第5話 森の記憶と、届かない声
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よく晴れた、午後だった。
城での午前の執務を終えたレオンは、いつものように昼前に帰宅し、家族と昼食を取って、午後の出仕までの短い時間を、ノアと過ごしていた。
ルクレツィア家の子ども部屋。
ノアは、ルカと並んで床に座り、一冊の絵本を開いていた。
「……む、むかし、むかし……」
ノアが、たどたどしく文字をたどっていく。
文字を習い始めて、まだ日が浅い。それでも、ノアは毎日、少しずつ読めるようになっていた。
「あ、それ、『ふかい もり』!」
隣のルカが、得意げに教えてくれる。
「ふかい、もり、に……」
ノアが、ページをめくる。
その絵本には、深い緑の森が描かれていた。
大きな木々。木漏れ日。きらきらと光る泉。
その絵を見た瞬間——ノアの手が、ふと止まった。
「……ノア?」
レオンが、ソファから声をかける。
ノアは、絵本の森の絵を、じっと見つめていた。
淡い紫の瞳が、どこか遠くを見るような色になっていた。
「……これ、もり」
「うん。森だね」
「ノアも、もりに、いた」
ノアの、ぽつりとした言葉に、レオンは、静かに頷いた。
「うん。神獣の森、だね」
「……うん」
ノアは、絵本の中の森を、そっと指先でなぞった。
まるで、懐かしいものに触れるように。
「ノアの、もり……こんな、ふうだった」
***
ノアが森の話を始めたのは、それが初めてだった。
これまで、ノアは、自分の過去をほとんど語らなかった。
森から人間の世界へ連れ出された経緯は、この家に来たばかりの頃、ぽつぽつと、断片的に話してくれた。けれど、それ以上は、ノア自身、思い出すのがつらそうだった。
だから、レオンも姉妹も、無理には聞かなかった。
けれど——今、ノアは、自分から話そうとしていた。
絵本の森に、心を開かれたように。
「もりはね、おっきいの。きが、たくさん」
ノアの声が、少しずつ生き生きとしてくる。
「あさは、はっぱの、すきまから、ひかりが、おちてくるの。きらきら、して」
「うん」
「いずみが、あってね。みずが、つめたくて、きれいで。のぞくと、おそらが、うつるの」
レオンは、ソファから降りて、ノアの隣に座った。
ルカもリナも、ノアの話を、じっと聞いている。
いつのまにか、絵本を読みに来ていたテオも、扉のそばで足を止めていた。
「もりには、しんじゅうが、たくさん、いたの」
「ゼルや、シャルみたいな?」
「うん。ゼルみたいな、おおきいの。シャルみたいな、ちいさいの。とりも、いた。さかなみたいなのも、いた」
「へえ……」
「それとね、ようせいも、いたの」
「妖精?」
「うん。ちいさくて、きらきらして、はねが、あって。おはなみたいな、においが、するの」
ノアが、両手で、小さな何かをすくうような仕草をした。
「ノアの、かたとか、あたまに、とまって、うたを、うたってくれた」
「みんな、ノアと、あそんでくれた」
ノアの白い頬が、ふんわりとほころぶ。
その表情は、レオンが今まで見た中で、いちばん安らいでいた。
「それでね、それでね。もりの、ぬしが、いるの」
「森の、主」
「うん。いちばん、おおきくて、いちばん、つよい、しんじゅう」
ノアは、両手をいっぱいに広げた。
「こーんなに、おっきいの。ううん、もっと、もっと、おっきい」
「そんなに?」
「うん。しろくて、ぎんいろで……ふわふわなの」
『……白銀の、神獣』
レオンは、心の中でつぶやいた。
神獣の森の主。伝説の中にしか、いないとされる存在。
けれど、ノアの語る主は、伝説の威厳ではなく——もっと温かくて、優しい何かだった。
「ぬしはね、ノアを、せなかに、のせてくれたの」
「背中に?」
「うん。ふわふわの、せなか。たかくて、こわくて、でも、たのしくて」
ノアは、その時のことを思い出すように、目を細めた。
