第18話 悪魔の警鐘と見えざる刃
■ 北の地での平穏と微かな甘え
アランが放った刺客をルシアンが鮮やかに撃退したあの夜から、黒鷲城での生活は驚くほど平穏なものとなっていた。
帝都のリステン家との連絡は、ルシアンの諜報部隊とアンナが完璧に連携してこなしてくれている。
アランが仕掛けてきた「塩の専売制」という経済制裁も、私の事前の資産移動と密輸ルートの確保によって完全に無力化され、彼が勝手に自滅して帝都の商人ギルドを混乱させているだけだった。こちらには一切の被害が及んでいない。
「……順調、すぎるわね」
私は、執務室の窓から北の雪景色を眺めながら、手元の報告書をそっと机に置いた。
復讐は、間違いなく私の計画通りに進んでいる。アランの皇太子としての信用は失墜し、逆にルシアンへの支持は、北の領地だけでなく帝都の一部貴族の間でも高まりつつあった。
全てが、私の思い描いた通り。
それなのに。
(……なぜ、こんなに心がザワつくの?)
私は無意識のうちに、自分の胸元に手を当てていた。
最近、ルシアンと過ごす時間が確実に増えていた。彼は執務の合間を縫って、私に北の歴史や、領地の統治システムについて詳しく教えてくれるようになった。
『お前は、俺の「共犯者」だ。俺が倒れた時、お前が北を指揮できなければ話にならん』
彼はそう言って、私を「飾り物の婚約者」ではなく、「対等なパートナー」として扱ってくれた。アランが私を「美しい人形」や「便利な財布」としてしか見ていなかったのとは、根本的に違う。
(……私、この人に、甘えている?)
刺客に襲われた夜、彼に抱きかかえられた時の、あの温かさを思い出してしまう。
憎悪だけを原動力に、冷たい復讐の刃として生きてきたはずの私の心に、ルシアンという存在が、別の感情を芽生えさせようとしていた。それは、復讐者にとっては最も不要で、最も危険な感情だった。
■ 悪魔王の再来
その夜、私は久しぶりに夢を見た。
処刑台の、あの「始まりの景色」の夢だった。
『国賊め!』
『裏切り者!』
アランの冷酷な目。イザベラの歪んだ嘲笑。
民衆の怒号と、投げつけられる石の痛み。
(……やめて)
(もう、見たくない)
『おまえたちは許さない。絶対に許さない!』
私は、夢の中で何度も何度もそう叫び、自らの血の匂いにむせ返りながら、ハッと目を覚ました。
そこは処刑台ではなく、黒鷲城の私の寝室だった。暖炉の火はとっくに消え、部屋は北国特有の冷気に包まれている。
だが、空気が違った。
部屋の隅の闇が、あの時――処刑台で死の淵を彷徨った時と同じように、ゆらりと不自然に揺らめいていた。
「……久しぶりだな、エリアーナ」
闇の中から、彼が現れた。
悪魔王。
漆黒の髪に、血のように紅い瞳。白いラッフル襟をまとったその姿は、相変わらず美しく、そして禍々しい。縦に裂けた瞳孔が、私を品定めするように見下ろしていた。
「……何の用ですの。あなたの『支援』などなくとも、わたくしは順調に復讐を進めておりますが」
私は毛布を握りしめ、恐怖を押し殺して彼を睨みつけた。ルシアンとの共闘が成立した日、「俺は高みの見物と洒落込もう」と言って姿を消したはずの彼が、なぜ今になって現れたのか。
■ 悪魔王の「忠告」
「順調、か」
悪魔王は、クツクツと喉の奥で不気味に笑った。
「確かに、アランは追い詰められている。イザベラは苛立っている。盤面としては上出来だ」
彼は音もなく私のベッドサイドに歩み寄り、私の銀色の髪を一房、氷のように冷たい指先で掬い上げた。
「だがな、エリアーナ」
彼の声が、私の耳元で甘く、そして恐ろしく響く。
「……貴様の『憎悪』が、鈍っている」
「……!」
私は息を呑んだ。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「北の生活は快適か? あの『冷血公爵』は、貴様の傷を癒してくれたか?」
(……心の中を、読まれている!?)
