第8話 攫われた番
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茶会の事件から、数日が過ぎていた。
ルクレツィア家の警備は、以前とは比べ物にならないほど、厳重になっていた。
屋敷の周囲には、騎士団の警邏が、二十四時間体制で。
屋敷の門には、護衛が複数。
屋敷の中には、神獣ゼルとシャルが、常にノアのそばに。
そして——レオンが、片時もノアから離れず、寄り添っていた。
城に上がる時間も、最低限に抑えて。出仕しなければならないときは、ノアの部屋に、ルクレツィアか、子どもたちが、必ず一緒にいるように。
ノアは、その厳重な守りに、少しずつ慣れていった。
「ノア。寂しくない?」
ある日、レオンが執務机から顔を上げて、聞いた。
その横で、ノアはぬいぐるみを抱いて、絨毯の上に座っていた。
「ううん。ぜんぜん」
「うん?」
「だって、れおんが、ずっと、いっしょだもん」
「……あはは。それは、よかった」
レオンの口元が、自然と緩んだ。
ノアの淡い紫の瞳が、ふんわりと和らぐ。
穏やかな、午後だった。
けれど——その穏やかさが、長くは続かないことを。
ふたりは、まだ、知らなかった。
***
その日、王城から、急ぎの使いが、屋敷を訪れた。
黒い、洗練された制服を着た、若い侍従だった。
「騎士団長殿。陛下が、至急、おいでを、と」
「……陛下が?」
「はい。隣国との外交案件で、急ぎ、ご相談したいことが、と仰せです」
『……陛下が、自ら?』
レオンの胸に、ふと引っかかりが、よぎった。
外交案件は、通常、ユリウスが扱う。レオンが呼ばれるのは、武力や警備が絡む案件のとき。
けれど、隣国セレム王との外交は、最近、安定していたはず。
「……わかった。すぐ、行く」
「失礼ながら、馬車を、ご用意してあります。お急ぎを」
レオンは、頷いて——ふと、その侍従の顔を、見た。
知らない、若い男だった。
その瞳は、忙しそうな業務で、軽く、伏せられていた。
『……気のせい、だろう』
『陛下が、お呼びだ。行かなければ』
レオンは、自分の不安を、押し込めた。
ノアの部屋へ、戻る。
「ノア」
「うん?」
「ちょっと、城に行ってくる。陛下に、呼ばれたから」
「……れおん、いっちゃうの?」
ノアの白い耳が、しゅん、と垂れる。
「うん。でも、すぐ戻るから。ね?」
レオンは、ノアの前に膝をつき、目線を合わせた。
「君のことをちゃんと見ててもらうように、手配する。屋敷の中だから安全だよ」
「……うん」
「ゼル、シャル」
《ご主人》
《はい》
「ノアを、頼んだよ」
《もちろん!》
《任せて、ご主人》
神獣たちが、姿勢を正す。
レオンは、それから、執事を呼んで護衛の配置を確認した。
「屋敷の各所に騎士団の者を配置してくれ。ノアの部屋の前にも、二名」
「かしこまりました」
「ノアの部屋に、配置する者は——信頼のおける、ベテランから、選んでくれ」
「は」
念入りに、念入りに。
それでも、不安はぬぐえなかった。
レオンは、もう一度、ノアの前にしゃがんだ。
「ノア。すぐ戻る。何があっても、僕を、信じて、待ってて」
「……うん」
「お利口に、待ってるんだよ」
「……うん。ノア、まってる」
ノアは、こくん、と頷いた。
レオンは、ノアの白い髪を、そっと撫でて——立ち上がる。
扉に、手をかけた、そのとき。
「……れおん」
「うん?」
「はやく、かえってきてね」
ノアの、小さな声。
レオンは、振り返って、微笑んだ。
「うん。約束する」
扉が、閉まる。
その音が、ノアの胸に——なぜか、いつもより、深く、響いた。
***
馬車に、揺られながら、レオンはずっと、胸の引っかかりを、抱えていた。
『……何だろう、この、嫌な感じ』
窓の外を、流れていく王都の景色。
いつもと、何も、変わらない、はずだった。
けれど——王城が、近づくにつれて。
胸の奥が、ざわついていく。
「……団長殿」
馬車の中、御者を兼ねた侍従が、声をかけてきた。
「もう少しで、到着いたします」
「うん。ありがとう」
レオンが、視線を上げた、そのとき。
その侍従の、瞳が——一瞬、レオンと合った。
『——』
レオンの心臓が、どくり、と、跳ねた。
その瞳。
虚ろで、焦点が合っていない。
まるで、あの夜、王城ですれ違った、ハインツの瞳のように。
『……っ、こいつ』
『こいつも、操られている』
レオンが、瞬時に剣の柄に、手を伸ばす。
けれど——遅かった。
馬車が、止まった。
「王城に、到着いたしました」
窓の外を見ると——確かに、王城の正門の前だった。
異変は、何もない。
「……」
「どうぞ、お降りを」
レオンは、慎重に馬車を降りた。
馬車の侍従の、操られた瞳。
けれど、目の前の王城は、何ひとつ、変わらない。
もしかして——気のせいだったのか?
