第4話 約束の指切り
よろしくお願いいたします
レオンとノアが姉ルクレツィアの家で暮らし始めて、五日が経った。
その間に——レオンの日常は、すっかり変わっていた。
きっかけは、先日のあの出来事だった。
レオンが城に出ていた、たった半日。
その間にノアは、番から引き離された苦しさで倒れかけた。医師は言った。「お二人は、極力、離れないほうがよい」と。
それ以来、レオンは——城と姉の家を、一日に何度も往復するようになっていた。
朝、出仕して、騎士団の鍛錬と午前の執務。
昼が近づくと、一度家に戻り、ノアと昼食を一緒に取る。
午後、また城へ。夕方には、また家へ。
用事が長引きそうなときは、その合間にも馬車を飛ばして、ノアの顔を見に帰る。
騎士団長がこんな働き方をするのは、本来ならありえない。
けれど——副団長が「団長は、おれたちが支えます」と言ってくれた。ユリウスも、執務の段取りをうまく組んでくれた。アルノー王も、すべての事情を知った上で黙認してくれている。
多くの人の理解に、レオンは支えられていた。
『……みんなには、本当に、感謝しないと』
その朝も、レオンは騎士団の鍛錬を終えたところだった。
若い騎士たちが、いつもよりわずかに明るい顔で、レオンに挨拶をしてくる。
「団長、おはようございます!」
「うん。おはよう」
「今日も、お元気そうで」
「ありがとう」
彼らも、噂のことは知っている。
けれど、副団長が「団長を信じよう」と、何度も騎士団内を回ってくれていた。
団員たちは、レオンの普段通りの誠実さを見て、自分たちで判断してくれていた。
『……ありがたい』
レオンは、心の中で副団長に感謝した。
城内の様子も、少しずつ変わり始めていた。
最初の数日は、すれ違う貴族の視線が明らかに冷たかった。
けれど、ユリウスが貴族議会で、淡々と状況の説明をしてくれていた。
「神獣の森から来た、稀少な獣人の少女が、人身売買組織に拐われていた。それを、騎士団長が、保護した」
ユリウスの説明は、極めて簡潔だった。
ノアの正体については、神獣の森のことだけ伝えた。それ以外の詳細は伏せられていた。
「ふむ……神獣の森とは、また興味深い話だな」
貴族たちは、それぞれ興味と疑念を抱えていた。
すぐに噂が消えるわけではない。
けれど、最悪の状況はひとまず回避された。
「ユリウス。ありがとう」
「……お前、また、ありがとう、しか言わないのか」
宰相執務室でレオンが頭を下げると、ユリウスは辛口の笑みで応じた。
「他に、何を言えばいいかな」
「『次は、ちゃんと報告します』、だな」
「うん。それも」
「……期待してないからな」
『辛口だ……』
ユリウスは、書類の山に視線を戻した。
「……それにしても。お前、最近、城と家を、何度も行ったり来たりしてるな」
「うん。ノアと、あんまり長く離れられないから」
「まあ、あの様子を見たからな。仕方ない」
ユリウスは、先日のノアの一件を思い出したのか、ふっと表情を和らげた。
「お前が午前と午後で何度も顔を出すから、騎士団の連中は、最初、ぎょっとしてたぞ」
「……うっ。やっぱり、迷惑かな」
「いや。むしろ、好評だ」
「え?」
「『団長は、保護した子のために、ここまでするのか』とな。お前の誠実さの証明になってる」
「……そう、なんだ」
「ああ。皮肉なものだな。噂を覆したのは、お前の言葉でも、地位でもない。ただ、お前があの子を必死に大事にしている——その姿、そのものだ」
『……ユリウス』
辛口な義兄の思いがけない言葉に、レオンは少し照れた。
「で、お前、今日も、昼には帰るんだろう」
「うん。ノアと、お昼、一緒に食べる約束だから」
「ノアちゃんが、玄関で待ってるからな」
「……うん」
レオンは、苦笑しながら執務室を出た。
城を出て馬車に乗り込めば、向かう先は——もう、自分の屋敷ではない。
