第27話 悪魔王の暗躍と聖女の誕生
■ 絶望の底で
帝都の離宮、その最も奥深くにある豪奢な寝室。
そこには、かつての華やかさを完全に失ったイザベラの姿があった。
「……あ、あぁ……」
ベッドの上で、イザベラは虚ろな目で宙を見つめていた。
彼女の腹部は、すでに平らになっている。アラン皇太子との間に授かった「奇跡の世継ぎ」は、数日前に彼女の体から流れ落ちてしまった。
南部の洪水、エリアーナの「魔女」の噂の逆転、そして、アランの焦燥。それらのストレスが重なった結果だと、侍医は言った。だが、イザベラには分かっていた。
これは、罰なのだと。
「……アラン様……」
「どうして来てくださらないの……」
「アラン様……アラン様……」
イザベラは、掠れた声で愛する男の名を呼んだ。
だが、返事はない。アランは、彼女が流産したと知るや否や、青ざめた顔で部屋を飛び出していったきり、一度も顔を見せていない。
彼にとって、イザベラの価値は「世継ぎを産むこと」に集約されつつあったのだ。その価値を失った今、彼女はただの「身分なき愛人」に過ぎない。
(……いや。いやよ。わたくしは、まだ……)
イザベラは、震える手でシーツを握りしめた。
エリアーナを出し抜き、皇太子の寵愛を勝ち取った。もうすぐ、皇妃の座に手が届くはずだった。それなのに、なぜ全てが崩れ去っていくのか。
(……エリアーナのせいだわ。あの女が、北で呪いをかけているから……!)
イザベラの心の中で、行き場のない絶望が、黒く濁った「憎悪」へと変わっていく。
■ 天使の再臨
その時だった。
寝室の空気が、急激に冷たくなった。
「……!」
イザベラが息を呑むと、部屋の隅の暗がりから、ふわりと「光」が滲み出した。
それは、かつて彼女の夢に現れ、「懐妊」という奇跡を授けた、あの美しい天使(悪魔王)だった。
『……哀れなことだ、イザベラ』
天使は、冷たく、しかし甘美な声で囁いた。
『お前は、全てを失った。アランの愛も、世継ぎという希望も。……そして、このままでは、あの魔女に、お前の居場所すら奪われるだろう。哀れなことだ』
「……天使、様……」
イザベラは、ベッドから這い出すようにして、天使の足元に縋り付いた。
「……どうか、わたくしを救ってください! わたくしは、何も悪いことはしていません! 全ては、あのエリアーナが……!」
天使は、薄く微笑んだ。
その笑顔の裏に隠された、底知れぬ悪意に、イザベラは気づかない。
『……ああ、分かっているとも。お前は被害者だ。……だが、泣いているだけでは、何も取り戻せないぞ。泣いているだけでは、誰もおまえに見向きもしないだろう』
天使は、イザベラの頭に、そっと手を置いた。
『……力が、欲しいか?』
「……力……?」
『そうだ。あの魔女を打ち倒し、アランの心を永遠に繋ぎ止めるための、絶対的な力だ。……お前を、真の「聖女」にしてやろう』
天使の言葉に、イザベラの瞳に、狂気めいた光が宿った。
「……欲しいです。……わたくしに、その力を……!」
『よかろう。だが、この力には「代償」が必要だ。……お前の「正気」と、「美貌」を、少しずつ削り取ることになるが……それでも良いか?』
「……構いません」
イザベラは、即答した。
「エリアーナ様を殺せるなら。……アラン様が、わたくしだけのものになるのなら、何でも差し出します!」
■ 聖女の誕生
天使(悪魔王)は、満足そうに頷いた。
『……契約は、成立した』
天使の手から、どす黒い「魔力」が、イザベラの体へと流れ込んでいく。
「……あ、あああああ……!」
イザベラは、全身を駆け巡る激痛と、同時に湧き上がる圧倒的な万能感に、声を上げた。
彼女の黒髪が、毛先から少しずつ白く変色していく。肌の艶が失われ、わずかに土気色を帯びていく。それが、悪魔の力を宿した「代償」だった。
