表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闇オークションで落札した白猫獣人が、運命の番でした 〜騎士団長は最愛の彼女を溺愛する〜  作者: 月代 緋色


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/17

第5話 森の記憶と、届かない声

よろしくお願いいたします

 よく晴れた、午後だった。


 城での午前の執務を終えたレオンは、いつものように昼前に帰宅し、家族と昼食を取って、午後の出仕までの短い時間を、ノアと過ごしていた。


 ルクレツィア家の子ども部屋。


 ノアは、ルカと並んで床に座り、一冊の絵本を開いていた。


「……む、むかし、むかし……」


 ノアが、たどたどしく文字をたどっていく。


 文字を習い始めて、まだ日が浅い。それでも、ノアは毎日、少しずつ読めるようになっていた。


「あ、それ、『ふかい もり』!」


 隣のルカが、得意げに教えてくれる。


「ふかい、もり、に……」


 ノアが、ページをめくる。


 その絵本には、深い緑の森が描かれていた。


 大きな木々。木漏れ日。きらきらと光る泉。


 その絵を見た瞬間——ノアの手が、ふと止まった。


「……ノア?」


 レオンが、ソファから声をかける。


 ノアは、絵本の森の絵を、じっと見つめていた。


 淡い紫の瞳が、どこか遠くを見るような色になっていた。


「……これ、もり」


「うん。森だね」


「ノアも、もりに、いた」


 ノアの、ぽつりとした言葉に、レオンは、静かに頷いた。


「うん。神獣の森、だね」


「……うん」


 ノアは、絵本の中の森を、そっと指先でなぞった。


 まるで、懐かしいものに触れるように。


「ノアの、もり……こんな、ふうだった」


***


 ノアが森の話を始めたのは、それが初めてだった。


 これまで、ノアは、自分の過去をほとんど語らなかった。


 森から人間の世界へ連れ出された経緯は、この家に来たばかりの頃、ぽつぽつと、断片的に話してくれた。けれど、それ以上は、ノア自身、思い出すのがつらそうだった。


 だから、レオンも姉妹も、無理には聞かなかった。


 けれど——今、ノアは、自分から話そうとしていた。


 絵本の森に、心を開かれたように。


「もりはね、おっきいの。きが、たくさん」


 ノアの声が、少しずつ生き生きとしてくる。


「あさは、はっぱの、すきまから、ひかりが、おちてくるの。きらきら、して」


「うん」


「いずみが、あってね。みずが、つめたくて、きれいで。のぞくと、おそらが、うつるの」


 レオンは、ソファから降りて、ノアの隣に座った。


 ルカもリナも、ノアの話を、じっと聞いている。


 いつのまにか、絵本を読みに来ていたテオも、扉のそばで足を止めていた。


「もりには、しんじゅうが、たくさん、いたの」


「ゼルや、シャルみたいな?」


「うん。ゼルみたいな、おおきいの。シャルみたいな、ちいさいの。とりも、いた。さかなみたいなのも、いた」


「へえ……」


「それとね、ようせいも、いたの」


「妖精?」


「うん。ちいさくて、きらきらして、はねが、あって。おはなみたいな、においが、するの」


 ノアが、両手で、小さな何かをすくうような仕草をした。


「ノアの、かたとか、あたまに、とまって、うたを、うたってくれた」


「みんな、ノアと、あそんでくれた」


 ノアの白い頬が、ふんわりとほころぶ。


 その表情は、レオンが今まで見た中で、いちばん安らいでいた。


「それでね、それでね。もりの、ぬしが、いるの」


「森の、主」


「うん。いちばん、おおきくて、いちばん、つよい、しんじゅう」


 ノアは、両手をいっぱいに広げた。


「こーんなに、おっきいの。ううん、もっと、もっと、おっきい」


「そんなに?」


「うん。しろくて、ぎんいろで……ふわふわなの」


『……白銀の、神獣』


 レオンは、心の中でつぶやいた。


 神獣の森の主。伝説の中にしか、いないとされる存在。


 けれど、ノアの語る主は、伝説の威厳ではなく——もっと温かくて、優しい何かだった。


「ぬしはね、ノアを、せなかに、のせてくれたの」


「背中に?」


「うん。ふわふわの、せなか。たかくて、こわくて、でも、たのしくて」