「貴様は、復讐のために回帰した。愛だの、信頼だの、そんな『生ぬるい』感情に現を抜かすために、地獄の底から戻ってきたのではないだろう?」
悪魔王の指先が、私の頬を滑るように撫でる。その冷たさに、私は身震いした。
「……わたくしは、復讐を忘れてなどいないわ」
「いいや。忘れている」
悪魔王の声が、一瞬にして厳しく、冷酷なものに変わった。
「貴様の憎悪が薄まれば、俺が貴様に干渉する理由も、この契約の価値もなくなる。……そして、契約が破られた時、俺が何をするか、貴様は知っているはずだ」
(……魂を、奪われる)
「ルシアンとの絆、か。……良いだろう。その絆が、どれほど脆いものか、試してやろう」
■ 新たな火種と最悪の切り札
「何を、するつもり?」
私は声を震わせながら問い詰めた。
「俺は、何もしないさ。俺は、ただ『きっかけ』を与えるだけだ」
悪魔王は、楽しそうに笑った。
「エリアーナ。貴様は、アランとイザベラの『絆』を、まだ侮っている」
「……どういう意味?」
「アランは、貴様に三度も敗北した。イザベラは、貴様に『未来の皇妃』の座を奪われかけている」
悪魔王は私の顔を覗き込み、耳元で囁いた。
「追い詰められたネズミは、何をする?」
「……」
「女が、男を繋ぎ止める、最強の切り札だ。……アランとイザベラが、もし『子』を成したら?」
私は、全身の血の気が引くのを感じた。
(……懐妊)
「おっと。未来を知りすぎている貴様には、これ以上の『助言』は不要か」
悪魔王は、私の激しい動揺を見抜き、満足そうに微笑んだ。
「せいぜい、ルシアンとの『平穏』を守るがいい。……守れるものならな」
その言葉を残し、悪魔王は再び闇に溶けるように消え去った。
私は一人、冷え切った寝室でガタガタと震えていた。
(イザベラが、懐妊……?)
もしそうなれば、アランは、その「世継ぎ」を守るために何でもするだろう。皇室の威信にかけて、政敵であるルシアンと、裏切り者である私を、今度こそ本気で殺しに来る。
「アンナ」
私は、隣室で控えているはずのアンナを呼んだ。
「はい、エリアーナ様」
すぐに扉が開き、アンナがランプを持って現れた。私の青ざめた顔を見て、彼女は小さく息を呑む。
「いかがなさいましたか? 顔色が……」
「すぐに、帝都の父様に密書を送ってちょうだい。最高機密の暗号を使って」
「最高機密……。何をお調べになりますか?」
私は、アンナの目を見据えて言った。
「イザベラの、体調の変化についてよ。専属医の動き、皇宮での食事の傾向、彼女の侍女たちの些細な噂話。……特に、月経の遅れに関する情報がないか、徹底的に探らせて」
アンナは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに私の意図を察し、深く頷いた。
「畏まりました。ただちに手配いたします」
「それと……ルシアンには、まだこのことは報告しないで」
「……よろしいのですか?」
アンナの問いに、私は唇を噛んだ。
ルシアンに話せば、彼はすぐに最善の対策を打ってくれるだろう。だが、悪魔王が「ルシアンとの絆を試す」と言った以上、私が自らの手でこの危機を乗り越えなければ、ルシアンをも危険に巻き込むことになる。
「ええ。確証が得られるまでは、わたくし一人で動くわ」
アンナが部屋を退出した後、私は再び窓の外を見た。
夜明け前の、最も暗く冷たい時間。
悪魔王の言葉は、私の心の平穏を無残にかき乱し、ルシアンへの淡い感情を、再び「憎悪」と「恐怖」で塗りつぶしていった。
(……私が、甘かった)
復讐を終える前に、平穏など訪れるはずがないというのに。
「アラン。イザベラ」
私は、窓ガラスに映る自分の顔——かつての「か弱い令嬢」の面影など微塵もない、冷たい復讐者の顔を見つめながら、静かに誓った。
「あなたたちの『希望』も『未来』も、全てわたくしがこの手で摘み取ってあげる。……処刑台の露と消えた、わたくしの絶望と同じようにね」
悪魔王の囁きは、私の中に眠っていた「本当の怪物」を、再び目覚めさせたのだった。




