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闇オークションで落札した白猫獣人が、運命の番でした 〜騎士団長は最愛の彼女を溺愛する〜  作者: 月代 緋色


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第7話 黒い影

遅くなりました。よろしくお願いいたします

 お披露目から、数日が過ぎた。


 ノアの王城お披露目は——成功だった。


 貴族たちは、ノアを温かく受け入れた。少なくとも、表向きは。


 王と王妃が正式に認めた以上、あからさまにノアを蔑む者は、もう、いない。


 ルクレツィア家には、毎日のようにお茶会の招待状が届いた。


 お披露目を見た貴族夫人たちが、ノアに興味を持ったのだ。


「ノアちゃん、これ、見て」


 ルクレツィアが、招待状の山を応接間のテーブルに広げた。


「すごい、たくさん。みんな、ノアちゃんに、会いたいって」


「……ノアに?」


「ええ。あなた、すっかり、社交界の人気者よ」


「……」


 ノアは、こてん、と首を傾げた。


 まだ、自分が「人気者」になっているという実感は、ノアにはない。


 ただ、毎日、ルクレツィアと姉妹たちと、子どもたちと——そして、レオンと。


 穏やかに過ごせている。それだけで、ノアは十分、幸せだった。


『……あぶないこと、なくなったのかな』


 ノアは、ふと思った。


 お披露目で、王様がノアを認めてくれた。


 もう、誰もノアを悪く言う人はいない、と聞いた。


『……だったら、もう、こわいこと、おきないのかな』


 ノアの胸に、ささやかな安堵が灯る。


 その平穏が——あくまで一時的なものだとは。


 まだ、誰も気づいていなかった。


***


 その日、ノアはルクレツィアとロザリオに連れられて、街へ買い物に出ていた。


 お披露目で出会った貴族夫人たちと、これから親しくなるためのささやかな贈り物を選びに。


「ノアちゃん、これ、可愛いと思わない?」


 ロザリオが、香水瓶をノアに見せる。


「……うん。きれい」


「これも、いいわね」


 ルクレツィアが、別の品を手に取る。


 専属の護衛が、二人。少し離れて、付き従っていた。


 白昼の、人通りの多い王都の大通り。


 危険なことなど、何ひとつない——はずだった。


「あ、ノアちゃん。あそこのお花屋さん、覗いてみない?」


「……はい」


 通りの向かいの花屋。


 ノアの白い髪に飾れるような、可憐な花が並んでいた。


 ノアがその方へ一歩、踏み出した、そのとき。


 ノアの白い耳が、ぴくり、と動いた。


 獣人の、鋭敏な感覚。


 誰かが、近づいてくる。


 その足音は、買い物客の賑やかな喧騒の中で——ひとつだけ、明らかにこちらへ向かってきていた。


『……っ』


 ノアが振り返る、その前に。


 ふいに——人混みの中から、誰かがノアの隣に、ぴたり、と寄り添った。


「お嬢さん。少し、こちらへ」


 低い、男の声。


 言葉は丁寧。けれど、その声には温度がなかった。


 まるで台本を棒読みしているような——感情のまるでこもらない響き。


 ノアの細い腕に、太い、節くれだった指が絡みつく。


「……っ」


 ノアが、息を呑んだ。


 顔を上げる。


 男の——その、目。


 屈強な、大柄の男。けれど、その瞳は——どこか虚ろで。焦点が合っていなかった。


 ノアを見ているのに、見ていない。


 いや、ノアの向こうの、何かを見ているような。


 その目に——どくり、と心臓が跳ねた。


『……このひと、なに』


『……このひと、こわい』


「ねえさま——!」


 ノアの、悲鳴のような声が通りに響いた。


「ノアちゃん!?」


 ルクレツィアとロザリオが、瞬時に振り返った。


 そして、護衛が——目にも止まらぬ速さで動いた。


「ノア様に、何を、するッ!」


 護衛の剣の柄が、男の腕に鋭く振り下ろされる。


 ぱぁんッ、と乾いた音。


 男の手から、ぱっと力が抜けた。


「離れろ!」


 もう一人の護衛が、男の襟首をつかみ——力ずくで、ノアから引き剥がす。


 男は、勢いよく地面に押し倒された。


 通行人たちが、悲鳴を上げて距離を取る。


 あっという間の出来事だった。


 ノアは、ルクレツィアの腕に引き寄せられて——震える自分の腕を、ぎゅっと抱いていた。


 その腕には、男の指の跡が——うっすらと、赤く残っていた。


「……っ」


 ノアの白い顔が、見る見るうちに青ざめていく。


 けれど——本当にぞっとしたのは。


 その、次の瞬間だった。


 地面に押さえつけられた、男。


 その口元が——にやり、と笑った。


「……っ」


 ノアの背筋が、ぞくり、と凍りついた。


 その笑顔は、男のものではなかった。


 顔は、見知らぬ屈強な男のもの。


 けれど、その口元の歪み。その勝ち誇った嘲笑。


 まるで——何か別の、何かが男の顔を内側から借りているような。


 獣人のノアの直感が、ぞわりと警鐘を鳴らした。


『……このひと、このひとじゃ、ない』


『……だれかが、なかに、いる』


「ノアちゃん! 大丈夫!?」


 ロザリオが、ノアを強く抱き寄せる。


「……っ、はい……」