だが、イザベラは気にならなかった。
彼女の手のひらには、確かに「力」が宿っていた。
「ああ……。この力はなに?私の内に生まれ出流、まるで清水のごとき奔流は?」
『感じるだろう?おまえの中の、聖なる力を』
枯れかけていた花瓶の薔薇に手をかざすと、薔薇は一瞬で瑞々しさを取り戻し、そして次の瞬間、黒く変色してボロボロに崩れ落ちた。
『……それは、「治癒」ではない。「略奪」だ』
天使が、静かに解説する。
『他者の生命力を奪い、別の何かに与える力。……これを使えば、お前は民衆の目には「奇跡を起こす聖女」に映るだろう』
「……素晴らしいわ」
イザベラは、崩れ落ちた薔薇の残骸を見つめながら、恍惚とした笑みを浮かべた。
「これで、わたくしは……エリアーナに勝てる。アラン様を、取り戻せる……!」
彼女の頭の中には、すでに一つの計画が浮かんでいた。
帝都の民衆は今、南部の洪水とエリアーナの「魔女」の噂に怯え、救いを求めている。そこに、奇跡の力を持つ「聖女」として自分が現れればどうなるか。
民衆は必ず自分を崇め、エリアーナを真の「魔女」として糾弾するはずだ。
アランの軍事力ではなく、民衆の「信仰」を武器にする。それこそが、エリアーナを完全に追い詰める唯一の方法だと、悪魔の力を得たイザベラの直感が告げていた。
天使は、その狂気に染まっていく姿を見届けると、ふたたび闇の中へと溶けていった。
(……踊れ、愚かな人形よ。……エリアーナとルシアンの「憎悪」を、再び燃え上がらせるための、最高の生贄となれ)
悪魔王は、己の「盤面」が再び動き出したことに、深い満足を覚えていた。
彼にとって、イザベラはもはや「駒」ですらなかった。エリアーナの心を揺さぶるための、ただの「使い捨ての道具」に過ぎない。だが、その道具が引き起こす混乱は、帝都をかつてない絶望の渦に巻き込むことになるだろう。
■ 狂気の進言
翌日。
アラン皇太子は、執務室で頭を抱えていた。
南部の洪水の処理、バートン伯爵の失脚、そしてイザベラの流産。全てが裏目に出ている。
「……くそっ! なぜだ! なぜ、あの女ばかりが……!」
アランが机を叩きつけた、その時。
執務室の扉が、静かに開いた。
「……アラン様」
そこに立っていたのは、純白のドレスに身を包んだイザベラだった。
「……イザベラ? お前、体は……」
アランは、彼女の姿を見て息を呑んだ。
流産で衰弱しているはずの彼女は、異様なほどの「生気」に満ちていた。しかし、その黒髪の毛先は白く変色し、肌はどこか不気味な土気色を帯びている。
それは、もはや彼が愛した「可憐なイザベラ」ではなく、何か別の生き物のように見えた。
「……わたくしは、神の啓示を受けました」
イザベラは、ゆっくりとアランに近づき、その胸に顔を埋めた。
「神は、わたくしに『聖女』としての力を授けてくださいました。……アラン様。わたくしが、帝都の民の『迷い』を、払ってさしあげます」
「……何を、言っているんだ?」
「わたくしは、『聖女』として、大聖堂の前に立ちます」
イザベラは、アランを見上げ、狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「あの中には『魔女』がおります。……わたくしが、民衆の前で、『魔女』の呪いに苦しむ人々を、救ってみせます。そうすれば、民衆は必ず、わたくしたちの味方になりますわ」
アランは、彼女の言葉に背筋が寒くなるのを感じた。
だが、今の彼には、他にすがるものがなかった。
「……分かった。……お前に、任せる」
アランは、イザベラの肩を抱き寄せた。
こうして、悪魔王の操り人形となった「偽りの聖女」が、帝都の舞台へと解き放たれた。
それは、エリアーナとルシアンにとって、これまでで最大の「試練」の始まりを意味していた。