姉夫婦の家。ノアの待つ、あの賑やかな家だ。
家に帰れば、ノアがいる。
ただ、それだけのことが、レオンの中でいちばん楽しみな時間になっていた。
***
ノアは、いつもレオンが帰ってくる時間より、ずっと前から玄関ホールで待っていた。
白い髪を丁寧に梳かしてもらって、姉妹たちが選んだ可愛いワンピースを着て、淡い紫の瞳を玄関の扉に向けて——。
レオンの馬車の音が聞こえると、ノアは、ぴょん、と跳ねた。
「かえってきた!」
そして、玄関の扉が開いた瞬間。
「れおん!」
白い小さな塊が、まっすぐにレオンの胸に飛び込んでくる。
「わっ」
レオンは、慌ててノアを受け止めた。
ノアは、レオンの首に、ぎゅっとしがみついた。
「おかえり……!」
その言葉に、レオンは、ふっと笑った。
「うん。ただいま、ノア」
最初は、ぎこちなかった、毎日の「ただいま」と「おかえり」。
いつの間にか、ノアにとって、これが世界でいちばん楽しみな時間になっていた。
***
ルクレツィア家の応接間。
レオンとノアは、ソファに並んで座り、ティータイムを楽しんでいた。
テーブルの上には、ルクレツィアが用意してくれた、焼きたてのスコーンと、ベリーのジャム、温かい紅茶。
ノアは、フォークを使って、スコーンをちょこちょことつまんでいた。
最初の日には、フォークの使い方さえ知らなかったノアが、今では、自分で食事ができるようになっていた。
『……こうやって見ると、本当に、毎日少しずつ変わってるな』
レオンは、その姿を見ながら、感慨深く思った。
たった五日で、ノアはたくさんのことを覚えていた。
お辞儀のしかた。「はい」と「ありがとうございます」。フォークやスプーンの使い方。階段の昇り降り。お風呂の入り方——。
すべてが、ノアにとっては初めてのことばかり。
それでも、ノアは嫌がらずに、ひとつひとつ覚えていった。
『……賢い子なんだな』
「れおん」
ノアの声に、レオンは思考から戻ってきた。
「うん?」
「これ、おいしい」
ノアが、スコーンを、ちょこんとレオンに差し出した。
ジャムが、ノアの白い指に少しだけついていた。
「ありがとう」
レオンは、そのスコーンを、ぱくっと食べた。
「ほんとだ、おいしいね」
「でしょ」
ノアは、ふんわり笑った。
『……あ』
レオンの胸の奥が、ふわりと温かくなる。
『この子の笑顔、本当に、可愛いな』
ただそれだけのこと、なのに。
毎日、家に帰るのが——ノアの顔を見るのが、楽しみで仕方ない。
『……不思議だな』
レオンは、そっと、自分の胸に手を当てた。
ノアといると、胸の奥が、いつもふわふわと温かくなる。
城にいても、ふとノアのことを考えている。早く顔が見たい、と思う。
『でも、まあ……ノアは、可愛いし』
『一緒にいて、楽しいんだから。それで、いいよね』
恋愛に鈍いレオンは、その温かさの正体を、深くは考えなかった。
胸の中の、その「ふわふわ」が——何を意味しているのか。
レオンは、まだ気づいていなかった。
***
「あ、れおんおじさま!」
応接間に、ルクレツィアの長男テオが入ってきた。
今年で十歳。歳の割にしっかりした子で、レオンを見ると、ちゃんと姿勢を正した。
「おかえりなさい」
「ただいま、テオ」
けれど、礼儀正しい挨拶を終えた途端——その瞳が、きらきらと輝き出した。
「あの、おじさま。今度でいいんですけど……剣のお稽古、見てもらえませんか? おじさまみたいに、強くなりたくて」
その後ろから、宰相ユリウスが、ゆっくりと入ってきた。
仕事帰りらしく、執務服のままで、上着だけを脱いで、襟元を緩めていた。
「こら、テオ。おじさまは、今、ノアちゃんとお茶の時間だぞ。おねだりは、また今度にしなさい」
「あ……はい。すみません」
しゅん、と肩を落とすテオに、レオンは、ふっと笑った。
「テオ。今度、ちゃんと時間を取って、稽古をつけてあげるよ。約束する」