 ノアの声は、震えていた。


「ねえさま……あの、ひと」


「うん」


「めが……ぼんやり、してた。なんか、ふつう、じゃ、なかった」


「……」


 ロザリオの目が、すっと細められた。


 いつものはしゃいだロザリオではない。侯爵夫人としての、鋭い眼差し。


「ルクレツィア姉さま。すぐに、騎士団に、連絡を」


「ええ。レオンに、知らせるわ」


 ルクレツィアの声も低かった。


 白昼の、人通りの多い王都の大通り。


 そこで、堂々と——ノアに、手が伸びてきた。


 その意味の重さが——三人の胸に、重くのしかかった。


***


 知らせを受けたレオンは、執務を放り出すようにして、急いで屋敷に戻ってきた。


「ノア!」


「……れおん!」


 ノアは、玄関ホールで、ぎゅっとレオンに抱きついた。


 その小さな身体が、まだ、震えていた。


「無事か」


 レオンの声は、いつもより、低かった。


「うん。けが、ない。ねえさまと、ごえいが、まもってくれた」


「……そうか」


 レオンは、ノアを強く、抱きしめた。


『……一歩、遅ければ』


『連れ去られて、いたかもしれない』


 その想像に、レオンの背筋が、ぞくりと冷えた。


「ノア。怖い思いを、させて、ごめんな」


「ううん。れおんは、わるくない」


「……」


 レオンは、しばらく、ノアを抱きしめた、まま、立ち尽くしていた。


 そのとき。


 応接間から、ルクレツィアの夫——ユリウスが、姿を現した。


 知らせを受けて、城から、急ぎ、駆けつけてきたのだろう。執務服のまま、息も、わずかに上がっていた。


「レオン。少し、いいか」


「……うん」


 レオンは、ノアをルクレツィアに預けて、ユリウスとともに、書斎に向かった。


***


 書斎の扉が、閉まる。


「捕らえた男を、尋問した」


 ユリウスは、いきなり、本題を切り出した。


「結果は——案の定だ」


「……」


「『気づいたら、ここにいた』『誰かに、命じられた』『でも、その"誰か"の顔も、声も、思い出せない』」


 レオンの拳が、ぎゅっと握り締められた。


「……前と、同じ、か」


「ああ。あの夜の、組織員たちと、まったく、同じ証言だ」


 ユリウスの声が、低い。


「人を、操る"何か"。それが、また、動き始めた」


「……」


「いや。動き始めた、というより——」


 ユリウスは、机に書類の束を置いた。


「ずっと、動いていたんだろうな。ただ、お披露目までは、表立っては、出てこなかった。王家の正式な認知を見て、堂々と、潰しに来た」


「潰しに、来た」


「ノアちゃんを、攫う。あるいは、ノアちゃんと、お前を、引き離す。——目的は、おそらく、それだ」


『……離れたら、あの子、よわって、よわって』


 あの夜、闇のどこかから、聞こえてきた、嫌な、声。


 レオンの脳裏に、ふとよみがえった。


「ユリウス。これは……」


「ああ。普通の、人間の仕業じゃ、ない」


 ユリウスの瞳が、鋭く、光った。


「俺の、勘だが——。あの闇オークションを開いていた組織、それ自体が、何かに、操られている。手駒として、使われている、というほうが、正しい」


「……」


「そして、その"何か"は、お前と、ノアちゃんを、明らかに、標的にしている」


 書斎に、重い沈黙が落ちた。


「レオン」


「うん」


「警備を、強化する。この屋敷も、騎士団の警邏も、王城内の、お前たち関係の動線も、全部だ」


「……お願いします」


「だが」


 ユリウスは、ふっと息を吐いた。


「相手は、人を、操る。人の頭の中を、いじる。——どこまで、守れるかは、わからん」


「……うん」


「最悪を、想定しろ。そして、絶対に、ノアちゃんから、目を、離すな」


 レオンは、深く、頷いた。


 その瞳には、もう、お披露目の幸福な余韻は、なかった。


 あるのは、ただ——守る、という、覚悟だけだった。


***


 その夜。


 夕食もそこそこに、ノアはレオンの腕の中で、震えていた。


 昼の恐怖は、まだ、ノアの心に深く、刺さっていた。


「ノア。今夜は、僕が、寝かしつけるからね」


「……うん」


「もう、こわいこと、おきないように。たくさん、僕が、見てるから」


「……れおん、いっしょに、いて」


「もちろん」


 レオンは、ノアの部屋で、ベッドにノアを横たえた。


 その小さな手を、握ったまま——眠るまで、ずっとそばに寄り添った。


 昼の恐怖と、安心の両方に疲れていたのだろう。


 ノアは、ほどなく、すやすやと寝息を立て始めた。


『……よかった』


 レオンは、ほっと息をついた。


 ノアの白い髪を、そっと撫でて——立ち上がる、そのとき。


《……ご主人》


 窓辺から、ふと声がした。


 犬の神獣、ゼル。そして、その隣に黒猫のシャルが、座っていた。


 いつもよりも、二匹とも、少し、緊張した、面持ちで。


《今夜のこと、ぼくたちにも、聞こえてた。ノアちゃんが、こわい目に、あったんだね》


「うん」


《ぼくたち、なにも、できなかった。ごめんなさい、ご主人》


 ゼルが、長い尻尾をぺたんと、伏せた。


「ゼル。気にしないで。あれは、街中の、出来事だった。屋敷にいた君たちには、どうしようもないことだ」


《……うん》


《でも、ね、ご主人》