 ノアは、その時のことを思い出すように、目を細めた。


「よるはね、ぬしの、おなかの、よこで、ねむったの。あったかくて、おおきな、こきゅうの、おとが、して」


「……うん」


「ぬしは、ノアのこと、『ノア』って、よんでくれた」


 ノアは、絵本を、ぎゅっと胸に抱きしめた。


「ノアを、ひろってくれて、なまえを、くれて、そだててくれたの。ぬしと、しんじゅうたちと、ようせいたちが」


『……そうか』


 レオンの胸に、温かいものが広がった。


 ノアは、捨て子だった。人間の世界から見れば、不幸な生い立ちだ。


 けれど——ノアには、確かに、愛してくれた者たちがいた。


 森の主が。たくさんの神獣たちが。妖精たちが。


 ノアは、孤独な子ではなかった。森で、ちゃんと愛されて育ったのだ。


「いい、ところ、だったんだね。ノアの、森」


「うん」


 ノアは、こくん、と頷いた。


「ノア、もりが、すきだった」


***


 けれど。


 その「すきだった」と、過去形で言ったとき。


 ノアの声が、ほんの少し沈んだ。


 レオンは、それを聞き逃さなかった。


「ノア?」


「……」


 ノアは、絵本を抱きしめたまま俯いた。


 白い耳が、ぺたんと頭に伏せられる。


 さっきまで生き生きと森を語っていたノアの表情に——ふっと、影が差した。


「たのしかった。みんな、やさしかった。……でも、ひとり、だけ」


 ノアの言葉が、途切れる。


『……ああ』


 レオンには、わかった。


 ノアの心に差した影が、何なのか。


 ノアは、いつか、ぽつりと語っていた。森から、人間の世界へ、自分を連れ出し、置き去りにした存在のことを。


 あの優しい妖精たちの中で——たった一匹だけ。


 ノアを、ずっと苦しめてきた、あの——。


 レオンは、それ以上、ノアに思い出させたくなかった。


「ノア」


 レオンは、ノアの小さな手に、そっと自分の手を重ねた。


「無理に、話さなくて、いいよ」


「……」


「楽しかったことだけ、覚えてれば、いい。つらかったことは、話したくなったときで、いいんだ」


 ノアは、しばらく、俯いたままだった。


 それから、ぽつりと言った。


「……ノア、ね」


「うん」


「ノア、わるい子、だったのかな」


『——』


 レオンの胸が、ぎゅっと痛んだ。


 ノアの淡い紫の瞳が、不安げに揺れていた。


「ノアが、いたから……だから、もりで、いやなこと、おきたのかも」


「ノア」


「ノアが、いなければ、よかったのかも」


「ノア」


 レオンは、ノアの両肩を、そっとつかんで、自分の方へ向かせた。


 淡い紫の瞳を、まっすぐに見つめる。


「それは、違うよ」


 はっきりと、言った。


「君は、悪い子なんかじゃない」


「……でも」


「でも、じゃない。いいかい、ノア」


 レオンは、ノアの目を見つめたまま、ゆっくりと続けた。


「森の主は、君を拾った。名前をくれた。背中に乗せてくれた。お腹のそばで、眠らせてくれた」


「……うん」


「それは、君が大切だったからだよ。主にとって、君は、いてほしい子だった。いなければよかった子なんて、絶対に違う」


「……」


「君がいたから、悪いことが起きたんじゃない。悪いことをした誰かが、悪いんだ。君は、何も悪くない」


 ノアの瞳が、じわりと潤んだ。


 レオンは、その小さな身体を、そっと抱き寄せた。


「君は、ここにいて、いい子だよ。森でも、ここでも。君は、誰かに愛されるべき子なんだ」


「……れおん」


「うん」


「……ノア、ここに、いて、いい?」


「いいに、決まってる」


 レオンは、ノアの白い髪を、優しく撫でた。


 ノアは、レオンの胸に、こてん、と頭を預けた。


 その小さな身体から、少しずつ、強張りが抜けていく。


 子ども部屋の隅で、リナが、心配そうにノアを見ていた。


 ルカもテオも、静かに、その様子を見守っていた。


『……ノアの過去には、まだ、僕の知らない傷が、たくさんあるんだろうな』


 レオンは、ノアの髪を撫でながら思った。


『でも——焦らなくていい。少しずつでいい』


『君が安心して過去を話せるように。僕は、ずっとそばにいる』


***


 その夜。


 夕食を終え、子どもたちが寝静まった頃。


 レオンは、ユリウスに呼ばれて、書斎にいた。


