第6話 騎士の誓い
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お披露目の話が決まってから、ルクレツィア家は、にわかに、慌ただしくなった。
いや——慌ただしくなった、というより。
「さあ、ノアちゃん! 今日も、ドレスの仮縫いよ!」
張り切っていたのは、もっぱら、ルクレツィアと、その妹たちだった。
応接間には、王都でも指折りの仕立て屋が呼ばれ、色とりどりの生地が、所狭しと、広げられていた。
その真ん中に、ノアが、ちょこんと立っている。
「……ノア、これ、きるの?」
ノアは、おそるおそる、目の前の生地を、見つめた。
淡い水色の、上等な絹。きらきらと、光沢を放っている。
「そうよ。ノアちゃんの、お披露目用のドレス。とびきり可愛く、仕立てるんだから」
「……おひろめ」
「王城に行って、国王陛下に、ご挨拶するの。だから、いちばん素敵な姿で、行かなくちゃね」
「……こくおう、へいか」
ノアの白い耳が、ぴくりと、緊張で、こわばった。
***
最初、ノアは、ドレスに、戸惑っていた。
仮縫いのドレスを着せられると、ノアは、その場で、固まってしまった。
「……うごけ、ない」
「ふふ、慣れるまでは、そうよね」
ルクレツィアが、優しく笑う。
ドレスは、ノアが今まで着ていた、ふわりとしたワンピースとは、まるで違った。
裾が広がっていて、足元が見えにくい。生地が重なって、腕も、思うように、動かない。
「ノア、こけそう」
「大丈夫。ゆっくり、歩いてみて」
「……っ、と」
ノアが、一歩、踏み出した、その瞬間。
ドレスの裾を、自分で踏んで、ぐらり、と、よろけた。
「わわっ」
「ノアちゃん!」
すかさず、近くにいたカティアが、ノアの腕を、支えた。
「危ない。ほら、裾は、こうやって、少し持ち上げて歩くのよ」
「……むずかしい」
「最初は、みんな、そうよ。私だって、初めてドレス着たときは、何回も転んだもの」
「カティア、ねえさまも?」
「そうよ。ロザリオなんて、階段から、転げ落ちかけたわ」
「ちょっと、カティア! それ、言わないでって、言ったでしょ!」
ロザリオが、顔を真っ赤にして、抗議する。
「あはは。本当のことじゃない」
ノアは、その様子を見て——ふっと、肩の力が、抜けた。
「……ねえさまたちも、ころんだの?」
「そうよ。だから、ノアちゃんも、大丈夫。何回でも、練習すればいいの」
「……うん」
ノアは、こくん、と頷いて——もう一度、慎重に、足を踏み出した。
今度は、裾を、ちゃんと持ち上げて。
「……あるけた」
「上手!」
わあっ、と、姉妹たちが、拍手した。
ノアの白い頬が、ぽっと、嬉しそうに、染まった。
***
それから、ノアの、ドレスの練習は、毎日のように、続いた。
最初は、ぎこちなかった、足取り。
それが、日を追うごとに、少しずつ、滑らかになっていく。
「ノアちゃん、ターンも、してみましょう」
「たーん?」
「くるっと、回るのよ。ほら、こうやって」
ロザリオが、お手本に、くるりと、回ってみせる。
ドレスの裾が、ふわりと、花のように、広がった。
「……っ、すごい」
「ノアちゃんも、やってみて」
「……えっと」
ノアが、おそるおそる、回ってみる。
最初は、ぎくしゃくしていたけれど。
何度も、何度も、繰り返すうちに——。
「……できた!」
ノアの白い髪と、淡い水色の裾が、ふわりと、舞った。
まるで、雪の妖精が、踊っているような、可憐な、姿だった。
「ノアちゃん、上手になったわねぇ」
ルクレツィアが、目を細めて、ノアを見つめた。
ほんの一ヶ月前まで、怯えて、部屋の隅で、丸まっていた子が。
今では、こんなにも、生き生きと、笑っている。
『……本当に、強い子』
ルクレツィアの胸に、温かいものが、込み上げた。
***
ある日の、夕方。
ちょうど、城から帰ってきたレオンが、その練習に、加わることになった。
「ダンスも、練習しておくといいわ。お披露目では、夜会も、あるかもしれないし」
ルクレツィアの提案で、応接間に、ちょっとした、ダンスの場が、設けられた。
「れおん、おどるの?」
「うん。ノアと、一緒にね」
レオンが、ノアの前で、軽く、お辞儀をする。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「……っ、えへへ」