「よるはね、ぬしの、おなかの、よこで、ねむったの。あったかくて、おおきな、こきゅうの、おとが、して」
「……うん」
「ぬしは、ノアのこと、『ノア』って、よんでくれた」
ノアは、絵本を、ぎゅっと胸に抱きしめた。
「ノアを、ひろってくれて、なまえを、くれて、そだててくれたの。ぬしと、しんじゅうたちと、ようせいたちが」
『……そうか』
レオンの胸に、温かいものが広がった。
ノアは、捨て子だった。人間の世界から見れば、不幸な生い立ちだ。
けれど——ノアには、確かに、愛してくれた者たちがいた。
森の主が。たくさんの神獣たちが。妖精たちが。
ノアは、孤独な子ではなかった。森で、ちゃんと愛されて育ったのだ。
「いい、ところ、だったんだね。ノアの、森」
「うん」
ノアは、こくん、と頷いた。
「ノア、もりが、すきだった」
***
けれど。
その「すきだった」と、過去形で言ったとき。
ノアの声が、ほんの少し沈んだ。
レオンは、それを聞き逃さなかった。
「ノア?」
「……」
ノアは、絵本を抱きしめたまま俯いた。
白い耳が、ぺたんと頭に伏せられる。
さっきまで生き生きと森を語っていたノアの表情に——ふっと、影が差した。
「たのしかった。みんな、やさしかった。……でも、ひとり、だけ」
ノアの言葉が、途切れる。
『……ああ』
レオンには、わかった。
ノアの心に差した影が、何なのか。
ノアは、いつか、ぽつりと語っていた。森から、人間の世界へ、自分を連れ出し、置き去りにした存在のことを。
あの優しい妖精たちの中で——たった一匹だけ。
ノアを、ずっと苦しめてきた、あの——。
レオンは、それ以上、ノアに思い出させたくなかった。
「ノア」
レオンは、ノアの小さな手に、そっと自分の手を重ねた。
「無理に、話さなくて、いいよ」
「……」
「楽しかったことだけ、覚えてれば、いい。つらかったことは、話したくなったときで、いいんだ」
ノアは、しばらく、俯いたままだった。
それから、ぽつりと言った。
「……ノア、ね」
「うん」
「ノア、わるい子、だったのかな」
『——』
レオンの胸が、ぎゅっと痛んだ。
ノアの淡い紫の瞳が、不安げに揺れていた。
「ノアが、いたから……だから、もりで、いやなこと、おきたのかも」
「ノア」
「ノアが、いなければ、よかったのかも」
「ノア」
レオンは、ノアの両肩を、そっとつかんで、自分の方へ向かせた。
淡い紫の瞳を、まっすぐに見つめる。
「それは、違うよ」
はっきりと、言った。
「君は、悪い子なんかじゃない」
「……でも」
「でも、じゃない。いいかい、ノア」
レオンは、ノアの目を見つめたまま、ゆっくりと続けた。
「森の主は、君を拾った。名前をくれた。背中に乗せてくれた。お腹のそばで、眠らせてくれた」
「……うん」
「それは、君が大切だったからだよ。主にとって、君は、いてほしい子だった。いなければよかった子なんて、絶対に違う」
「……」
「君がいたから、悪いことが起きたんじゃない。悪いことをした誰かが、悪いんだ。君は、何も悪くない」
ノアの瞳が、じわりと潤んだ。
レオンは、その小さな身体を、そっと抱き寄せた。
「君は、ここにいて、いい子だよ。森でも、ここでも。君は、誰かに愛されるべき子なんだ」
「……れおん」
「うん」
「……ノア、ここに、いて、いい?」
「いいに、決まってる」
レオンは、ノアの白い髪を、優しく撫でた。
ノアは、レオンの胸に、こてん、と頭を預けた。
その小さな身体から、少しずつ、強張りが抜けていく。
子ども部屋の隅で、リナが、心配そうにノアを見ていた。
ルカもテオも、静かに、その様子を見守っていた。
『……ノアの過去には、まだ、僕の知らない傷が、たくさんあるんだろうな』
レオンは、ノアの髪を撫でながら思った。
『でも——焦らなくていい。少しずつでいい』
『君が安心して過去を話せるように。僕は、ずっとそばにいる』
***
その夜。
夕食を終え、子どもたちが寝静まった頃。
レオンは、ユリウスに呼ばれて、書斎にいた。
