第2話 悪魔との契約と三年前の目覚め
■ 1:深淵での取引
「……極上だ。これほど純粋な憎悪は、千年も待たねば出会えぬ宝だ」
暗闇の中、私の首を拾い上げた男の声が、鼓膜ではなく魂に直接響いた。
黒い長衣に金の刺繍、巨大な白いラッフル襟。漆黒の髪をなびかせ、紅い瞳を持ったその男は、この世のものとは思えないほど美しく、そして禍々しいオーラを放っていた。
彼の凍えるように冷たい指先が、私の血にまみれた頬をなぞる。
「契約しよう、エリアーナ。お前の望む『復讐』を、俺が最高の特等席で見せてやろう」
「……けい、やく……?」
声が出ないはずの私の「首」が、なぜか言葉を紡いでいた。いや、これは魂の思念のやり取りなのだろう。
「そうだ。俺は悪魔の王。人間の絶望と憎悪を糧とする深淵の主だ。お前のその燃え盛るような憎悪、俺の腹を満たすにふさわしい極上の美味だ」
悪魔王は、私の顔を覗き込むようにして、艶やかに、そして残酷に微笑んだ。
「お前に、時間を巻き戻す力を与えてやろう。お前を嵌めた者どもに、お前が味わった以上の地獄を見せるがいい。だが、悪魔の契約には当然、対価が必要だ」
「……何を、望むの……?」
「簡単なことだ。俺に『憎悪と憎悪の連鎖』を提供しろ」
悪魔王の紅い瞳が、獲物を狙う猛禽類のように細められた。
「お前が復讐を果たし、裏切り者どもが絶望し、憎悪に狂う様。その連鎖から生み出される極上の負の感情を、俺に捧げ続けるのだ。それができている間は、俺はお前の最高の支援者となってやろう。だが――」
彼の冷たい指先が、私の首筋をそっと撫で上げた。氷のような感触に、魂が震え上がる。
「もしお前が復讐を諦めたり、生ぬるい慈悲を見せて『憎悪の連鎖』を途切れさせたりした時。あるいは、復讐を果たせずに再び敗北した時……その時は、違約金としてお前の『魂』を俺が永遠に奪い、深淵の底で永劫の苦しみを与え続けよう」
復讐を完遂し、憎悪を捧げ続けるか。
それとも、魂を悪魔に食い尽くされるか。
「どうする、エリアーナ? このまま無念の中で消え去るか、それとも俺と手を組み、あの裏切り者どもを絶望の底へ叩き落とすか」
迷いなど、微塵もなかった。
アランの冷酷な瞳。イザベラの、あの勝利を確信した嘲笑。
あれを許したまま、無に還ることなど絶対にできない。私の魂が砕け散ろうとも、奴らだけは道連れにしてやる。
(……契約するわ)
私は、魂の底から絞り出すように答えた。
(私のすべてを懸けて、あの二人に地獄を見せてやる。あなたが満足するほどの、極上の絶望と憎悪を捧げてみせるわ)
「……くくっ、ん~ 素晴らしい。交渉成立だ」
悪魔王が満足げに笑った瞬間。
私の視界は、眩いほどの白い光に包み込まれた。
■ 2:二度目の目覚め
(……あたたかい?)
冷たい石畳でも、腐臭のする断頭台でもない。
柔らかく、清潔なシーツの感触。微かに香る、懐かしいリステン侯爵家(実家)の庭に咲く、白薔薇のアロマ。
(痛く、ない……?)
恐る恐る、目を開ける。視界に飛び込んできたのは、雨に濡れた広場ではない。見慣れた、私の部屋の豪奢な天蓋だった。
「天国?」
いや、違う。あれほどの憎悪を抱いて死に、悪魔と契約した私が、天国に行けるはずがない。
「では、地獄……?」
だとしたら、あまりにも生ぬるい罰だ。
私は、ゆっくりと身を起こした。手足が動く。縄の跡すらない、滑らかな肌。震える手で、首筋に触れる。……傷が、ない。繋がっている。
「夢……?」
夢だったというのか。あの処刑も、裏切りも。悪魔王との契約も。
私はベッドから転がり落ちるようにして、姿見の前に立った。
鏡に映っていたのは、処刑台で血と泥にまみれた皇妃ではない。頬はこけず、髪は艶やかな銀色を放ち、瞳にはまだ……絶望の色がない。
(……十八歳の、私?)
