第1話 始まりの景色
■1:処刑台、民衆の罵声
「国賊め!」「裏切り者!」
「イザベラ様を毒殺しようとした悪女だ!」
怒号が、冷たい冬の風に乗って帝都の中央広場に響き渡る。
広場を埋め尽くした無数の民衆は、皆一様に憎悪に満ちた目を私に向けていた。
彼らの手から投げつけられた腐った野菜や石が、私の体に容赦なくぶつかる。
額に鋭い痛みが走り、生ぬるい血が頬を伝って冷たい石畳へと滴り落ちた。
私は、高くそびえ立つ処刑台の上で、無様に膝をつかされていた。
手足は太く粗い縄で固く縛られ、身動きすらまともに取れない。
昨日まで、帝国で最も高貴な存在として豪奢な皇妃の正装をまとっていたこの体は、今は薄汚れて破れかけた囚人服一枚に包まれている。
冬の寒さと、絶望的な恐怖が、私の体をガタガタと震わせていた。
(違う。私は何もしていない)
「違う……」
ひび割れた唇から絞り出した声は、かすれていて、誰の耳にも届かない。
群衆の怒声にかき消され、空しく空に溶けていくだけだ。
(何かの間違いだわ。絶対に)
だって、私はあんなにも皇帝陛下(アラン様)を深く愛していた。彼の国を支えるため、身を粉にして働いてきた。
そして、侍女であるイザベラを、実の妹のように大切に慈しんできたのだから。彼女が熱を出した時は徹夜で看病し、彼女が寂しい時はいつも寄り添ってきた。
「アラン様……助けて……」
私は、祈るように目を閉じた。
愛する夫が、この悪夢のような光景から私を救い出してくれる。真実を明らかにして、私を抱きしめてくれる。そのことだけを、一縷の望みとして信じていた。
■2:裏切りの皇帝と、「親友」の微笑
「皇帝陛下のお出ましだ!」
近衛兵の鋭い声と共に、民衆が海が割れるように道を開けた。
帝国の紋章を掲げた重厚な近衛兵たちに守られ、夫である皇帝アランがゆっくりと姿を現した。輝くような金髪、かつて私を優しく見つめてくれた慈愛に満ちた碧眼。私の愛した、たった一人の人。
「アラン様っ! 違うのです、私は何も――!」
私は必死に顔を上げ、声を張り上げた。
だが、彼は私を見ない。
彼の視線は、彼自身の腕の中に儚げに寄り添う、一人の女性に向けられていた。
豪華な純白の毛皮のケープに身を包み、寒さと恐怖に震える小動物のように、アランの胸にすがりついているその女性。
(……イザベラ?)
私の幼い頃からの侍女であり、たった一人の「親友」だったはずの彼女。
なぜ。
なぜあなたが、私のいるべき場所にいるの?
なぜあなたが、私だけが知るはずの、アラン様のあの優しく甘い眼差しを向けられているの?
アランは、私には一度も見せたことのないような切なげで愛おしげな表情で、イザベラの華奢な肩をしっかりと抱きしめている。まるで、これから起こる残虐な見世物から、愛する彼女を全力で守るかのように。
……私という「悪」から、彼女を守るかのように。
私は、その信じがたい光景に言葉を失い、ただ呆然と二人を見つめることしかできなかった。
■3:断罪
「皇妃エリアーナ」
地を這うような、恐ろしく低い声。
アランが、ようやく私を見た。
その美しい碧眼には、かつての愛も、温かな慈悲も、私への信頼も、何一つ映っていなかった。
そこにあるのは、凍てつく冬の湖のような……汚泥にまみれた醜い害虫を見るような、冷え切った絶対的な侮蔑だけだった。
「貴様は、余の寵愛を一身に受けるイザベラに嫉妬し、彼女の茶に毒を盛った。さらに、余の暗殺を企て、帝国の転覆を謀った大罪人である」
頭が理解を拒否する。
イザベラに、毒? 私が?
アラン様を、暗殺?
