第25話 偽りの奇跡の終焉(イザベラの流産)
■ 北への脱出準備
南部の洪水から数日後。
アランが「エリアーナ=魔女」という噂を流し、私がそれを「アラン=汚職隠蔽」という噂で上書きして返り討ちにした直後。
帝都の空気は、かつてないほどに張り詰めていた。
「アランが、ついに近衛兵を動かしたわ」
私は、黒鷲城の執務室で、アンナが持ってきた最新の報告書を読み上げた。
「南部の暴動を鎮圧するためか?」
ルシアンが、剣の手入れをしながら尋ねる。
「いいえ。……わたくしを、捕らえるためよ」
私は、呆れを通り越して、乾いた笑いを漏らした。
「南部の民が泥水に苦しんでいるというのに、あの男は、自分のプライドを満たすためだけに軍を動かしたのよ。……本当に、救いようのない馬鹿ね」
アランは完全に正気を失っていた。
南部の反乱を放置し、北の公爵軍との全面戦争のリスクを負ってでも、私を自分の手元に引きずり戻そうとしている。
彼にとって、私は「自分の優秀さを証明するための便利な道具」であり、それがルシアンの手に渡ったことが、どうしても許せないのだ。
「どうする? 迎え撃つか?」
ルシアンが、冷たく光る剣の刃を見つめながら言う。
「いいえ。帝都で戦えば、無関係な民が巻き込まれるわ。それに、アランの軍勢を正面から相手にするのは、得策ではない」
私は、帝国の地図の「北」を指差した。
「北へ戻りましょう。あなたの領地、ヴァレリウス公爵領へ」
「……俺の、城へか」
「ええ。北の堅牢な要塞に籠もれば、アランの軍勢など手出しはできない。それに、南部の民心はすでにこちらにある。焦って自滅するのはアランの方よ」
私たちは、帝都からの脱出計画を前倒しにすることを決めた。
父(リステン侯爵)とアンナは、南部の領地へ。私とルシアンは、大聖堂を経由して、北の公爵領へと向かう。
全ては、完璧に計算されていた。
だが、その時。帝都の皇宮で、もう一つの「崩壊」が起きていたことを、私はまだ知らなかった。
■ 崩れゆく聖女
その夜、イザベラは、アランが自分のために建ててくれた豪華な離宮のベッドで、激しい腹痛に目を覚ました。
「……あ、あぁ……痛い……!」
イザベラは、冷や汗を流しながら、大きくなり始めた腹を抱え込んだ。
「誰か! 誰か来て……!」
彼女の悲鳴に、侍女たちが慌てて駆けつけてきた。
「イザベラ様! どうされました!?」
「お、お腹が……血が……!」
イザベラの純白のネグリジェが、真っ赤な血で染まっていく。
侍女たちは悲鳴を上げ、すぐに皇宮の筆頭医師が呼ばれた。
アランも、血相を変えて離宮に駆けつけてきた。
「イザベラ! 大丈夫か! 私の世継ぎは無事だろうな!」
アランは、苦しむイザベラよりも先に、彼女の腹の「子供」の安否を尋ねた。
その言葉に、イザベラの心に冷たい風が吹いた。
(アラン様は、私ではなく、私のお腹の子供しか見ていない……)
彼女は、自分が「愛人」という脆い立場であり、この子供だけが自分を繋ぎ止める唯一の鎖であることを、痛いほど理解していた。
医師が青ざめた顔で、アランに告げた。
「で、殿下……。申し訳ございません。お子は……流れてしまわれました」
「……なんだと?」
アランの顔から、血の気が引いた。
「嘘だ! そんなはずはない! イザベラは聖女だぞ! 聖女が、私の世継ぎを失うはずがない!」
アランは医師の胸ぐらを掴み、狂ったように揺さぶった。
「殿下、おやめください! イザベラ様のお体も危険な状態です!」
「……あぁ……ああぁぁ……!」
イザベラは、血まみれのベッドの上で、絶望の叫びを上げた。
彼女の「武器」が、彼女の「存在価値」が、全て失われた瞬間だった。
■ 悪魔の嘲笑
医師たちが去り、アランも「信じられない」と呟きながら部屋を出て行った後。
イザベラは、暗い部屋で一人、抜け殻のように横たわっていた。