 今度は、シャルが口を、開いた。冷静な黒猫の目が、まっすぐにレオンを見上げる。


《今夜から、夜は、僕たちに、任せて》


「シャル」


《ノアちゃんが、眠っている間。誰かが、近づいてきたら——僕たちなら、必ず、気づく。獣人の聴覚より、もっと、ずっと、鋭く》


《うん。ぼくも、ちゃんと、見張る!》


 ゼルが、ぐっ、と、胸を張った。


 その姿に、レオンの胸に、温かいものが、広がった。


「……ありがとう」


 レオンは、ゼルとシャルの、頭をそれぞれ、優しく、撫でた。


「うん。お願いするよ。何かあったら、すぐに、僕を、呼んでほしい」


《まかせて、ご主人!》


《うん。ノアちゃんは、僕たちが、守るから》


「うん。じゃあ、僕は、隣の部屋にいるから」


 レオンは、もう一度、眠るノアを見つめてから——静かに、部屋を出た。


 扉が、閉まる。


 部屋の中では——ゼルが、ベッドの足元に、伏せて、長い耳をぴんと、立てていた。


 窓辺には、シャルが姿勢正しく、座って。夜の闇に、目を凝らしていた。


 二匹の神獣の、忠実な、守り。


 その守りの下で——ノアは、今夜は安らかな、寝息を立てていた。


***


 翌日。


 レオンは、ユリウスとともに、王城に上がった。


 陛下と王妃殿下に、昨日の襲撃未遂を、正式に報告するためだった。


 王城の、長い廊下を二人は歩いていく。


 磨き上げられた、大理石の床。高い天井に、響く、二人の足音。


 すれ違う、侍従や、衛兵たちが丁寧に、頭を下げる。


 その、誰かが——。


「……っ」


 レオンの足が、ふと止まった。


「どうした、レオン」


「……いや」


 レオンは、振り返って、今、すれ違った侍従の、後ろ姿を見つめた。


 若い、男だった。


 その顔には、見覚えがある。普段から、王の私室で、よく見かける、真面目で、優秀な侍従。


 名前は、確か——ハインツ、だったか。


 いつも、にこやかで、礼儀正しい青年。


 けれど——今、すれ違った、その一瞬。


「ハインツ」


 レオンは、その侍従の名を、呼んだ。


 侍従が、ぴたり、と、足を止めて——ゆっくりと、振り返った。


「……これは、騎士団長殿」


「やあ。久しぶり」


「は、はい。ご無沙汰、しております」


 侍従は、丁寧に頭を下げた。


 レオンは、その顔をまっすぐに、見つめた。


「……顔色が、悪いね」


「いえ、その、そんなことは」


「最近、忙しい?」


「……は、はい。少し、寝不足、かもしれません」


 侍従の答えは、丁寧だった。


 けれど——その、瞳。


 レオンの目を、見ているはずなのに——焦点が、合っていなかった。


 虚ろで。ぼんやりと——どこか、遠くを見ているような。


 まるで、昨日、ノアを襲った、あの男のように。


『——』


 レオンの背筋が、ぞくり、と、凍えた。


「ハインツ。最近、何か、変わったことは、あった?」


「……いえ。特には、何も」


「忘れていることが、あったり、しないか?」


「……忘れる?」


 侍従の声が、ふと止まった。


 その瞳が、わずかに揺れた——気がした。


「……何を、おっしゃっているのか。私には、わかりかねます」


「そうか」


「では——失礼、いたします」


 侍従は、また、丁寧に頭を下げて——足早に、その場を去っていった。


 その後ろ姿を、レオンはじっと、見送った。


「……ユリウス」


「ああ」


「あれは、おかしい」


「ああ。お前の言う通りだ」


 ユリウスの顔が、瞬時にこわばっていた。


「焦点が、合っていなかった」


「うん」


「昨日の、男と、同じだ」


「うん」


 二人は、しばらく、廊下で、立ち尽くした。


 昨日、街中で、ノアを襲った、男だけではなかった。


 王城の、内部にまで——"何か"は、忍び込んでいる。


 しかも、王の側仕え、という、最も、近い場所にまで。


「……すぐに、調査する」


 ユリウスの声は、もう、宰相としての、冷徹なものに、戻っていた。


「お前は、陛下への報告を。俺は、あの侍従を、追う」


「うん。気をつけて」


「お前もな。——もう、誰も、迂闊には、信じるな」


 二人は、その場で、別れた。


 王城の、磨き上げられた廊下に——黒い、影が確かに忍び寄っていた。


***


 陛下への報告を終えたレオンは、その足で、騎士団詰所に、向かった。


 昨日の襲撃と、王城内の異変を踏まえて——警備の体制を、根本から、見直す必要があった。


「団長、お疲れさまです」


 詰所に入ると、副団長が出迎えてくれた。


 壮年の男で、レオンが団長になる前から、騎士団を支えてきた、信頼の置ける右腕。


「みんなを、集めてくれ。緊急の打ち合わせだ」


「は」


 ほどなく、騎士団の主だった面々が、会議室に集まった。


 みんな、レオンが団長として、信を置いてきた仲間たち。


 顔ぶれを、見回しながら——。


 レオンの胸に、ぐっと嫌なものがよぎった。


『……この中に、いるかも、しれない』


『誰かが、すでに、操られているかも、しれない』


 昨日の街中の男。王城の侍従。


 あれは、もう、外部だけの話では、なかった。


 もしかしたら——もっと、近いところにも。


 いや、考えすぎだ。きっと、考えすぎ。


 でも——もし、本当にいたら?


