第17話 アランの焦り
■ 1:アランの三重の失敗
帝都の皇宮。
アランの豪華な執務室は、無惨な惨状を呈していた。床には砕け散ったインク瓶の破片が散乱し、黒い染みが絨毯を汚している。壁に掛けられていた高価な絵画は斜めに傾き、机の上の書類は吹雪のように床へ散らばっていた。
さながら廃墟のようなありさまだった。
「五人も送って、あの女一人、始末できんのか! ヴァレリウス公爵に返り討ちにされただと!?なんという役立たず!!使えぬクズ!!」
アランは、血走った目で、報告に来たバートン伯爵を怒鳴りつけた。
「も、申し訳ございません! まさか、公爵本人が、あのタイミングで中庭に現れるとは……」
「言い訳は聞きたくない!」
「ははっ!」
アランは、激しい頭痛にこめかみを押さえ、重い椅子にドカッと腰を下ろした。
彼の頭の中では、ここ最近の屈辱的な失敗が、呪いのようにぐるぐると回っていた。
まず第一の失敗。塩の専売制による北への経済圧迫は、エリアーナとルシアンの密輸ルート構築によって完全に破綻した。帝国の財政は潤うどころか、市場の混乱によってむしろ悪化している。
そして第二の失敗。エリアーナの侍女アンナをスパイとして陥れ、リステン家とヴァレリウス家の仲を裂こうとした策は、ルシアンの鮮やかな手腕によって無力化された。逆に、バートン伯爵が私兵(盗賊)を使っていたという致命的な証拠を握られ、リステン侯爵を完全に敵に回す結果となった。
さらに、第三の失敗。最後の手段だったエリアーナ暗殺も、ルシアン本人に阻まれ、失敗に終わった。しかも、刺客の死体を送り返してくるという、北からの強烈な宣戦布告までおまけについてきたのだ。
これが一番腹が立つ。
「……あの女。北に行ってから、さらに厄介なことになっている」
アランは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
かつては自分の足元で控えめに微笑んでいた「都合の良い令嬢」が、今や自分の制御下から完全に離れ、自分を脅かす存在になっている。その事実を、彼はようやく認めざるを得なくなっていた。
■ 2:イザベラの嫉妬と扇動
「……アラン様」
部屋の隅で、怯えたように震えていたイザベラが、おずおずとアランに近寄ってきた。彼女は、涙ぐんだ目でアランを見つめ、そっと彼の腕に触れた。
「お気を確かに。アラン様は、次期皇帝となられるお方。あんな、北の田舎に逃げた女狐一匹に、何ができますもの」
「……イザベラ」
アランは、縋るようにイザベラを抱きしめた。
今や、皇宮の中で彼を無条件に肯定し、甘い言葉で癒してくれるのは、このイザベラだけだった。
「だが、あの女の『知識』は、本物だ。俺の政策も、バートンの動きも、全て先読みされている。まるで、俺の頭の中を覗き見ているかのように……」
「……それは」
イザベラは、アランの腕の中で、密かに唇を強く噛み締めた。
(また、エリアーナ。また、あの女の『知識』)
アランが、憎むべき敵としてであれ、エリアーナの「能力」を恐れ、評価している。その事実が、イザベラには耐えられないほどの屈辱であり、嫉妬だった。
(アラン様の中には私以外認めない)
(私だけが、アラン様の中で最も光り輝いていないといけない)
(他のクズ星が、アラン様の真ん中を占めるなんて許せない)
(あの女から、情報源を奪えばいいんだわ)
イザベラは、アランの胸に顔を埋めたまま、冷たい目で思考を巡らせた。
(あの女の力は、全て、リステン家(実家)の莫大な財力と情報網から来ている。金がなければ、あの女は何もできないはず)
イザベラは、顔を上げ、アランに甘く、そして毒を含んだ声で囁いた。
「アラン様。エリアーナ様が恐ろしいのではありません。エリアーナ様に力を与えている、リステン家の『財力』が恐ろしいのですわ」
「……リステン家の、財力」
