表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闇オークションで落札した白猫獣人が、運命の番でした 〜騎士団長は最愛の彼女を溺愛する〜  作者: 月代 緋色


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/16

第3話 噂と真実

 翌朝。


 王都ヴァルトヘルツの中央広場は、いつもよりずっと、ざわついていた。


「ねえ、聞いた? 昨日の話」


「闇市場のやつでしょ? 騎士団長様が、変な買い物をしたって」


「変な、って……まさか、本当に、あれ?」


「白い、小さな子だって。十歳くらい」


「えええ……騎士団長様、まさか、そういう……」


 果実商の前で、肉屋の前で、井戸端で、酒場の窓辺で。


 その「噂」は、王都の隅々まで、染み込むように広がっていた。


「あの、レオン様が?」


「だって、火のないところに煙は立たないって、いうじゃない」


「でも、レオン様だよ? あの、誠実そうな……」


「人は、見かけによらないって、よく言うわ」


 ある主婦は、買ったばかりのパンを抱きしめながら、こう言った。


「もし本当だったら、騎士団長、辞めてもらわないと困るわ。子供を持つ親としてね」


 別の老人は、葉巻をくゆらせながら、こう言った。


「結局、人間なんて、皮を一枚剥がせば、みんなおんなじってこった」


 誰も、ノアの本当の姿を、知らなかった。


 誰も、レオンが、なぜそうしたのかを、知らなかった。


 ただ、「騎士団長が、闇オークションで、幼女を買った」——その事実だけが、独り歩きしていた。


***


 同じ頃、騎士団の宿舎では。


「……団長が?」


「嘘だろ、あの、レオン団長が?」


「いや、何かの間違いだろう」


 古参の騎士たちが、戸惑いの表情で、互いに顔を見合わせていた。


 ヴァルトヘルツ騎士団長レオン・グラディウス・シュタルクは、団員たちにとって、誇りそのものだった。


 誠実で、強く、優しく、決して部下を見捨てない人。


 その人が、闇オークションで、子供を買ったなどと——信じたくない、信じたくないと、誰もが思っていた。


 けれど、噂は、確かに、広がっていた。


「副団長、これ、本当ですか?」


 若い騎士の一人が、副団長に、震える声で問いかけた。


 副団長は、しばらく黙ってから、ゆっくりと、首を横に振った。


「俺も、まだ、何も聞いていない」


「で、でも、もし本当なら……」


「レオン団長を、信じよう」


 副団長は、若い騎士の肩に、手を置いた。


「あの方が、理由もなく、そんなことをするはずがない。何か、深い事情が、あるはずだ」


「副団長……」


「俺たちは、ただ、団長の言葉を、待つ」


 その言葉に、若い騎士は、何度も、頷いた。


 けれど、彼らの胸の中には、消えない不安が、確かに、生まれていた。


***


 その日、レオンは、いつもより少し早く、王城に出仕した。


 城門をくぐった瞬間、すれ違う貴族たちの視線が、明らかに、違っていた。


 ある者は、好奇の目で。


 ある者は、軽蔑の目で。


 ある者は、ただ、目を逸らした。


『……速いな。もう、ここまで広まってるのか』


 レオンは、心の中で苦笑した。


 予想していたとはいえ、現実として目の当たりにすると、なかなかに、堪える。


 けれど、足取りは、止まらなかった。


『噂なんて、どうでもいい』


『大事なのは、ノアを、守ることだから』


 廊下を歩いていると、若い騎士が、慌てて駆け寄ってきた。


「れ、レオン団長! お、お、おはようございます!」


 声が、明らかに、上ずっていた。


「おはよう。何かあった?」


「あの、その、ユ、ユリウス宰相が、お、お呼びです」


「うん。ありがとう」


 レオンは、笑顔で頷いた。


 予想通り、だった。


『……お説教、長くなるだろうな』


 覚悟を決めて、レオンは、宰相の執務室へ向かった。


***


 宰相執務室の扉を、レオンが開けた瞬間。


「お前」


 ユリウスは、机の向こうで、両手を組んで、レオンを睨んでいた。


『……あ、これは、まずいやつだ』


「失礼、ユリウス——」


「で、報告書は?」


「……えっ」


「報告書」


「……」


「報告書、どこだ」


 ユリウスの声が、低かった。


 いつもの皮肉混じりの辛口じゃなくて、純粋に、怒っていた。


「……忘れていました」


「は?」


「ノアの世話で、頭がいっぱいで……」


「お前」


 ユリウスが、両手を、机に、ばん、と打ちつけた。


「報告・連絡・相談、知ってるか?」


「……知ってます」


「やってないだろうがッ!!」


『う、うわぁ』


 レオンは、思わず、半歩、後ずさった。


 ユリウスが、本気で、怒っていた。


「単独潜入から戻って、報告なし。任務失敗の連絡なし。一千万の支出について相談なし。これ、何か言うことあるか?」


「……ありません」


「新人騎士でもやらないぞ、こんな対応」


「うっ……」


「お前、騎士団長だろ?」


「……はい」


「騎士団長が、報告も連絡も相談もせずに、自宅に女の子連れて帰って、一晩過ごして、翌朝姉妹に押しかけられて、夕方には妻子持ちの義兄の家に女の子連れで転がり込んで、翌日のこのこ出仕してきたと?」