 レオンは、ぐっとその思いを押し込めた。


 今は、それを悟られてはならない。


「昨日、ノアちゃん——いや、保護下のノアが、街中で、襲撃を受けた」


 レオンが、口を開いた。


 団員たちが、いっせいに顔をこわばらせる。


「未遂で、終わった。けが人も、いない。けれど——これは、単発の事件じゃ、ない可能性が、高い」


 レオンは、ひとりひとりの顔を、見回しながら、続けた。


「組織立った、何かが、動いている。だから、警備を、強化する」


「具体的には、どうしますか、団長」


 副団長の問いに、レオンは計画を、説明していった。


 屋敷の周囲の、巡回強化。ノアが外出する際の、護衛増員。王城内での、警邏ルート見直し。


 団員たちは、真剣な表情で、耳を傾けていた。


 みんな、ちゃんと聞いている。みんな、頼りになる、仲間たち。


 その、はずだった。


「……団長。一つ、よろしいですか」


 ふと、若い騎士の一人が、声を上げた。


 優秀で、まだ若いがいくつかの実績を、持つ青年。レオンも、目をかけてきた、見込みのある男。


「ノア様の、警備に、僕も、加えてください」


「……」


「お役に、立ちたいのです。団長が、大切にされている方ですから」


 言葉だけ、聞けば。


 ごく、自然で、忠実な、申し出だった。


 けれど。


 レオンの目に——その青年の瞳の、奥がふと揺れた、ように見えた。


『……いや。気のせいだ』


『そう、思いたい』


 レオンは、心の中で、自分に言い聞かせた。


「……ありがとう。だが、配置は、副団長と相談して、決める。お前も、含めて、検討するよ」


「はい。よろしく、お願いします」


 青年は、爽やかに頭を下げた。


 その所作には、何の不自然さも、なかった。


 けれど——レオンの胸の奥には。


 ざわりと、消えない、引っかかりが、残った。


『……ユリウスが、言っていた』


『もう、誰も、迂闊には、信じるな、と』


 仲間を、疑うのはつらい。


 けれど——ノアを、守るために。


 今は、その「つらさ」を、引き受けるしか、なかった。


***


 騎士団から戻った、その日の夜。


 昨日の襲撃の余韻で、まだ、少し、不安そうにしていたノアを、レオンが寝かしつけていた。


「ノア。怖いことは、もう、起きないように、いっぱい、警備、強くするから」


「……うん」


「ゆっくり、眠っていいよ」


「……れおんは?」


「僕も、隣の部屋にいる。何かあったら、すぐ来るから」


「……うん」


 ノアは、こくん、と頷いて——目を、閉じた。


 昼の恐怖と、安心とで、疲れていたのだろう。


 ノアは、すぐに寝息を立て始めた。


 レオンは、その小さな手を、しばらく、握っていた。


『……ノア。絶対に、守るからな』


『何が、来ても』


 ノアの白い髪を、そっと撫でて、レオンは立ち上がった。


 昨夜と、同じように——窓辺と、ベッドの足元に、ゼルとシャルが控えていた。


《ご主人。今夜も、僕たちに、任せて》


《うん。なにかあったら、すぐ、しらせるから!》


「うん。お願い、頼んだよ」


 レオンは、安心して、二匹の神獣に、ノアを託した。


 扉が、静かに閉まる。


***


 ノアは——夢を、見ていた。


 暗い、ひとり、ぼっちの空間。


 まわりに、誰もいない。


 ふと、頭上を見上げる。


 黒い、空から——白い、何かがひらり、ひらりと舞い落ちてくる。


 最初は、雪、かと思った。


 でも、違う。


 雪は、こんなに軽くない。雪は、こんなにふわふわで——どこか、生き物めいた、動きをしない。


『……はね?』


 夢の中で、ノアは呟いた。


 白い、羽根。


 たくさんの、白い、羽根が——黒い空から、ノアの周りに、ふわり、ふわりと降ってくる。


 最初は、ひらり、ひらり。


 やがて——降る、量が増えていく。


 ふわふわ、ふわふわ。視界が、白く、染まっていく。


 ノアの周りに、白い羽根の薄い、膜ができる。


 囲まれて、いた。


 いつの間にか、ノアは——白い羽根に、四方を囲まれていた。


『……これ、なに』


 ノアの胸が、ざわつき始める。


 怖くは、ない、はずだった。


 ただの、羽根。なのに——なぜか、息がしづらかった。


「……ノア」


『——』


 ノアの心臓が、どくり、と、大きく、跳ねた。


 羽根の、向こうから——誰かの、声がした。


 その声は、小さくて、かわいらしくて——でも、どこか、歪んでいた。


 幼い、少女の声。


 けれど、聞いたことが、ある。


 いや——聞いたことが、ある、なんて、ものじゃ、ない。


 その声は、ノアの中のいちばん、深い、傷から——這い上がってきた、声、だった。


「……ノア。ひさしぶり、だね」


『……っ、いや』


 ノアが、夢の中で、後ずさろうとする。


 けれど、白い羽根に囲まれて——足が、動かない。


 まるで、ふわふわの檻の中に閉じ込められたみたいに。