「! ありがとうございます!」
テオは、ぱっと顔を輝かせて——それでも、ちゃんとぺこりと頭を下げてから、応接間を出ていった。
「やあ、レオン」
「ユリウス。お疲れさま」
ユリウスは、レオンの隣の一人掛けに、深く腰を下ろした。
「報告書、読んだぞ」
「うん」
「漏れなく、詳細に書けてた。意外と、きちんとできるじゃないか」
「それ、褒めてる?」
「半分」
『半分かよ……』
ユリウスの隣に、ノアが、ちょこんとお辞儀をした。
「ユリウスさま。こんにちは」
「ああ、ノアちゃん。元気そうだな」
冷静沈着な宰相が、ノアに対しては、わずかに優しい表情を浮かべた。
応接間に、ルクレツィアが、二歳のリナの手を引いて入ってきた。
リナは、ノアを見つけると、にこにこと笑った。
「のあねえちゃま!」
ぱっとルクレツィアの手を離して、リナはノアの方へ、とことこと歩いていった。
ノアは、そのリナを、両手で優しく受け止めた。
「リナちゃん」
「のあねえちゃま、だっこ」
「うん。だっこ」
ノアは、リナを膝の上に、そっと乗せた。
すっかり、子どもたちのお姉さん——いや、お友達のような存在になっていた。
「ねえ、れおんおじさま」
二歳のリナが、無邪気な瞳で、レオンを見上げた。
「のあねえちゃまは、おじさまの、おひめさま?」
『——』
部屋の空気が、一瞬で固まった。
レオンは、紅茶のカップを危うく落としかけた。
「お、お姫さま? えっと——」
『リ、リナちゃん、何を言うんだ』
ルクレツィアが、ふっと口元を緩めた。
「リナ、お姫さまって、どうしてそう思ったの?」
「だって、おじさま、のあねえちゃまの、こと、ずっと、みてる」
『——え』
レオンは、言葉に詰まった。
「あと、のあねえちゃまも、おじさま、ずっと、みてる」
「……」
「ずーっと、みつめてる」
『……ええっ』
二歳児の、容赦のない観察力。
ノアの白い頬が、ふわっと桜色に染まった。
レオンも、なぜか気まずくなって、視線を紅茶のカップに落とした。
応接間に、なんとも言えない甘い空気が広がる。
その光景を、ユリウスは辛口の笑みで見ていた。
「……お前、本当に、わかりやすいな、レオン」
「ユリウス、それ、どういう意味」
「言葉通りだ」
「……」
「リナの方が、お前より、よっぽど観察眼がある」
『……ぐっ』
レオンは、何も言い返せなかった。
なぜなら、自分でも、ノアを「ずっと見ていた」ことに気づいていなかったからだった。
***
昼食を終えると、レオンは、午後の執務のために、また城へ戻ることになった。
「ノア。午後のお仕事、行ってくるね」
「……うん。いってらっしゃい」
「夕方には帰ってくる。いい子で待ってて」
「うん。ノア、まってる」
ノアは、ちゃんと自分から、レオンの手を離した。
何度も繰り返してきた見送り。
ノアは、少しずつ「待つ」ことに慣れてきていた。
それでも——レオンの馬車が門を出ていくのを見送ると、ノアの白い耳は、しゅん、と少しだけ伏せた。
『……れおん、いっちゃった』
その、わずかな寂しさを見逃さなかったのは、ルクレツィアだった。
「ノアちゃん」
「……はい」
「こっちに、いらっしゃい。みんなで、お部屋で遊びましょう」
ルクレツィアに手を引かれて、ノアが子ども部屋の方へ向かうと——。
「あ、ノアおねえちゃん!」
次男のルカが、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
七歳のルカは、テオと違って、甘えん坊で人懐っこい。
「ノアおねえちゃん、これ、よんで!」
ルカが、両手で大事そうに、絵本を差し出した。
「……えほん」
「うん! ノアおねえちゃんと、よみたい!」
ノアは、少し困ったように、ルクレツィアを見た。
ノアは、まだ文字を習い始めたばかり。すらすらとは読めない。
「ノアちゃん。ゆっくりで、いいのよ」