 宰相であるユリウスの私的な書斎は、本棚にびっしりと書物が詰まり、机の上には、書類が整然と積まれていた。


「座れ」


 ユリウスに促され、レオンは、向かいの椅子に腰を下ろした。


「ノアちゃんの件で、調べが進んだ」


 ユリウスの声は、いつもの辛口ではなく、低く、静かだった。


 レオンの背筋が、自然と伸びる。


「闇オークションを開いていた組織。あれの、おおよその全容が見えてきた」


「……うん」


「人身売買を生業にしている。獣人、孤児、訳ありの人間——金になるものなら、何でも売り買いする。王都だけじゃない。いくつもの国に、根を張っている」


『……それを、僕は、壊滅させられなかった』


 レオンの胸が、重くなる。あの夜、任務に失敗したことを思い出す。


「で、ここからが、本題だ」


 ユリウスは、机の上の書類を、一枚手に取った。


「あのオークション会場で、何人か、組織の人間を捕らえた。お前がノアちゃんを連れて出たあとも、騎士団が動いていたからな」


「うん」


「そいつらを、尋問した」


 ユリウスは、その書類に視線を落とした。


「ノアちゃんが、どこから来たのか。誰が組織に引き渡したのか。それを聞き出そうとした」


「……何か、わかった?」


「わからなかった」


 ユリウスは、首を横に振った。


「いや——正確に言うと、おかしなことになった」


「おかしなこと?」


「捕らえた組織員。全員が、同じことを言ったんだ」


 ユリウスは、書類を机に置いた。


 そして、レオンを、まっすぐに見た。


「『自分の意志じゃ、なかった』、とな」


「……え?」


「全員だ。一人や二人じゃない。捕らえた全員が、口を揃えた」


 ユリウスの声が、低くなる。


「『気づいたら、組織にいた』『誰かに命じられて、動いていた』『でも、その"誰か"の顔も、声も、思い出せない』——そう証言した」


『——』


 レオンは、言葉を失った。


「最初は、口裏を合わせて、罪を逃れようとしているのかと思った。よくある手だからな」


「……うん」


「だが、違った。あいつら、本気で怯えていた。自分の頭の中に、自分の知らない"空白"があることに。思い出せない時間が、あることに」


 ユリウスは、指で、机を、こつ、と叩いた。


「まるで——誰かに、頭の中をいじられたみたいに」


『頭の中を、いじられた』


 その言葉が、レオンの中で、嫌な響きを立てた。


「ユリウス。それって……」


「ああ。普通じゃ、ない」


 ユリウスは、頷いた。


「人を操る。記憶をいじる。そんな真似ができる"何か"が——あの組織の裏にいる」


「……人間に、できることなのかな。そんなこと」


「わからん。だが、人間だろうが、人間でなかろうが——」


 ユリウスは、静かに言った。


「その"何か"は、ノアちゃんを組織に引き渡した。そして、おそらく、今も、どこかにいる」


 書斎に、沈黙が落ちた。


 暖炉の薪が、ぱちり、と爆ぜる音だけが響いた。


「……レオン」


 ユリウスが、口を開いた。


 いつもの辛口でも、宰相としての硬さでもない。義兄としての声だった。


「ノアちゃんを、守れ。お前のそばで」


「……うん」


「俺も、ルクレツィアも、子どもたちも、できる限りのことはする。だが——その"何か"が、ノアちゃんを狙ってこないとは限らない」


「うん。わかってる」


 レオンは、深く頷いた。


 その瞳には、静かな、けれど、確かな決意が宿っていた。


「ノアは、僕が、守る。何があっても」


 レオンの、迷いのない返事に、ユリウスは、ふっと、口の端を、緩めた。


 書斎の、張り詰めていた空気が、わずかに、ほどける。


「……ところでな、レオン」


「うん?」


「妙なことを、聞いたぞ。陛下から」


『……陛下から?』


 レオンの、嫌な予感が、的中した。


「お前、陛下に、言ったそうだな。ノアちゃんを——『お嫁さんにします』と」


「……っ」


 レオンの顔が、一気に、赤くなった。


「な、なんで、それを」


「陛下が、楽しそうに、話してくださった。『レオンが、世にも真剣な顔で、お嫁さんにします、と言ってきた』とな」


『アルノー様……!』


 レオンは、頭を、抱えた。


「いや、あれは、その。番とか、そういう難しいことは、僕には、よくわからなくて。でも、ノアと、ずっと一緒にいたくて。守りたくて。それを、僕の言葉で言うなら、その——」