「いっしょに、おいで」


「ノアの、ばしょは、ここじゃ、ないでしょう?」


『——』


 声は、優しい、ふりをしていた。


 なつかしい、友達に話しかけるような、響きを装って。


 けれど、その奥にある、ねっとりとした、悪意。


 ノアの、獣人の本能が、ぞわりと警鐘を鳴らした。


「だれもいない、しずかなところへ」


「だれにも、いじめられない、ところへ」


「いっしょに、おいで、ノア」


 白い羽根が、ノアの白い髪に、絡みつく。


 頬を、撫でていく。指先に、まとわりつく。


 ふわふわなのに——ぞっとするほど、冷たい。


『……いや』


『……ノアは、いかない』


『ノアは、れおんの、そばに、いる』


 ノアが、心の中で、必死に叫ぶ。


 けれど、声が出ない。


 白い羽根が、ノアの口を塞ぐ。喉を、ふさぐ。


「ノア。なに、いってるの」


「あんなおとこの、そばになんて」


「ノアは、もりに、もどるべきよ」


「ううん——もう、もりにも、もどれない。だって、ノアは、いらないこ、だもの」


『——っ』


『……いや、いや、いや』


『……れおん、れおん——!』


 ノアが、夢の中で、必死にその名を呼んだ、そのとき。


***


 隣の部屋で。


 眠っていた、レオンの目が——突然、ぱちり、と、開いた。


『——』


 胸の奥が、ざわついた。


 心臓が、いつもの倍の速さで、打っている。


 ノアが、ノアが——。


 考えるよりも、先に。レオンの身体が、起き上がっていた。


『ノアが、呼んでる』


 なぜ、わかったのか。レオンには、理屈はなかった。


 ただ、心の奥で——確かに、ノアの声を聞いた、気がした。


 助けて、と。


 寝間着のまま、レオンは部屋を、飛び出した。


 ノアの部屋の、扉を開ける。


 ノアは——ベッドの上で、苦しそうにもがいていた。


 眠ったまま。けれど、呼吸が激しくて。白い頬を、汗が伝っていた。


 そして——。


 その、傍らで。


 ゼルと、シャルが——きょとんと、レオンを見ていた。


 二匹とも、それまで、姿勢正しく、見張っていたのだろう。


 けれど、その瞳には——何が、起きているのか、わかっていない、戸惑いが滲んでいた。


《……ご主人?》


《ど、どうしたの……?》


『——』


 レオンは、その瞳を見て、息を呑んだ。


 神獣たちは——気づいて、いなかった。


 ノアが、夢の中で、何かに襲われていることを。


 あれだけ、鋭敏な、神獣の感覚を、もってして——なお。


「ノア!」


 考えている、暇はなかった。


 レオンが、ノアの肩を両手で、つかむ。


「ノア、起きて。ノア!」


 その瞬間。


 ノアの、淡い紫の瞳が——ぱっと、開いた。


「……っ!」


「ノア! 大丈夫だ。ここに、いる」


「……れ、おん」


 ノアの瞳が、レオンの顔を、捉える。


 その瞬間——白い額に滲んでいた、汗がぽろり、と、こぼれた。


 いや、汗だけ、ではなかった。


 ノアの淡い紫の瞳から——涙が、あふれた。


「……れおん」


「うん。ここにいる」


「……れ、れおん……っ」


 ノアは、レオンの胸に、しがみついた。


 その小さな身体が、激しく、震えていた。


「……っ、ふぁ……ぐすっ」


「うん。うん。大丈夫だ。怖かったな」


「……こわかった、こわかった……っ」


 レオンは、ノアを強く、抱きしめた。


 その背中を、ゆっくりと撫でながら。


「もう、大丈夫。僕が、いる」


 ノアの震えが、少しずつ、おさまっていく。


 ノアは、レオンの胸に、顔を押し当てたまま——ぽつり、ぽつりと語り始めた。


 レオンの顔が、徐々にこわばっていく。


「……その、声」


「うん」


「ノアが、知ってる、声?」


 ノアは、しばらく、口をつぐんだ。


 それから、震える声で、小さく、頷いた。


「……うん」


「……ノアを、もりから、にんげんの、せかいに、つれだした……あの、こ」


『——』


 レオンの全身が、凍りついた。


 ノアを、人間の世界に、置き去りにした、あの妖精。


 その存在は、ずっとノアの心に影を落とし続けてきた。


 それが——今、夢の中で、また、ノアに語りかけてきた。


「ノア」


 レオンは、ノアをぎゅっと、抱きしめた。


「もう、大丈夫。ここに、いるから。僕が、いる」


「……れおん」


「夢でも、現実でも。誰が、何を、言ってきても。君は、僕の、そばにいる。それだけは、変わらない」


「……うん」


 ノアは、こくん、と、頷いた。


 その小さな身体が、レオンの腕の中で、ようやく、震えを止めていく。


『……あいつだ』


 レオンの瞳が、暗く、燃えた。


『あの妖精が——闇組織を、操っている』


『ノアを、僕から、引き離そうとしている』


 確証は、まだ、ない。


 けれど——昼の襲撃、王城の侍従の異変、そして、ノアの夢。


