第30話 聖域の対話
■ 大聖堂での生活
大聖堂に保護されてから、五日目。
アランの正規軍が北から戻ってくるまで、あと五日ほど。私たちの生活は静かだった。
朝は、神官たちと共に早朝の祈りに参加する。
昼は、ルシアンと大神官を交え、帝国の未来について議論する。
夜は、部屋でルシアンと二人、南の父(リステン侯爵)やアンナからの秘密の報告を待つ。
(……不思議な気分だわ)
私は、大聖堂の図書室で古い羊皮紙の巻物を開いていた。
処刑台から始まり、憎悪にまみれ、血生臭い策略ばかりを巡らせてきたこの二度目の人生。今、この「聖域」の中だけは、まるで嵐の目の中にいるように平穏だった。
「……エリアーナ」
ルシアンが、私を探しに来たようだった。
「……ここよ、ルシアン」
「……こんな場所で、何を?」
彼は、神学書や歴史書に埋もれた私を見て、怪訝な顔をした。
「……調べ物をね」
「調べ物? アランをどうやって討ち取るか、か?」
「……それもあるけれど」
私は立ち上がり、彼に一冊の古い記録を見せた。
「……ルシアン。あなたの、お父様の裁判記録よ」
■ ルシアンの「傷」
「……!」
ルシアンの顔が、一瞬で凍りついた。彼が私からその記録を奪い取ろうとする。
「……どこで、それを」
「大神官様が、閲覧を許可してくださったわ。……大聖堂の、公式な裁判記録」
「……よせ」
ルシアンは私から目をそらし、背を向けた。
「……今更、あんなものを読んだところで……」
「……読みたくないの?」
「……」
彼は答えない。だが、その背中はあの「冷血公爵」のものではなく、ただの傷ついた「青年」の背中だった。
私は、彼の背中にそっと近づいた。
「……わたくしは、読んだわ」
「……」
「あなたのお父様……ヴァレリウス公爵は、『反逆者』ではなかった」
「……!」
ルシアンの肩が、ピクリと震えた。
「裁判記録には、明確に記されていたわ。……現皇帝(アランの父)が証拠を『捏造』し、あなたのお父様に罪を被せた、と」
「……知っていた」
ルシアンが、絞り出すような声で言った。
「……知っていた。だが、俺がそれを知っていると、誰が信じる?」
「……」
「俺は、反逆者の息子だ。俺が父の無実を叫べば、それはただの『負け犬の遠吠え』だ。……アランや皇室への、逆恨みにしか聞こえん」
ルシアンは、拳を強く握りしめていた。
(……そう。彼は、ずっと一人で耐えてきた)
(私のように「回帰」して、やり直すチャンスもなかった)
(ただ、憎悪を胸に秘めて、生きてきた)
■ 大神官の「証言」
「……ルシアン」
私は、彼の握りしめた拳の上に、自分の手を重ねた。
「……一人で耐えなくて、いいのよ」
「……なに?」
「わたくしは、あなたを『信じる』わ」
「……」
「そして、わたくし以外にも、信じる人がここにいる」
その時、図書室の入り口に、大神官が静かに立っていた。
「……大神官殿」
ルシアンが、ハッとした顔で振り返る。
大神官は、ゆっくりと私たちの方へ歩いてきた。
「……ルシアン公爵。貴公の父君は、立派なお方だった」
「……」
「わしは、あの裁判で唯一、貴公の父君を弁護した。……だが、現皇帝の『力』に、わしの声は届かなかった」
大神官は、ルシアンの前に立ち、深々と頭を下げた。
「……すまなかった。わしは、無力だった」
「……大神官殿! 頭を上げてくれ!」
ルシアンが、慌てて大神官の肩を支える。
「……わしは、あの日以来、誓ったのだ。二度と、神の法が権力に屈してはならぬ、と」
大神官は顔を上げ、ルシアンを真っ直ぐに見つめた。
「……ルシアン公爵。わしは、あの裁判の『生き証人』だ」
「……!」
「アラン殿下が貴公を『国賊』と呼ぶのであれば、わしは貴公の父君の『無実』を、今こそ民衆の前で証言しよう」