いや、違う。
胸の、この嫌な感じは——確実に、何かが起きている。
そして——王城の、正門でレオンを迎えたのは。
「ようこそ、騎士団長殿」
あの、ハインツだった。
数日前、王城の廊下で、声をかけて——焦点の合わない瞳をしていた、王の側仕えの、若い侍従。
彼が、今、レオンを迎えに、来ていた。
その瞳は——今も、虚ろなままだった。
「……ハインツ」
「陛下が、お待ちです。こちらへ」
『——』
レオンの全身に、警鐘が鳴り響いた。
操られた侍従に、案内されて、王城へ。
これは、罠だ。
すぐに——屋敷に、戻らなければ。
「……すまない。やはり、急用を思い出した。陛下への目通りは、後日に——」
「いえ。陛下は、すぐにでも、と仰せでした」
ハインツが、虚ろな瞳でレオンを見つめた。
その手が、不自然にレオンの腕に、伸びる。
「どうぞ、こちらへ」
その瞬間。
レオンの本能が、叫んだ。
『ノアが——危ない』
***
時を、少し、戻す。
レオンが、屋敷を出て、しばらく経った頃。
ノアの部屋には——にぎやかな声が、響いていた。
「ノアおねえちゃま! これ、見て!」
次男のルカが、積み木で作った、不格好なお城を、ノアに見せている。
「わぁ……すごい、ね、ルカくん」
「えへへ。ぼく、お城、いっぱい作れるんだよ!」
絨毯の上では、長女のリナが、ノアの膝によじ登って、ぬいぐるみを抱いていた。
長男のテオは、本を片手に少し離れた椅子で、静かに笑っていた。
ルクレツィアは、ソファに腰掛けて、お茶をノアと一緒に、飲んでいた。
「レオンが、いない時間は、寂しいでしょう?」
「……うん。すこし」
「だから、私たちが、遊びに来ちゃった。いい?」
「うん。うれしい」
ノアの白い頬が、ふんわりとほころぶ。
ベッドの下では、ゼルが伏せて、長い耳を立てている。
窓辺では、シャルが姿勢正しく、座っていた。
部屋の前には、レオンが手配した、ベテランの護衛が二人。
ノアは、家族と神獣たちと護衛に、囲まれて——ちゃんと、守られていた。
はず、だった。
その時——廊下の方から、慌てた声が聞こえてきた。
「裏門の方で、異変です! 至急、来てください!」
使用人の、若い男の声だった。
「裏門だと?」
扉の外で、護衛の低い声。
「はい! 不審な者が、塀を、乗り越えようとして——!」
「……っ、お前、ここに残れ。私が、見てくる」
「は、はい!」
部屋の中で、その声を聞いていたルクレツィアの、白い手がティーカップの上で、ぴたり、と止まった。
『……何かしら、嫌な感じ』
長年、宰相夫人として、屋敷の異変には、敏感になっていた。
残ったもう一人の護衛も、廊下の様子を、警戒していた、その時。
「ノア様」
今度は、別の若い男の声が、扉の外でした。
「お庭の薔薇が、見事に咲きました。お部屋の中まで、香らせようと、お花を、お持ちしました」
優しい、穏やかな、声だった。
ノアの白い耳が、ふと動いた。
「……だれ?」
「最近、お庭を、お世話することになった、庭師の者です」
『——』
その言葉に、ルクレツィアが、ぴくり、と、反応した。
『最近、入った、庭師?』
ルクレツィアは、屋敷の使用人や、出入りする者を、ほとんど、把握している。
宰相の妻として、警備の観点から、当然のこと。
けれど——最近、新しい庭師を、雇った、覚えはなかった。
「待って」
ルクレツィアが、立ち上がり、扉に近づいた。
「私が、応対するわ」
子どもたちを、自分の背中に、隠す位置に立たせて。
ルクレツィアは、扉の前に立った。
「あなた、お名前は」
「は、はい。マルクと、申します」
「誰が、雇い入れたの?」
「し、執事の、リオネル様から、ご紹介を、いただきまして」
リオネル。確かに、屋敷の執事の名前だった。
『……それは、本当?』
ルクレツィアは、扉の隙間から、男の様子を確かめる。
若い、穏やかそうな男。にこやかな笑顔。