「わかった、わかった。落ち着け」


 ユリウスは、めずらしく、声を立てて、笑った。


「いいんじゃないか。お前らしくて」


「……からかってる?」


「半分な」


『また半分かよ……』


 ひとしきり笑ってから、ユリウスは、ふと、表情を、改めた。


「だがな、レオン。それなら、ひとつ、やっておくべきことがある」


「やっておくべきこと?」


「ノアちゃんを、王城へ、連れて行け」


「……え?」


「お披露目だ」


 ユリウスの声は、宰相としての、落ち着いたものに、戻っていた。


「お前は、騎士団長だ。そして、陛下が、ノアちゃんとのことを、認めてくださった。だったら、いつまでも、この家に、隠しておくわけにはいかない」


「……」


「噂は、だいぶ収まった。今こそ、ノアちゃんを、正式に、陛下に、紹介する。『この子は、騎士団長が大切にしている子だ』と、堂々と、示すんだ」


「……お披露目」


「そうだ。陰でこそこそ言われるより、よほどいい。陛下に、正式に、目通りさせれば——王家が、ノアちゃんを認めた、ということになる。誰も、もう、手出しは、できなくなる」


『……なるほど』


 レオンは、ユリウスの言葉を、噛みしめた。


 ノアを守る。そのために、自分は、何ができるか。


 力で守るだけじゃない。立場で、名前で、王家の威光で——ノアの居場所を、確かなものにしていく。


 それも、ノアを守る、大切な方法だった。


「……うん。わかった。陛下に、お願いしてみる」


「ああ。日取りは、俺の方でも調整しておく。とはいえ——」


 ユリウスは、ふと、何かを思い出したように、こめかみを押さえた。


「準備に、少し、時間がかかるぞ」


「準備?」


「ノアちゃんの、ドレスだ」


「ドレス……?」


「お披露目だぞ。王城に、正式に上がるんだ。今着てるような普段着で、行かせるわけにはいかんだろう」


「あ……そうか」


「ルクレツィアが、黙ってないだろうな」


 ユリウスは、深いため息とともに、首を振った。


 けれど、その口元は、どこか、緩んでいた。


「あいつ、ノアちゃんを着飾らせるのが、最近の生きがいみたいなものだ。お披露目用のドレスなんて聞いたら、布地から選び直して、仕立て屋を何度も呼んで、刺繍の一つひとつまで口を出すぞ。間違いなくな」