ノアが、小さな手を、レオンの手に、重ねた。
けれど——いざ、踊ろうとすると。
「……れおん、とおい」
ノアの手は、レオンの腰の、あたりまでしか、届かなかった。
レオンは、二十八歳の、長身の騎士。ノアは、見た目十歳ほどの、小柄な少女。
二人の体格差は、いかんともしがたく——普通に組んで踊るには、あまりに、差がありすぎた。
「……あれ。これは、難しいな」
「ノア、ちいさいから……おどれない?」
ノアの白い耳が、しゅん、と、垂れる。
「ううん。そんなことない」
レオンは、少し考えて——それから、ぽん、と、手を打った。
「こうしよう」
そう言って、ひょいと、ノアを、抱き上げた。
「わっ」
「これなら、目線も、ぴったりだ」
レオンの腕の中で、ノアが、目を、ぱちくりさせる。
さっきまで、見上げていたレオンの顔が、今は、すぐ目の前にあった。
「……れおんと、おなじ、たかさ」
「うん。じゃあ、このまま、回ってみようか」
「……うん!」
レオンが、ノアを抱いたまま、くるり、と、回る。
応接間に、ノアの、楽しそうな笑い声が、響いた。
「わあ……っ、ふふ、たのしい!」
「あはは、楽しいね」
レオンも、つられて、笑う。
くるくる、くるくる。
二人は、すっかり、夢中になって、回り続けた。
ノアの、淡い水色の裾が、ふわりふわりと、舞う。
レオンの腕の中で、ノアが、きゃっきゃと、声を上げて、笑う。
もはや、ダンスの練習というより——ただの、楽しい、遊びだった。
「……あの」
その様子を、見ていたルクレツィアが、こめかみを押さえた。
「レオン。それ、ダンスじゃ、ないわよね?」
「え? あ……」
レオンが、はた、と、我に返る。
「これは……お披露目では、無理ね」
ルクレツィアが、やれやれと、ため息をついた。
けれど、その口元は、笑っていた。
「国王陛下の御前で、ノアちゃんを、抱えて、ぐるぐる回るわけには、いかないでしょう」
「……た、確かに」
レオンが、ノアを、そっと、下ろす。
ノアは、まだ、楽しそうに、ふわふわ、笑っていた。
「だから、夜会では、踊らなくて、いいわ。ノアちゃんは、レオンの隣で、にこにこ、していればいいの」
「うん。それが、いいね」
レオンは、苦笑して、頷いた。
と——そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、長男のテオが、応接間を、覗き込んだ。
「あ、ダンスの練習?」
「テオ」
「ぼく、ダンス、習ってるよ。家庭教師の先生に」
テオは、得意げに、胸を張った。
「ねえ、ノアおねえちゃん。ぼくと、踊ってみる? ぼくたち、背、近いから、ちゃんと踊れるよ」
「……テオくんと?」
ノアの目が、ぱっと、輝いた。
確かに、十歳のテオとなら、体格差は、ほとんどない。普通に、手を取り合って、踊れそうだった。
「うん。ぼく、エスコート、できるよ。こうやって——」
テオが、紳士のように、ノアに、手を差し出す。
「……っ、ま、待った」
その瞬間。
レオンが、ずいっ、と、二人の間に、割って入った。
「テオ。ダンスは、その……まだ、ノアには、早いんじゃないかな」
「え? でも、お披露目の練習でしょ?」
「いや、その。ノアは、疲れてるだろうし。ね、ノア。今日は、もう、休もうか」
「ノア、つかれてない、よ?」
「い、いや、でも。明日も、あるし」
『……あれ。僕、何を、言ってるんだ』
レオン自身、自分が、なぜ、こんなことを、言っているのか、よくわからなかった。
ただ——テオが、ノアに、手を差し出した、その瞬間。
胸の奥が、もやもやと、落ち着かなくなったのだ。
なんだか、嫌な感じ。ノアが、自分以外の誰かと、手を取り合うのが——。
『……いや。テオは、まだ、子どもだし。何を、僕は』
「……おじさま」
その様子を、じっと見ていたテオが、ぽつりと、言った。
「もしかして……ヤキモチ?」
「——っ」
レオンの動きが、ぴたり、と、止まった。
「な、何を、言うんだ、テオ。ヤキモチなんて、そんな」
「ふうん」
十歳の少年は、にやり、と、笑った。
その顔は、どこか、父親のユリウスに、似ていた。
「おじさま、わかりやすいって、お父さまが、言ってたよ」
「……っ、ユリウス……!」
レオンが、顔を、赤くする。
その横で、ノアは、きょとん、と、首を傾げていた。
「やきもち? なに?」
