第20話 共鳴する傷痕と反撃の狼煙
■ 恐怖と罪悪感の波
「……そう。懐妊、三ヶ月」
私は、アンナから受け取った報告書を、震える手で暖炉の火に投げ入れた。
羊皮紙が、あっという間に燃え上がり、黒い灰になって崩れ落ちていく。
その炎の揺らめきが、まるで悪魔王の嘲笑のように見えた。
(……悪魔王の、言った通りになった)
(イザベラは、アランを繋ぎ止めるための、最強の切り札を手に入れた)
私は、自分の手が、憎悪とは違う、冷たい「恐怖」で震えていることに気づいた。
アランは、ついに「世継ぎ」という絶対的な大義名分を手に入れたのだ。
彼は、その子を守るためなら、そして自分の権威を盤石にするためなら、何でもするだろう。
(……私と、ルシアンを、本気で殺しに来る)
一度目の人生では、イザベラの懐妊は私が処刑された後のことだった。
だが今、私の「回帰」と、悪魔王の「介入」によって、未来は完全に変わってしまった。
予想よりもはるかに早く、最悪の事態が訪れたのだ。
(どうしよう……)
(これから、どうやって戦えばいいの……?)
私は、執務机に手をつき、うつむいた。
初めて「回帰」したことを、そして復讐という修羅の道を選んだことを、後悔しそうになっていた。
「……エリアーナ」
いつの間にか、ルシアンが執務室に入ってきていた。
軍議を終えたばかりなのか、彼は冷たい外気をまとっている。
「顔色が、紙のように白いぞ。……アンナから、帝都からの報告は聞いた」
「……ルシアン」
私は、彼にどう顔を向けていいか分からず、ただ視線を床に落とした。
■ 溢れ出す後悔
「……ごめんなさい」
沈黙に耐えきれず、私は震える声で呟いた。
「……何がだ」
「わたくしが、アランを追い詰めたから。わたくしが、イザベラを刺激したから……!」
ルシアンは何も言わず、ただ静かに私の言葉を聞いている。
その沈黙が、かえって私の罪悪感を煽った。
「わたくしの個人的な復讐に、あなたを巻き込んでしまった。……世継ぎが生まれれば、アランは、あなたを『正統な後継者』の最大の脅威として、今度こそ、帝国全軍を率いてこの北を潰しに来るわ」
「……そうだろうな」
ルシアンの答えは、あまりにも冷静だった。
それが、私にはたまらなく恐ろしかった。
「……怖くないの?」
「怖い? 何をだ」
「わたくしのせいで、あなたは、皇太子……いえ、次期皇帝と、全面戦争になるのよ! 北の民も、あなたの全てを、危険に晒すことになるのよ!」
私は、ほとんど叫んでいた。
一度目の人生では、彼はアランと対立こそすれ、内戦にまでは至っていなかった。
私という「火種」が、彼の憎悪を利用したせいで、事態は最悪の方向へ進んでいる。
私は、彼を「復讐の道具」として利用しようとしていた。その結果が、これだ。
「エリアーナ」
ルシアンが、ゆっくりと歩み寄り、私の両肩を強く掴んだ。
「顔を上げろ」
■ ルシアンの告白
私は、無理やり顔を上げさせられ、ルシアンの金色の瞳と視線がぶつかった。
彼の瞳は、怒っても、呆れてもいなかった。
ただ、静かに、そして真っ直ぐに、私を見ていた。
「……お前は、勘違いをしている」
「……え?」
「俺が、アランを憎んでいるのは、お前の『復讐』に巻き込まれたからではない」
ルシアンは、私の肩を掴んだまま、静かに、だが重々しい声で語り始めた。
「……俺は、物心ついた時から、アランを憎んできた」
「……」
「俺の両親は、アランの父……現皇帝が、即位する時に、殺された」
私は、息を呑んだ。
「……皇位継承の争いだ。当時、俺の父は、現皇帝の弟君を支持していた。……結果、現皇帝が勝ち、俺の父は『反逆者』として、母と共に、処刑された」
(……処刑)
私と、同じだ。
「俺は、まだ幼かったという理由だけで、見せしめのために生かされた。この『北』という名の、牢獄にな」