花を、抱えた、両手。
武器の類は、見えない。
「いつから、うちで、働いているの?」
「先週から、でございます」
答える、口調も、淀みない。
ルクレツィアの、警戒は——けれど、まだ、解けなかった。
『……でも、お花を、持ってきたくらいで、追い返すのは』
『ノアちゃんに、薔薇を、贈りたいだけ、なら——』
部屋の前の護衛が、ルクレツィアに、頷いた。
「奥様。確認しましたが、確かに、執事が紹介した、新しい庭師です。屋敷の警備にも、登録されています」
「……そう」
『私の、考えすぎ、かしら』
ルクレツィアは、少し、ためらった。
けれど——花を抱えた、無害そうな庭師。屋敷の正規の雇い入れ。護衛の確認。
断る、理由は何ひとつ、ない。
「……入ってもらって。でも、花を、活けたら、すぐに、下がってもらいなさい」
「かしこまりました」
ルクレツィアは、警戒を解かないまま、ノアの隣に戻った。
扉が、開く。
庭師が、にこにことノアの部屋に、入ってきた。
花瓶に、薔薇を活ける。
残った護衛は、廊下から、念のため、見張っていた。
その、瞬間。
「——」
庭師の瞳が、ふっと虚ろになった。
花を、活ける、その手元から——白い、粉のような、何かがぱっと、舞った。
「《……っ、!》」
まず、ゼルがばたり、と、床に倒れた。
シャルも、跳ぼうとして——空中で、ずるり、と、力を失った。
「《ノア、ちゃ……ん……》」
「……っ、ぜる、しゃる!?」
「——っ、皆さん、伏せて!」
ルクレツィアが、瞬時に子どもたちと、ノアを自分の身体で、覆った。
息を、止めて。粉を、吸い込まないように。
『……っ、やっぱり』
『私の、勘は、当たっていた』
悔しさで、唇を噛む。
「……っ、皆さん、大丈夫!? 息、止めてて!」
ルクレツィアの声に、子どもたちが、こくこく、頷く。
ノアも、白い手で口を押さえた。
粉は、ゆっくりと床に落ちていく。
その時——廊下で、護衛の悲鳴のような声。
「お前、なにを——!?」
ばた、と、何かが倒れる、音。
部屋の扉が、勢いよく、開いた。
そこに、立っていたのは——優雅なドレスの女性。
「……ノアさん。お久しぶり」
「……っ、あなたは」
ノアの顔が、瞬時に青ざめた。
ベルナ夫人。
茶会で、ノアの異変に、ロザリオが気づいて、退避させた、あの操られた貴族夫人。
その人が、今——なぜか、ルクレツィア家の中に、立っていた。
その後ろには、武装した男たちが複数。
部屋の前で見張っていた護衛は——廊下に、力なく、倒れていた。
遠くの廊下では、ガシャン、と、剣戟の音が響き始めている。
「妖精様が、待っておいでよ。ノアさん」
「……いや」
「優しく、お連れしないと、いけないの」
『——』
ルクレツィアが、瞬時に立ち上がった。
「あなた——ベルナ夫人ね」
ルクレツィアの声は、低く、けれど、ぞっとするほど、冷たかった。
「うちの屋敷で、何の真似?」
「あら、クライン公爵夫人。ご機嫌、よろしくて?」
「ご機嫌、よろしくないわ。今すぐ、出て行きなさい」
「申し訳ないけれど」
ベルナ夫人が、優雅に微笑む。
「ノアさんを、いただいていきますわ」
「——許さない」
ルクレツィアの白い手が、テーブルの上の——花瓶を、つかんだ。
「ノアちゃんに、触れさせない」
その瞳には、いつもの母性的な穏やかさは、なかった。
公爵夫人として、宰相の妻として、家族を守る——母の、覚悟が滲んでいた。
ルクレツィアは、これでも、若い頃に護身術を心得ている。クライン公爵家に嫁ぐ、家柄の娘として、当然のたしなみとして。
「テオ、ルカ、リナ。ノアちゃんも、一緒に。奥に、逃げて」
「お母さま!?」
「いいから、行きなさい!」
テオが、唇を噛みしめた。
けれど——母の毅然とした声に、頷いて、リナを抱き上げる。
「ルカ、こっちへ! ノアおねえちゃま、急いで!」
「お、お母さま——!」
「行って!」