「ふふ。ノアおねえちゃんは、知らなくて、いいよ」
テオは、いたずらっぽく、笑った。
なんだか、子どもたちのほうが、よっぽど、大人びて、見える瞬間だった。
『……まいったな』
レオンは、片手で、顔を、覆った。
自分の中の、この、よくわからない感情に——名前を、つけられないまま。
***
その夜。
眠る前に、ノアは、ふと、思った。
『……れおんと、おどるの、たのしかった』
『でも』
『ノアが、ちゃんと、おっきく、なれたら』
『れおんに、だっこされなくても』
『ちゃんと、てを、つないで……むきあって、おどれるのかな』
その想いが、何を、意味するのか。
ノア自身も、まだ、よく、わからなかった。
ただ——いつか、そんな日が、来たらいいな、と。
ノアは、小さく、願った。
***
お披露目を、数日後に控えた、ある日の夕方。
城から帰ってきたレオンが、応接間の扉を、開けた、その瞬間。
「あ、れおん。おかえり」
ノアが、振り返った。
淡い水色のドレスを、まとって。
白い髪を、結い上げて、小さな花の髪飾りを、つけて。
夕日が、窓から差し込んで、ノアの姿を、淡い金色に、照らしていた。
「……」
レオンは、扉のところで、固まった。
『……え』
『え、誰』
『……いや、ノアだ。ノアなんだけど』
いつものノアと、同じはずなのに。
ドレスを着た、ノアの姿は——なんだか、ひどく、特別に、見えた。
心臓が、どくん、と、大きく、跳ねる。
「れおん?」
ノアが、不思議そうに、首を傾げた。
「ノアの、ドレス。へん?」
「……っ、ち、違う」
レオンは、慌てて、首を、横に振った。
「変じゃ、ない。すごく……すごく、似合ってる」
「……ほんと?」
「うん。本当に。その……」
レオンは、言葉を、探した。
けれど、頭の中が、ぐるぐるして、うまく、まとまらない。
「……きれいだ」
ぽつりと、零れた、その一言。
『……あ。今、僕、なんて』
レオンの顔が、一気に、赤くなった。
ノアの白い頬も、ふわっと、桜色に、染まる。
「……っ、えへへ」
ノアは、嬉しそうに、はにかんだ。
その様子を、応接間の隅で見ていた、ロザリオとカティアが——。
「……姉さま。見た?」
「見たわ。バッチリ」
にやにやと、顔を見合わせていた。
『……あ、しまった』
レオンは、二人の視線に気づいて、ますます、いたたまれなくなった。
***
そして——お披露目の、当日。
約束の、一ヶ月が、過ぎていた。
朝早くから、ルクレツィアと、姉妹たちが、総出で、ノアの支度を、整えた。
仕上がったドレスを、まとい。髪を、丁寧に結い上げ。小さな宝石の髪飾りを、添える。
最後に、姿見の前に、立ったノアは——。
「……これ、ノア?」
鏡の中の、自分の姿に、ぱちぱちと、瞬きをした。
淡い水色のドレスに包まれた、白い髪の少女。
淡い紫の瞳が、宝石のように、輝いている。
「そうよ。これが、めかしこんだ、ノアちゃん」
「……ノア、ちがう子、みたい」
「ふふ、同じノアちゃんよ。ただ、とびきり、可愛いだけ」
ルクレツィアが、ノアの肩を、そっと、撫でた。
「さあ、レオンが、待ってるわ。行ってらっしゃい」
「……うん」
ノアは、こくん、と頷いて——玄関へ、向かった。
***
玄関ホールで、レオンが、待っていた。
いつもの執務服ではなく、騎士団長としての、正装に身を包んでいる。
白を基調とした、礼服。胸には、騎士団の紋章。腰には、儀礼用の剣。
その凛々しい姿に——ノアの足が、ふと、止まった。
「……れおん、かっこいい」
「あはは、ありがとう。ノアも、すごく、可愛いよ」
レオンは、ノアの前で、膝をついて、目線を、合わせた。
「ノア。今日、緊張してる?」
「……うん。ちょっと」
「大丈夫。僕が、ずっと、一緒にいるから」
「……れおんが、いっしょ?」
「うん。今日は、ずーっと、ノアのそばにいる。だから、何も、怖くないよ」
レオンは、にっこりと、笑った。
「練習した、ご挨拶。できそう?」
「……うん。ノア、がんばる」
「うん。いい子だね」
レオンは、ノアの小さな手を、そっと、握った。
「じゃあ、行こうか。お城へ」
「……うん!」
***
馬車に揺られて、王城へ。
ノアは、レオンの隣で、緊張に、身を、固くしていた。
ぎゅっと、レオンの手を、握ったまま。
「ノア。深呼吸して」
「……すー、はー」
「うん。上手」
