第26話 影に咲く忠誠
■ 北の城に届いた凶報
北の黒鷲城に、帝都からの密書が届いたのは、深夜のことだった。
「……アンナ。お父様からよ」
エリアーナ様が、蝋燭の灯りの下で、その密書を静かに読んでいた。私は傍らで控えていたが、封を開けた瞬間から、エリアーナ様の指先がわずかに震えているのに気づいていた。
「……イザベラが、流産した」
エリアーナ様は、感情を押し殺した声で言った。
「それだけではないわ。アランが、帝都で近衛兵を動かし始めている。お父様は、帝都の情勢が急変していると……」
私は、思わず息を呑んだ。
イザベラ様の懐妊は、帝都の人々にとって「次期皇帝の誕生」という大きな希望だった。その希望が潰えたとなれば、アラン殿下がどれほど狂乱するか、想像するだけで恐ろしかった。
「エリアーナ様……」
「大丈夫よ、アンナ」
エリアーナ様は、密書を静かに折り畳み、蝋燭の炎にかざした。紙が燃え、灰になっていく。
「むしろ、これは予想の範囲内のこと。問題は、この後アランがどう動くかよ」
その声は、あくまでも冷静だった。だが、燃え落ちる密書を見つめるエリアーナ様の瞳の奥に、私は確かに「恐れ」ではなく「覚悟」の色を見た。
■ 変わってしまったお嬢様
エリアーナ様は、変わられた。
北の黒鷲城に来てから、その変化はより鮮明になった気がする。
以前のエリアーナ様は、アラン殿下を一途に愛し、イザベラ様を心から信じる、純粋で優しい方だった。帝都の侯爵邸で、庭の花を愛でながら笑っていたあの頃のお嬢様を、私は今でも鮮明に覚えている。
しかし、今のエリアーナ様の瞳には、常に冷たい炎が宿っている。誰も信じず、全てを疑い、そして「復讐」という恐ろしい目的に向かって、一人で突き進んでいるように見えた。
私は、お嬢様が何を抱え込んでいるのか、本当のところは分からない。
時折、エリアーナ様が見せる「絶望」に満ちた表情。まるで、一度死を経験したかのような、深く暗い瞳。
(お嬢様は、何か恐ろしい秘密を抱えていらっしゃる)
それは、侍女である私にも、決して明かされない秘密。
だが、この北の城に来てから、私はもう一つのことに気づいていた。
エリアーナ様が、ルシアン公爵様の傍にいる時だけ、その冷たい炎が、わずかに揺らぐのだ。
「……アンナ。少し、外の空気を吸ってくるわ」
密書を燃やし終えたエリアーナ様が、静かに立ち上がった。
「お供いたします」
「いいえ、一人でいいわ」
そう言いながら、エリアーナ様は城の廊下へと出ていった。
私は、少し間を置いてから、そっとその後を追った。
■ 忠誠の理由
城の回廊の端、石造りの欄干に手をついて夜空を見上げるエリアーナ様の傍に、いつの間にかルシアン公爵様が立っていた。
二人は、しばらく無言で並んでいた。
北の夜空には、帝都では見えない無数の星が輝いている。その星明かりの下で、エリアーナ様は公爵様に何かを話しかけ、公爵様は短く、しかし確かな言葉で答えていた。
私には、その言葉は聞こえなかった。だが、エリアーナ様の肩から、わずかに力が抜けていくのが、遠目にも分かった。
(ああ、お嬢様……)
私は、回廊の陰から、その光景を静かに見守った。
私がこの侯爵家に仕え始めたばかりの頃、私は要領が悪く、失敗ばかりで、先輩の侍女たちから陰湿ないじめを受けていた。ある日、高価な花瓶を割ってしまった濡れ衣を着せられ、屋敷から追い出されそうになった時。私を庇ってくださったのは、他でもないエリアーナ様だった。
『この子は、私の大切な侍女よ。誰にも手出しはさせないわ。それに、この花瓶の破片の落ち方……アンナが割ったものではないことは明白です』
あの時の、エリアーナ様の凛とした声。私を信じ、守り抜いてくれた、温かい手。
その日から、私の命はエリアーナ様のものだ。
