第10話 波紋
■ 1:父の決断
ルシアン公爵との歴史的な会談を終え、北の領地から帝都へ戻る馬車の中、父は数日間にわたってほとんど一言も発さなかった。
窓の外を流れる雪景色をただじっと見つめ、何かを深く考え込んでいるようだった。
そして、帝都のリステン侯爵邸に戻り、二人きりの書斎に入った途端——。
父は、私の前で突然、深々と頭を下げた。
「お父様!?」
「エリアーナ……」
顔を上げた父の目は、ひどく赤く充血していた。
「お前は、いつの間に、それほどの覚悟を背負い込んでいたのだ……」
父の声は震えていた。
父は、あの玉座の間でのルシアン公爵とのやり取りを見て、私が本気であること、そして私が提示した情報が本物であること(あのルシアンが即座に食いつき、諜報網を動かしたこと)を確信したのだ。
娘が、帝国最大の権力者である皇太子を本気で殺そうとしている。その事実に、父は怯えるのではなく、親として娘の絶望に気づけなかったことを悔いているようだった。
「わたくしは、リステン家を守りたいだけです。そして、お父様を」
私は、父の震える手をそっと握った。
一度目の人生で、アランに財産を搾取され尽くし、最後は私を庇って処刑された父。
あの悲劇を、二度と繰り返すわけにはいかない。
「……わかった」
父は、私の手を力強く握り返し、決然とした顔で頷いた。
「もはや、皇太子殿下との間には、決して埋まらない深い溝ができてしまった。我らは、ルシアン公爵と共に進むしかあるまい」
父は、リステン家当主として、最終的な決断を下した。
「リステン家の全権を、お前に委ねる。莫大な財力も、帝国全土に張り巡らされた情報網も、全てお前の好きに使うがいい。……我ら一族の未来、お前に賭けたぞ」
「はい、お父様。必ずや、勝利を」
私は、父の前で優雅に、そして力強くカーテシー(淑女の礼)をした。
これで、私の手には「未来の知識」だけでなく、帝国随一の「財力と情報網」という実弾が完全に握られた。
■ 2:婚約辞退の正式通達
翌日。
リステン侯爵家は、皇宮に対し、一人の使者を送った。
アランからの「婚約内示」に対する、正式な返書を届けるためだ。
『娘エリアーナは、先日の療養の結果、皇太子殿下という高貴な方の側に仕える重圧に耐えられない、か弱い心であると判明いたしました。つきましては、皇太子殿下からの有り難きお申し出は、誠に恐れ多くも辞退させていただきたく存じます』
表向きは、私の「心の弱さ」と「体調不良」を理由にした、最大限の謝罪とへりくだりを込めた辞退の文面だった。
だが、それはあくまで建前に過ぎない。
帝国全土の貴族にとって、この返書が意味するものはただ一つ。
「リステン家が、皇太子アランを明確に拒否した」
という事実だ。
帝都の社交界は、この一報に蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「あのリステン侯爵令嬢が、次期皇后の座を蹴っただと?」
「信じられん。アラン殿下のご寵愛を一身に受けていたはずではなかったのか?」
「いや、イザベラ男爵令嬢の存在が原因だろう。プライドの高いエリアーナ嬢が、平民上がりの愛人と同じ屋根の下で暮らすことを拒んだのだ」
貴族たちの間では、様々な憶測が飛び交い、夜会はその話題で持ちきりとなった。
だが、彼らの驚きは、まだ序の口に過ぎなかった。
■ 3:帝都を揺るがす発表
皇宮がリステン家の辞退に対する公式な反応(通常であれば、不敬罪としての激怒か、あるいは体面を保つための無視)を示すより早く。
リステン家は、第二の、そして最大の爆弾を投下した。
リステン侯爵家と、ヴァレリウス公爵家の連名で、帝国全土の主要貴族に対し、一枚の美しい招待状が送付されたのだ。
『リステン侯爵令嬢エリアーナは、この度、北のヴァレリウス公爵ルシアン閣下と、正式に婚約の運びと相成りました。つきましては、来月、帝都にて婚約披露の夜会を催したく——』
帝都の社交界は、今度こそ完全に沈黙した。
誰もが、自分の目を疑い、手元の招待状を何度も読み返した。
皇太子アランの求婚を蹴った令嬢が、その足で、アランの最大の政敵である「北の死神」ルシアンの元へ走った。
これは、単なる色恋沙汰やスキャンダルなどという生易しいものではない。
リステン家の莫大な財力と、ヴァレリウス家の強大な軍事力が結びつく。
それは、皇太子アランの玉座を根底から脅かす、明確な「宣戦布告」に他ならなかった。
■ 4:皇宮の激震
皇宮、皇太子執務室。
ガシャァァァンッ!!