宰相であるユリウスの私的な書斎は、本棚にびっしりと書物が詰まり、机の上には、書類が整然と積まれていた。
「座れ」
ユリウスに促され、レオンは、向かいの椅子に腰を下ろした。
「ノアちゃんの件で、調べが進んだ」
ユリウスの声は、いつもの辛口ではなく、低く、静かだった。
レオンの背筋が、自然と伸びる。
「闇オークションを開いていた組織。あれの、おおよその全容が見えてきた」
「……うん」
「人身売買を生業にしている。獣人、孤児、訳ありの人間——金になるものなら、何でも売り買いする。王都だけじゃない。いくつもの国に、根を張っている」
『……それを、僕は、壊滅させられなかった』
レオンの胸が、重くなる。あの夜、任務に失敗したことを思い出す。
「で、ここからが、本題だ」
ユリウスは、机の上の書類を、一枚手に取った。
「あのオークション会場で、何人か、組織の人間を捕らえた。お前がノアちゃんを連れて出たあとも、騎士団が動いていたからな」
「うん」
「そいつらを、尋問した」
ユリウスは、その書類に視線を落とした。
「ノアちゃんが、どこから来たのか。誰が組織に引き渡したのか。それを聞き出そうとした」
「……何か、わかった?」
「わからなかった」
ユリウスは、首を横に振った。
「いや——正確に言うと、おかしなことになった」
「おかしなこと?」
「捕らえた組織員。全員が、同じことを言ったんだ」
ユリウスは、書類を机に置いた。
そして、レオンを、まっすぐに見た。
「『自分の意志じゃ、なかった』、とな」
「……え?」
「全員だ。一人や二人じゃない。捕らえた全員が、口を揃えた」
ユリウスの声が、低くなる。
「『気づいたら、組織にいた』『誰かに命じられて、動いていた』『でも、その"誰か"の顔も、声も、思い出せない』——そう証言した」
『——』
レオンは、言葉を失った。
「最初は、口裏を合わせて、罪を逃れようとしているのかと思った。よくある手だからな」
「……うん」
「だが、違った。あいつら、本気で怯えていた。自分の頭の中に、自分の知らない"空白"があることに。思い出せない時間が、あることに」
ユリウスは、指で、机を、こつ、と叩いた。
「まるで——誰かに、頭の中をいじられたみたいに」
『頭の中を、いじられた』
その言葉が、レオンの中で、嫌な響きを立てた。
「ユリウス。それって……」
「ああ。普通じゃ、ない」
ユリウスは、頷いた。
「人を操る。記憶をいじる。そんな真似ができる"何か"が——あの組織の裏にいる」
「……人間に、できることなのかな。そんなこと」
「わからん。だが、人間だろうが、人間でなかろうが——」
ユリウスは、静かに言った。
「その"何か"は、ノアちゃんを組織に引き渡した。そして、おそらく、今も、どこかにいる」
書斎に、沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、ぱちり、と爆ぜる音だけが響いた。
「……レオン」
ユリウスが、口を開いた。
いつもの辛口でも、宰相としての硬さでもない。義兄としての声だった。
「ノアちゃんを、守れ。お前のそばで」
「……うん」
「俺も、ルクレツィアも、子どもたちも、できる限りのことはする。だが——その"何か"が、ノアちゃんを狙ってこないとは限らない」
「うん。わかってる」
レオンは、深く頷いた。
その瞳には、静かな、けれど、確かな決意が宿っていた。
「ノアは、僕が、守る。何があっても」
レオンの、迷いのない返事に、ユリウスは、ふっと、口の端を、緩めた。
書斎の、張り詰めていた空気が、わずかに、ほどける。
「……ところでな、レオン」
「うん?」
「妙なことを、聞いたぞ。陛下から」
『……陛下から?』
レオンの、嫌な予感が、的中した。
「お前、陛下に、言ったそうだな。ノアちゃんを——『お嫁さんにします』と」
「……っ」
レオンの顔が、一気に、赤くなった。
「な、なんで、それを」