お嬢様がどれほど冷酷な策士になろうとも、どれほど恐ろしい復讐に手を染めようとも、私の忠誠は決して揺るがない。
だが、今の私には、もう一つ願いがある。
お嬢様に、本当の意味で「傍にいてくれる人」ができてほしい、という願いだ。
アラン殿下は、エリアーナ様を愛していなかった。あの方は、お嬢様の能力と家格を「利用」していただけだ。お嬢様がどれほど尽くしても、アラン殿下が見ていたのは常にイザベラ様だった。私は、侍女という立場でありながら、何度もそれを目の当たりにしてきた。
エリアーナ様が、アラン殿下のために夜遅くまで政務の資料を整え、翌朝には疲れた顔一つ見せずに笑顔で殿下の傍に立っていた、あの日々。それがどれほど、お嬢様の心を削り続けていたか。私には分かっていた。それでも、何もできなかった。侍女という立場では、お嬢様の選択に口を挟む権限などなかったから。
しかし、ルシアン公爵様は違う。
公爵様は、エリアーナ様の「弱さ」を知っている。そして、その弱さを責めるのではなく、静かに隣に立ち続けている。
公爵様は言葉少なな方だ。しかし、その行動の一つ一つが、エリアーナ様への深い配慮に満ちている。お嬢様が無理をしていると察した時、さりげなく仕事を肩代わりする。お嬢様が一人で抱え込もうとする時、静かに「俺も同じだ」と言って、その重荷を半分引き受ける。
アラン殿下が決してしなかったことを、公爵様は当然のようにやってのける。
それが、私がルシアン公爵様を信頼する理由だった。
■ 星明かりの誓い
しばらくして、エリアーナ様が回廊を戻ってきた。
その瞳には、まだ冷たい炎が宿っている。だが、その奥に、かすかな温もりが灯っているように見えた。
「……アンナ。盗み聞きは感心しないわよ」
エリアーナ様が、私の気配に気づいて苦笑した。
「申し訳ございません、エリアーナ様。ご心配で……」
「分かっているわ」
エリアーナ様は、小さく息を吐いた。
「ルシアンが言っていたわ。『お前の侍女は、お前よりも先に俺を信用していた』って」
「……公爵様は、鋭いお方ですね」
私は、思わず苦笑した。
「アンナ。あなたには、苦労をかけるわね」
エリアーナ様が、珍しく柔らかな声で言った。
「この戦いが終わったら、あなたには幸せになってほしいわ。ずっと私に付き合わせてしまって……」
「何を仰いますか、エリアーナ様」
私は、強く首を振った。
「私の幸せは、お嬢様の傍にいることです。それは、帝都にいた頃も、この北の城にいる今も、何も変わりません」
エリアーナ様は、しばらく私を見つめ、そして静かに微笑んだ。
帝都にいた頃の、あの純粋な笑顔とは違う。多くの傷と覚悟を経た、大人の女性の笑顔だった。
だが、私にはそれが、以前の笑顔よりも遥かに美しく見えた。
「……ありがとう、アンナ」
「いいえ。こちらこそ、ありがとうございます、エリアーナ様」
北の夜空に、星が瞬いている。
帝都では決して見えない、無数の星が。
エリアーナ様が復讐を果たし、その冷たい炎が温かな光に変わる日まで、私はこの北の城で、お嬢様の影として寄り添い続けると、私は心の中で静かに誓った。
密書の灰は、とうに風に散っていた。
だが、エリアーナ様の覚悟は、この北の星空の下で、より強く、より深く燃え続けていた。
帝都から届いた密書には、最後に父様からの一文が添えられていたと、後でエリアーナ様から聞いた。
「エリアーナ。お前の後ろには、常に父がいる。それだけは忘れるな」と。
その一文を読んだ時、エリアーナ様の目に、薄い水膜が光ったという。
その話を聞いた時、私は胸が熱くなるのを感じた。お嬢様は一人ではない。北にはルシアン公爵様がいる。帝都には父様がいる。そして、どこにいても、私がいる。
それだけで、お嬢様は十分に強い。それだけで、お嬢様は必ず勝てる。
私はそう信じていた。この北の星空の下で、エリアーナ様の影として、永遠に。




