第3話 最初の一手
■ 1:皇太子の使者
リステン侯爵家の豪奢な応接室。重々しい空気の中、私は父・リステン侯爵の隣に静かに座っていた。
目の前には、皇太子の側近であるバートン伯爵が、尊大に足を組んで座り、手元のティーカップを弄んでいる。
「というわけで、エリアーナ嬢。皇太子アラン殿下は、貴女を妃候補として正式にお見合いの場を持ちたいと仰せだ。……リステン侯爵家にとって、これ以上の栄誉はあるまい」
バートン伯爵は、私と父を交互に見ながら、隠す気もない侮蔑の視線を向けている。
リステン家は帝国随一の財力を持つ中立派の筆頭ではあるが、由緒正しき皇族や建国からの古き血統に比べれば、成り上がりの格下と見なされがちだ。
だからこそ、この伯爵は「どうせ断れるはずがない」と高を括っているのだ。
一度目の人生の私は、この言葉に舞い上がっていた。
「あのアラン様が、数いる令嬢の中から私を選んでくださった!」と、純粋に喜び、顔を赤らめて感謝の言葉を述べたものだ。
そして、このバートン伯爵が、アランの寵愛を傘に着てリステン家の富をどれだけ吸い上げ、私を政治の道具として使い潰したか。
今の私は、その腐りきった未来をすべて知っている。
『……くくっ。滑稽な男だ。己の首が繋がっている理由も知らずに、よくもまあそこまでふんぞり返れるものだ』
頭の中に、悪魔王の低く冷酷な声が響いた。
私の影に潜む彼は、この滑稽な茶番劇を特等席で楽しんでいるらしい。
「……エリアーナ? 聞いているのか?」
父が、返事をしない私をいぶかしげに横から見ている。
私はゆっくりと顔を上げ、伯爵に向かって微笑んだ。
一度目の人生の、ただ純粋で世間知らずだった令嬢の笑みではない。リステン侯爵家の令嬢として、そして地獄から舞い戻った復讐鬼としての、完璧で冷ややかな笑みだ。
「伯爵様。身に余る光栄なお話ですが……あいにく、少し時期が悪いようですわ」
「……は?」
伯爵の尊大な態度が、一瞬固まった。彼はおそらく、私が泣いて喜ぶ姿しか想像していなかったのだろう。
■ 2:親友の牽制
「何を……言っているのかね、エリアーナ嬢? 時期が悪いとは?」
伯爵が苛立ちを隠せずに言葉を続けようとした時、応接室の扉が控えめにノックされた。
「失礼いたします、お嬢様、旦那様。お茶のお代わりをお持ちいたしました」
銀のトレイを恭しく捧げ持ち、入ってきたのは――イザベラ。
私の「親友」だった女。そして、私を処刑台へと送り込んだ張本人。
一度目の人生、彼女はこの応接室で皇太子からの内示を聞き、「自分のことのように嬉しいです!」と涙ぐんで見せた。
今も、その可憐な瞳を不安げに揺らし、まるで小動物のように私を見つめている。
「まあ、バートン伯爵様。もしかして、皇太子殿下のお話でございますか? ……エリアーナ様、本当におめでとうございます!」
イザベラは、伯爵の前であることも、自分がただの侍女であることも忘れ、私の手を取ろうと嬉しそうに駆け寄ってくる。
完璧な演技だ。私を心から祝福する、無邪気で心優しい親友の姿。一度目の私なら、この手を取って「ありがとう、イザベラ。あなたのおかげよ」と微笑み合っただろう。
だが。
パシンッ!