 全部の点が、ひとつの線に、繋がろうとしていた。


 その線の、もう一方の端には——あの、小さくて、歪んだ、声の主がいる。


 と——。


《……ごめんなさい、ご主人》


 ベッドの足元で、ゼルが長い耳を、ぺたんと伏せた。


 その大きな身体が、震えていた。


《ぼく、ずっと、見張ってたんだ。ぜったいに、見落とさないって、思ってた》


《でも……でも、ぜんぜん、わからなかった》


《ノアちゃんが、苦しんでたのに……ぼく、なにも、感じなかった》


「ゼル……」


《どうして、ぼくたち、わからなかったの……?》


 窓辺の、シャルも、いつもの冷静さを、失っていた。


《僕も、おかしいと思った。あれだけ、近くで——ノアちゃんが、悪夢に襲われていたのに、僕の感覚に、何ひとつ、触れなかった》


《何かが——僕たち、神獣の、感覚を、すり抜けていく》


『……それは』


 レオンの背筋に、ぞくり、と、寒気が走った。


 神獣の、感覚をすり抜ける。


 それは、ただの人間の仕業では、ない、ということだった。


 いや——もっと、悪い、何か。


 神獣にすら、見えない、姿。


 神獣にすら、聞こえない、声。


「……二匹とも。気にしないで」


 レオンは、ゼルとシャルの頭を、それぞれ、優しく、撫でた。


「君たちは、悪くない。きっと——相手が、君たちにも、気づかせないような、何か、なんだ」


《でも……》


「大丈夫。これからは、僕も、ノアの、そばに、いる」


 レオンの瞳が、暗く、燃えた。


 神獣にも、気づかれない、敵。


 守るには——もっと、ずっと近くにいなければならない。


『……ノアを、ひとりにしない』


『一秒も、目を、離さない』


***


 その夜、レオンはノアを、自分のベッドの隣で、眠らせた。


 ノアの小さな手を、ずっと握ったまま。


 眠るノアの寝顔を、見つめながら——レオンは、心の中で、誓った。


『絶対に、渡さない』


『何が、相手であっても』


 窓の外で、何かが——羽音を、立てた、気がした。


 けれど、振り返ったときには、もう——夜の闇しか、見えなかった。


***


 翌朝、早朝の時刻。


 ノアの部屋の扉が、こんこん、と、ノックされた。


「ノアちゃん。朝よ」


 ルクレツィアの、優しい声。


 先日の襲撃の余韻で、夜中、ノアがまた怖がっていないか——心配して、いつもより、早めに様子を見に来てくれた、らしかった。


 返事が、ない。


「ノアちゃん?」


 ルクレツィアは、そっと扉を開けた。


 ……ベッドに、ノアの姿がなかった。


 よく整えられた、ベッド。けれど、誰も、そこには眠って、いない。


「……あら?」


 ルクレツィアの表情が、すぅっと変わった。


 まさか、と、嫌な予感がよぎる。


 昨日、ノアが夜中に怖がっていたら——レオンは、何をするだろう。


 答えは、すぐに出た。


「……レオンッ」


 ルクレツィアは、しずしずとしかし、決然と——廊下を、進んだ。


 レオンの部屋の、扉。


 その前で、ひとつ、深呼吸。


 そして——勢いよく、扉を開けた。


「レオン・グラディウス・シュタル——」


 声を、上げかけて。


 ルクレツィアの言葉が、ぴたり、と、止まった。


 ベッドの上で。


 ノアと、レオンが。


 仲良く、寄り添うように、眠っていた。


 ノアは、レオンの腕の中で、すやすやと。


 レオンは、その小さな身体を、守るように抱きしめて。


 二人の手は、ちゃんと握り合わされていた。


 とても、安らかな、寝顔だった。


「…………」


 ルクレツィアの、表情がすーっと、抜け落ちた。


 それから——。


「レオン・グラディウス・シュタルク」


 いつもの、優しい声では、なかった。


 姉としての、いや、母としての地獄の底から響くような、声だった。


「……っ、ね、姉さん!?」


 レオンが、跳ね起きた。


 その隣で、ノアも、目をぱちくり、と、瞬かせる。


「……るくれつぃあ、ねえさま? おはよう」


「ええ。おはよう、ノアちゃん。よく、眠れた?」


「うん。れおんが、ずっと、いてくれたから」


『——』


『……ノア、それ、言わない方が』


 レオンが、心の中で、悲鳴を上げた、そのとき。


 ルクレツィアの瞳が、ぎろり、と、弟を捉えた。


「レオン。話があるわ」


「は、はい」


「ちょっと、来なさい」


「……はい」


 レオンは、首根っこをつかまれるようにして、廊下に引きずり出された。


***


「あの、姉さん。誤解です」


「誤解?」


「うん。ノアが、怖い夢を見て、泣いてて。それで、寝かしつけたら、僕も、つい」


「つい?」


「……うん」


「あなたね」


 ルクレツィアの声が、低く、響いた。


「ノアちゃんは、見た目は、幼い子だけど。れっきとした、二十歳の、女の子。あなたは、二十八歳の、騎士団長。番、とか、抜きにしても——同じベッドで、眠るのは、いけません」