「……目に浮かぶよ」


「だから、まあ——ひと月、というところだな。ドレスが仕上がって、ノアちゃんがマナーにも慣れて、万全の状態で上がるとなると」


「一ヶ月後、か」


「ああ。焦る必要はない。きっちり、整えてから上がればいい」


 ユリウスは、頷いてから——ふと、遠い目になった。


「……しかし、ルクレツィアのやつ。ああいうとき、本当に、楽しそうでな」


「うん?」


「自分のドレスを選ぶときも、そうなんだ。あれこれ悩んで、結局いちばん上品なやつを選ぶ。で、それを着ると——」


 ユリウスは、そこで、ふっ、と、表情を、和らげた。


「……まあ、その。なんだ。びっくりするくらい、綺麗なんだ。あいつは」


『……え』


「子どもを三人産んでも、まったく変わらん。出会った頃と、同じだ。むしろ、年々——」


「ユリウス」


「ん?」


「……今、惚気てる?」


『——』


 ユリウスの動きが、ぴたり、と止まった。


 冷静沈着な宰相の顔が、わずかに——本当に、わずかに、赤くなった。


「……寝ろ。さっさと寝ろ」


「あはは。うん、おやすみ」


「ああ。おやすみ」


『ユリウス、本当に、姉さんのこと、好きなんだなぁ』


 レオンは、温かい気持ちで、書斎を、後にした。


 辛口で、いつも淡々としている義兄の、思いがけない一面。


 それを見られたことが、なんだか、少し、嬉しかった。


***


 書斎を出て、レオンが、自分の客間へ戻ろうとした、そのときだった。


《……ご主人》


 廊下の途中で、ゼルの声が、頭の中に響いた。


 見れば、ゼルが、廊下の真ん中で、立ち止まっていた。


 大きな身体をこわばらせて。長い尻尾を、足の間に巻き込むようにして。


「ゼル? どうしたの」


《……わかんない》


 ゼルの声は、いつもの元気がなかった。


《なんか……なんか、ぞわぞわ、するんだ》


「ぞわぞわ?」


《うん。背中の毛が、ぜんぶ、逆立つみたいな。耳の奥が、きいんって、なるみたいな》


 ゼルは、落ち着かない様子で、その場で、ぐるぐると回った。


《いやな、よかんとか、そういうのじゃ、ないんだ。もっと……もっと、へんな、かんじ》


《なにかが、くる。ううん、ちがう。なにかが——とどく?》


「届く……?」


 レオンが、首を傾げた、そのとき。


《ご主人》


 今度は、シャルの声だった。


 黒猫の神獣が、廊下の窓辺に座っていた。


 いつも冷静なシャルの、長い尻尾が——ぴん、とこわばって、まっすぐに立っていた。


《来るよ》


「何が」


《わからない。でも——神気だ。すごく、濃い、神気の気配》


 シャルが、窓の外を見つめた。


《これは……神獣の森の、気配だよ、ご主人》


『——』


 レオンの全身に、緊張が走った。


 その、瞬間。


 窓の外で——風が、吹いた。


 夜の、無風だったはずの庭で。


 突然、木々が、ざわり、と揺れた。


 屋敷の窓硝子が、かたかたと鳴った。


 それは、ただの風ではなかった。


 空気そのものが、しん、と澄んで——どこか清らかで、けれど、途方もなく大きな"何か"が、夜の屋敷を撫でていくような。


《……っ、これ》


《神気の、風……っ》


 ゼルとシャルが、同時に、身を伏せた。


 二匹とも、その風に、何かを感じ取っていた。


 けれど——。


《きこえ、ない》


 ゼルが、戸惑った声で言った。


《なにか、いる。なにかが、かたりかけて、る。でも、ぼくには、きこえない》


《僕にも、聞こえない》


 シャルも、耳を、ぴくぴくと動かしながら言った。


《何かが、伝わってきてる。でも、その"声"は、僕たちには届かない。まるで——》


 シャルの言葉が、止まった。


 その視線の先。


 廊下の奥。


 ノアの部屋の扉が——ひとりでに、すうっと開いた。


「……ノア!」


 レオンは、駆け出した。


***


 ノアは、ベッドの上に座っていた。


 眠っていたはずなのに、その目は、ぱっちりと開いていた。


 淡い紫の瞳が——どこか遠くを見ていた。


 ここではない、どこか遠い場所を。


「ノア」


 レオンが、駆け寄る。


 ノアは、レオンの声に反応しなかった。


 ただ、虚空の一点を見つめて——その小さな唇が、震えるように動いた。


「……ぬしの、こえ」


「ノア。しっかりして」


「ぬしの、こえが……する」


 ノアの白い髪が、神気の風に、ふわりと揺れた。


 ノアにだけ——森の主の声が、届いていた。


 けれど。


 その声は、滑らかには流れてこなかった。


「ノア——」


 ノアが、その声を、たどたどしく繰り返す。


「……きを、つけ——」


「ノア!」