「陛下が、楽しそうに、話してくださった。『レオンが、世にも真剣な顔で、お嫁さんにします、と言ってきた』とな」
『アルノー様……!』
レオンは、頭を、抱えた。
「いや、あれは、その。番とか、そういう難しいことは、僕には、よくわからなくて。でも、ノアと、ずっと一緒にいたくて。守りたくて。それを、僕の言葉で言うなら、その——」
「わかった、わかった。落ち着け」
ユリウスは、めずらしく、声を立てて、笑った。
「いいんじゃないか。お前らしくて」
「……からかってる?」
「半分な」
『また半分かよ……』
ひとしきり笑ってから、ユリウスは、ふと、表情を、改めた。
「だがな、レオン。それなら、ひとつ、やっておくべきことがある」
「やっておくべきこと?」
「ノアちゃんを、王城へ、連れて行け」
「……え?」
「お披露目だ」
ユリウスの声は、宰相としての、落ち着いたものに、戻っていた。
「お前は、騎士団長だ。そして、陛下が、ノアちゃんとのことを、認めてくださった。だったら、いつまでも、この家に、隠しておくわけにはいかない」
「……」
「噂は、だいぶ収まった。今こそ、ノアちゃんを、正式に、陛下に、紹介する。『この子は、騎士団長が大切にしている子だ』と、堂々と、示すんだ」
「……お披露目」
「そうだ。陰でこそこそ言われるより、よほどいい。陛下に、正式に、目通りさせれば——王家が、ノアちゃんを認めた、ということになる。誰も、もう、手出しは、できなくなる」
『……なるほど』
レオンは、ユリウスの言葉を、噛みしめた。
ノアを守る。そのために、自分は、何ができるか。
力で守るだけじゃない。立場で、名前で、王家の威光で——ノアの居場所を、確かなものにしていく。
それも、ノアを守る、大切な方法だった。
「……うん。わかった。陛下に、お願いしてみる」
「ああ。日取りは、俺の方でも調整しておく。とはいえ——」
ユリウスは、ふと、何かを思い出したように、こめかみを押さえた。
「準備に、少し、時間がかかるぞ」
「準備?」
「ノアちゃんの、ドレスだ」
「ドレス……?」
「お披露目だぞ。王城に、正式に上がるんだ。今着てるような普段着で、行かせるわけにはいかんだろう」
「あ……そうか」
「ルクレツィアが、黙ってないだろうな」
ユリウスは、深いため息とともに、首を振った。
けれど、その口元は、どこか、緩んでいた。
「あいつ、ノアちゃんを着飾らせるのが、最近の生きがいみたいなものだ。お披露目用のドレスなんて聞いたら、布地から選び直して、仕立て屋を何度も呼んで、刺繍の一つひとつまで口を出すぞ。間違いなくな」
「……目に浮かぶよ」
「だから、まあ——ひと月、というところだな。ドレスが仕上がって、ノアちゃんがマナーにも慣れて、万全の状態で上がるとなると」
「一ヶ月後、か」
「ああ。焦る必要はない。きっちり、整えてから上がればいい」
ユリウスは、頷いてから——ふと、遠い目になった。
「……しかし、ルクレツィアのやつ。ああいうとき、本当に、楽しそうでな」
「うん?」
「自分のドレスを選ぶときも、そうなんだ。あれこれ悩んで、結局いちばん上品なやつを選ぶ。で、それを着ると——」
ユリウスは、そこで、ふっ、と、表情を、和らげた。
「……まあ、その。なんだ。びっくりするくらい、綺麗なんだ。あいつは」
『……え』
「子どもを三人産んでも、まったく変わらん。出会った頃と、同じだ。むしろ、年々——」
「ユリウス」
「ん?」
「……今、惚気てる?」
『——』
ユリウスの動きが、ぴたり、と止まった。
冷静沈着な宰相の顔が、わずかに——本当に、わずかに、赤くなった。
「……寝ろ。さっさと寝ろ」
「あはは。うん、おやすみ」
「ああ。おやすみ」
『ユリウス、本当に、姉さんのこと、好きなんだなぁ』
レオンは、温かい気持ちで、書斎を、後にした。
辛口で、いつも淡々としている義兄の、思いがけない一面。
それを見られたことが、なんだか、少し、嬉しかった。
***
書斎を出て、レオンが、自分の客間へ戻ろうとした、そのときだった。