ルクレツィアが、優しく微笑んだ。
「読めるところまで。わからない字は、みんなで考えましょう」
「……うん」
ノアは、ルカとリナを両脇に座らせて、絵本を開いた。
「……む、むかし、むかし……」
たどたどしく、一文字ずつ、たどっていく。
「あ、それ、『あるところに』!」
ルカが、得意げに教えてくれる。
「あるところ、に……」
「そう!」
「ルカ、すごい。じ、よめる」
「えへへ。ぼく、もう、ぜんぶ、よめるもん!」
ノアに褒められて、ルカは得意満面だった。
文字を教わる側の、ノア。教える側の、七歳のルカ。
その微笑ましい逆転に、見守っていたテオが、ふっと笑った。
「ルカ。あんまり、得意がるなよ」
「だって、ほんとに、よめるもん!」
「ノアおねえちゃんは、ついこの間まで、お外でたいへんだったんだ。だから、これから、ゆっくり覚えるんだよ」
十歳のテオは、もう、いろいろなことをわかっている。
ノアの事情を、子どもなりに察して、優しく気遣ってくれていた。
「……テオくん」
「ノアおねえちゃん。ぼくも、ルカも、字、教えてあげる。だから、いっしょに読もう」
「……うん。ありがとう」
ノアの胸が、じんわりと温かくなった。
膝の上では、リナが絵本の挿絵を、ぺたぺたと触って、「わんわん!」「おはな!」と、はしゃいでいる。
『……あったかい』
ノアは、ふと思った。
森にいた頃とも違う。レオンと二人とも違う。
たくさんの人に囲まれて、わいわいと過ごす時間。
それは、ノアにとって、生まれて初めて知る——「家族」の温かさだった。
絵本を読み終えると、ルクレツィアが、ノアの後ろに座った。
「ノアちゃん。髪、梳かしてあげる」
「……はい」
櫛が、ノアの白い髪を、やさしくすいていく。
ルクレツィアの手つきは、慣れていて、とても優しかった。
「ノアちゃんの髪、本当に、きれいね。雪みたい」
「……ルクレツィア、ねえさま」
「うん?」
「……ノア、ここ、いていいの?」
ノアの、たどたどしい言葉に、ルクレツィアの手が、ふと止まった。
それから、ルクレツィアは、櫛を置いて、ノアを後ろからそっと抱きしめた。
「いいに、決まってるでしょう」
「……」
「ノアちゃんは、もう、私たちの家族なのよ。ずっと、ここにいて、いいの」
「……っ」
ノアの淡い紫の瞳が、じわりと潤んだ。
その温もりに、ノアは、こくん、と頷いた。
「……うん。ノア、ここに、いる」
***
夕方。
城から帰ってきたレオンは、ノアと二人で、ルクレツィア家の中庭に出ていた。
屋敷の中庭は広く、薔薇のアーチがあり、白いベンチが置かれていた。
夕暮れの光が、庭を淡い金色に染めている。
ノアは、ベンチに座って、ぱたぱたと足を揺らしていた。
「れおん」
「うん?」
「これ、なに?」
ノアが、地面を指差した。
そこには、白い可愛い花が咲いていた。
「ああ、それ、デイジー」
「でいじー?」
「うん。小さくて、白くて、可愛い花」
「……かわいい」
「うん。ノアに、似てる」
『——』
『…………あ』
『え。今、僕、なんて、言った?』
レオンは、自分の口から出た言葉に、自分で固まった。
ノアは、ぱちくりと目を瞬かせて、レオンを見上げた。
白い頬が、見る見るうちに桜色に染まっていく。
「……ノアと、おなじ?」
「あ、いや、その」
「ノア、でいじー?」
「えっと、似てるって、意味で、その」
『あ、僕、何を、言ってるんだろう。でも、本当に、似てるんだよな……白くて、小さくて、可愛い……あ。可愛いって、また』
レオンは、心の中で、わたわたと慌てていた。
ノアは、しばらく、自分の頬に両手を当てて、レオンを上目遣いに見つめていた。
そして、ぽつり、と言った。
「……うれしい」
「え?」
「ノア、れおんに、にてるって、いわれて、うれしい」
『——うっ』
レオンの胸の奥が、なぜか、ぎゅっと痛くなった。
いや、痛い、というのとも違う。