「……――に、な——……――が、ち、かい――」


 声は、途切れ途切れだった。


 まるで、何かが——その声とノアの間に割り込んで、邪魔をしているように。


 大事な言葉が、ぶつ、ぶつ、と断ち切られていく。


「ぬし……ぬしの、こえ……きこえ、ない……っ」


 ノアの瞳に、じわりと涙が浮かんだ。


「ちゃんと、きこえ、ない……どうして……っ」


 届くはずの、大切な人の声。


 それが、聞き取れない。


 ノアの顔が、不安と恐怖で歪んでいく。


『——』


 その瞬間。


 レオンは、考えるよりも先に動いていた。


 ノアの小さな身体を——ぎゅっと、強く抱きしめていた。


 何が起きているのか、わからない。


 森の声も、神気の風も、レオンには、聞こえも見えもしない。


 けれど——本能が、叫んでいた。


『この子を、守れ』と。


「俺が、いる」


 レオンの口から出たのは——「僕」ではなかった。


「ノア。俺が、ここに、いる。大丈夫だ」


 ノアを抱きしめる腕に、力を込める。


「何が聞こえても。何が来ても。俺が、お前を、離さない」


「……れ、おん」


「うん。俺だ。ここにいる」


 レオンの腕の中で、ノアが震えていた。


 その震えを、レオンは、自分の体温で包み込んだ。


 やがて——。


 ふっ、と。


 窓の外の、神気の風が止んだ。


 木々のざわめきが静まる。窓硝子の音がやむ。


 夜が、また、もとの静けさを取り戻した。


 森の主の声も——途絶えた。


「……いっちゃった」


 ノアが、ぽつりと言った。


「ぬしの、こえ……きえ、ちゃった」


 その声は、心細さでいっぱいだった。


 レオンは、ノアを抱きしめたまま、その背を、ゆっくりと撫でた。


***


 しばらくして。


 ノアが少し落ち着いてから。


 レオンは、ノアをベッドに座らせて、その隣に腰を下ろした。


 ノアの手は、まだ、レオンの服の裾を握ったままだった。


「ノア。さっきの、聞かせてくれる? 話せる範囲で、いいから」


 ノアは、こくん、と頷いた。


「……ぬしの、こえが、した」


「うん」


「きゅうに。あたまの、なかに。ぬしが、ノアを、よんでる、って、わかった」


「森の主が、君に語りかけてきたんだね」


「うん。でも……」


 ノアの白い眉が、困ったように寄せられた。


「ちゃんと、きこえ、なかった。とちゅうで、ぶつぶつ、きれて」


「途切れて」


「うん。だれかが、じゃま、してるみたいに」


『誰かが、邪魔をしている』


 レオンの胸に、ユリウスの言葉がよみがえった。


『——人を操る。記憶をいじる。そんな真似ができる"何か"が、いる』


 森の主の声を妨げる"何か"。


 組織の裏にいる"何か"。


 それは——同じ存在なのではないか。


 確証はない。けれど、嫌な符合だった。


「ノア。聞き取れた言葉だけでも、いいんだ。何て言ってた?」


 ノアは、しばらく考え込んだ。


 途切れ途切れの声のかけらを、必死に拾い集めるように。


「……『きを、つけて』」


「気をつけて」


「うん。それは、きこえた。それと……」


 ノアは、自分の小さな指を折りながら、思い出していく。


「『――に、なる』。なにかが、なにかに、なる、って。でも、なにが、なにに、なるのか、わからない」


「うん」


「あと……『――が、ちかい』。なにかが、ちかい、って」


 ノアは、レオンを見上げた。


 その瞳は、不安で揺れていた。


「れおん。ノア、こわい」


「うん」


「ぬしが、ノアに、なにか、つたえようと、してた。だいじな、こと。なのに、ノア、ちゃんと、きけなかった」


 ノアの声が、震える。


「ぬしが……こまってるのかも。もりが、たいへんなのかも。なのに、ノア……」


「ノア」


 レオンは、ノアの両手を、しっかりと握った。


「君は、ちゃんと、聞こうとした。それで、十分だよ」


「でも」


「途切れたのは、君のせいじゃない。さっき言っただろう? 誰かが、邪魔をしてた。それは、君の落ち度じゃない」


「……」


「それに——主が、君に伝えたかったことは、ちゃんと、ひとつ届いてる」


 レオンは、優しく言った。


「『気をつけて』。——主は、君を心配してるんだ。遠い森から、君のことを案じてくれてる」


「……ぬしが、ノアを」


「うん。きっと、そうだよ」


 ノアの瞳から、涙が、ひとすじこぼれた。


 けれど、それは、さっきまでの恐怖の涙とは違っていた。


「……ぬし、ノアのこと、わすれてなかった」


「うん。忘れるわけ、ないよ」


 ノアは、レオンの手を、ぎゅっと握り返した。


「ノア。ひとつ、約束する」


 レオンは、ノアの目を見つめた。