涙すら枯れ果て、ただ虚無だけが彼女を包んでいた。
『……哀れなことだ』
ふと、部屋の隅の影から、甘く、冷たい声が響いた。
イザベラがゆっくりと顔を向けると、そこには、かつて彼女の夢に現れた「天使」――いや、悪魔王が立っていた。
「……天使様。どうして……どうして、私の子を奪ったのですか……」
イザベラは、うわ言のように呟いた。
悪魔王は、優雅な足取りでベッドに近づき、冷たい笑みを浮かべた。
『私は何も奪っていないよ。ただ、私が与えた「力(幻)」が、少し早く消えてしまっただけだ』
「……幻……?」
『そう。お前の腹に宿っていたのは、本物の命ではない。私が魔力で作り出した、ただの「肉の塊」だ』
悪魔王の残酷な告白に、イザベラは息を呑んだ。
『お前のような空っぽの器に、命が宿るはずがないだろう? 私はただ、アランという愚か者を狂わせるために、お前に「懐妊」という幻を与えただけだ』
「……そんな……嘘よ……!」
『嘘ではない。お前は、最初から最後まで、私の「ゲーム」の駒に過ぎなかったのだよ』
悪魔王は、絶望に歪むイザベラの顔を見て、心底楽しそうに笑った。
『だが、安心しろ。お前にはまだ「役割」がある』
悪魔王は、イザベラの耳元に顔を寄せ、呪いのように囁いた。
『エリアーナを憎め。お前が全てを失ったのは、あの女のせいだ。あの女が、お前の幸せを奪ったのだ』
「……エリアーナ……」
『そうだ。お前は「聖女」として、民衆を導くのだ。エリアーナという「魔女」を打ち倒すために』
イザベラの虚ろな瞳に、再び黒い炎が宿り始めた。
それは、もう後戻りできない、完全な「狂気」の炎だった。
■ 凶報と出立
翌朝。
黒鷲城に、帝都からの緊急の報告がもたらされた。
「……イザベラが、流産した?」
私は、報告書を読み、思わず息を呑んだ。
「ああ。昨夜のことらしい。アランは完全に正気を失い、イザベラの流産は『魔女の呪い』だと喚き散らしているそうだ」
ルシアンが、呆れたように言う。
私は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(……悪魔王だ)
イザベラの懐妊は、悪魔王が仕組んだものだったとしたら。
そして、このタイミングでの流産。
これも全て、悪魔王の「ゲーム」の一部なのだと考えれば、合点がいく。
アランの憎悪を煽り、イザベラを完全に狂わせ、私への復讐の駒として使うために。
「……急ぎましょう、ルシアン。帝都はもう、完全に狂っているわ」
「ああ。準備はできている」
私たちは、アランの近衛兵が到着する前に、黒鷲城を密かに脱出した。
向かう先は、帝都の外れにある「大聖堂」。そこで一泊し、そのまま北へと向かう手筈だ。
だが、私は知らなかった。
イザベラの流産が引き金となり、悪魔王が本格的に「現実」へと干渉を始めることを。
そして、大聖堂で、私とルシアンを待ち受ける「最悪の試練」のことを。
復讐の序幕は終わり、血塗られた「本番」が、今まさに幕を開けようとしていた。
「エリアーナ。大聖堂までの道は、影の部隊が清めてある。夜明け前には出発できる」
ルシアンが、私の耳元に低く囁いた。
「……分かったわ。アランの近衛兵が動く前に、帝都を抜けましょう」
私は頷き、フードを深く被り直した。
馬車が静かに動き出す。
灯火が、少しずつ遠ざかっていく。
私は、車窓から流れていく夜の帝都を、無言で見つめた。
イザベラの流産。アランの狂気。
全てが、第二の人生の「本番」へ向かって動き始めている。
それでも、私は恐れなかった。
隣に、同じ地獄を知る男がいるから。
それだけで、私はどんな暗闇でも、前へ進むことができた。
大聖堂は、帝都の外れにある。
そこで一泊し、翌朝には北へと向かう手筈だ。
私たちにとって、それはただの「中継地点」のはずだった。
だが、その大聖堂で何が待ち受けているかを、この時の私はまだ知らなかった。