もっと、温かくて、ふわふわした、何か。
心臓が、いつもより少しだけ速い気がした。
『……これ、なんだろう』
レオンは、自分の胸に、軽く手を当てた。
『……まあ、いいや。ノアが、嬉しいなら、それで、いいよね』
恋愛に鈍いレオンは、その「ふわふわ」の正体を、深く考えなかった。
そんなレオンの隣で、ノアは、デイジーを一輪、そっと摘み取った。
そして、その花を、自分の白い髪に、そっと挿した。
「れおん、見て」
「……うん」
「ノア、でいじー」
ノアの白い髪に、白い花が、ふわりと揺れていた。
夕日が、その光景を淡い金色に染めていた。
『……っ』
レオンの心臓が、また、変なリズムを刻んだ。
『……うわ、可愛い!……いや、可愛いとかじゃなくて、いや、可愛いんだけど。ええと、何だっけ、僕、何を考えてた?』
頭の中がぐるぐるしてしまって、レオンは、何かを言おうとして、結局、何も言えなかった。
ただ——。
そっと、ノアの白い髪に挿されたデイジーに、指で触れた。
「うん。似合ってるね」
「……えへへ」
ノアは、嬉しそうに笑った。
白い頬は、まだ桜色に染まったままだった。
***
その日の夜。
ノアが眠りについたあとの、応接間で。
ルクレツィアと、ロザリオが、ティータイムを、楽しんでいた。
ロザリオは、夕方にふらりと姉の家を訪ねてきて、そのまま夕食までごちそうになり、夜まで居座っていた。
「ねぇ、姉さま。レオン兄さまとノアちゃん、どう?」
「どうって?」
「進展は?」
ロザリオが、わくわくした顔で、姉に身を乗り出す。
ルクレツィアは、紅茶をゆっくりと口に運んでから、ふっと微笑んだ。
「あの子、まだ、自分の気持ち、わかってないわよ」
「ええ〜!」
「でもね、傍から見てると、もう、半分、堕ちてるわね」
「やっぱり!」
ロザリオが、嬉しそうに両手を合わせた。
「ノアちゃん、髪にデイジー挿してたでしょ? あれ、レオンが『似てる』って言ったから、嬉しくて、自分で挿したのよ」
「えっ、レオン兄さま、そんなロマンチックなこと、言ったの!?」
「言ったわ。でも本人、自分が言ったこと、覚えてるか怪しいわよ」
「うわ〜、お約束〜!」
ロザリオは、頬を、ぺちぺちと叩いた。
「これは、もう、私の出番じゃない?」
「あなたの、出番?」
「ノアちゃんに、『恋』を教えてあげるのよ」
「……ロザリオ」
「だってだって、ノアちゃん、まだ、自分の気持ちが何かも、わかってないでしょ?」
ロザリオは、いたずらっぽく笑った。
「番、っていう本能は、わかってる。でも、それと『恋』って、別じゃない?」
「……まあ、そうね」
「ノアちゃんが、自分の気持ちを、ちゃんと自覚したら——」
ロザリオは、ふふっ、と笑った。
「絶対、もっと可愛くなるわよ」
「あなた、本当に、こういう話、好きね」
「だって、楽しいんだもん」
ルクレツィアは、苦笑しながらため息をついた。
「ほどほどにね、ロザリオ」
「は〜い!」
***
翌日。
ノアの部屋に、ロザリオが、勢いよく飛び込んできた。
「ノアちゃーん!」
「ロザリオ、ねえさま!」
ノアは、ちょこんとベッドに座って、絵本を眺めていた。最近、ルクレツィアが文字を教え始めていた。
「お姉さま、今日はね、特別なお話を、しに来たの」
ロザリオは、ノアの隣に、ぴょん、と腰を下ろした。
いたずらっ子のような、満面の笑みで。
「ノアちゃん、レオン兄さまのこと、好き?」
「……好き」
即答だった。
ノアは、目を、ぱちくり、として、ロザリオを見上げた。
「すごい即答……!」
「……ちがう、の?」
「ううん、いい、いいの。じゃあね」
ロザリオは、ふふっ、と目を細めた。
「『好き』って、どんな『好き』?」
「……どんな?」
「うん。たとえば、私のこと、ノアちゃん、好き?」
「好き」
「そう、ありがとう」
