第22話 第二の知識(洪水)
■ アランの怠慢
イザベラの懐妊の報から、一ヶ月。
帝都は、アランが主催する「次期世継ぎ誕生」の祝宴で、連日連夜、狂ったように浮かれていた。
「……やはり、動かないわね」
私は、黒鷲城の冷え込んだ執務室で、帝都の密偵からの報告書を読みながら、小さく息を吐いた。
「南部の治水事業、予算が完全に凍結されたまま、と」
「アランの奴、予算の一部をイザベラの離宮建設に回したらしいな。あいつの頭の中は、あの女の腹のことしかないのか」
ルシアンが、呆れたように報告書を受け取る。彼の金色の瞳には、アランへの深い軽蔑が宿っていた。
1周目と、まったく同じ。いや、イザベラを「聖女」として祭り上げている分、1周目よりも事態は酷いかもしれない。
「聖女の祈りがあれば、洪水など起きぬ、とでも思っているのかしら」
「奴なら、本気でそう思っているかもしれんぞ。頭の中がお花畑だからな」
ルシアンの皮肉に、私は思わず吹き出しそうになった。
ルシアンと私は、この一ヶ月、帝都の狂騒をよそに、密かに準備を進めてきた。
「お父様(リステン侯爵)の動きは?」
「準備万端ですわ」
アンナが、父(リステン侯爵)からの密書を恭しく差し出す。
父は、アランの経済制裁を逃れた資産を使い、私の指示通り、南部との境界線ギリギリの場所に、大量の物資を買い集め、集積させていた。
「……治水工事用の大量の杭と土嚢。そして、倉庫を埋め尽くすほどの保存食料(小麦)ね」
「ああ。全て、リステン家の『秘密の倉庫』に、な」
ルシアンが、机に広げた地図の「南部」を指差す。
「問題は、どうやって『南部の領民』に、これを届けるかだ」
南部の領主たちは、アラン(皇太子)の支配を恐れ、北からの支援を公には受け取れない。もし我々が堂々と物資を運び込めば、アランはそれを「北の侵略」あるいは「南部の反乱」とみなし、軍を送ってくるだろう。
■ エリアーナの密使
「わたくしに、考えがあります」
私は、アンナに目配せをした。アンナが深く頷き、部屋の外で待たせていた一人の男を執務室に連れてくる。
男は、日焼けした肌に質素な服を着ており、一見すると、ただのしがない行商人にしか見えない。
しかし、その目が違う。
しがない行商人には似つかわしくない、刃のような鋭さを秘めていた。
「……こちらは?」
ルシアンが、怪訝な顔で男を睨む。
「トマス。リステン家が、長年懇意にしている、南部最大の『商人ギルド』の長ですわ」
トマスは、北の冷酷公爵を前にしてガチガチに緊張していたが、私に促され、深々と頭を下げた。
「公爵閣下。……エリアーナ様、いや、リステン家には、先代(父)の頃より、多大な恩義がございます」
「トマス。アラン殿下が、治水予算を止めていることは、当然ご存知ね?」
「はい。南部の領民たちは、今年の春も、全てを失うのではないかと怯えきっております」
私は、トマスを真っ直ぐに見つめた。
「わたくしたちが、資材と食料を用意しました。……ですが、ヴァレリウス公爵(北)からの『支援』として送れば、アラン殿下は『南部の反乱』とみなし、討伐軍を送るでしょう」
「……おっしゃる通りかと」
「そこで、あなたにお願いしたい。これは『リステン家』からの『取引』です」
「……取引、と申されますと?」
「わたくしたちは、資材と食料を、ギルドに『破格の安値』で卸します。あなたは、それを『商人ギルドの独自の救援物資』として、南部の領民に配るのです」
トマスの目が、驚きで大きく見開かれた。
「……そんな。それでは、エリアーナ様(リステン家)は、大損ではございませんか……」
「いいえ。わたくしたちは、南部の民の『信頼』という、どんな金貨を積んでも買えないものを手に入れます」