《……ご主人》
廊下の途中で、ゼルの声が、頭の中に響いた。
見れば、ゼルが、廊下の真ん中で、立ち止まっていた。
大きな身体をこわばらせて。長い尻尾を、足の間に巻き込むようにして。
「ゼル? どうしたの」
《……わかんない》
ゼルの声は、いつもの元気がなかった。
《なんか……なんか、ぞわぞわ、するんだ》
「ぞわぞわ?」
《うん。背中の毛が、ぜんぶ、逆立つみたいな。耳の奥が、きいんって、なるみたいな》
ゼルは、落ち着かない様子で、その場で、ぐるぐると回った。
《いやな、よかんとか、そういうのじゃ、ないんだ。もっと……もっと、へんな、かんじ》
《なにかが、くる。ううん、ちがう。なにかが——とどく?》
「届く……?」
レオンが、首を傾げた、そのとき。
《ご主人》
今度は、シャルの声だった。
黒猫の神獣が、廊下の窓辺に座っていた。
いつも冷静なシャルの、長い尻尾が——ぴん、とこわばって、まっすぐに立っていた。
《来るよ》
「何が」
《わからない。でも——神気だ。すごく、濃い、神気の気配》
シャルが、窓の外を見つめた。
《これは……神獣の森の、気配だよ、ご主人》
『——』
レオンの全身に、緊張が走った。
その、瞬間。
窓の外で——風が、吹いた。
夜の、無風だったはずの庭で。
突然、木々が、ざわり、と揺れた。
屋敷の窓硝子が、かたかたと鳴った。
それは、ただの風ではなかった。
空気そのものが、しん、と澄んで——どこか清らかで、けれど、途方もなく大きな"何か"が、夜の屋敷を撫でていくような。
《……っ、これ》
《神気の、風……っ》
ゼルとシャルが、同時に、身を伏せた。
二匹とも、その風に、何かを感じ取っていた。
けれど——。
《きこえ、ない》
ゼルが、戸惑った声で言った。
《なにか、いる。なにかが、かたりかけて、る。でも、ぼくには、きこえない》
《僕にも、聞こえない》
シャルも、耳を、ぴくぴくと動かしながら言った。
《何かが、伝わってきてる。でも、その"声"は、僕たちには届かない。まるで——》
シャルの言葉が、止まった。
その視線の先。
廊下の奥。
ノアの部屋の扉が——ひとりでに、すうっと開いた。
「……ノア!」
レオンは、駆け出した。
***
ノアは、ベッドの上に座っていた。
眠っていたはずなのに、その目は、ぱっちりと開いていた。
淡い紫の瞳が——どこか遠くを見ていた。
ここではない、どこか遠い場所を。
「ノア」
レオンが、駆け寄る。
ノアは、レオンの声に反応しなかった。
ただ、虚空の一点を見つめて——その小さな唇が、震えるように動いた。
「……ぬしの、こえ」
「ノア。しっかりして」
「ぬしの、こえが……する」
ノアの白い髪が、神気の風に、ふわりと揺れた。
ノアにだけ——森の主の声が、届いていた。
けれど。
その声は、滑らかには流れてこなかった。
「ノア——」
ノアが、その声を、たどたどしく繰り返す。
「……きを、つけ——」
「ノア!」
「……――に、な——……――が、ち、かい――」
声は、途切れ途切れだった。
まるで、何かが——その声とノアの間に割り込んで、邪魔をしているように。
大事な言葉が、ぶつ、ぶつ、と断ち切られていく。
「ぬし……ぬしの、こえ……きこえ、ない……っ」
ノアの瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
「ちゃんと、きこえ、ない……どうして……っ」
届くはずの、大切な人の声。
それが、聞き取れない。
ノアの顔が、不安と恐怖で歪んでいく。
『——』
その瞬間。
レオンは、考えるよりも先に動いていた。
ノアの小さな身体を——ぎゅっと、強く抱きしめていた。
何が起きているのか、わからない。
森の声も、神気の風も、レオンには、聞こえも見えもしない。
けれど——本能が、叫んでいた。
『この子を、守れ』と。
「俺が、いる」
レオンの口から出たのは——「僕」ではなかった。