ロザリオは、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあね、私のこと、好きなのと、レオン兄さまのこと、好きなのって、おんなじ?」
「……」
ノアは、しばらく考えた。
頬に両手を当てて、しばらく考えた。
それから、ぽつりと言った。
「……ちがう」
「あら、違うんだ。どう違うの?」
「えっと、ね」
ノアは、必死に、自分の中の何かを言葉にしようとしていた。
「ロザリオ、ねえさま、すきだから、いっしょにいると、たのしい」
「うん」
「でも、れおんは、ね」
「うん」
「いっしょにいると、むねが、ぎゅってなる。あつくなる。ふわふわする」
「……」
「ねえさまと、ちがう、すき」
『……はああああっ』
ロザリオは、心の中で絶叫した。
『か、か、可愛すぎる! 可愛すぎるよ、ノアちゃん!!』
けれど、表面上は、なんとか平静を装って、ノアに向き直った。
「ノアちゃん。それね、『恋』、っていうのよ」
「……こい?」
「うん。レオン兄さまのこと、好き、ってだけじゃなくて、もっと深いやつ」
「……ふかい」
「番、っていうのは、本能の話。でもね、『恋』は、心の話なの」
「……」
「ノアちゃんは、レオン兄さまに、『恋』してるのよ」
『——』
ノアの淡い紫の瞳が、見る見るうちに潤んだ。
白い頬が、桜色を通り越して、いっそ紅く染まっていく。
「……っ」
ノアは、口を、ぱくぱくさせて、それから、両手で自分の顔を覆った。
「ノアちゃん?」
「……ノア、れおんに、こい、してる……?」
「うん」
「……」
ノアは、しばらく、両手で顔を覆ったままだった。
それから、ゆっくりと両手をおろした。
淡い紫の瞳には、しっとりとした、けれど、確かな何かが宿っていた。
「……うん」
ノアは、こくん、と頷いた。
「ノア、れおんに、こい、してる」
「……」
「ノア、れおん、すき。番、として、すき。それと、もっと、ふかく。こいしてる」
『——』
ロザリオは、もう、感極まっていた。
『……ノアちゃん、本当に、賢いし、純粋だわ。でも、これは、本当に、可愛い。これ、絶対、見てて、楽しい』
「ノアちゃん、その気持ち、レオン兄さまには、まだ、内緒ね」
「……ないしょ?」
「うん。だってね、男の人って、鈍いから」
「鈍い?」
「うん。すぐには、わからないの。だから、ノアちゃんが、ゆっくり、自分の気持ちを大事にしながら、教えてあげるの」
「……」
「で、いつか、レオン兄さまも、ノアちゃんに、『恋』してるって、自覚したら——」
ロザリオは、にやり、と笑った。
「その時が、本番!」
「……ほんばん?」
「うん。それまでは、内緒」
「……うん」
ノアは、ぎゅっ、と、両手で自分の胸を押さえた。
『……ノア、れおんに、こい、してる。これが、こい、なんだ……むね、いっぱい』
今まで、自分の中で形のなかった気持ちに、ロザリオが名前をくれた。
ノアは、その名前を、心の奥に、そっとしまいこんだ。
***
ロザリオが、満足げに屋敷を出たあと。
ノアは、ベッドに横たわって、天井をじっと見つめていた。
『……こい。ノアは、れおんに、こいしてる』
心の中で、何度も、その言葉を繰り返してみる。
そのたびに、胸の奥が、ふわりと温かくなる。
なんだか、不思議な感覚だった。
森にいた頃、ノアは、たくさんの神獣や妖精に囲まれていた。
みんな、ノアを可愛がってくれた。
主は、ノアを大切に育ててくれた。
でも——。
あの「好き」と、今、ノアがレオンに感じている「好き」は、確かに違っていた。
『……れおんを、みると、むねが、いっぱいに、なる』
『れおんが、ノアを、みると、もっと、いっぱいに、なる』
『れおんが、わらうと、ノアも、わらいたくなる』
『れおんが、ノアの、なまえを、よぶと、せかいが、ぜんぶ、きれいに、みえる』
これが、「恋」、なんだ。
ノアは、ぎゅっ、と、両手で自分の胸を押さえた。