乾いた、鋭い音が応接室に響き渡った。
私が、イザベラの伸ばしてきた手を、冷酷に、そして強く払い除けた音だった。
■ 3:豹変と宣戦布告
「……え?」
イザベラは、信じられないという顔で私を見ている。
赤く腫れた自分の手の甲と、私の冷え切った顔を交互に見比べ、その可憐な目にみるみる涙が溜まっていく。
「エリアーナ、様……? なぜ……私、何か粗相を……」
「身の程を弁えなさい、イザベラ」
私は、処刑台の底から響くような、氷のように冷たい声で言い放った。
「……っ!」
イザベラは顔を真っ青にして、ビクッと体を震わせた。
「あなたはただの侍女。私が侯爵家の客人である伯爵様と大切なお話をしている最中に、許可なく口を挟み、あろうことか気安く私に触れようとするなど……万死に値する無礼よ」
「エリアーナ! 何を言うか、相手はイザベラだぞ!」
父が慌てて私を諌める。
無理もない。
これまで私は、イザベラを実の妹のように甘やかし、彼女の無作法をすべて「純粋さゆえ」と許してきたのだから。
だが、私は止めない。
アランもイザベラも、私のこの「優しさ」と「鈍感さ」につけ込んで、私を陥れたのだ。
ならば、その前提を、今ここで全て壊す。私はもう、おまえたちの知る「都合の良い愚かな令嬢」ではない。
『……いいぞ。その冷たい眼差し、その震え上がる獲物を見下ろす態度。実に美しい』
悪魔王の愉悦に満ちた囁きが、脳裏を撫でる。
私は、恐怖に震えるイザベラから視線を外し、呆然としているバートン伯爵へと真っ直ぐに向き直った。
「バートン伯爵」
「な、なんだ。急に侍女を怒鳴りつけおって……」
「皇太子殿下へは、こうお伝えください」
私は、一度目の人生で決して口にすることのなかった、運命を変える言葉を紡いだ。
「『お言葉は光栄なれど、わたくしには、他に心に決めている方がおりますゆえ、お見合いの件は辞退申し上げます』と」
■ 4:父(侯爵)との対峙
「な……っ!?」
今度こそ、伯爵も父も完全に絶句した。
皇太子(次期皇帝)からの妃候補の申し出を、一介の侯爵令嬢が、しかも明確な理由もなく断るなど、帝国史上前代未聞の暴挙だった。
「エリアーナ・リステン! 貴様、自分が何を言っているのかわかっているのか! 殿下の厚意を無下にする気か!」
伯爵が顔を真っ赤にして立ち上がり、私を怒鳴りつける。
「わかっておりますわ」
私は伯爵の怒声に微塵も怯むことなく、悪魔王がくれた絶対的な自信を胸に、冷たく言い切った。
「リステン家は、帝国随一の財力を持つ中立派の筆頭。皇太子殿下は、私自身ではなく、我が家のその『財力』と『政治力』が欲しいのでしょう? 殿下の基盤を固めるための、都合の良い金庫として」
「……なっ、貴様、殿下を愚弄する気か!」
「事実を申し上げたまでです。ですが、あいにく。わたくしは、自分の価値を安売りするつもりはございませんの。愛のない政略の道具になるつもりは、毛頭ありません」
私は優雅に立ち上がり、イザベラが恐怖で落とし、床に散らばったティーカップの破片を冷ややかに見下ろした。
「お引き取りくださいませ、伯爵様。床が、汚れましたので。これ以上の長居は、無用かと存じます」
バートン伯爵は「この無礼、必ず殿下にご報告する! 覚えていろ!」と顔を紫にして捨て台詞を吐き、足音荒く応接室から出て行った。
イザベラは、完全に腰を抜かしたまま、私に怯えるような視線を向け、這うようにして伯爵の後を追って逃げていった。
静まり返った応接室。
残されたのは、私と父の二人だけだ。
「……エリアーナ」
父は、見たこともないような恐ろしく険しい顔で、私を睨みつけていた。
温厚な父が、ここまで激怒するのは初めてのことだ。
「皇太子殿下からの申し出を断るなど、我が家を破滅させる気か。それに、あのイザベラへの態度はなんだ。……お前は、私の知る心優しい娘ではない。一体、何があった」
父の重圧に満ちた声。
だが、私は怯えない。一度目の人生で、この父もまた、イザベラの策略によって反逆罪の濡れ衣を着せられ、無惨に処刑されたのだから。
父を守るためにも、私はこの修羅の道を歩まねばならない。
「全て、ご説明いたします、お父様」
私は、父の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「わたくしが、なぜ皇太子殿下を拒絶したのか。そして……我がリステン家が生き残るために、誰と手を結ぶべきなのかを」
私の脳裏にはすでに、皇太子アランに対抗しうる、帝国で唯一の存在が浮かんでいた。
『冷酷公爵』と恐れられ、北方の国境を支配する若き英雄。彼との『偽りの婚約』こそが、私の復讐の第一歩となる。
『……くくっ。さあ、どう盤面を動かす、俺の愛しい契約者よ。極上の絶望の幕開けだ』
影に潜む悪魔王の笑い声が、私の決意を後押しするように、静かに響き渡った。




