第13話 イザベラの暗躍
■ 1:イザベラの焦り
皇宮の奥深く、豪奢な調度品で飾られた皇太子の私室。
イザベラは、大理石の床に散らばった花瓶の破片を、震える目で見つめていた。つい数秒前まで、それは金貨数十枚の価値がある美しい骨董品だったが、今はアランの怒りに任せて粉々に砕け散っている。
「あの女! あの女! 俺の計画を!」
アランは、塩の専売制の無惨な失敗により、これまで彼を支持していた貴族たちからの信用を失い、完全に荒れ狂っていた。
窓際を行ったり来たりしながら、爪を噛み、髪を掻きむしる。その姿には、かつてイザベラが憧れた「優雅で完璧な皇太子」の面影は微塵もなかった。
「……アラン様、お気を鎮めて……」
イザベラが恐る恐るアランの背中に触れようとすると、アランはその手を荒々しく振り払った。
「触るな! エリアーナめ、あんな『知識』、どこで手に入れた……!」
アランの口から出た「エリアーナ」の名前に、イザベラの心臓が冷たく凍りつく。
(エリアーナ、エリアーナ、エリアーナ……!)
(アラン様は、まだ、あの女のことばかり!)
イザベラは、エリアーナから全てを奪い取ったと確信していた。
没落貴族の娘だった自分は、エリアーナの「親友」という名の「侍女」として、常に彼女の眩しい輝きの影で生きてきた。アランに見初められ、彼を誘惑し、やっとあの日陰の生活から抜け出して皇宮に入ったのだ。
建国記念夜会でも、エリアーナに「権力に走った悪女」のレッテルを貼り、自分こそが「傷ついた被害者」だとアピールし、社交界の同情を一身に集めたはずだった。
それなのに。
エリアーナは、アランの絶対的な経済政策をいとも簡単に打ち破り、帝都の民衆の一部からは「安価な塩を流して生活を救った聖女」とまで囁かれ始めている。
「……許せない」
イザベラは、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
(私が、アラン様の隣にいるのに。私が、アラン様を支えているのに)
(あの女が、また私から光を奪おうとしている)
イザベラの胸の奥底で、エリアーナに対する黒く濁った憎悪が、再び激しく燃え上がった。
■ 2:イザベラの策略
イザベラは、乱れたドレスの裾を直し、冷静に思考を巡らせた。
アランが自分に振り向かず、エリアーナのことばかり口にする理由。それは彼がエリアーナを愛しているからではない。
(そうだわ……アラン様は、エリアーナ様の『知識』……あの異常な『情報力』を恐れているんだわ)
塩の密輸ルートの存在。隣国からの輸入のタイミング。皇室の専売制が開始されるまさにその日に市場を制圧する手際。
まるで未来を見てきたかのようなその手腕に、アランは怯えているのだ。
(なら、あの女の『手足』を奪ってしまえばいい)
イザベラは、エリアーナの側近、特に帝都のリステン家(実家)に残っている者たちに目をつけた。
(エリアーナ様は、ルシアン公爵と共に北の領地へ行った。でも、帝都での情報の多くは、まだリステン家から流れているはず)
(エリアーナ様は、人を信じすぎる。身内の人間を疑うことを知らない)
(特に、あの侍女……アンナ!)