まだ皇妃になる前。希望に満ちていた頃の、若く美しい侯爵令嬢の姿だった。
■ 3:侍女アンナとの再会
「お嬢様?」
背後で、扉が開く音がした。振り向くと、そこに立っていたのは、私の専属侍女だったアンナだ。
今思えば、一度目の人生では、イザベラの巧妙な策略によって私から引き離され、実家に追い返されてしまった忠実な侍女。
「アンナ……? なぜあなたが……」
「何を仰いますか、お嬢様。……顔色が悪うございます。昨夜、悪夢でもご覧になられましたか?」
アンナが心配そうに私に近寄り、私の額に手を当てようとする。私はその手を、反射的に強く払いのけてしまった。
「ひっ……」
アンナが怯えたように目を見開く。
「ご、ごめんなさい、アンナ。違うの、ただ……」
私は混乱していた。アンナは生きている。私に仕えている。イザベラに追い出される前の状態だ。
「あ……アンナ。今日、は……」
日付を、聞かなければ。
「今日は、何日?」
「え? ……帝国暦1052年、春の月の15日でございますが……」
――春の月の、15日。
雷に打たれたような衝撃が、私を貫いた。
それは、一度目の人生で、アラン様(皇太子)から「婚約の内示」が来ていた、その前日。
そして。私が処刑された日から、ちょうど三年前の日付だった。
■ 4:見えざる同居人
「下がって、アンナ。少し、一人にして」
「し、しかし……」
「いいから!」
侍女を無理やり部屋から追い出し、私は扉に鍵をかけた。そのまま、ずるずるとドアに背を預けて床に座り込む。震えが止まらない。
夢じゃない。あの痛みも、絶望も、雨の冷たさも、すべて本物だった。
そして、この手足の感覚も、この部屋の暖かさも、本物だ。
私は、死んだ。そして、三年前の過去に戻ってきたのだ。
(神様。あるいは、悪魔様。この機会をくださったのがどちらでも構わない)
私は、まだ何も失っていない。父も、母も、家の名誉も、私の命も。
『――ほう。なかなか良い覚悟だ』
突然、頭の中に直接、あの深淵の底から響くような男の声がした。
「……っ!?」
私は弾かれたように立ち上がり、部屋の中を見回した。誰もいない。
『姿は見えぬさ。俺はお前の影に潜み、お前の瞳を通してこの世界を見ている。忘れたわけではあるまいな? 俺たちの契約を』
「……悪魔王」
『いかにも。さあ、見せてもらおうか。お前がこれから、あの裏切り者どもにどんな地獄を見せ、どんな極上の憎悪を俺に捧げてくれるのかを』
声には、残酷な愉悦が混じっていた。
本当に、戻ってきたのだ。魂を対価とした、悪魔との契約によって。
「ええ。期待していてちょうだい。必ず、あなたの腹がはち切れるほどの絶望を食わせてあげるわ」
『くくっ……頼もしいことだ』
■ 5:破滅への入り口
コン、コン。
控えめな、しかし切羽詰まったノックの音が扉を叩いた。
「お嬢様、大変です! 皇太子殿下(アラン様)の使者の方が、お見合いの件で至急お目通りを、と……!」
アンナの焦った声が響く。
来た。破滅への、入り口。
一度目の人生では、この申し出に私は有頂天になった。国で一番美しく、聡明だと噂の皇太子殿下からのご指名。
舞い上がり、彼にふさわしい完璧な皇妃になるため、血の滲むような努力をした。
そして、その努力のすべてを、イザベラに奪われ、彼自身によって処刑台へと送られたのだ。
(今度こそ、同じ轍は踏まない)
私は立ち上がり、鏡の中の自分を真っ直ぐに見据えた。
そこに映る銀髪の令嬢の瞳は、十八歳の可憐な少女のものではなかった。地獄の底から這い上がってきた、復讐鬼の冷たく暗い光を宿していた。
「……ええ。わかったわ。すぐにお会いしましょう」
私は、ドレスの裾を翻し、扉に向かって歩き出す。
私の背後に落ちた影が、まるで意思を持っているかのように、ゆらりと不気味に揺れた気がした。
(待っていなさい、アラン。イザベラ)
(おまえたちが私に与えた絶望を、何百倍にもして返してやる。私が味わった地獄の苦しみを、骨の髄まで味わわせてやるわ)
扉の鍵を開け、私は冷たい微笑を浮かべて部屋を出た。
ここから、私の本当の人生が始まるのだ。
この運命は、私が支配する!