子どもたちが、奥の続き間に向かって、駆け出した、その時。
「あら、逃さなくてよ」
ベルナ夫人の白い手が、すっと伸びた。
その指先が——逃げかけたノアの腕を、つかむ。
「あ……っ」
ノアの足が、ぴたり、と止まった。
ベルナ夫人の指は、思いのほか、強かった。
「ノアさんだけは、置いていって、いただかないと」
「……っ、いや」
「ノアちゃん!」
ルクレツィアが、叫ぶ。
テオは、リナとルカを、続き間へ、押し込んだ。
「お、おねえちゃま!」
「テオ、はやく、ノアちゃんも——」
「だめ。テオ、行きなさい! ルカと、リナを、守って!」
ルクレツィアの、毅然とした声。
テオは、ぐっ、と、唇を噛んで——リナとルカを連れて、続き間に飛び込んだ。
「お母さま、お母さま!」
扉を、閉める。
ルクレツィアが、その扉を背中で、押さえた。
花瓶を、構えて。
「ノアちゃんを、放しなさい」
ベルナ夫人が、つまらなそうに、首を傾けた。
「公爵夫人。あなたを、傷つけたく、ないの。どきなさい」
「ノアちゃんを、置いていくなら、考えてあげてもよくてよ」
「ふふ。それは、できないわ」
ベルナ夫人が、武装した男に、目で合図を送った。
武装した男が、一歩、ルクレツィアに、近づく。
その時——ルクレツィアの白い手が、振るわれた。
花瓶が、宙を舞う。
男の頭めがけて——叩きつけられた。
ガシャアアッ!
「ぐっ、ッ……!」
花瓶が、男の側頭部に、命中する。
男が、よろめく。
『——』
ルクレツィアは、その隙に暖炉の脇に置かれた、火かき棒を——掴んだ。
ベルナ夫人の、優雅な笑みが、わずかに引きつる。
「……あら。やるじゃない、公爵夫人」
「これでも、宰相の妻よ」
ルクレツィアは、火かき棒を構えた。
「家族を守るためなら、私、剣でも、振るってみせるわ」
その姿は——いつもの、はしゃいだ姉のものでは、ない。
レオンの、ロザリオのカティアの——三人のきょうだいの、母代わりとして、生きてきた、強さ。
武装した男たちが、ためらった。
貴族の女性に、剣を向けるのは、彼らにも、ためらいがある。
「……邪魔ね」
ベルナ夫人が、目を細めた。
その白い手が、武装した男に、何かを囁いた。
男が、頷く。
そして——ルクレツィアめがけて、突進した。
「奥さま!」
「ルクレツィア、姉さま——!」
ノアの、悲鳴のような声。
ルクレツィアは、火かき棒で男の剣を必死に、受け止めた。
ガキィン、と、鋭い音。
受け止めた、けれど——力では、明らかに男の方が上だった。
「……っ、ぐ……!」
ルクレツィアの細い腕が、震える。
火かき棒が、押し込まれていく。
それでも——ルクレツィアは、退かなかった。
「……ノアちゃん、には、絶対に……っ」
『私が、退けば、ノアちゃんが、攫われる』
『退くもんですか』
ルクレツィアの瞳から、汗が滴り落ちる。
けれど、力ではもう、限界だった。
その時——男が、別の手でルクレツィアの肩を、突いた。
「あっ……!」
ルクレツィアの身体が、よろめいて、壁際に追い詰められる。
火かき棒が、手から、離れた。
「……ルクレツィア、姉さま!」
ノアが、叫んだ。
ベルナ夫人の指は、ノアの腕をずっと、捉えたままだった。
逃げられない。けれど、ノアは——もう、逃げる気がなくなっていた。
「ノアちゃん、見て、ないで——逃げ、なさい!」
「いや、いや、ノア、いかない!」
ノアの淡い紫の瞳が、ベルナ夫人を、まっすぐに見上げた。
その小さな身体は、震えていた。
けれど、その瞳には——勇気が、宿っていた。
「ねえさまを、はなして! ノアを、いっしょに、いくから!」
ノアの、勇気を振り絞った声。
「ベルナさまの、ようせいさまの、ところに、ノア、いくから。だから、ねえさまを、はなして」
「ダメよ!ノアちゃん、ダメ!」
壁際から、ルクレツィアが、悲鳴のように、叫んだ。