「……大神官殿。あなたは本気か。……そんなことをすれば、あなたもアランの敵になる」
「構わぬ」
大神官は、きっぱりと言い切った。
「わしは、神に仕える身。……神の『正義』を行うまで」
■ 新たなる「大義名分」
私は、大神官とルシアンの姿を、息を呑んで見つめていた。
(……すごい)
(わたくしは、アランの「呪詛」から逃げるために、この聖域を選んだ)
(でも、わたくしが引き当てたのは、それ以上の切り札だった)
アランの「大義名分」は、イザベラの流産(呪詛)という脆い「嘘」。
だが、わたくしたちが今、手に入れた「大義名分」は。
(……ルシアンの父の、無実)
(皇室が過去に犯した、最大の『罪』の暴露)
「……ルシアン」
私は、震える声で彼に言った。
「……勝てるわ」
「……エリアーナ?」
「アランに勝てる。わたくしたちの『復讐』は、ただの『逆恨み』じゃない」
「……」
「これは、奪われた『正義』を取り戻すための戦いになる」
ルシアンの金色の瞳が、長年彼を縛り付けていた「憎悪」の鎖から解き放たれ、父の無念を晴らす「使命」の光に輝き始めた。
大聖堂でのこの「対話」こそが、アラン政権を根底から覆す、真の「宣戦布告」となったのだ。
「……大神官様、一つだけお願いがあります」
私は、決意を固めたルシアンの横顔を見つめながら、大神官に向き直った。
「……何かな、エリアーナ嬢」
「この『真実』を、最も効果的なタイミングで民衆に公開したいのです。アランが帝都に戻り、わたくしたちを捕らえようとするまさにその瞬間に」
「……なるほど。劇的な効果を狙うというわけだな」
大神官は、白く長い髭を撫でながら頷いた。
「ええ。民衆の怒りと失望が頂点に達した時、この真実が投下されれば、アランは完全に足元をすくわれるはずです」
「わかった。その手筈は、わしが整えよう」
大神官の力強い言葉に、私は深く頭を下げた。
夜。
大聖堂の冷たい石造りの部屋で、私は一人、窓の外の星空を見上げていた。
(……これで、アランを完全に追い詰めることができる)
(ルシアンのお父様の無念も、晴らすことができる)
しかし、私の心の中には、まだ拭いきれない不安が残っていた。
(……イザベラ。彼女は、今どこで何をしているの?)
流産という絶望の中で、彼女がこのまま大人しく引き下がるとは思えなかった。そして、彼女の背後に潜む「悪魔王」の存在。
(……あの悪魔が、このまま私たちを順調に勝たせてくれるはずがない)
私は、窓辺に置かれた小さな銀の燭台に触れた。その冷たい感触が、私の心を少しだけ落ち着かせてくれる。
「……エリアーナ」
背後から、ルシアンの声がした。
「ルシアン……」
振り返ると、彼が静かに部屋に入ってくるところだった。
「……眠れないのか」
「ええ。少し、考え事をしていて」
ルシアンは、私の隣に並び、同じように窓の外を見つめた。
「……ありがとう、エリアーナ」
彼が、ぽつりと呟いた。
「……え?」
「俺一人では、父の無実を証明することなど、一生できなかっただろう。……お前がいてくれたから、俺は前に進むことができる」
彼の言葉に、私の胸の奥が熱くなった。
「……わたくしも、同じよ、ルシアン。あなたがいてくれたから、わたくしはここまで来られた」
私たちは、互いの手を強く握りしめた。
アランとの最終決戦が、もうすぐ始まる。
私たちは、この大聖堂という聖域で、共に運命に立ち向かう覚悟を、改めて心に刻み込んだのだった。
その夜、大聖堂の鐘が低く、しかし力強く鳴り響いた。
それは、これから始まる嵐を告げる合図のようでもあり、私たちの決意を祝福する音色のようでもあった。
「……行きましょう、ルシアン。私たちの未来を、私たちの手で掴み取るために」
「ああ。必ず、勝とう」
二人の声は、冷たい夜の空気の中に、静かに、しかし確かな熱を持って溶け込んでいった。