私は、トマスに微笑みかけた。
「……そして、トマス。あなたには、もう一つ、配ってほしいものがあるわ」
■ 南部の「救世主」
「……これは? パンフレット、ですかな?」
トマスは、アンナが渡した、大量の紙の束を不思議そうに眺めた。
それには、簡単な挿絵と共に、こう書かれていた。
『洪水を防ぐ、簡単な土嚢の積み方』
『疫病を防ぐ、水の煮沸の方法』
『皇太子殿下が止めた治水予算。北のヴァレリウス公爵が、リステン家と共に、その予算を肩代わりし、この食料と資材を届けます』
「……!」
トマスは、この紙の持つ意味を理解し、手元を震わせ始めた。
「エリアーナ様。これは……あまりにも、危険です。もし皇太子殿下に知られれば……」
「ええ。だから、あなたにしか頼めないのです」
「……」
「資材と食料は『商人ギルド』から。この『知識』は、出所不明の『噂』として、南部の民に広めてほしいのです。あなたは何も知らない、ただの親切な商人として振る舞えばいい」
「……承知、いたしました」
トマスは、震えを止め、覚悟を決めた顔で、パンフレットを懐に深くしまった。
「リステン家への恩義、今こそ、命を懸けてお返しいたします」
「頼みましたよ。トマス」
私は彼の手を、両手で握り頭を下げた。
トマスが去った後、ルシアンが私に尋ねた。
「……大丈夫か。あの男を、本当に信じられるのか」
「ええ。彼は、利益よりも『義理』を重んじる人。1周目、アランの洪水で全てを失っても、最後までアランを非難し続けた、誇り高い商人ですわ」
私は、1周目で死なせてしまった人々の顔を、思い出していた。泥水に飲まれ、飢えと疫病で死んでいった罪なき民たち。
(今度こそ、救ってみせる)
「お前は、本当に……不思議な女だ」
ルシアンが、少しだけ優しい声で言った。
「復讐鬼のくせに、民の命を救おうとする。……アランとは、大違いだな」
「あら、わたくしは自分の利益のためにやっているだけですわ。アランから民心を奪うための、ただの『投資』です」
私が強がって見せると、ルシアンは「そういうことにしておいてやる」とばかりに、小さく笑った。
■ 予言の成就
トマスが動いてから、二週間後。
エリアーナの「予言」通り、帝国南部を、観測史上最悪の「大洪水」が襲った。
アランの宮廷が、イザベラの離宮の完成で浮かれている、まさにその時だった。
「水が来たぞー!」
「逃げろ! 高台へ逃げろ!」
南部の領民たちは、絶望した。皇太子は、治水工事を止めた。今年も、家も畑も全てが流されるのだ、と。
だが。
「……なんだ、あれは!?」
トマス率いる商人ギルドが、洪水が到達する、まさに「前日」に、大量の杭と土嚢、そして小麦粉を、各村の避難所に運び込んでいたのだ。
「商人ギルドが、助けに来てくれた!」
「待て、この紙を見ろ!」
誰かが、例の「パンフレット」を掲げた。
「……土嚢の積み方? 水の煮沸?」
「……この物資、リステン家と、北の公爵様が……?」
領民たちは、半信半疑ながらも、パンフレットの指示通りに土嚢を積み、高台に避難した。
結果。
南部の被害は、1周目とは比べ物にならないほど、軽微なものに抑えられた。
家屋や畑の一部は流されたが、死者はほとんど出ず、何より「食料」があった。
「……助かった」
「我々は、見捨てられていなかった」
「我々を救ってくださったのは、皇太子殿下ではない」
「……北の公爵様と、リステン家の、エリアーナ様だ」
アランが対応の遅れに気づき、慌てて視察団を送った頃には、南部の民衆の心は、アランから完全に離れ、北の「救世主」へと向かっていた。
エリアーナの放った「第二の知識」は、アランの権威を根底から揺るがす、致命的な一撃となったのである。