「行っちゃダメ! あなたが、犠牲になんて——っ!」
肩の痛みも、傷の痛みも、忘れて。
ルクレツィアは、必死に、立ち上がろうとした。
けれど——壁を伝う、その腕には、もう、力が、入らなかった。
「ノアちゃん、お願い……行かないで……っ」
涙が、ルクレツィアの頬を、伝う。
ノアの淡い紫の瞳も、潤んだ。
けれど——その瞳から、決意は、消えなかった。
「……ねえさま、ごめんね」
「ノアちゃん、ダメ——っ!」
「ノアの、つがいは、れおん。ノアの、おうち、ここ。だから——ねえさまたちを、まもりたい」
「……っ」
ルクレツィアの瞳から、涙が、こぼれ落ちた。
「あら。物分かりが、いいのね、ノアさん」
ベルナ夫人が、満足げに微笑んだ。
その白い手が、ノアの口に白い布を押し当てた。
甘ったるい、不自然な匂い。
獣人の、鋭敏な嗅覚を、麻痺させる、強烈な薬。
「……っ、れお、ん」
ノアの淡い紫の瞳が、ゆっくりと霞んでいく。
「れおん、——」
『……たすけて』
『たすけて、れおん』
ノアの意識が、闇に沈んでいく。
「ノアちゃん!」
ルクレツィアが、壁際から、叫ぶ。
「ノアちゃん、ノアちゃん——!」
立ち上がろうとして——けれど、肩の痛みでよろめく。
その視線の先で。
ベルナ夫人が、ノアを軽々と、抱き上げた。
部屋の隅で——倒れたままの、庭師。
その瞳は——もう、虚ろさすら、消えて、ただ、空っぽになっていた。
「……役目、ご苦労さま」
ベルナ夫人が、庭師に見向きもせず、呟いた。
武装した男たちが、ノアとベルナ夫人を、囲むようにして——廊下を、進んでいく。
誰にも、見られない、裏の動線を。
それは、最初から、誰かが屋敷の中を、正確に把握していなければ、できないことだった。
「……ま、待って」
ルクレツィアが、壁を伝って、立ち上がる。
「ノアちゃん、を……っ」
けれど、よろめく身体は、もう、追えなかった。
奥の続き間から、テオの叫び声が、響いた。
「お母さま! お母さま、大丈夫ですか!?」
その声に、ルクレツィアは、はっと現実に引き戻された。
子どもたち。
子どもたちの、命も、守らなければ。
『……ノアちゃん、ごめん』
『守れなくて——ごめんね』
ルクレツィアの瞳から、悔し涙がこぼれた。
***
王城。
レオンが、ハインツの誘いを、振り切ろうとした、その瞬間。
胸の奥が——どくり、と、引き裂かれるように、痛んだ。
『……っ』
息が、止まる。
冷や汗が、一気に噴き出した。
『……ノア』
『ノアが——っ』
名前を、呼ばれた、気がした。
助けて、と。
「……団長殿?」
ハインツが、虚ろな瞳でレオンを見上げる。
その手を、レオンは力ずくで、振り払った。
「悪いが、急用ができた」
もう、迷いはなかった。
レオンは、踵を返した——その、瞬間。
ハインツの手が、レオンの腕を、つかんだ。
ぐっ、と。普段の侍従からは、考えられない、強い力で。
「……お放しください。陛下が、お待ちです」
「離せッ」
レオンが、ハインツの手を、振りほどいた。
走り出す。
城内の、廊下を突っ切るように、駆ける。
その途中——詰所の方角から、見慣れた、人影が近づいてきた。
「団長!? どうされ——」
副団長のガイルだった。レオンの右腕として、長年、騎士団を支えてきた、信頼の置ける、壮年の男。
レオンの異変に、瞬時に表情を引き締めた。
「ガイル」
「は」
「ヘンだ。何かが、起きている」
レオンの声は、低く、鋭かった。
「俺は、すぐに、屋敷に戻る。ノアが、危ない」
「……っ、団長」
「ガイル、頼みがある。ここで、宰相と陛下に、急ぎ、連絡してくれ。王城内に、すでに、操られた者がいる。王の側仕えの、ハインツも、その一人だ」
「な——ッ」
「警戒を、最大級に。それから——騎士団を、屋敷に、集めてくれ。すべての、警邏も、すぐに、ルクレツィア家に集結」
「は、ハッ!」
「頼んだ」
「団長、お気をつけて——!」