イザベラは、エリアーナが幼い頃から妹のように可愛がり、深く信頼している侍女の顔を思い浮かべた。イザベラがエリアーナを孤立させるために真っ先に「横領の罪」を着せて屋敷から追い出そうと計画していた、あの目障りな女だ。
(アンナは、エリアーナ様が北に行かれた後も、リステン家の屋敷に残って、侯爵様の補佐をしているはず)
(あの女を、『エリアーナ様のスパイ』としてではなく、『北の公爵のスパイ』として陥れれば……)
イザベラの唇が、三日月のように歪んで吊り上がる。
(リステン侯爵とエリアーナ様の強固な信頼関係を、引き裂けるかもしれない)
イザベラの頭の中で、一度目の人生と同じ、陰湿で残酷な策略が組み上がり始めた。
■ 3:アンナへの罠
イザベラは、涙をいっぱいに溜めた瞳でアランにすがりついた。
「アラン様、お可哀想ですわ……。きっと、リステン侯爵様も、娘であるエリアーナ様に騙されているのです。侯爵様は忠義に厚いお方。私が、侯爵様の目を覚まさせて差し上げます」
アランはイザベラの言葉にすがりつくように頷き、彼女に自由に行動する許可を与えた。
イザベラはすぐさま、アランの側近であるバートン伯爵に接触した。
バートン伯爵は、塩の密輸ルートをエリアーナに潰され、莫大な利益を失って怒り狂っている真っ最中だった。
「伯爵様。貴方も、エリアーナ様に煮え湯を飲まされましたわね」
「……イザベラ様。何が仰りたい」
バートン伯爵は、警戒するような目でイザベラを睨んだ。
「エリアーナ様の情報源は、リステン家の屋敷にいる、古参の侍女です。あの女が、リステン家の内部情報を北に流しているのです」
「……侍女、だと?」
「ええ。ですが、あの女、どうやら北の公爵とも直接繋がっているようで……リステン侯爵様を裏切り、リステン家の財産を北に横流ししている、という『証拠』が、もし見つかったら……」
バートン伯爵の目が、狡猾な光を帯びた。彼はイザベラの意図を即座に理解したのだ。
「……なるほど。エリアーナのスパイとしてではなく、リステン侯爵への『裏切り者』としてアンナを処断すれば、侯爵は娘の背後にいるルシアン公爵に疑念を抱く。リステン家とヴァレリウス家の間に、致命的な楔を打ち込める、と」
「ご明察ですわ、伯爵様」
イザベラは、一度目の人生でアンナを追い出した時に使った「偽の証拠」の作り方を、バートン伯爵にそっと教えた。
「アンナの部屋の床下に、北の公爵の紋章が入った金貨と、リステン家の機密書類の偽造品を隠すのです。そして、それを『偶然』見つける」
「たやすいことです。私の手下を屋敷に潜り込ませましょう」
二人の間で、薄暗い共謀が成立した。
■ 4:迫る危機
バートン伯爵は、イザベラの陰湿な計画に舌を巻きながらも、リステン家を内部から崩壊させる絶好の機会だと捉え、すぐに実行に移すことを決めた。
リステン侯爵は、娘のエリアーナを信じているとはいえ、まだアラン(皇太子)への臣下の礼を完全に失ったわけではない。
アランの側近であるバートン伯爵が「リステン家内部に、北の公爵と通じた裏切り者がいるという情報を掴んだ」として「公式な捜査」を申し出れば、侯爵は皇室への忠誠を示すためにも、それを拒否することはできない。
イザベラの策略は、リステン侯爵と、エリアーナの忠実な侍女アンナを、同時に陥れる悪辣な罠だった。
数日後。
バートン伯爵率いる皇太子の近衛兵部隊が、「リステン侯爵家内のスパイ捜査」という名目で、重々しい足音を響かせながらリステン家の屋敷の門を叩くことになる。
北の地でルシアンとの関係を深めつつあるエリアーナの知らないところで、一度目の人生と全く同じ「裏切りと罠」の刃が、彼女の大切な人々へと迫っていた。
■ 5:見えざる手
その頃、北の地へと向かう馬車の中で、エリアーナはふと窓の外の雪景色を見つめていた。
「……どうした、エリアーナ」
向かいの席に座るルシアンが、書類から目を上げて尋ねる。
「いえ……。ただ、少し嫌な予感がしただけです」
エリアーナは胸元に手を当てた。一度目の人生で、アンナが泣きながら屋敷を追い出された時の光景が、脳裏を掠めたのだ。
(イザベラは、追い詰められれば必ず他人の弱点を突いてくる。あの女が、黙って引き下がるはずがない)
エリアーナは、帝都に残してきた父とアンナの顔を思い浮かべる。
(お父様、アンナ……どうか、無事でいて)
しかし、彼女のその祈りが届く前に、帝都の闇はすでにリステン家を包み込もうとしていた。
イザベラの放った毒牙は、エリアーナの「未来の知識」すら及ばない死角から、静かに、そして確実にその喉元へと迫っていたのである。




