第28話 毒の杯と枯れた花
■ 冷たいベッドの上で
「……また、夢を見たわ」
誰もいない寝室で、私は一人、乾いた声で呟いた。
悪魔の力を手に入れ、アラン様に「聖女」として大聖堂に立つと宣言した翌朝。私は、久しぶりに、昔の夢を見た。
まだ、私がただの「侍女」で、エリアーナが「侯爵令嬢」だった頃の夢。
『イザベラ、このお茶菓子、とても美味しいわ。あなたも一緒にいかが?』
侯爵邸の美しい中庭で、エリアーナは無邪気に笑っていた。
彼女は、身分違いの私を「親友」と呼び、美しいドレスや宝石を惜しげもなく与えてくれた。
『あなたは、本当に綺麗ね。いつか、素敵な殿方に見初められるわ』
その言葉には、一片の悪意も、見下すような響きもなかった。エリアーナは、本心から私を愛し、大切にしてくれていた。
……分かっている。
私が、彼女から全てを奪ったのだ。
彼女の地位も、名誉も、そして、彼女が心から愛していたアラン様の心も。
私は、彼女の純粋な好意という「毒の杯」を飲み干し、そして、彼女という「美しい花」を枯らして、今の地位に這い上がった。
■ 奪い取ったものの正体
「……でも、仕方なかったのよ」
私は、毛先が白く変色した自分の髪を梳きながら、鏡に向かって言い訳のように呟いた。
私には、何もなかった。
貧しい下級貴族の三女として生まれ、ただ「顔が良い」というだけで侯爵家に売られるように奉公に出された。
エリアーナの傍にいると、自分が惨めで、ちっぽけな存在に思えて仕方がなかった。彼女の無邪気な優しさが、時として私の心を鋭く抉った。
だから、アラン様が私に目を留めた時。
私は、迷わず彼の手を取った。
『イザベラ。お前は、エリアーナにはない「可憐さ」を持っている』
アラン様のその言葉が、私の全てだった。
私は、彼のために、エリアーナを裏切った。彼女を「悪女」に仕立て上げ、皇太子の婚約者の座から引きずり下ろすことを企んだ。
エリア―ナが変貌して、アラン様の婚約を断った。
それは計算外だったけど、それでも私は手に入れた。
アラン様の寵愛を、この一身に。
(……これで、わたくしは全てを手に入れた)
そう、確信していた。
だが、現実の人生は違った。
エリアーナが、北の侯爵の下へ行き全てが変わった。
彼女が巡らす策は、ことごとく私が愛するアラン様を追い詰めた。
それは、狡知に長けているとか、そういう次元のものとは違う。
まるで先のことを見通している、予想などではなく「知っている」としか思えない、人知を超えたなにかを感じた。
そして、私は気づいてしまったのだ。
私が奪い取った「アラン様の愛」が、どれほど薄っぺらで、脆いものだったかに。
アラン様の中は、あの女(エリア―ナ)でいっぱいになった。
それが愛ではなく、憎悪だとしても、アラン様の中にはエリア―ナしかいない。
私がいる場所などないのだ。
「……アラン様は、わたくしを愛してなどいないわ」
私は、鏡の中の、土気色に変色した自分の肌を見つめながら、自嘲気味に笑った。
アラン様が愛しているのは、「自分を無条件に肯定してくれる、都合の良い女」だけ。
エリアーナが有能すぎて、自分の無能さが浮き彫りになるのが嫌だったから、私に逃げただけなのだ。
そして今、私が「世継ぎ」を失い、エリアーナが再び強大な力を見せつけ始めたことで、アラン様の心は、すでに私から離れつつある。
私が流産したと知った時の、アラン様のあの顔。
心配や悲しみではなく、「自分の計画が狂った」という焦燥と、私に対する明確な「失望」の色。
あれを見た時、私は自分の足元が崩れ落ちるような感覚を覚えた。
私は、アラン様にとって「人間」ですらなかったのだ。「皇太子の権力を補強するための、都合の良い装置」でしかなかった。
エリアーナは、そのことに気づいていたのだろうか。
彼女はアラン様を恨んでいたのだろうか。それとも、彼という人間の薄っぺらさに気づき、ただ憐れんでいたのだろうか。
今の私には、それが痛いほどよく分かる。
■ 後戻りできない道
「……それでも」
私は、鏡を力強く叩き割った。
ガシャン、という音と共に、私の醜い顔が、無数の破片に分かれて映り込む。
「……それでも、わたくしは、もう後戻りできないのよ!」
エリアーナに謝罪して、許しを乞う?