「……ルシアン」
「アランは、俺の全てを奪った男の、息子だ。あいつは、俺が帝都へ行くたびに、俺に『慈悲』を施すように振る舞った。父の罪を許すのは自分だとでも言うようにな。……反吐が出る」
彼の憎悪は、私のような「裏切り」から来たものではない。
生まれた時から、彼の人生にこびりついていた、呪いそのものだったのだ。
「俺が、あいつを憎むのに、これ以上の理由がいるか?」
私は、自分の浅はかさを激しく恥じた。
私は、この人を「復讐の駒」として利用しようとしていた。
なんと、愚かだったのだろう。
彼は、私の共犯者である以前に、私と同じ「傷」を持つ、唯一の人間だったのだ。
■ 共鳴する憎悪と反撃の狼煙
ルシアンは、自嘲するように短く笑った。
「イザベラが子供を産もうが、産むまいが、関係ない」
「……」
「俺は、いつか、必ずアランを討つと決めていた。お前が来る、ずっと前からだ」
彼は、私の肩から手を離し、今度は私の頬をそっと包み込んだ。
北の寒さとは無縁の、力強く、温かい手。
「だが、お前は、俺に『知識』と『財力』、そして『大義名分』を与えてくれた」
「ルシアン……」
「エリアーナ。お前は、謝る必要はない。お前は、俺の『復讐』の、最高の『共犯者』だ」
私は、彼の言葉に、震えが止まった。
恐怖でも、罪悪感でもない。
胸の奥底から湧き上がる、熱い感情のせいだった。
(……この人も、同じだった)
私と同じ、全てを奪われ、憎悪だけを抱えて生きてきた人。
そして、その憎悪を、私と共に燃やしてくれる人。
「イザベラが子供を産んだなら、好都合だ」
ルシアンは、私から手を離し、窓の外の吹雪を見つめた。
「アランは、守るものができて、焦っている。……焦りは、必ず、隙を生む」
「……隙」
「そうだ。エリアーナ。お前の『知識』で、アランの『隙』を探せ」
ルシアンの金色の瞳は、イザベラの懐妊というニュースにも、一切揺らいでいなかった。
彼は、私以上に、アランへの憎悪に燃えていた。
私は、彼のその姿に、恐怖ではなく、初めて「絶対的な安心感」を覚えた。
(……そうよ。怖気づいている場合じゃない)
(イザベラが子供を産んだ? だから、何?)
(わたくしのやることは、変わらない。あのおまえたちを、地獄に突き落とすだけ)
「……ええ。見つけてみせるわ、ルシアン」
私は、涙を拭い、彼と並んで窓の外を見据えた。
「アランとイザベラを、地獄に突き落とす、『決定的な隙』を」
二人の憎悪は、共鳴し、北の地で、さらに黒く、強く、燃え上がった。
悪魔王の介入すらも、私たちの「復讐」を止めることはできない。
反撃の狼煙は、今、上がったのだ。
■ 罪悪感の昇華と新たな誓い
「ルシアン。……わたくしは」
私は、彼に何を言えばいいのか分からなかった。
彼が私と同じ傷を抱えていたことを知り、先ほどの罪悪感が、別の感情へと変わり始めていた。
「謝罪なら、もう聞いた」
彼が、私の心を読んだかのように言った。
「ですが……!」
「エリアーナ。お前は、俺を『巻き込んだ』のではない。お前は、俺の『復讐』に、火をつけた」
「……火を?」
「そうだ。俺は、この北の牢獄で、憎悪を抱えたまま、腐っていくはずだった。アランの『慈悲』という名の鎖に繋がれたまま、何もできずに」
ルシアンは、私の前に歩み寄り、再び私の両肩を掴んだ。
「だが、お前が現れた」
「……」
「お前は、アランの『欺瞞』を暴く『知識』を持っていた。お前は、アランと戦うための『財力』を持っていた。そして何より、お前は、俺と同じ『憎悪』を持っていた」
彼の金色の瞳が、熱を帯びて私を射抜く。
「お前は、俺の『鎖』を、断ち切ってくれたんだ」
「……わたくしが?」
「そうだ。だから、罪悪感など抱くな。お前は、俺の『恩人』であり、『共犯者』だ」