窓の外に、王城が、見えてきた。
白い石壁。高い尖塔。きらびやかな、王家の旗。
「……おっきい」
「うん。大きいね」
「……ノア、ちゃんと、できるかな」
「できるよ。たくさん、練習したじゃないか」
レオンは、ノアの手を、ぎゅっと、握り返した。
「それに、もし、間違えても、大丈夫。僕が、フォローするから」
「……れおんが?」
「うん。だって、僕は、ノアの——」
レオンは、そこで、ほんの少し、言葉に詰まって。
それから、照れたように、笑った。
「……ノアを、守る人、だから」
ノアの淡い紫の瞳が、ふわりと、和らいだ。
「……うん。ノア、れおんが、いれば、だいじょうぶ」
***
王城に着くと、二人は、侍従に案内されて、控えの間で、しばし待った。
やがて、侍従が、恭しく、告げた。
「本日の式次第で、ございます。まずは、陛下と王妃殿下に、私的なご挨拶を。その後、謁見の間にて、正式なお披露目。夜には、夜会が、ございます」
「うん。ありがとう」
「では——どうぞ、こちらへ。陛下と王妃殿下が、お待ちです」
「……行こう、ノア」
「……うん」
ノアは、レオンの手を、ぎゅっと握って、頷いた。
通されたのは、謁見の間ではなく、王家の私室に近い、小さな応接の間だった。
窓から、柔らかな光が差し込み、上品な調度品が、整然と並んでいる。
その奥に——アルノー王が、座っていた。
ダークブラウンの髪に、青い瞳。穏やかで、品のある佇まい。
そして、その隣には——一人の女性が、寄り添っていた。
艶やかな黒髪を結い上げ、凛とした瞳をした、美しい女性。
ヴァルトヘルツ王国の、王妃セイラだった。
「よく来た、レオン」
「はい。本日は、お時間をいただき、ありがとうございます。陛下。王妃殿下」
レオンが、騎士の礼をとる。
その隣で、ノアも、練習した通りに——。
「は、はじめ、まして」
たどたどしく、けれど、一生懸命に。
「ノア、です。……えっと、ごきげん、よう」
ノアは、ドレスの裾を、両手でつまんで。
ぺこり、と、淑女の礼を——してみせた。
少し、ぎこちなくて。少し、足がふらついて。
けれど、確かに、心のこもった礼だった。
「……ふむ」
アルノー王が、ゆっくりと立ち上がった。
そして、つかつかと、ノアの前まで歩いてきて——同じ目線まで、しゃがみ込んだ。
「……っ、陛下!?」
レオンが、ぎょっとする。国王が自ら膝をつくなど、異例のことだった。
けれど、アルノー王は、気にする様子もなく、ノアの顔を、まじまじと覗き込んだ。
「ふむ。なるほど。これは——可愛いな」
「……っ」
「うむ。実に、可愛い」
『……陛下、それ、ただの感想ですよね』
レオンが、心の中でつっこむ。
「あなた」
すると、王妃セイラが、穏やかに、けれど、たしなめるように、声をかけた。
「ノアさんが、困っていらっしゃいますよ。あまり、近くで、見つめては」
「む。そうか。すまんな、ノア」
アルノー王が、ぱっと、身を引く。
その素直な様子に、レオンは、思わず、笑いそうになった。
『……陛下、王妃殿下には、頭が上がらないんだな』
王妃セイラは、ノアの前で、優雅に膝を折り、目線を合わせた。
その所作の一つひとつが、洗練されていて、けれど、少しも、気取ったところがない。
「ノアさん。はじめまして。わたくしは、セイラ。この国の、王妃です」
「……おうひ、さま」
「ええ。そんなに、緊張しなくて、大丈夫よ」
セイラの声は、凛としていながら、どこか、春の日差しのような温かさがあった。
「あなたのことは、ロザリオから、よく聞いているわ」
「……ロザリオ、ねえさま?」
「ええ。ロザリオは、わたくしの、弟のところへ、嫁いだの」
セイラが、上品に、微笑む。
「わたくしの実家は、ベルリオーズ侯爵家。その当主が、わたくしの弟でね。ロザリオは、その妻——つまり、侯爵夫人なのよ」
「……こうしゃく、ふじん」
ノアが、目を、ぱちくりさせる。
いつも、ノアの前で、きゃっきゃと、はしゃいでいる、あのロザリオが。
高位の貴族の、夫人——なんて、ノアには、まだ、うまく、結びつかなかった。
「ふふ。意外、という顔ね」
セイラは、ノアの心を読んだように、目を細めた。
「あの子ね、あなたの前では、子どもみたいに、はしゃいでいるでしょう。でも、社交の場では、なかなか、どうして。如才なく、立ち回る、立派な侯爵夫人なのよ」