「そうです。リステン侯爵が、娘の言いなりになって、北に莫大な資金を送り続けている限り、あの女は何度でもアラン様の邪魔をするでしょう」
イザベラは、アランの胸をそっと撫でながら続けた。
「リステン家の金脈を、断つのです。そうすれば、あの女は、ただの北の『飾り物』に戻りますわ。ルシアン公爵だって、金の切れ目が縁の切れ目……利用価値がなくなれば、あの女を捨てるはずです」
イザベラの言葉は、アランの傷ついたプライドを心地よく刺激した。
「……そうだ。その通りだ。エリアーナが動けるのは、全てリステン家の金があるからだ。あの女自身に力があるわけではない」
アランの目に、再び冷酷な光が宿った。
■ 3:アランの経済圧迫
アランは、イザベラの扇動を受け、即座に行動を開始した。
彼は、皇太子という絶大な権力を振りかざし、帝都の全貴族と商人ギルドに対し、前代未聞の布告を出した。
『リステン侯爵家は、皇室への反逆を企てた北のヴァレリウス公爵に、不当に資金援助を行っている疑いがある』
『よって、皇室の許可なく、リステン侯爵家と一切の商取引を行うことを禁ずる』
これは、事実上の「経済制裁」だった。
リステン家は、帝国一の商人であり、その取引先は帝国全土に広がっている。その全ての取引を、皇太子の権限で強制的に停止させたのだ。
「フン。これで、リステン家は干上がる」
アランは、執務室の窓から帝都の街並みを見下ろし、冷笑を浮かべた。
実に愉快な気分だった。
さらに彼は、バートン伯爵に命じ、帝都にあるリステン家の銀行口座を全て凍結させ、資産を差し押さえる準備をさせた。
「リステン侯爵が、娘の愚かさを後悔し、俺の前に跪くまで、そう時間はかかるまい。そして、資金源を絶たれたエリアーナが、北で惨めに泣き喚く姿が目に浮かぶようだ」
アランは、エリアーナの「兵站」を断ち切ることで、彼女を完全に無力化できると信じて疑わなかった。
アランの哄笑が、廃墟のように荒れた執務室に響いた。
■ 4:エリアーナの先手(資産の移動)
黒鷲城の私の部屋に、帝都の父から一通の暗号の手紙が届いた。
私は、暖炉の火のそばでその手紙を解読し、小さく息をついた。
「……やはり、来たわね。アランの『経済制裁』」
手紙には、アランがリステン家との商取引を禁じる布告を出したこと、そして帝都の銀行口座を凍結したことが記されていた。
だが、私の顔に焦りの色は全くなかった。
むしろ、アランが私の「一度目の人生の記憶」通りに動いてくれたことに、冷たい安堵を覚えていた。
(アラン。あなたは本当に、浅はかで、分かりやすい男ね)
私は、ルシアンとの「契約婚約」を結んだあの日の直後から、父に極秘の指示を出していた。
それは、リステン家の資産の「ほぼ全て」を、帝都の銀行から、北のヴァレリウス公爵領、および、アランの手が絶対に届かない「隣国の銀行」へと、密かに移させることだった。
塩の輸入事業で莫大な資金を動かしたのも、実はその「資産移動」をカモフラージュするための隠れ蓑に過ぎなかったのだ。
アランが意気揚々と凍結させた帝都の銀行口座には、私が「わざと残しておいた」、ほんの僅かな見せ金の資産しか残っていない。
「……お可哀想に、アラン殿下。あなたが握り潰したつもりになっているのは、私が投げ与えたただの空箱ですわ」
私は、父からの手紙を暖炉の火にくべた。
羊皮紙が炎に包まれ、チリチリと音を立てて灰になっていく。
(私の力は、リステン家の財力だけではない。あなたが決して知り得ない『未来の知識』こそが、私の最大の武器)
アランは、これで私を無力化したと信じているだろう。
だが、本当の地獄はここからだ。資金を安全な場所に移し終えた今、私とルシアンは、いよいよアランの足元を根底から崩す「最後の一手」を打つ準備が整ったのだ。
私は、窓の外の雪景色を見つめながら、冷たく、そして優雅に微笑んだ。