「は、はい」


「夜中に、怖がっていたなら、私を、呼べば、よかったのよ。私が、ついていたわ」


「ええと、その、ノアが、僕じゃないと、落ち着かなくて」


「だとしても、よ」


『……ぐっ。正論』


「いい? 今夜から、ノアちゃんが、怖がっても、あなたは、自分の部屋で、寝ること。隣の部屋に、いるなら、それで、十分でしょう?」


「はい……」


「もし、また、見つけたら——」


 ルクレツィアの、笑顔がぞっと、するほど、優しかった。


「ノアちゃんとの結婚、認めませんから」


「ええっ!? そんな!」


「冗談よ」


 ルクレツィアは、ふっ、と、笑って——けれど、すぐに真顔に、戻った。


「でも、半分、本気。わかった?」


「……はい。気を、つけます」


『……怖い』


『うちの姉さん、本当に、怖い』


 レオンは、しょんぼりと、頭を垂れた。


 その様子を、ノアは部屋の扉から、ちょこん、と、覗いていた。


「……るくれつぃあ、ねえさま、こわい?」


「ううん、ノアちゃん。ねえさまは、優しいよ」


『……たぶん』


 不穏な、空気の中での——ささやかな、コメディ。


 けれど、ノアの心は——少しだけ、軽くなっていた。


 先日の、街での恐怖も、夜の悪夢も。


 今、こうして、家族とレオンがいる。それで、十分、だった。


***


 それから、数日が過ぎた。


 街中の襲撃事件は、表向きには抑え込まれた。


 ノアは、ルクレツィアの強い勧めで、外出をずいぶん控えていた。


 けれど——お披露目で出会った貴族夫人たちからの、茶会の招待を、すべて断り続けるのも、難しかった。


 その日、ノアは——ある、年配の侯爵夫人の屋敷へ、お茶会に招かれていた。


 もちろん、ロザリオと護衛も、一緒。


 穏やかで、おっとりとした、年配の夫人。お披露目の際にも、ノアに優しく声をかけてくれた人だった。


「ノアちゃん、よくいらしたわね」


「……はい。ありがとうございます」


 磨き上げられた、応接間。


 上品な、お茶と可愛らしい焼き菓子が、並ぶ。


 夫人が、自ら、ノアに紅茶を注いでくれる。


 穏やかな、午後。


 けれど。


 その、お茶会の途中で——。


 ノアの白い耳が、ぴくり、と、動いた。


 応接間に、もう一人、客人が訪れた。


「あら、ベルナ夫人。今日は、ご一緒でしたのね」


「ええ。ノアさんに、お会いしたくて」


 お披露目で、ロザリオを通して、紹介された、別の貴族の夫人。


 ベルナ夫人。三十代の、すらりとした、聡明そうな女性。


 社交界では、なかなか、評判のいい人物。


 その人が、にこやかに応接間に入ってきて——ノアの正面の、椅子に腰を下ろした。


「ノアさん。お会いできて、嬉しいわ」


「……ベルナ、さま。ごきげん、よう」


 ノアは、練習通りに淑女の礼をした。


 けれど。


 顔を上げて——目が、合った、その瞬間。


『——』


 ノアの白い耳が、ぴたり、と、伏せられた。


 ベルナ夫人の、瞳。


 その奥が——どこか、虚ろだった。


 焦点が、ノアを捉えていない。微笑んでいるのに、心はまったく、別の場所にあるような。


『……このひとも?』


『……このひとも、おなじ?』


 ノアの心臓が、どくり、と、跳ねた。


 お茶会の、和やかな空気の中で。


 ノアだけが——気づいて、いた。


「ノアさん。少しだけ、お手洗いを、貸していただいて、よろしいかしら」


「あ、もちろんですわ。こちらへ」


 ホスト役の侯爵夫人が、案内のために、立ち上がる。


 その瞬間——ベルナ夫人が、すっとノアの隣に移動した。


「ノアさん。ご機嫌、いかが?」


「……は、はい」


「お披露目、素敵でしたわ。あなた、本当に、可愛らしくて」


 言葉は、上品。声は、優しい。


 けれど——その、瞳。


 ノアを、見ているのに、見ていない。


 ノアの背筋に、ぞわり、と、悪寒が走った。


『……だめ。このひとに、ちかづかれちゃ、だめ』


「……あの」


 ノアが、少し、身を引いた、そのとき。


 異変に、気づいたのは——ロザリオ、だった。


 ノアの様子と、ベルナ夫人の、わずかな違和感。


 ロザリオは、瞬時に状況を読み取った。


「ベルナ夫人」


 ロザリオが、優雅にけれど、有無を言わさぬ声で、口を開いた。


「ノアは、まだ、長い社交には、慣れていなくて。今日は、もう、お暇させていただこうかしら」


「あら、もう?」


「ええ。お招き、ありがとうございました。また、ぜひ」


 ロザリオは、流れるような所作で、ノアを立ち上がらせる。


 ベルナ夫人の、ノアへの「距離」を——巧みに、断ち切って。


「……ありがとう、ねえさま」


 ノアが、ロザリオの腕に、しがみつくように、寄り添う。


 ロザリオは、ノアの背を優しく、撫でながら——ホスト役の夫人に、丁寧に別れの挨拶を、した。


「ベルナ夫人も、お会いできて、嬉しかったですわ」


「ええ。また、ぜひ」


 ベルナ夫人の微笑みは、最後まで、上品で、優雅だった。