「……ロザリオ、ねえさまが?」
「ええ。侯爵領の、夫人の務めも、きちんと、果たしているわ。あの明るさで、領民にも、慕われているの。——まあ、あなたの話になると、すぐ、年相応の女の子に、戻ってしまうのだけれど」
セイラは、くすり、と、笑った。
「会うたびに、『ノアちゃんが、可愛くて』『今日は、こんなことが、あって』と、それは、もう、楽しそうに。おかげで、わたくしまで、あなたに、会うのが、楽しみに、なってしまったわ」
「……っ、えへへ」
ノアの白い頬が、嬉しそうに、ほころんだ。
会ったばかりの、王妃。本当なら、緊張で、固まってしまいそうな相手。
けれど、セイラの、さりげない気遣いと、ロザリオの話のおかげで——ノアの肩から、少しずつ、力が、抜けていった。
「ノアさん。今日は、たくさんの貴族が、あなたを、見に来ているわ」
「……はい」
「きっと、緊張すると思う。でもね」
セイラは、ノアの、小さな手を、そっと、両手で、包んだ。
「あなたは、ちゃんと、ここにいていい子。それを、皆に、見せてあげればいいの。難しいことは、何も、いらないわ」
「……」
「あなたが、いつも通り、にこにこ、していれば。それだけで、皆、あなたのことを、好きになる。ロザリオが、そうだったように。わたくしが、今、そうなったように」
ノアの淡い紫の瞳が、じわりと、和らいだ。
「……はい。ノア、がんばります」
「ええ。いい子ね」
セイラは、満足げに、頷いて、立ち上がった。
『……さすが、王妃殿下』
レオンは、内心で、感嘆していた。
たった、数分の、やり取り。
それで、セイラは、ノアの緊張を、すっかり、解いてしまった。凛として、聡明で、それでいて、温かい。
『陛下が、頭が上がらないのも、わかる気がするな……』
「ところで、レオン」
アルノー王が、にやりと、笑った。
「いつぞや、お前が、この私に、宣言したことを——覚えているか」
「……っ」
レオンの肩が、びくりと、跳ねた。
忘れるはずもない。いつだったか、王の私室で、レオンは、確かに、言ったのだ。
「この子を、『お嫁さんにします』、とな」
「へ、陛下! その話は……っ」
「ん? 隠すことではないだろう。あのときの、お前の顔は、実に、見ものだった。世にも真剣な顔で、な」
アルノー王は、楽しそうに、笑った。
「あなた。レオンが、困っていますよ」
「む。そうか」
『……王妃殿下、ありがとうございます』
レオンが、心の中で、セイラに感謝した、そのとき。
ノアが、こてん、と、首を傾げた。
「……およめさん?」
ぽつりと、ノアが、呟いた。
その言葉の意味を、ノアは、まだ、よく、知らなかった。
「……およめさんって、なに?」
「——っ」
レオンが、ぎくり、と、固まる。
『あ。これは。まずい』
『どう、説明すれば……いや、というか、僕の口からは、恥ずかしくて』
レオンが、しどろもどろに、なっていると——。
「ふむ。ノア、知らぬのか」
なぜか、アルノー王が、得意げに、身を乗り出した。
「よし。この私が、教えてやろう」
「へ、陛下!?」
『なんで、陛下が!?』
レオンが、慌てるのも、構わず。
アルノー王は、こほん、と、咳払いをして——。
「いいか、ノア。お嫁さん、というのはな」
「うん」
「好きな相手と、夫婦になる、ということだ。ずっと、一緒にいて。ずっと、共に、生きていく」
「……ずっと、いっしょ?」
「うむ。朝も、夜も。嬉しいときも、悲しいときも。ずーっと、一緒だ」
アルノー王は、ちらり、と、隣のセイラを、見た。
「私と、セイラのように、な」
「……っ」
今度は、セイラの頬が、ほんのり、染まった。
「あなた。何を、急に」
「ん? 事実だろう」
アルノー王は、けろりと、している。
『……陛下、さっきの僕への仕返しのつもりが、自分で照れてません?』
レオンは、心の中で、つっこんだ。
けれど、ノアは——アルノー王の言葉を、じっと、噛みしめていた。
「……ずっと、いっしょ。れおんと」
ノアの淡い紫の瞳が、ゆっくりと、輝いていく。
「あさも、よるも。うれしいときも、かなしいときも……ずっと、れおんと、いっしょ?」
「……う、うん。そう、だね」
レオンが、真っ赤になりながら、頷く。
その瞬間。
ノアの顔が——ぱあっと、花が咲くように、明るくなった。
「……うん! ノア、れおんの、およめさんに、なる!」