ガイルの頷きを、見届けて。
レオンは、走り出した。
信頼できるガイルに、後方を託す。
あとは——自分が、最速で屋敷に戻るだけ。
馬車を、つかまえる。
「ルクレツィア家へ! 急いでくれ!」
「は、はい!」
馬車が、王都の街を駆け出す。
いつもの、四半時の距離が——今は、永遠に感じられた。
『間に合え』
『間に合ってくれ』
『……ノア』
レオンの、ヘーゼルの瞳に——焦りと、決意が燃えていた。
***
ノアが連れ去られていた、その時刻。
屋敷の、別の場所では——もうひとつの、戦いが繰り広げられていた。
屋敷の、廊下では——剣戟の音が、響いていた。
武装した、見知らぬ男たち。
それと、応戦する、屋敷の警備にあたる、騎士団員たち。
「貴様ら、何者だッ! ここを、宰相閣下の屋敷と知ってか!?」
「やはり、宰相の屋敷を、襲うとはッ!」
騎士団員たちの、怒声。
屋敷の警備に配置されていた、レオンが信頼して選んだ騎士たちだった。
彼らは、剣を抜いて、侵入者たちを、押し戻そうとしていた。
けれど——。
「……っ、お前、その顔は」
ひとりの、ベテランの騎士が、刃を交えた、相手の顔を見て——息を、呑んだ。
その、敵側の男も——騎士団の、制服を着ていた。
見覚えのある、顔。
いつも、詰所で共に汗を流していた、仲間。
「貴様、なぜ、こちら側にッ!?」
「……」
仲間だった、はずの騎士は——答えなかった。
その瞳は、虚ろで焦点が合っていなかった。
「……お前ッ! 目を覚ませ! 俺だ、わかるだろう!?」
「……邪魔、です」
虚ろな瞳の、その騎士は——剣を、振るった。
その剣の動きは、いつもの彼のものでは、なかった。
ぎこちなくて、力にためらいがあって。
ベテランの騎士は、その剣を簡単に、受け流した。
「……っ、おい、しっかりしろ! お前、操られて、いるのか!?」
「……どうして、こうなった……?」
虚ろな瞳の騎士の、口から、ふと本人の声が漏れた。
その瞳に、わずかな涙が、滲んだ、ように見えた。
けれど、すぐに——また、虚ろさがその瞳を、覆った。
「邪魔、です。退いて、ください」
「……っ、ふざけるな」
ベテランの騎士は、剣を振るった。
けれど、力を加減していた。仲間を、傷つけたくは、ない。
その葛藤の隙を、突かれて——侵入者たちの一団が、奥へ、進んでいく。
屋敷の、あちこちで同じような光景が、繰り広げられていた。
「お前、本当に、お前なのか!?」
「目を、覚ましてくれ!」
「……どうして、俺たち、こんなこと……」
虚ろな瞳の、操られた騎士たち。
彼らも、心の奥では葛藤していた。
だから、力が入りきらない。だから、致命傷も、ためらわれる。
屋敷の騎士団員も、仲間を殺すわけには、いかない。
双方が、決定打を欠いていた。
大きな怪我は、誰も、負わなかった。
けれど——その「優しさ」こそが、罠だった。
ベルナ夫人と、武装した男たちは——その騎士団同士の葛藤の隙間を、すり抜けて。
ノアを、すでに抱えて。
屋敷の、裏門へと消えつつあった。
***
ノアが、連れ去られた——その、後。
ルクレツィアは、よろめきながら、ノアの部屋の、続き間の扉を、開けた。
「テオ、ルカ、リナ。もう、大丈夫よ」
「お母さま!」
子どもたちが、ぱっと駆け寄ってくる。
テオが、ルクレツィアの肩の傷に、気づいた。
「お母さま、お怪我を——!」
「大丈夫。かすり傷よ」
「ノアおねえちゃまは……?」
テオの問いに——ルクレツィアの瞳が、また、潤んだ。
けれど、子どもたちの前で、涙は見せられない。
「ノアちゃんは——絶対に、取り戻すわ」
ルクレツィアは、子どもたちを、まとめて、抱きしめた。
その時、屋敷の執事が、息を切らせて、駆けつけてきた。
「奥様! 奥様、ご無事ですか!?」
「私は、いい。それより——レオンに、すぐ、知らせて。ユリウスにも、騎士団にも!」
