第23話 アランの失策
■ アランの激怒
「……どういうことだ、これは!!」
皇宮の豪華な執務室で、アランは南部からの報告書を床に叩きつけた。分厚い羊皮紙が、大きな音を立てて大理石の床に散らばる。
洪水は、起きた。
だが、被害は最小限だった。
そして何より、民衆の「感謝」が、皇太子である自分ではなく、北の冷酷公爵ルシアンと、彼に嫁いだ「裏切り者」エリアーナに向いているというのだ。
「あの女……! また、あの女か!」
アランは、激怒のあまり顔を真っ赤にして叫んだ。
塩の時と全く同じだ。自分の失策を、エリアーナが完璧に先読みし、自分の「人気」に変えてしまった。
自分はイザベラのために離宮を建て、次期世継ぎの誕生を祝って宴を開いていたというのに、その裏で、あの女は南部の民を救う「救世主」になっていた。
「トマスとかいう商人ギルドの長を捕らえろ! あいつが北と通じているに決まっている!」
アランが叫ぶと、側近のバートン伯爵が、脂汗を流しながら困惑した顔で進み出た。
「……殿下。それが、トマスは『商人ギルドの独断による善意』だと主張しておりまして……明確な証拠がございません」
「証拠など、作れ! 拷問してでも吐かせろ!」
「しかし、南部の民衆が、トマスを『英雄』として匿っており、下手に軍を出して手を出すと、暴動になりかねません。今はただでさえ、殿下への風当たりが……」
「……ぐっ!」
アランは、手詰まりだった。
やり場のない怒りを、物にぶつけるしかなかった。
近くにあった花瓶を壁に投げつける。
破片が派手に飛び散る。
軍を送れば、南部の反乱を招き、ルシアンの思う壺だ。かといって、何もしなければ、南部の民心は完全に北のものとなる。
(なぜだ……なぜ、あの女はいつも俺の先を行く?)
アランは、自分の無能さを認めることができず、ただひたすらにエリアーナへの憎悪を募らせていた。
■ イザベラの「助言」
アランが苛立ちを募らせて荒い息を吐いていると、イザベラが、そっと彼に寄り添った。
彼女の腹は、懐妊(第19話)によって、少しふっくらとしてきている。彼女はアランの腕に絡みつき、甘えるように見上げた。
「……アラン様。お怒りは、ごもっともですわ」
「……イザベラ」
「ですが、アラン様は、難しく考えすぎです」
「……何?」
「民とは、愚かなもの。すぐに噂に流され、すぐに手のひらを返しますわ」
イザベラは、悪魔王から授かった「知恵(悪知恵)」で、アランの耳元に囁いた。
「……エリアーナ様が『聖女』と呼ばれているなら、アラン様は、エリアーナ様が『魔女』であるという『真実』を、民に教えて差し上げればよいのです」
「……魔女、だと?」
「そうですわ」
イザベラは、うっとりとした表情で、アランを見上げた。
「考えてもみてください。なぜ、エリアーナ様は、洪水が『起きる』と知っていたのでしょう?」
「……それは」
「なぜ、塩の専売制が『失敗する』と知っていたのでしょう?」
「……」
「おかしいでは、ありませんか。……まるで、エリアーナ様ご自身が、その『災い』を、呼び寄せているかのようですわ」
イザベラの言葉は、アランの心に渦巻いていた疑念に、都合よく火をつけた。
(……そうだ。なぜ、あの女は、そこまで未来が読める?)
(まさか、あの女が、悪魔の力を使って洪水を……?)