きっぱりと、迷いのない、声だった。
「ノア、れおんのこと、すき。だから、ずっと、いっしょに、いたいの。だから——およめさんに、なりたい」
『——』
レオンの心臓が、大きく、跳ねた。
王と王妃の御前で、堂々と、まっすぐに言い切る、その姿。
『……ノア』
胸の奥が、温かいもので、いっぱいになる。
その「温かさ」の正体に——レオンは、まだ、気づかないふりをしていた。
セイラが、ふふ、と、上品に微笑んだ。
「まあ。素敵な、お返事ね」
「うむ。実に、よろしい」
アルノー王も、満足げに、頷いた。
「うん。よい。実に、よい。——どうだ、レオン。私の説明、完璧だったろう」
「……陛下が、よけいなことを、言わなければ、もっと、よかったです」
「ふは。違いない」
アルノー王は、豪快に、笑った。
そして、ふと、思い出したように、付け加える。
「ああ、そうだ。ノア。今夜は、夜会がある。我が城の、木苺のタルトが——実に、美味でな」
「……きいちご?」
ノアの目が、ぱっと、輝いた。
「うむ。甘くて、酸っぱくて、実に、美味なりだ。たんと、お食べ」
「……うん!」
「あなた」
セイラが、また、たしなめるような声を、出す。
「ノアさんを、お菓子で、釣ろうとしないでください」
「む。釣るなど、人聞きの悪い。ただ、美味いものを、勧めただけだ」
「……まあ。よろしいですけれど」
セイラの呆れたような微笑みに、レオンも、思わず、苦笑した。
***
私的な挨拶のあと。
二人は、いよいよ、正式な謁見の間へと、通された。
高い天井。磨き上げられた、大理石の床。
そして——その左右には、大勢の貴族たちが、居並んでいた。
きらびやかな装いの、紳士淑女たち。
その視線が、いっせいに、ノアに、注がれる。
好奇。品定め。値踏み——さまざまな色を含んだ、無数の視線。
「……っ」
ノアの足が、ぴたり、と、止まった。
たくさんの、見知らぬ大人たち。突き刺さるような、視線。
ノアの小さな身体が、緊張で、こわばっていく。
けれど——その視線の中に。
ノアは、いくつか、知っている顔を、見つけた。
左手の列に、ユリウスと、ルクレツィアが、立っていた。公爵夫妻としての、格式高い正装で。
その隣には、ロザリオと、見知らぬ紳士。ベルリオーズ侯爵——ロザリオの、夫だった。
さらに、その向こうには、カティアと、精悍な顔つきの男性。国境を守る、辺境伯家に嫁いだ、カティアと、その夫。
みんな、いつもとは、まるで違う、貴族としての装いで。
けれど、ノアと目が合うと——そっと、優しく、微笑んでくれた。
『……ねえさまたち』
ノアの胸に、ほっと、温かいものが、灯る。
知らない人ばかりの中に、確かに、味方が、いる。
「ノア」
レオンが、そっと、ノアの手を、握った。
「大丈夫。僕が、ここにいる」
「……れおん」
「前だけ、見てて。陛下だけを、見ていればいい。他は、気にしなくていいから」
その言葉に、ノアは、こくん、と頷いて——前を、向いた。
玉座の、アルノー王だけを、見つめて。
一歩、一歩、進んでいく。
練習した通りに。裾を、そっと持ち上げて。背筋を、伸ばして。
けれど——その歩みの最中。
居並ぶ貴族の中から、ひそひそと、囁き声が、漏れ聞こえてきた。
「あれが、噂の……闇オークションで、買われたという」
「まあ。獣人を、わざわざ。騎士団長も、物好きな」
「素性も知れぬ、得体の知れぬ子を、王城に、あげるなど」
「……っ」
ノアの白い耳が、ぴくり、と、震えた。
獣人の、鋭敏な聴覚。その囁きは——ノアの耳に、はっきりと、届いていた。
ノアの足が、また、止まりかける。淡い紫の瞳が、不安げに、揺れた。
『——』
その瞬間。
レオンが、ぴたり、と、足を止めて——囁きの聞こえた方を、まっすぐに、見据えた。
いつもの、穏やかな表情では、なかった。
「……今、何か、おっしゃいましたか」
その声は、低く、静かで——けれど、ぞくりとするほど、鋭かった。
囁いていた貴族たちが、ぎくり、と、身をすくめる。
「この子は、神獣の森に育った、稀少な子です。そして——僕が、命に代えても、守ると決めた、大切な子だ」
レオンの、ヘーゼルの瞳が、静かな怒りを、湛えていた。
「素性が知れぬ、と言うなら。僕が、保証します。この子は、誰よりも、清らかで、優しい子だと」
「それでも、まだ、何か、おっしゃりたいことが、おありですか」