激しい破壊音とともに、執務机の上の高価な調度品や書類が、全て床に叩きつけられた。
「どういうことだ! 説明しろ、バートン!!」
アランが、血走った目で怒鳴り声を上げた。
「は、はひぃ! わ、私にも……リステン家が、まさかあのヴァレリウスと繋がっていたなどとは、全くの寝耳に水でして……!」
アランの側近であるバートン伯爵が、床に這いつくばって震え上がっている。
「あの温室育ちの小娘が、北の野蛮人と婚約だと!? 俺の求婚を蹴って、あんな氷の塊のような男を選んだというのか!」
アランは、激怒に顔を歪ませ、自らの金糸の髪を掻き毟った。
「俺のものを……俺のエリアーナを、あのルシアンが、奪っただと!?」
アランの怒りは、エリアーナに拒絶されたことよりも、「自分の所有物」であるはずの女を、自分が最も憎む最大の政敵に奪われたという「屈辱」に向けられていた。
彼にとって、エリアーナは自分を無条件で愛し、尽くすべき都合の良い人形に過ぎなかった。その人形が、突然牙を剥き、自分の敵の腕の中に飛び込んだのだ。
その執務室の片隅で、イザベラが壁に寄りかかり、ブルブルと震えていた。
(なぜ……!)
イザベラの心は、恐怖ではなく、どす黒い嫉妬の炎で激しく焼かれていた。
(あの女が! アバズレになって、皇太子殿下を捨てたと思ったら……!)
イザベラは、エリアーナがアランから見捨てられ、惨めに泣き崩れる姿を想像して優越感に浸っていた。
だが、現実は違った。
エリアーナはアランを捨て、あろうことか、帝国でアランと唯一対等に渡り合える男、ルシアン公爵の婚約者となったのだ。
(なぜ! あの女が! 私より格上の、北の公爵夫人に!?)
皇太子の「愛人」でしかない自分と、強大な北の公爵の「正妻」となるエリアーナ。
身分の差は、以前よりもさらに絶望的に開いてしまった。
イザベラの、エリアーナに対する新たな、そして致命的な憎悪が生まれた瞬間だった。
皇宮が怒りと嫉妬で揺れ動く中、北の地では、復讐の炎が静かに、しかし確実に燃え広がっていた。
エリアーナとルシアンによる、アランとイザベラを破滅させるための第一幕が、今、完全に幕を開けたのだ。
■ 5:北の地での準備
その頃、帝都の喧騒など知る由もない北の黒鷲城では、私とルシアンによる「反撃の準備」が着々と進められていた。
「バートン伯爵の裏帳簿、確かに押さえたぞ。南大陸の奴隷商との取引記録、お前の言った通り、あの古びた教会の地下に隠されていた」
ルシアンの書斎で、彼が分厚い革表紙の帳簿を机の上に放り投げた。
「さすがは黒騎士団の諜報部ですわ。たった数日で証拠を固めるとは」
私は、その帳簿のページをめくりながら、満足げに微笑んだ。
一度目の人生で、この帳簿の存在が明るみに出たのは数年後のことだったが、今回は私たちが先手を打った。
「これで、アランの資金源の一つは完全に断ち切れる。だが、これだけではまだ足りん。奴の『新税制』を根本から叩き潰す必要がある」
ルシアンは、書斎の壁に掛けられた巨大な帝国地図を睨みつけながら言った。
「ええ。塩の密輸ルートを逆手に取りましょう」
私は、地図上のヴァレリウス領の大河を指差した。
「アラン殿下は、この河川を使って密輸を行い、公爵閣下に罪をなすりつけるつもりです。ならば、彼らが密輸船を出すその日に、黒騎士団で河川を完全封鎖し、積荷を全て『正当な権利』として押収してしまえばよいのです」
「……なるほど。奴らが不当に得ようとした利益を、そっくりそのまま我が領地の軍資金として頂くというわけか」
ルシアンの口角が、凶悪な弧を描いた。
「そして、押収した塩を、帝都の市場に『適正価格』で大量に流し込みます。そうすれば、アラン殿下が企てた塩の高騰による搾取計画は破綻し、帝都の商人や民衆は、殿下ではなく、塩を供給してくれた公爵閣下を『救世主』として称えることになりますわ」
私の策を聞き終えたルシアンは、しばし無言で私を見つめ、やがて低い笑い声を上げた。
「くくっ……お前、本当に恐ろしい女だな。アランの策を潰すだけでなく、奴の面子を完全にへし折り、さらに俺の評価まで上げるとは」
「褒め言葉として受け取っておきますわ、婚約者殿」
私は、悪びれることなく優雅に微笑んだ。
アランとイザベラが、今頃帝都でどのような顔をしているか。想像するだけで、胸の奥で黒い炎が心地よく燃え上がるのを感じる。
「来月の婚約披露の夜会……帝都の連中がどんな顔で俺たちを迎えるか、見物だな」
ルシアンが、楽しげに銀色の瞳を細めた。
「ええ。最高のドレスを用意して、アラン殿下とイザベラに、わたくしたちの『幸福な姿』を見せつけてやりましょう」
復讐の刃は、すでに彼らの喉元に突きつけられている。
私たちは、来たるべき帝都での夜会に向け、冷酷な笑みを交わした。