 けれど——その瞳が、最後の最後まで、どこか、虚ろだったことを。


 ノアは、もちろん——ロザリオも、見逃さなかった。


***


 馬車の中。


「ねえさま」


「うん」


「あのひと、めが」


「うん。気づいてたのね、ノアちゃん」


「……うん」


 ロザリオの表情は、いつものはしゃいだものでは、なかった。


 侯爵夫人としての、冷静で、鋭い、顔。


「帰ったら、すぐに、レオン兄さまと、ユリウス様に、伝えなくてはね」


「……うん」


「もう——茶会にも、安易に、出ては、いけないわ」


『……うん』


 ノアは、こくん、と、頷いた。


 お披露目で、社交界に認められた、はずだった。


 けれど——その、社交の場にまで。


 黒い影は、もう、忍び込んで、いた。


***


 ところで——時を、少し、遡る。


 ノアと、レオンが寄り添うように、眠った、あの夜。


 ふたりが、ささやかな安らぎに、包まれていた、その頃。


 王都の、外れ。打ち捨てられた時計塔の、てっぺん。


 小さな影が、夜空を見上げていた。


「……ふふ」


 幼い少女のような声が、満足げに呟いた。


「うまく、いったみたい」


「あのこ、こわがってる。わたしの、こえで」


 影は、ぱた、ぱた、と、両足を揺らした。


「もうすこし、もうすこし、よ。あのこの、こころに、ひびを、いれていくの」


「つがいの、おとこは——きづきはじめてる、みたい。でも、おそい」


「だって、わたしの、てごまは——」


 影が、ふっと笑った。


「もう、あちこちに、もぐりこんでるんだもの」


「あのおじょうさまの、まわりに。あのおとこの、まわりに」


「だれを、しんじれば、いいのか。だれが、てきなのか」


「すこしずつ。すこしずつ、わからなく、なっていく」


 影は、にこり、と、笑った。


「もうすぐ、はじまる、よ」


 ぱた、と、羽音が一度。


 夜風が、わずかに揺れて——影は、時計塔から、消えていた。


 あとには、ただ、静かな、王都の夜だけが、残された。


 その下で、レオンとノアが寄り添うように、眠っていた。


 まだ——本当の嵐は、来ていない。


——第7話 了

【あとがき おまけSS 〜姉妹、密談〜】

 茶会から帰った、その日の夜。

 ルクレツィア家の、応接間。

 姉妹は、紅茶を片手に、向かい合って座っていた。

「……それで、姉さま」

 ロザリオが、口火を切った。いつもの、はしゃいだ調子は、ない。

「茶会の招待、どこまで受けるか、基準を、決めなきゃね」

「ええ」

 ルクレツィアの声も、低かった。

「ベルナ夫人みたいな人が、他にもいるとしたら——」

「すべて断れば、それはそれで、社交界に角が立つわ」

「でも、受ければ、ノアちゃんが、また、危ない目に遭うかも」

 ふたりは、しばらく、黙り込んだ。

 やがて、ロザリオが、ぽつりと、口を開いた。

「……うちの家か、ベルリオーズ侯爵家か、辺境伯家。お父様お母様の代から、確実に信頼できる、ごく一部の貴族家だけ、にしましょう」

「そうね。それくらいの、線引きは、必要ね」

「他は、私が、丁寧に、お断り状を、書くわ」

「あら、頼もしい」

「……当然でしょ。私、これでも、侯爵夫人なんだから」

 ロザリオが、つん、と、すまし顔を、してみせた。

 ルクレツィアが、ふっ、と、笑う。

「ねえ、ロザリオ」

「うん?」

「あなた、最近、頼りになるわね」

「……っ、何よ、急に」

「茶会でも、ノアちゃんを、上手に、守ってくれたって」

「……あれは、当然のことよ」

 ロザリオが、ふい、と、顔を、背けた。

 頬が、ほんのり、赤い。

「ノアちゃんは、可愛い妹なんだもの。守るに、決まってる」

「……ええ。本当に、そうね」

 ふたりの間に、温かい沈黙が、流れた。

 それから、ルクレツィアが、ふと、思い出したように、言った。

「あ、そういえば、ベルナ夫人。よく考えたら、お披露目の前から、ちょっと、変わった人だったわよね」

「あ、わかる! 何か、生意気だった」

「『この子、本当に獣人なの? ただの幼児じゃなくて?』とか、失礼なこと、平気で、言ってたわ」

「言ってた、言ってた。腹立ったから、私、その場で、にっこり、笑顔で、潰したのよ」

「あら、それは、知らなかった」

「うふふ。だってあの人、ノアちゃんに、失礼すぎて」

「あなた、本当に、扱いが、上手」

 ふたりは、くすくす、と、笑い合った。

 深刻な話し合いから、すっかり、いつもの姉妹の会話に、戻っている。

「……まあ、なにはともあれ」

 ルクレツィアが、すっと、表情を、引き締めた。

「ノアちゃんは、私たちが、絶対に、守りましょう」

「うん。あの子、もう、私たちの、家族だもの」

「ええ」

 窓の外で、夜風が、優しく、吹いていた。

 別の部屋では——レオンが、ノアの、隣で、眠っている。

 その安らかな眠りを、姉妹は、守り抜くと、心の中で、誓った。

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