そんなことは、絶対にできない。彼女のあの冷たい瞳が、私を許すはずがない。
それに、私自身が、それを許せない。
私は、彼女を裏切り、欺いてここまで来たのだ。今更「ごめんなさい」と泣きつくくらいなら、悪魔に魂を売ってでも、最後まで彼女と戦い抜く。
『……そうだ、イザベラ。その憎悪だ』
頭の中で、悪魔王の声が響く。
『お前は、あの魔女を殺し、アランの心を永遠に繋ぎ止める。……そのために、俺がお前に「力」を与えたのだ』
私は、自分の手のひらを見つめた。
生命力を奪い取る、恐ろしい「略奪」の魔力。
これを使えば、私は「奇跡の聖女」になれる。民衆を扇動し、エリアーナを真の「魔女」として断罪することができる。
「……ええ。やってやるわ」
私は、割れた鏡の破片を拾い上げ、自分の手のひらを強く握りしめた。
血が滲むが、痛みは感じない。悪魔の力が、すぐに傷を塞いでいく。
「エリアーナ。あなたが『復讐』を望むなら、わたくしも『防衛』のために、あなたを壊す。……私たちは、もう、どちらかが死ぬまで、止まることはできないのよ」
『ん~。心地好い決断だ』
■ 毒の杯と枯れた花
私は、純白のドレスに着替えた。
かつて、エリアーナが私に贈ってくれた、あの美しいドレスに似たデザイン。
だが、今の私が着ると、それはまるで「喪服」のように見えた。
「……行くわよ」
私は、誰にともなく呟き、寝室の扉を開けた。
向かう先は、大聖堂。
エリアーナとルシアン公爵が立て籠もる、あの「聖域」の門前。
そこで、私は民衆の前で「奇跡」を起こし、彼らを扇動する。
(……見ていなさい、エリアーナ)
私は、廊下を歩きながら、心の中でかつての親友に語りかけた。
(あなたが、どれほど有能で、どれほど正しいとしても。……民衆は、愚かなのよ)
(彼らは、「正しい真実」よりも、「分かりやすい奇跡」を求める。……わたくしが、その「奇跡」を見せてあげる)
馬車に乗り込み、大聖堂へと向かう道中。
私は、窓の外に広がる帝都の街並みを冷たい目で見下ろした。
かつて、私が侍女としてエリアーナの馬車に同乗していた頃、この街の景色はもっと輝いて見えた。全てが新鮮で、希望に満ちていた。
だが今の私には、道行く人々がただの「餌」にしか見えない。
彼らの生命力を吸い取り、私の魔力に変える。そして、その魔力で彼らを癒すフリをして、さらなる信仰を集める。
それは、終わりのない自転車操業だ。いつか必ず破綻する、狂った悪循環。
私は、もはや自分が「人間」ではなくなりつつあることを、自覚していた。
悪魔の魔力を使うたびに、私の寿命は削られ、魂は黒く染まっていく。
指先は冷たく、心臓の鼓動はひどく遅い。まるで、生きながらにして死体になりつつあるかのようだ。
だが、それでも構わない。
アラン様の隣に立ち、エリアーナを見下ろすことができるなら。
彼女のあの冷徹な仮面を剥ぎ取り、絶望に歪む顔を見ることができるなら。
私は、喜んで「化け物」になってやる。
そうすれば、私のこの空っぽの心も、少しは満たされるかもしれないから。
「……待っていなさい、エリアーナ」
私は、誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
「わたくしたちの『友情』の、本当の結末を、教えてあげるわ」
♢
偽りの聖女は、狂気の微笑みを浮かべながら、決戦の地へと向かった。
それは、彼女自身の「破滅」への、最初の第一歩だった。