「……イザベラ。お前の言う通りかもしれん」
アランは、自分の失政から目を背け、イザベラの悪魔的な「助言」に深く頷いた。
「あの女は、帝国を滅ぼそうとする魔女だ。俺は、その魔女から帝国を守らねばならない」
■ 転:偽の噂
アランは、イザベラの提案を受け、帝都と南部に対し、大規模な「噂」を流すよう、バートン伯爵に命じた。
それは、皇太子の権威と莫大な資金を使った、悪質な情報操作だった。
『北の公爵に嫁いだエリアーナは、悪魔と契約し、魔女となった』
『彼女は、帝国の富を北に流すため、塩の価格を操った』
『彼女は、皇太子殿下の人気を貶めるため、自ら『洪水』を呼び寄せ、自作自演の救出劇を演じた』
『証拠に、彼女が北へ行ってから、帝国では災いが続いている』
『南部の民は、魔女に騙されているだけだ』
この「噂」は、バートン伯爵が雇った情報屋たちによって、帝国の全土に急速に広められた。
アランは、これで形勢が逆転すると自信を取り戻した。
「フン。これで、愚かな民も目を覚ますだろう。聖女と、魔女、どちらを信じるかな」
彼は、民衆が、自分の愛人であり、次期皇帝を身ごもっている「聖女」イザベラを選ぶと、疑いもなく確信していた。
■ エリアーナの「切り札」(返り討ち)
だが、アランの「失策」は、まだ終わっていなかった。
その「噂」が、帝都で広まり始めた、まさにその日。
北の黒鷲城で、エリアーナは静かに微笑んでいた。
彼女は、アランが「偽の噂」を流してくることを、1周目の知識(彼の常套手段)と、彼の浅はかな性格から、完璧に予測していたのだ。
エリアーナは、ルシアンの「影」と、アンナ(リステン家の情報網)を使い、アランが「噂」を流すために雇った、バートン伯爵の配下の情報屋たちを、事前に「買収」していたのである。
「噂」は、確かに広まった。
だが、それはアランが意図したものとは、全く異なる形に「上書き」された別の「噂」と共に広まった。
帝都の酒場で、人々は、こんな話に花を咲かせていた。
「おい、聞いたか? エリアーナ様が、魔女だって話」
「ああ。だが、本当は違うらしいぞ」
「……どういうことだ?」
「あの噂を流しているのは、バートン伯爵だろ? あの人、塩の専売制で、皇太子殿下と組んで、密輸で大儲けしようとしてたのを、エリアーナ様にバレて、大損したらしい」
「……なんだと!?」
「それだけじゃない。バートン伯爵は、エリアーナ様の侍女を、スパイに仕立て上げて殺そうとしたが、それもバレて、失敗した」
「……ひどい話だ」
「つまり、エリアーナ様が『魔女』って噂は、バートン伯爵が、自分の『汚職』を隠すために流した、ただのデマってことさ」
「……皇太子殿下は、そんなこともご存知ないのか?」
「いや……知っていて、黙認している、とか……」
アランが流した「エリアーナ=魔女」の噂は、エリアーナの完璧なカウンターによって、「アラン(とバートン伯爵)=汚職隠蔽」の噂へと、見事にすり替えられてしまった。
アランは、民衆の支持を回復するどころか、自らの側近の「汚職」を、帝国全土に暴露するという、取り返しのつかない最悪の「失策」を犯したのだった。
「……お前、本当に性格が悪いな」
報告を聞いたルシアンが、呆れと感心が入り混じったような声で言った。
「あら、わたくしはただ、真実を少しだけ『分かりやすく』伝えて差し上げただけですわ」
エリアーナは、悪びれる様子もなく、優雅に紅茶を飲んだ。
帝都の皇宮で、アランがこの「逆転の噂」を知り、再び激怒して部屋の調度品を破壊し尽くすのは、それからわずか半日後のことであった。
その夜、バートン伯爵は、アランに呼び出された。
「……バートン。お前の配下が、買収されていた」
「も、申し訳ございません、殿下! まさか、あのような手を打ってくるとは……!」
「言い訳は聞かん」
アランは、バートンを冷たく見下ろした。
「使えぬゴミ……クズめ。何度足を引っ張る!この木偶の坊が!お前のような無能は、役職を剥奪する!今度は、二度と戻るな!」
「……殿下!」
バートンが膝をついて懇願するが、アランはすでに背を向けていた。
(……また、あの女にやられた)
(なぜだ。なぜ、エリアーナはいつも、俺の一手先を読んでいる?)
アランは、窓の外の帝都の夜景を眺めながら、歯を食いしばった。
南部の民心は失った。バートンも失った。そして、帝国全土に「アランの汚職」という噂が広まってしまった。
(……だが、まだだ。俺には、イザベラがいる。そして、イザベラの腹には、俺の世継ぎがいる)
(あの子さえ生まれれば、全てが変わる。俺は正統な皇位継承者の父となり、誰も俺に逆らえなくなる)
アランは、自らの失策を認めることなく、全ての希望をイザベラの懐妊に賭けた。
だが、その希望もまた、悪魔王の気まぐれによって、残酷に打ち砕かれることになるのを、彼はまだ知らなかった。