「何が近いのか。何が、何になるのか。今は、わからない。主が、何を心配しているのかも、わからない」


「……うん」


「でも——何が来ても。僕が、君を守る。絶対に」


 レオンの声は、静かで、けれど、揺るぎなかった。


「君を、ひとりにはしない。怖い思いも、つらい思いも、させない。僕が、ぜんぶ引き受ける」


「……れおん」


「だから、ノアは、安心していい。僕のそばに、いて」


 ノアは、しばらく、レオンを見つめていた。


 それから——ふわり、と微笑んだ。


 まだ、涙の跡が残る顔で。それでも、確かに、安心したように。


「……うん。ノア、れおんの、そばに、いる」


「うん」


「れおんが、いれば……ノア、こわくない」


 ノアは、レオンの手を握ったまま、こてん、と、その肩に頭を預けた。


 その夜、レオンは、ノアがすっかり眠るまで、その手を握っていた。


 部屋の隅では、ゼルが伏せて見守っていた。


 窓辺には、シャルが、姿勢正しく座っていた。


 二匹とも、何も言わなかった。


 ただ、いつもより、ずっと長く——夜の闇を、警戒するように見つめていた。


***


 同じ夜。


 ルクレツィア家の屋敷から、遠く離れた場所。


 王都の外れの、打ち捨てられた古い時計塔の、てっぺん。


 そこに——小さな影が、いた。


 子どもほどの背丈。背中に、薄い、羽のようななにか。


 影は、夜空を見上げていた。


 ちょうど、神気の風が吹き抜けた、その方角を。


「……ふぅん」


 可愛らしい、幼い少女のような声。


 けれど、その響きは、どこか歪んでいた。


「もりの、ぬし。まだ、あきらめてないんだ」


 影は、つまらなそうに、唇を尖らせた。


「あのこに、こえを、とどけようと、してる。あぶないこと、おしえようと、してる」


 影は、自分の小さな手を、ひらり、と振った。


「でも、むだ。だって、ぜんぶ、わたしが、じゃまして、あげたもの」


 くすくす、と、影が笑った。


「『きを、つけて』? ふふ。きを、つけたって、おそいのにね」


 影は、時計塔の縁に、ちょこんと座った。


 まるで、お気に入りの特等席のように。


「ねぇ。しってる?」


 影は、誰に言うでもなく、夜空に語りかけた。


「あのこは、ね。れおん、っていう、にんげんと、いっしょに、いると——どんどん、つよく、なっていくの」


「つがいと、きずなが、ふかくなると、ね。あのこは、ほんとうの、すがたに、ちかづくの」


 影の声が、すうっと低くなった。


「それは、こまる。とっても、こまる」


「あのこが、ほんとうの、すがたに、なったら……わたし、もう、いちばんに、なれないもの」


 影は、ぎゅっ、と、自分の膝を抱えた。


 その仕草は——どこか、駄々をこねる幼い子どものようで。


 けれど、続いた言葉は、ぞっとするほど冷たかった。


「だからね。そのまえに、はなして、あげる」


「あのふたりを。ばらばらに」


「つがいと、はなれたら、あのこ、よわって、よわって……ふふ」


 影は、にこり、と笑った。


 暗闇の中で、小さな白い歯が覗いた。


「もうすぐ、だよ」


 ぱた、と。


 羽音が、一度。


 夜風が、わずかに揺れて——影は、時計塔から消えていた。


 あとには、ただ、静かな夜だけが残された。


 月が、雲に隠れた。


——第5話 了

【おまけSS 〜ある夜の、宰相夫妻〜】

 ユリウスが寝室に戻ると、ルクレツィアは、ベッドの上で、布地の見本を、何枚も広げていた。

「……それ、何だ」

「ノアちゃんの、お披露目ドレスの生地よ。何色がいいかしら」

『……もう始まってる』

 レオンに話したのは、ついさっき。気の早い妻にユリウスは、苦笑した。

「気が早いな。ひと月後だぞ」

「ひと月しか、ないのよ」

 ルクレツィアは、当然のように言って、水色の生地を、かざした。

「ねえ、この色。ノアちゃんの瞳に、合うと思わない?」

「……ああ。悪くない」

「あら。意外と、ちゃんと見てるのね」

「茶化すな」

 ルクレツィアは、ふふと笑った。それから、ふと優しい目になる。

「……あの子たち、見てると、幸せになってほしいって、思うわ」

「……そうだな」

 ユリウスは、ベッドに腰を下ろし——ふと、仕返しのように言った。

「……ところで。さっきレオンに言っておいたぞ。ドレスを着たお前は、綺麗だとな」

「……っ、な、なにいきなり!」

 今度は、ルクレツィアが、真っ赤になった。

「事実だろう」

「もう……! はやく寝ましょう!」

 灯りが、消える。

 暗闇の中で、ユリウスがこっそり笑ったことには——ルクレツィアは、気づかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