「……っ、い、いや」
囁いていた貴族たちが、気まずそうに、目を、伏せた。
と——。
「まったく。聞き苦しいこと」
凛とした声が、響いた。ロザリオだった。
いつもの、はしゃいだ様子とは、まるで違う。侯爵夫人としての、堂々たる佇まいで。
「義兄が、これほど大切にする子。ベルリオーズ侯爵家も、全力で、後ろ盾と、ならせていただきますわ。——よろしくて?」
その、優雅で、けれど、有無を言わさぬ言葉に。貴族たちが、いっせいに、口を、つぐんだ。
「ええ。我が、クライン公爵家も、同様だ」
続けて、ユリウスが、静かに、けれど、重く、言った。
「宰相として、申し上げる。この子に、不当な言いがかりをつける者は——相応の、覚悟を、していただこう」
「……」
もはや、誰も、何も、言えなかった。
公爵家、侯爵家、そして辺境伯家。国の重鎮たちが、揃って、ノアの後ろ盾に、立ったのだ。
『……ねえさま。ユリウス』
ノアの胸が、じん、と、熱くなる。
その姿に、勇気をもらって——ノアは、もう一度、前を向き、歩き出した。
玉座の前まで来ると、ノアは、深く、淑女の礼をした。
もう、足は、ふらつかなかった。
「ノア、と申します。……ごきげん、よう。こくおう、へいか」
凛とした、その姿に——居並ぶ貴族たちは、もう、誰も、嘲笑を、浮かべなかった。
むしろ、その可憐さと、健気さに、戸惑い、見入っていた。
「うむ」
アルノー王が、玉座から、ゆっくりと、口を開いた。
その声は、もう、先ほどの砕けたものではない。王としての、威厳に満ちていた。
「ノア。そして、騎士団長レオン・グラディウス・シュタルク。皆の前で、宣言する」
謁見の間が、しん、と、静まり返る。
「この者、ノアは——本日より、我が王家が、その身を、認める者である」
貴族たちが、息を呑んだ。
「騎士団長レオンが、保護し、慈しむ者。何者も、この子に、不当な手出しは、許さぬ。もし、この子を害そうとする者あらば——それは、ヴァルトヘルツ王家への、敵対と、みなす」
王の言葉が、謁見の間に、響き渡った。
先ほどまで、陰口を、囁いていた、貴族たちの顔が——。
すっと、青ざめ、そして、改められていく。
王家が、公に認めた。それは、何より重い、事実だった。
「レオン」
「はい」
「この子を、しかと、守れ」
「——はい。我が、剣に、誓って」
レオンは、深く、騎士の礼をとった。
その横顔は、いつもの穏やかなレオンではなく。
ノアを守る、ひとりの騎士の、凛とした覚悟に満ちていた。
ノアは、その横顔を、じっと見つめて——。
胸の奥が、じんと、熱くなるのを、感じていた。
***
謁見が終わると、その夜は——お披露目を兼ねた、夜会が、催された。
大広間に、シャンデリアの光が、きらめく。
優雅な楽の音が、流れ、着飾った貴族たちが、思い思いに、歓談している。
その中心に——レオンと、ノアがいた。
謁見での、堂々とした姿。そして、王家の正式な認知。
それらを目にした貴族たちは、もう、ノアを、奇異の目では、見なかった。
「まあ、なんて、可愛らしいお嬢さん」
「神獣の森から、いらしたとか。なんと、神秘的な」
「騎士団長殿が、大切にされるのも、頷けますな」
口々に、好意的な言葉が、寄せられる。
ノアは、最初こそ、緊張していたけれど。
レオンが、ずっと、隣にいてくれたから。
少しずつ、その場に、慣れていった。
「れおん」
「うん?」
「……みんな、ノアのこと、こわくないみたい」
「うん。みんな、ノアの、いいところを、わかってくれたんだよ」
「……えへへ」
そのとき、給仕が、銀の盆を、運んできた。
その上には——色とりどりの、菓子が、並んでいた。
ひときわ目を引く、赤い木苺の、タルト。
「あ」
ノアの目が、きらきらと、輝いた。
「……きいちごの、タルト」
「陛下が、言ってた、やつだね。食べてみる?」
「……いいの?」
「もちろん」
レオンが、ひと切れ、取って、ノアに渡す。
ノアは、おそるおそる、それを、一口、食べた。
その瞬間——。
「……っ、おいしい!」
ノアの白い頬が、ぱあっと、輝いた。
「あまくて、すっぱくて……ふわふわで……おいしい!」
「あはは、よかった」
「れおんも、たべて。はい」
ノアが、自分の食べかけを、レオンに差し出す。
「あ、ありがとう」
レオンは、それを、ぱくっと食べた。