「す、すでに、騎士団は、屋敷で、応戦しております。けれど——」
執事の顔も、青ざめていた。
「侵入者たちと、ノア様は、すでに、裏門から——馬車で、王都の外へ」
「……っ」
「廊下の騎士団員たちも——なぜか、力が、入りきらず、止められなかった、と」
『——』
ルクレツィアの全身から、血の気が引いていく。
ベルナ夫人の、操られた瞳。庭師の、空っぽの瞳。
そして——廊下で、剣を交わしながら、力を入れきれなかった、騎士団員たち。
全部、繋がっていた。妖精の、計画通りに。
「……すぐ、知らせて」
ルクレツィアの声は、震えていた。
「ユリウスにも! 早く!」
「は、はいっ」
「子どもたちは、私が、見ているわ。安全な部屋に、移して」
「かしこまりました」
使用人たちが、慌てて、走り出す。
ルクレツィアは、子どもたちを抱きしめたまま——倒れたゼルとシャルを、見つめた。
神獣たちは、まだ、息はある。けれど、目を覚ます気配は、ない。
「……ノアちゃん」
ルクレツィアの瞳から、涙がこぼれた。
「ごめんなさい。守れなくて、ごめんなさい」
***
馬車が、ルクレツィア家に、滑り込んだ。
「ノア!」
レオンが、扉を蹴破るように、屋敷の中へ、駆け込む。
「レオン……っ」
玄関ホールに、現れたルクレツィアの姿に——レオンの足が、ぴたり、と、止まった。
肩には、傷の手当ての、白い包帯。
ドレスの袖は、破れて、血がにじんでいた。
頬には、かすり傷。屋敷の医師が、その傷を慌ただしく、手当てしているところだった。
いつもの、凛とした姉の姿は、そこにはなかった。
ただ——傷だらけのけれど、必死に立っている姉の姿がそこにあった。
「……ね、姉さん」
レオンの呼吸が、止まる。
「……ノアちゃん、ごめんなさい」
ルクレツィアの瞳から、また、涙がこぼれた。
「私が、ついていたのに……守れなくて……ごめんなさい、レオン」
「……っ」
「武装した者たちが、入ってきて——花瓶も火かき棒も振るったの。でも、力が足りなくて……っ」
「ね、姉さん……」
ルクレツィアの白いドレスの、あちこちに滲んだ血。
砕けた花瓶。鉛色の火かき棒。床に、散乱した、戦いの痕跡。
レオンの胸が、引き裂かれた。
姉が——いつも穏やかで、誰よりも家族を大切にする、あの姉が——傷だらけになるまで、戦って、ノアを守ろうとした。
それでも、ノアは攫われた。
「……ノアは」
「いない、の」
「……っ」
「裏門から——連れ出された、って」
ルクレツィアの声は、震えていた。
「ベルナ夫人と、武装した男たちが、馬車で——」
『——』
レオンの呼吸が、止まる。
ハインツの呼び出し。馬車の侍従。
そして、屋敷の手引き。
すべて、繋がっていた。
最初から、計画されていた。
レオンを、屋敷から離す。その間に、ノアを攫う。
『……っ、しまった』
『おれが、おれが、ノアを、ひとりに、した』
「……っ、姉さん。ごめん。姉さんを、こんな目に……」
「いいの。私のことは、いいの」
ルクレツィアは、首を振った。
「それより——ノアちゃんを、取り戻して。お願い、レオン」
「……うん」
レオンの瞳に、強い光が宿った。
「うん。絶対に」
「レオン」
ユリウスが、急ぎ、駆けつけてきた。
その顔は、見たことがないほど、険しかった。
妻の姿に、一瞬、息を呑む——けれど、ぐっ、と、こらえた。
「ルクレツィア。あとで、たっぷり、話を聞かせてもらう。今は、ノアちゃんが先だ」
「……ええ」
ユリウスは、レオンに向き直った。
「街道を、すべて、封鎖した。騎士団を、総動員する。必ず、見つける」
「ユリウス」
「俺たちが、見つける。お前は、自分を、責めるな」
「……っ」
「行くぞ、レオン」
ユリウスの、力強い声。
けれど——レオンの心は、もう、半分、壊れていた。
『ノア』
『どこだ、ノア』
『生きてるか』
『無事か』
『……っ、無事でいてくれ』
