官)
(あの爺、わたくしがアラン様の子供を産んだ時も、祝福の言葉一つよこさなかった)
(あの爺も、エリアーナの味方なのね)
イザベラの憎悪が、エリアーナだけでなく大神官にも向き始めたその時。彼女の耳にだけ、あの「声」が響いた。
『……イザベラ。このままでは負けるぞ』
(……悪魔王!)
『大神官がルシアンの父の「無実」を証明すれば、アランの「正統性」が失われる』
『民衆はお前(聖女)ではなく、大神官(正義)を選ぶだろう』
「……いや!」
イザベラは心の中で叫んだ。
『……ならば、見せつけよ』
悪魔王は、彼女にさらなる「力」を注ぎ込んだ。
『大神官の「正義」よりも、貴様の「力(奇跡)」の方が上だと、民衆に見せつけよ』
その言葉と共に、イザベラの体内に黒く冷たい奔流が流れ込んでくる。
それは、かつて彼女が感じたことのないほど強大で、そしておぞましい力だった。
(……ああ、力が……力が湧いてくる……!)
イザベラの瞳の奥で、邪悪な光が怪しく瞬いた。
彼女はもう、自分が何者と取引をしているのか、その代償が何なのかを考えることすら放棄していた。ただ、エリアーナをこの手で引きずり下ろすことができるなら、魂を売り渡すことすら厭わなかった。
「……ええ、見せてあげるわ。わたくしこそが、この帝国を導く真の『聖女』なのだと」
彼女の唇からこぼれた笑みは、もはや人間のそれではなく、深淵から這い出た悪魔そのものだった。
■ イザベラの「奇跡」
アランが北の軍勢を帝都に戻すまさにその日。イザベラはアランにこう進言した。
「アラン様。わたくしが、帝都の民の『迷い』を払ってさしあげます」
「……何?」
「わたくしは、『聖女』として大聖堂の前に立ちます」
「……イザベラ! 危険だ!」
「いえ。あの中には『魔女』がおります。……わたくしが民衆の前で、『魔女』の呪いに苦しむ人々を救ってみせます」
イザベラのその狂気に満ちた「神々しさ」に、アランはもはや逆らえなかった。
イザベラは、アランの正規軍が帝都に帰還するよりも「先」に帝都に戻った。そして、近衛兵に包囲された大聖堂の「門前」に純白の祭壇を築かせた。
「……なんだ? イザベラ様がお戻りになられたぞ」
「……あんな所で何を?」
帝都の民衆が遠巻きに集まってくる。
イザベラは祭壇の前で、大聖堂の包囲によって食料を得られず苦しんでいる「病人」や「貧民」を集めさせた。
「……可哀想な民たちよ」
イザベラは涙を流しながら、彼らに手をかざした。
悪魔王から授かった、強大な「治癒」の魔力。
「……!」
病人の顔色が、みるみるうちに良くなっていく。痩せ細った体に活力が戻っていく。
「……おお!」
「……奇跡だ!」
「イザベラ様は、本物の『聖女』だ!」
民衆が、その「奇跡」を目の当たりにし、熱狂した。
■ 民衆の扇動
イザベラは、民衆の熱狂を背に受けながら、大聖堂の固く閉ざされた「門」に向かって叫んだ。
「……大神官様!」
「……なぜ、貴方は神の『奇跡』に目を閉ざされるのですか!」
「……」
門は開かない。
「貴方がたが庇っているのは、この帝都に『呪い』をもたらした『魔女』です!」
「……!」
「わたくしは、この『奇跡』の力で魔女と戦う!」
イザベラは民衆に向き直り、両手を広げた。
「皆さま! わたくしに力を貸してください!」
「大神官様が、魔女の言葉に惑わされています!」
「あの大聖堂から『魔女』を引きずり出し、帝都に真の『平和』を取り戻すのです!」
「おおおおお!」
「聖女様、万歳!」
「魔女を引きずり出せ!」
イザベラは悪魔王の「力(奇跡)」を使い、大神官の「正義」を民衆の「熱狂」で完全に塗り潰した。
民衆はもはや、ルシアンの父の無実などどうでもよくなっていた。彼らは「魔女」エリアーナとルシアンを引き渡せと叫び、大聖堂の門を叩き始めた。
大聖堂の内部でその音を聞いていたエリアーナとルシアンは、顔を見合わせた。
(……イザベラ。……なんてことを)
エリアーナは、イザベラが1周目とは比べ物にならない強大な「力」を手に入れていることを確信した。
「……ルシアン。あれは、ただの魔法ではないわ」
私は、窓の隙間からイザベラの姿を凝視しながら、震える声で言った。
「ああ。あんな禍々しい気配、普通の人間が放てるはずがない。……間違いない、悪魔王が直接干渉してきている」
ルシアンの表情も険しい。
私たちは、イザベラがただの「嫉妬に狂った女」から、悪魔王の「手駒」へと変貌を遂げた瞬間を目の当たりにしていた。
「……彼女は、自分の命を削ってでも、わたくしたちを道連れにする気よ」
「させるか。俺が、お前を守る」
ルシアンは、私の肩を力強く抱き寄せた。
外では、狂乱した民衆が「魔女を殺せ」と叫び続けている。
大神官の「正義」が民衆の心に届くのが先か、イザベラの「狂気」がこの大聖堂の門をこじ開けるのが先か。
私たちに残された時間は、確実に少なくなっていた。