「ほんとだ。おいしいね」
「でしょ!」
二人の、微笑ましい様子を——少し離れた場所から、アルノー王と、王妃セイラが、見ていた。
「ふむ。よい光景だな」
「ええ。本当に」
セイラが、穏やかに、微笑む。
「あの子、来たばかりの頃は、ずいぶん、苦労したと聞きました。それが、今では、あんなに、安らいだ顔を」
「うむ。レオンの、おかげだろうな」
アルノー王は、ワインを、ひと口、含んだ。
「あやつ、昔から、誰かのために、なるときが、いちばん、強い。……よい、相手を、見つけたものだ」
「あなたが、認めてくださって、よかった」
「当然だ。——まあ、それはそれとして」
アルノー王が、ふと、自分の皿に、視線を落とした。
「この、木苺のタルト。本当に、美味なりだな」
「……あなた。それが、言いたかっただけでしょう」
「む。ばれたか」
セイラが、やれやれと、肩をすくめる。
けれど、その口元は、優しく、笑っていた。
***
こうして——ノアの、王城お披露目は。
案じていた、波乱も、何ひとつ、なく。
ただただ、温かく、穏やかに——幕を、閉じたのだった。
***
その日の、夜。
王都の外れ。打ち捨てられた、時計塔の上。
小さな影が、夜の王城を、じっと、見下ろしていた。
「……ふぅん。おひろめ、うまくいったんだ」
幼い少女のような声が、つまらなそうに、呟いた。
「おうさままで、あのこを、みとめちゃった。これで、だれも、てだし、できないね」
影は、こつん、と、踵で、塔の縁を、蹴った。
「……でも」
その声が、すうっと、低くなる。
「おうさまの、まもりなんて。わたしには、かんけい、ないもの」
影は、くすり、と、笑った。
「だって、わたしは——にんげんの、こころのなかに、はいれるんだから」
「とびらに、かぎを、かけたって。むだ。だって、わたしは、なかから、あけられるんだもの」
影の背中で、薄い羽が、夜風に、揺れた。
「ねぇ、ノア。たのしい、おひろめは、おわり」
「つぎは——わたしの、ばん」
ぱた、と、羽音が、一度。
影は、夜の闇に、溶けるように——消えていった。
あとには、静かな、王都の夜だけが、残された。
その不穏な気配に、気づく者は——まだ、誰も、いなかった。
——第6話 了
おまけSS 〜テオの夜〜
お披露目から、帰ってきた、その夜。
テオは、自分の部屋のベッドに寝転んで、天井を、じっと見上げていた。
頭の中で、今日の出来事が、ぐるぐると、回っている。
『……おじさま、ほんとに、ヤキモチだったよなぁ』
ダンスの練習で、ぼくがノアおねえちゃんに、手を差し出した、あの瞬間。
おじさまの、あの慌てっぷり。
『ふふ。指摘したら、固まってたし』
大人なのに、自分の気持ちが、わかっていないなんて。
お父さま(ユリウス)が言っていた、「お前の伯父は、ああいうことに、本当に、わかりやすいんだ」というのは、本当だった。
『……でも』
テオは、ふと、思い出した。
謁見で、陰口を言った貴族に、毅然と立ち向かった、おじさまの姿。
「命に代えても、守ると決めた、大切な子だ」と、まっすぐに言い切った、あの声。
『……おじさま、かっこよかった』
ノアおねえちゃんを、あんなふうに、守れる人。
あんなふうに、誰かを、まっすぐ大切にできる人。
『……いいな』
テオの胸に、ふと、子どもらしくない、感情が、芽生えた。
『……ぼくも』
ぽつり、と、口に出してみる。
「……ぼくも、はやく、いいなずけ、ほしいな」
『——』
言った瞬間、テオの白い頬が、ぼっと、赤くなった。
『い、いや。べつに、今すぐじゃ、なくていいけど』
『でも、いつか、おじさまみたいに、誰かを、まっすぐ、守れる男に……』
「にいさま……?」
と——隣のベッドから、寝ぼけた、ルカの声。
「いま、なんか、いった?」
「——っ、い、いや! なんでもない!」
テオが、慌てて、毛布を、頭まで、引き上げる。
「うん……?」
ルカは、ぼんやりと、首を傾げて——また、すぐに、寝息を立て始めた。
『……あぶなかった』
テオは、毛布の中で、ほっと、息をついた。
子どもの自分には、まだ早い、想い。
でも——いつか、自分も。
おじさまみたいに、大切な誰かを、見つけられる日が、来るのだろうか。
そんなことを思いながら——テオは、目を、閉じた。
その日の夢に、何が出てきたかは——本人にしか、わからない。