その時、レオンのヘーゼルの瞳が——暗く、燃え上がった。
いつもの、穏やかな騎士団長の表情では、ない。
愛する者を、奪われた——一人の、男の顔。
「絶対に、取り戻す」
レオンの口から、出たのは——「僕」では、なかった。
「絶対に。何が、相手であっても」
「……」
「俺が、ノアを、取り戻す」
その声に、ユリウスは頷いた。
***
暗い、馬車の中。
ノアは、両手を縛られて、運ばれていた。
白い布を、嗅がされて——意識は、もう、半分、朦朧としていた。
『……れおん』
ノアの、淡い紫の瞳から、涙がこぼれる。
『……れおん、ごめんね』
『ノア、ちゃんと、まってたのに』
『なかに、わるいひと、はいってきちゃった』
馬車は、王都を出て——どこか、知らない方向へ、進んでいく。
ノアの意識が、薄れていく。
『……れおん、たすけて』
そして——ノアの瞳が、ゆっくりと閉じた。
誘拐の、馬車は雨の降り始めた王都を、後にした。
ノアと、レオンが引き離された——その夜。
王都に——本格的な、嵐が訪れていた。
——第8話 了
【あとがき おまけSS 〜目覚めた神獣たち〜】
ノアの部屋。
日が、すっかり、傾いた頃。
白い粉の効果が、ゆっくりと、抜けていった。
《……う、ぅ……》
ゼルが、長い耳を、ぴくり、と動かした。
重い、まぶたを、開ける。
窓の外は、もう、暗い。屋敷の中は、静まり返っていた。
《……シャル》
ベッドの足元で、ゼルが、まず、起き上がろうとした。
けれど、身体に、力が入らない。よろよろと、立ち上がるのが、精一杯。
《シャル、起きて……》
《……っ、ん……》
窓辺で、シャルが、ようやく、目を開けた。
黒い瞳が、状況を、ぼんやりと、確かめる。
そして——気づいた。
《……ノアちゃん、いない》
《うん。いない》
二匹は、しばらく、無言で、空っぽのベッドを、見つめた。
乱れた絨毯。砕けた花瓶のかけら。床に散らばった、白い粉の跡。
誰かが、ここで、戦った。激しく、戦った。
その間——二匹は、何ひとつ、できなかった。
《……ぼくたち、また、守れなかった》
ゼルの、大きな身体が、震えていた。
《ご主人に、夜は任せてって、言ったのに》
《今度は、夜じゃなくて、昼。それも、近くにいたのに》
《ぼく、なにも、できなかった……》
ゼルの瞳から、大粒の涙が、こぼれた。
《ゼル》
シャルが、ゆっくりと、ゼルの隣に、降りてきた。
いつもの冷静な黒猫の声が、今は、震えていた。
《泣いている場合じゃ、ない》
《でも……ぼくたち、神獣なのに……》
《うん。神獣なのに、力、足りなかった》
《……っ》
《でも、ね、ゼル。今、できることを、やろう》
シャルは、ぐっ、と、四肢に、力を込めた。
けれど、まだ、よろめく。
《……あれは、ただの薬じゃない。妖精の力が、混ぜてあったみたい》
《……っ、やっぱり》
《だから、僕たちでも、防げなかった》
《でも、ノアちゃんは、ぼくたちを、信じて、預けてくれたのに》
《ゼル》
シャルが、ゼルの大きな頭に、自分の小さな頭を、こつん、と、寄せた。
《泣くのは、後でいい》
《今は、立たなきゃ》
《……うん》
《ご主人が、ノアちゃんを、探しに行った》
《ぼくたちも、行かなきゃ》
《うん。ご主人だけに、戦わせない》
二匹は、よろよろと、立ち上がった。
まだ、身体が、ふらつく。
窓の外を、見上げる。
空は、暗く——王都の上空に、嵐の雲が、垂れ込めていた。
その雲の、どこかで——ノアが、攫われていく。
《……ノアちゃん》
ゼルが、ぽつり、と、呟いた。
《待ってて。ぼくたち、絶対、迎えに行くから》
《絶対、取り戻すから》
二匹の小さな影が、暗くなりつつある部屋で、寄り添うように、立っていた。
その姿は、まだ、心もとなくて。
けれど、その瞳には——揺るがない、決意が、宿っていた。
神獣たちの戦いも、これから——始まる。