「ノア。俺が、ここに、いる。大丈夫だ」
ノアを抱きしめる腕に、力を込める。
「何が聞こえても。何が来ても。俺が、お前を、離さない」
「……れ、おん」
「うん。俺だ。ここにいる」
レオンの腕の中で、ノアが震えていた。
その震えを、レオンは、自分の体温で包み込んだ。
やがて——。
ふっ、と。
窓の外の、神気の風が止んだ。
木々のざわめきが静まる。窓硝子の音がやむ。
夜が、また、もとの静けさを取り戻した。
森の主の声も——途絶えた。
「……いっちゃった」
ノアが、ぽつりと言った。
「ぬしの、こえ……きえ、ちゃった」
その声は、心細さでいっぱいだった。
レオンは、ノアを抱きしめたまま、その背を、ゆっくりと撫でた。
***
しばらくして。
ノアが少し落ち着いてから。
レオンは、ノアをベッドに座らせて、その隣に腰を下ろした。
ノアの手は、まだ、レオンの服の裾を握ったままだった。
「ノア。さっきの、聞かせてくれる? 話せる範囲で、いいから」
ノアは、こくん、と頷いた。
「……ぬしの、こえが、した」
「うん」
「きゅうに。あたまの、なかに。ぬしが、ノアを、よんでる、って、わかった」
「森の主が、君に語りかけてきたんだね」
「うん。でも……」
ノアの白い眉が、困ったように寄せられた。
「ちゃんと、きこえ、なかった。とちゅうで、ぶつぶつ、きれて」
「途切れて」
「うん。だれかが、じゃま、してるみたいに」
『誰かが、邪魔をしている』
レオンの胸に、ユリウスの言葉がよみがえった。
『——人を操る。記憶をいじる。そんな真似ができる"何か"が、いる』
森の主の声を妨げる"何か"。
組織の裏にいる"何か"。
それは——同じ存在なのではないか。
確証はない。けれど、嫌な符合だった。
「ノア。聞き取れた言葉だけでも、いいんだ。何て言ってた?」
ノアは、しばらく考え込んだ。
途切れ途切れの声のかけらを、必死に拾い集めるように。
「……『きを、つけて』」
「気をつけて」
「うん。それは、きこえた。それと……」
ノアは、自分の小さな指を折りながら、思い出していく。
「『――に、なる』。なにかが、なにかに、なる、って。でも、なにが、なにに、なるのか、わからない」
「うん」
「あと……『――が、ちかい』。なにかが、ちかい、って」
ノアは、レオンを見上げた。
その瞳は、不安で揺れていた。
「れおん。ノア、こわい」
「うん」
「ぬしが、ノアに、なにか、つたえようと、してた。だいじな、こと。なのに、ノア、ちゃんと、きけなかった」
ノアの声が、震える。
「ぬしが……こまってるのかも。もりが、たいへんなのかも。なのに、ノア……」
「ノア」
レオンは、ノアの両手を、しっかりと握った。
「君は、ちゃんと、聞こうとした。それで、十分だよ」
「でも」
「途切れたのは、君のせいじゃない。さっき言っただろう? 誰かが、邪魔をしてた。それは、君の落ち度じゃない」
「……」
「それに——主が、君に伝えたかったことは、ちゃんと、ひとつ届いてる」
レオンは、優しく言った。
「『気をつけて』。——主は、君を心配してるんだ。遠い森から、君のことを案じてくれてる」
「……ぬしが、ノアを」
「うん。きっと、そうだよ」
ノアの瞳から、涙が、ひとすじこぼれた。
けれど、それは、さっきまでの恐怖の涙とは違っていた。
「……ぬし、ノアのこと、わすれてなかった」
「うん。忘れるわけ、ないよ」
ノアは、レオンの手を、ぎゅっと握り返した。
「ノア。ひとつ、約束する」
レオンは、ノアの目を見つめた。
「何が近いのか。何が、何になるのか。今は、わからない。主が、何を心配しているのかも、わからない」
「……うん」
「でも——何が来ても。僕が、君を守る。絶対に」
レオンの声は、静かで、けれど、揺るぎなかった。
「君を、ひとりにはしない。怖い思いも、つらい思いも、させない。僕が、ぜんぶ引き受ける」
「……れおん」
「だから、ノアは、安心していい。僕のそばに、いて」
ノアは、しばらく、レオンを見つめていた。