『……まだ、れおんには、ないしょ』
『でも、ノアは、もう、しってる』
『ノアの、すきは、こい、なんだって』
ロザリオの言葉が、頭の中で響いた。
「いつか、レオン兄さまも、ノアちゃんに、『恋』してるって、自覚したら——」
「その時が、本番!」
『……ほんばん』
その響きが、なんだか、とても遠くて、でも、待ち遠しかった。
ノアは、目を閉じた。
『……れおんも、ノアに、こいしてくれる、かな』
『……ノアが、ちゃんと、おっきく、なれたら』
『……ちゃんと、ノアの、ぜんぶを、みせられたら』
胸の奥に、温かい灯りがともった。
ノアは、その灯りを、大事に抱きしめながら、微笑んだ。
***
翌日の夕方、レオンが城から帰ってくると。
ノアは、玄関ホールで待っていた。
いつもと、おなじように。
でも——。
「れおん」
「うん」
「……」
ノアは、レオンを、じっと見つめた。
いつもよりも、少し長く。
「あの、ね」
「うん?」
「……ううん。なんでもない」
ノアは、ふっと目を逸らして、それから、小走りでレオンの胸に飛び込んだ。
「……えへへ」
「……えへへ?」
『……あれ』
レオンは、わずかな違和感を覚えた。
ノアの様子が、いつもと、ちょっと違う気がした。
『何か、あったのかな』
でも、すぐに、ノアは、いつもの笑顔で、レオンの手を引いた。
「れおん、こっち。きょうは、おにわで、はなを、みたい」
「うん。行こうか」
レオンは、ノアに引っ張られながら、屋敷の中庭へ向かった。
ノアの白い手は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。
そして、そのことに、レオンは気づかなかった。
***
その夜。
あてがわれた客間で、レオンは、寝る支度をしながら、なぜか、ぼんやりと、窓の外の夜空を見上げていた。
『……今日、ノア、ちょっと、違ったな』
いつもよりも、ノアの視線が長かった気がする。
いつもよりも、ノアの頬が桜色だった気がする。
いつもよりも、ノアの手が熱かった気がする。
『……気のせい、かな』
レオンは、首を傾げた。
部屋の隅、ラグの上に伏せていた犬の神獣・ゼルが、片目を開けて、レオンを見た。
《ご主人》
「うん?」
《ご主人、本当に、自分の気持ち、わかってないんだね》
「……え?」
《はぁ。気の毒に》
『気の毒? 何が?』
窓辺に座っていた黒猫の神獣・シャルが、長いしっぽを、ゆっくりと揺らした。
《ご主人。ひとつだけ、教えてあげる》
「……うん?」
《人間は、自分の気持ちが、いちばん、わからないものなんだよ》
「……」
《特に、目の前にあるものが、大きすぎると、ね》
『……どういう、意味だろう?』
レオンは、また、首を傾げた。
神獣たちは、それきり、何も言わずに、それぞれ目を閉じた。
窓から、月が見えていた。
まあるい、優しい月だった。
その月明かりの下、レオンの胸の中に、ぼんやりと、何かがあった。
形のない、温かい、ふわふわした、何か。
それが、何なのかは——。
レオンには、まだわからなかった。
壁の向こう——隣のノアの部屋からは、もう、物音は聞こえない。
ノアは、安心して眠っているのだろう。
その気配を、なんとなく感じながら、レオンも、ベッドに横になった。
***
屋敷の塀の外、街路樹の枝の上。
小さな影が、ひとつ、いた。
子供ほどの、小さな身体。背中に、薄い、なにか。
影は、寝静まった屋敷の、ひとつの窓——ノアの部屋の窓を、じっと見つめていた。
「……あの子の、力、ふえてる、ね」
可愛らしい、けれど、歪んだ声。
「ふぅん。番と、結ばれかけてる」
「ねぇ……」
影は、にこり、と笑った。
「邪魔、しなきゃ、ね」
羽音が、ぱた、と、一回。
風が、わずかに動いた。
月明かりだけが、その光景を、静かに見つめていた。
——第4話 了