彼の言葉に、私は胸のつかえが取れていくのを感じた。
(……巻き込んだ、んじゃない)
(私は、この人の、道具でもない)
(私たちは、出会うべくして、出会ったんだ)
イザベラの懐妊への恐怖が、消えていく。
アランへの憎悪が、形を変えていく。
(わたくしは、もう一人じゃない)
(処刑台で、一人で死んだ、あの時の私じゃない)
「ルシアン」
私は、彼の肩を掴む手に、自分の手を重ねた。
「……わたくしは、アランとイザベラを許さない。わたくしから全てを奪った、あのおまえたちを許さない」
「ああ」
「でも、今は、それだけじゃない」
私は、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「わたくしは、あなたを、アランの呪縛から解放したい。あなたの両親の無念を、晴らしたい」
「……エリアーナ」
「わたくしの復讐は、もう、わたくしだけのものじゃない。あなたと、わたくしの、二人の復讐よ」
ルシアンは、驚いたように目を見開き、そして、ゆっくりと、深く頷いた。
「……愚かな女だと思っていたが」
「失礼ですわね」
「いや。……お前は、俺が思っていた以上に、強くて、愚かで……そして、美しい」
ルシアンの手が、私の頬を包んだ。
暖炉の火よりも、熱い手。
「エリアーナ。俺も、誓おう」
「……」
「お前の復讐は、俺の復讐だ。必ず、アランとイザベラに、お前が味わった以上の地獄を見せてやる」
「……ええ」
「そして、お前を、今度こそ、誰にも奪わせない」
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
私は、目を閉じなかった。
処刑台の「始まりの景色」とは違う、彼の金色の瞳を、しっかりと見つめ返したまま、その誓いを受け入れた。
それは、契約でも、取引でもない。
憎悪という名の炎の中で結ばれた、初めての、口づけだった。
■ 次なる戦場、南部の洪水
長い口づけの後、私たちは、どちらからともなく顔を離した。
雰囲気は、先ほどまでの重苦しいものではなく、不思議なほどの「高揚感」と「信頼感」に満ちていた。
「……さて」
ルシアンが、悪戯っぽく笑った。
「『共犯者』として、作戦会議の続きをしようか」
「……作戦会議?」
「ああ。お前の言った通り、イザベラの懐妊で、アランは焦っている。必ず『隙』が生まれる」
ルシアンは、執務机に戻り、帝国の地図を広げた。
「アランは、イザベラと『世継ぎ』の権威を高めるために、何か、大きな『成果』が欲しいはずだ。……財政(塩)で失敗した今、彼が次に狙うのは……」
私は、ルシアンの視線を追い、地図上のある一点を指差した。
「……ここだわ」
そこは、帝国の南部。
帝国最大の穀倉地帯であり、同時に、毎年、春先の雪解け水による「洪水」の被害に悩まされている地域だった。
「……南部穀倉地帯の、治水事業」
一度目の人生の記憶が蘇る。
(アランは、この時期、イザベラの懐妊で浮かれて、治水事業の予算を、彼女の新しい離宮の建設に使い込んだ)
(その結果、春先に大洪水が起きて、南部は壊滅的な被害を受けた)
(アランは、その責任を、当時の財務大臣になすりつけて、処刑した)
「……ルシアン。アランは、この治水事業に、失敗するわ」
「……お前の『知識』か」
「ええ。彼は、イザベラと子供のことで、浮かれている。民のことなど、これっぽっちも考えていない」
私は、ルシアンと目を合わせた。
「アランが失敗するなら」
「……俺たちが、成功すればいい」
ルシアンが、私の言葉を引き継いだ。
「アランが民を見捨てるなら、俺たちが、民を救う」
私たちの憎悪は、今や、帝国全土を巻き込む、巨大な「戦略」へと昇華されていた。
悪魔王の介入すらも、私たちの「復讐」を止めることはできない。
反撃の狼煙は、今、上がったのだ。