それから——ふわり、と微笑んだ。
まだ、涙の跡が残る顔で。それでも、確かに、安心したように。
「……うん。ノア、れおんの、そばに、いる」
「うん」
「れおんが、いれば……ノア、こわくない」
ノアは、レオンの手を握ったまま、こてん、と、その肩に頭を預けた。
その夜、レオンは、ノアがすっかり眠るまで、その手を握っていた。
部屋の隅では、ゼルが伏せて見守っていた。
窓辺には、シャルが、姿勢正しく座っていた。
二匹とも、何も言わなかった。
ただ、いつもより、ずっと長く——夜の闇を、警戒するように見つめていた。
***
同じ夜。
ルクレツィア家の屋敷から、遠く離れた場所。
王都の外れの、打ち捨てられた古い時計塔の、てっぺん。
そこに——小さな影が、いた。
子どもほどの背丈。背中に、薄い、羽のようななにか。
影は、夜空を見上げていた。
ちょうど、神気の風が吹き抜けた、その方角を。
「……ふぅん」
可愛らしい、幼い少女のような声。
けれど、その響きは、どこか歪んでいた。
「もりの、ぬし。まだ、あきらめてないんだ」
影は、つまらなそうに、唇を尖らせた。
「あのこに、こえを、とどけようと、してる。あぶないこと、おしえようと、してる」
影は、自分の小さな手を、ひらり、と振った。
「でも、むだ。だって、ぜんぶ、わたしが、じゃまして、あげたもの」
くすくす、と、影が笑った。
「『きを、つけて』? ふふ。きを、つけたって、おそいのにね」
影は、時計塔の縁に、ちょこんと座った。
まるで、お気に入りの特等席のように。
「ねぇ。しってる?」
影は、誰に言うでもなく、夜空に語りかけた。
「あのこは、ね。れおん、っていう、にんげんと、いっしょに、いると——どんどん、つよく、なっていくの」
「つがいと、きずなが、ふかくなると、ね。あのこは、ほんとうの、すがたに、ちかづくの」
影の声が、すうっと低くなった。
「それは、こまる。とっても、こまる」
「あのこが、ほんとうの、すがたに、なったら……わたし、もう、いちばんに、なれないもの」
影は、ぎゅっ、と、自分の膝を抱えた。
その仕草は——どこか、駄々をこねる幼い子どものようで。
けれど、続いた言葉は、ぞっとするほど冷たかった。
「だからね。そのまえに、はなして、あげる」
「あのふたりを。ばらばらに」
「つがいと、はなれたら、あのこ、よわって、よわって……ふふ」
影は、にこり、と笑った。
暗闇の中で、小さな白い歯が覗いた。
「もうすぐ、だよ」
ぱた、と。
羽音が、一度。
夜風が、わずかに揺れて——影は、時計塔から消えていた。
あとには、ただ、静かな夜だけが残された。
月が、雲に隠れた。
——第5話 了
【おまけSS 〜ある夜の、宰相夫妻〜】
ユリウスが寝室に戻ると、ルクレツィアは、ベッドの上で、布地の見本を、何枚も広げていた。
「……それ、何だ」
「ノアちゃんの、お披露目ドレスの生地よ。何色がいいかしら」
『……もう始まってる』
レオンに話したのは、ついさっき。気の早い妻にユリウスは、苦笑した。
「気が早いな。ひと月後だぞ」
「ひと月しか、ないのよ」
ルクレツィアは、当然のように言って、水色の生地を、かざした。
「ねえ、この色。ノアちゃんの瞳に、合うと思わない?」
「……ああ。悪くない」
「あら。意外と、ちゃんと見てるのね」
「茶化すな」
ルクレツィアは、ふふと笑った。それから、ふと優しい目になる。
「……あの子たち、見てると、幸せになってほしいって、思うわ」
「……そうだな」
ユリウスは、ベッドに腰を下ろし——ふと、仕返しのように言った。
「……ところで。さっきレオンに言っておいたぞ。ドレスを着たお前は、綺麗だとな」
「……っ、な、なにいきなり!」
今度は、ルクレツィアが、真っ赤になった。
「事実だろう」
「もう……! はやく寝ましょう!」
灯りが、消える。
暗闇の中で、ユリウスがこっそり笑ったことには——ルクレツィアは、気づかなかった。




