第24話 泥水に沈む驕り
■ 届かない報告と泥まみれの真実
「……殿下。南部からの急使が参りました」
執務室の重厚な扉が乱暴に開き、バートン伯爵が青ざめた顔で駆け込んできた。
役職を剥奪したはずの男が、近衛兵の制止を振り切ってまで私の前に現れたのだ。その手には、泥と雨水にまみれ、見るも無残な状態になった書状が握られていた。
「なんだ、騒々しい。イザベラの体調が優れないのだ、静かにしろ」
私は不機嫌に眉をひそめた。イザベラが身籠ってからというもの、彼女の機嫌を取るために私は神経をすり減らしていた。
次期皇帝となる私の、初めての子だ。何よりも優先されるべき絶対的な価値がそこにある。
それに、バートンには「二度と戻るな」と命じたはずだ。
「そ、それが……南部で、大洪水が……」
バートンの震える声に、私は耳を疑った。
「大洪水だと? 馬鹿な。治水工事は完璧に終わっているはずだろう」
「それが……殿下が、離宮建設のために予算を……その、流用された箇所から、堤防が決壊したと……」
私は、バートンの手から泥まみれの書状を奪い取った。
そこには、南部の穀倉地帯が濁流に呑み込まれ、数万の民が家を失い、甚大な被害が出ていることが生々しく記されていた。
「……嘘だ」
書状を持つ手が震える。
私が予算を削ったのは、ほんの一部のはずだった。イザベラのために、どうしても美しく壮大な離宮を建ててやりたかっただけだ。
たかが少しの予算削減で、これほどの被害が出るなど、誰も私に報告していなかった。
「なぜだ! なぜ誰も私に、これほどの危険があると進言しなかった!」
私が怒鳴りつけると、バートンは怯えたように身をすくませた。
「そ、それは……殿下が、離宮建設を最優先とするよう、厳命されたからです。反対する者は、皆……」
皆、左遷されるか、口を閉ざした。
それが真実だった。私は自分の耳に心地よい言葉だけを聞き、不都合な真実を遠ざけていたのだ。
■ 見落としていた「価値」
「殿下、このままでは暴動が起きます! 早く対策を……それに、北のルシアン公爵とリステン家が、独自に支援物資を配り、民衆を扇動しているとの報告も……」
「黙れ! 誰の責任だ! 工事を担当した官僚どもを全員捕縛しろ!」
私は怒鳴り散らしたが、心の奥底では冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。
(私の、責任……?)
いや、そんなはずはない。私は完璧な皇太子だ。常に民を想い、正しき道を歩んできたはずだ。
だが、脳裏に一つの記憶が蘇る。
『アラン殿下。南部の治水は、帝国の生命線です。決して予算を削ってはなりません』
かつて、エリアーナが私にそう進言してきたことがあった。
あの時、私は彼女の言葉を「女の浅知恵」と鼻で笑い、聞き流した。
エリアーナは、常に正しい数字と根拠を持って私に進言していた。リステン侯爵家の情報網を駆使し、帝国の隅々の状況を把握していたのは、私ではなく彼女だったのだ。
(エリアーナがいれば……)
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
もし彼女が今も私の婚約者であれば、この危機を未然に防いでいたのではないか。
いや、それどころか、彼女は私の横で、的確な指示を出し、瞬く間に事態を収拾していただろう。
彼女は、私の「完璧な皇太子」という虚像を、陰で支え続けていた柱だったのだ。
私は、エリアーナを「退屈な女」だと思っていた。
イザベラのような華やかさも、愛嬌もない。ただ淡々と公務をこなすだけの、冷たい人形のような女だと。
だが、彼女を失って初めて気づいた。
彼女が持っていた「実務能力」と「情報網」が、どれほど私にとって不可欠なものだったのかを。
■ 失われたものへの異常な執着
「……殿下?」
バートンが、呆然と立ち尽くす私を不安げに覗き込んでいる。
「……エリアーナだ」
私は、無意識のうちにその名を口にしていた。
「は?」
「エリアーナが、私を陥れたのだ! あの女が、私から離れたせいで……いや、あの女が北の野蛮人と結託し、南部の堤防を破壊したに違いない!」
私は、自分の失政を認めることができず、全ての責任をエリアーナに押し付けた。
そうしなければ、私のプライドが、自我が崩壊してしまいそうだった。
(私のものだ。エリアーナは、私の所有物だったはずだ)
それが、あろうことか北の憎きヴァレリウス公爵の手に渡った。
その事実が、今更になって私の胸を激しく焦がす。
エリアーナがルシアンの横で微笑む姿を想像するだけで、腹の底から黒い嫉妬と憎悪が湧き上がってくる。
「バートン。近衛兵を集めろ」
私は、濁った目で側近に命じた。
「は、はい。被災地への救援部隊ですね。すぐに編成を……」
「違う!」
私は机を激しく叩き、その上にあった高価な花瓶を床に払い落とした。ガシャンという鋭い音が部屋に響き渡る。
「エリアーナを捕らえろ! あの女を、何としてでも私の元へ連れ戻すのだ! ルシアンごと、北の地を火の海にしてでもな!」
「で、殿下……!? 今、軍を動かせば、南部の民が……それに、北の公爵軍と正面からぶつかれば、帝国は二分されます!」
「民などどうでもいい! 私の誇りが、私の所有物が奪われたのだぞ! 皇太子である私の命に逆らう気か!」
■ 泥水に沈みゆく皇太子
私は狂ったように叫んだ。
窓の外では、冷たい雨が降り続いている。
南部の民が泥水の中で苦しんでいるというのに、私の頭の中にあるのは、エリアーナを取り戻すことへの異常な執着だけだった。
自分がどれほど愚かな決断を下しているのか、この時の私はまだ気づいていなかった。
いや、気づかないふりをしていたのだ。
泥水に沈みゆくのは、南部の領地だけではない。私自身の「皇太子としての器」そのものだった。
私は、イザベラという甘い毒に溺れ、エリアーナという真の支えを自ら手放した。
そして今、その代償を支払わされようとしている。
だが、私は決して認めない。私が間違っているはずがないのだ。
「必ず、取り戻してやる……。エリアーナ、お前は私の前で跪き、許しを請うことになるのだ」
私は、誰にも聞こえない声で、呪いのように呟いた。
その背後で、バートンが絶望的な表情で私を見つめていることにも気づかずに。
その夜、私は一人、執務室に残った。
燃え尽きかけた蝋燭の炎が、揺れている。
南部の惨状を伝える書状が、床に散らばったままだ。
私は、それを片付けようとも思わなかった。
見たくないものは、見なければいい。認めたくない事実は、存在しないことにすればいい。
それが、私の生き方だった。
だが、その夜から数日後。
私の「最後の希望」であるイザベラが、流産するという知らせが届く。
そして私は、全ての希望を失い、完全に正気を失った皇太子として、帝都の民の前に姿を晒すことになる。
しかし、それはまだ、この夜の私には知る由もないことだった。
私は、泥水に沈みながらも、まだ自分が溺れていることに気づいていなかった。