「違う……違います! 誤解です! イザベラ、あなたも何か言って! 私たちがどんなに仲が良かったか、私があなたをどれほど大切にしていたか、あなたが一番知っているでしょう!?」
私が血を吐くような思いで叫ぶと、イザベラはアランの胸に顔をうずめたまま、ビクッと体を震わせた。
「……ごめんなさい、エリアーナ様。私、怖くて……あの日、あなたが『皇帝陛下さえいなければ、私がもっと自由になれるのに』と仰るのを、この耳で聞いてしまって……」
嘘だ。
そんなこと、一度たりとも言っていない。
私は彼を愛していたのに。
愕然とする私に向け、イザベラはアランの腕の中から、怯えた小鳥のような涙ぐんだ目で私を見つめた。
そしてアランが彼女の頭を優しく撫でるために、ふっと視線を外した、ほんの一瞬。
イザベラは、口の端を吊り上げて、嗤った。
心臓が、氷の手で直接掴み潰されたように凍りついた。
ああ。
そう。
そうだったの。
最初から、すべて。
この二人に、私は、完全に嵌められたのだ。
私の愛も、友情も、すべては彼らの筋書き通りに弄ばれ、利用され、そして今、不要なゴミとして捨てられようとしている。
■4:最後の二十秒
深い絶望は、一瞬にして、ドロドロと燃え盛る漆黒の憎悪へと変わった。
「さっさとやれ!」
兵士に乱暴に髪を掴まれ、無理やり引きずり倒される。断頭台の冷たく血生臭い穴に、顔を押さえつけられた。
「おまえたちだけは……絶対に、許さない」
私は、最後の力を振り絞り、首だけをねじ曲げて、高みから私を見下ろす二人を睨みつけた。
(もし、もう一度……もう一度だけ、やり直せるのなら)
(今度こそ、あなたたちを地獄の底に突き落としてあげる。私が味わった以上の苦痛を与えてやる)
ギロチンの重たい刃が、空気を鋭く切り裂き、一気に振り下ろされた。
凄まじい衝撃。
世界がぐるぐると回転した。
音は、もう何も聞こえない。痛みすら感じない。
ゴトン、と鈍い音を立てて転がった私の「首」は、奇しくも、あの二人の方を真っ直ぐに向いていた。
聞いたことがある。
人の首は、斬り落されてから二十秒ほどは、まだ物が見えると。
(……あと、十五秒)
私の視界の先、豪奢な緋色の天幕の下。皇帝アランは、微動だにしない。
自分の妻であり、皇妃であった女の首が、無様に雨に濡れた石畳を転がったというのに、彼は哀れむような一瞥すらしないのだ。
ただ冷酷に、ゴミが片付いたとでも言うように見下ろしている。
(……あと、十秒)
私の視界が、ゆっくりと霞み始める。光が失われていく。
その、アランの腕の中。震えていたはずのイザベラが、そっと顔を上げた。
彼女は、アランには絶対に気づかれないよう、ゆっくりと視線を動かし、転がった「私」の目と、その視線を正確に合わせた。
(……あと、五秒)
イザベラは、怯えた小動物のような可憐な顔のまま、確かに、私だけにわかるように、ゆっくりと、深く、完全なる勝利を確信した笑みを浮かべた。
彼女は、嗤ったのだ。私をあざ笑うように。
(……ああ)
これが、私の「最後の景色」。
そして、私の「始まりの景色」。
絶対に忘れない。
あの女の邪悪な顔も、あの男の冷酷さも。私のすべてを奪った、この憎き二人の姿を。魂に刻み込んでやる。
おまえたちは許さない!!
視界が、完全に闇に塗りつぶされた。
♢
その闇の向こうから、一人の男が歩いてきた。
黒い長衣。闇の中で蠢く金の刺繍。そして、その首元には、巨大で豪華な白いラッフル襟が揺れている。
漆黒の髪をなびかせ、紅い瞳を持ったその男は、私の「首」を愛おしそうに拾い上げた。
「……極上だ。これほど純粋な憎悪は、千年も待たねば出会えぬ宝だ」
男の指先が、私の冷え切った頬をなぞる。その指は凍えるように冷たく、同時に熱い魔力を孕んでいた。
「契約しよう、エリアーナ。お前の望む『復讐』を、俺が最高の特等席で見せてやろう」
男が艶やかに微笑んだ。