「……まとめると、そうなります」


 レオンは、神妙な顔で、頭を下げた。


「……すみません……」


 ユリウスは、深い、深い、ため息を、ついた。


 それから、ぐしゃりと、自分の前髪を、かき上げる。


「……いいか、レオン。俺は、昨夜、家に、帰れなかった」


「……」


「お前の、後始末のためにな。城に、泊まり込みだ」


「……」


「俺だって、家に、帰りたい。妻の顔も、見たい。子どもたちが、寝る前に、『おやすみ』も、言ってやりたい」


「……」


「リナなんて、まだ二歳だぞ。一日会わないだけで、父親の顔、忘れるかもしれん」


『そ、それは、さすがに、ないと思うけど……』


「それを、全部、お預けにして、俺は、ここで、徹夜だ。お前の為にな」


「……本当に、すみません」


「わかればいい」


 ユリウスは、もう一度、ため息をついた。


「で、噂、もう王都中に広まってるからな」


「……えっ」


「えっ、じゃないんだよ」


 ユリウスが、ため息をつきながら、机の上を指差した。


 そこには、ずっしりと、書類の束が、積まれていた。


「これ、全部、お前の件だ」


「……うわ」


「貴族からの抗議文、商人ギルドからの問い合わせ、騎士団の他部署からの確認、それから、王城各所の事情説明要求」


「……」


「お前、これ、全部、自分で対応する気か?」


「……あの、できれば、ユリウスに——」


「そうだ! 俺がやるんだよッ! 知ってるよ、わかってるよ、もう取りかかってるよ!」


「……はい」


『ユリウス、ごめん、ごめんね本当に』


 レオンは、ひたすら、頭を下げ続けた。


 ユリウスは、深い、深い、ため息をついた後、ようやく、両手を組み直した。


「……まあ、お前のことだから、何か理由はあるんだろう」


「はい。話します」


「話すじゃなく、報告しろ。書類で」


「……はい」


「で、口頭でも、いいから、まずは、聞かせろ」


 ユリウスの声が、ようやく、いつもの、静かな辛口に、戻った。


 レオンは、姿勢を正して、報告した。


 昨夜の任務、闇オークション、ノアとの出会い、「番」の発言、衝動的な落札、神獣たちの反応、姉妹の介入、ノアの過去——。


 話の途中で、ユリウスの片眉が、何度も、ぴくりと跳ねた。


「……神獣の森」


「はい」


「妖精」


「はい」


「お前、それ、本気で言ってるのか?」


「はい、本気です」


「……」


 ユリウスは、しばらく、沈黙した。


 それから、机の上の書類の束を、ぐっと、押しのけて、両手で、顔を覆った。


「……もういい。報告書、二日以内に出せ。詳細に、漏れなく」


「はい。書きます」


「噂のほうは、俺が処理する。だが、限界がある。お前の方でも、行動で示せ」


「……行動で?」


「『闇オークションで幼女を買った騎士団長』というイメージを、覆す行動だ。具体的に、何をするかは、お前が、決めろ」


 ユリウスが、ようやく、顔を上げた。


 その瞳には、怒りと、それから、わずかな心配が、宿っていた。


「最後に、ひとつ」


「はい」


「アルノー陛下が、お前を呼んでる」


「……陛下が」


「もちろん、この件についてだ」


「……」


「覚悟しろ。陛下も、お前のことを、心配してる」


「……はい」


 レオンは、深く、頷いた。


『姉さんに、ユリウスに、そして、陛下にも、心配をかけてる』


『本当に、僕は、抜けてるな』


『でも——』


『それでも、ノアを、守るって決めたから』


 レオンの瞳に、揺るぎない決意が、宿った。


「行ってくる」


「ああ」


 扉に向かう途中、レオンは、ふと、振り返った。


「ユリウス」


「なんだ」


「ありがとう」


 ユリウスは、ふん、と、鼻を鳴らして、書類の山に手を伸ばした。


「妻に、感謝しろ。お前のことは、俺じゃなくて、ルクレツィアが、いちばん、心配してる」


「……うん」


 レオンは、ふっと、笑って、執務室を出た。


***


 王の私室——非公式の謁見の間。


 アルノー王は、窓辺の長椅子に、深く腰を下ろし、紅茶を飲んでいた。


 レオンが入ってくるのを見て、王は、にっこりと、微笑んだ。


「来たな、レオン」


「陛下。お呼びと、伺いまして」


 レオンは、騎士の礼で、深く頭を下げた。


「ふむ、面白い話を、聞いたな」


『……陛下、楽しんでます?』


 王は、紅茶のカップを、ソーサーに置いた。


「闇オークションで、白猫の獣人を、一千万で落札したそうだな?」


「はい、陛下」


「なかなかに、興味深い話だ」


 王の口元が、わずかに、笑っていた。


『本当に楽しんでるなぁ、陛下』


「そう、かしこまるな。座れ、レオン」


「……失礼します」


 レオンは、王の向かいの椅子に、腰を下ろした。


 王は、紅茶を、もう一口、飲んでから、ゆっくりと、レオンを見つめた。


「で、レオン。状況を、詳しく、聞かせてくれるか?」


「はい」


 レオンは、ユリウスに話したのと同じ内容を、王にも、報告した。


 ただし、王には、もう少し、丁寧に。神獣の森のこと、番のこと、ノアの育ちのこと。


 王は、時々頷きながら、最後まで、黙って聞いていた。


 話を聞き終えた王は、しばらく、紅茶のカップを見つめてから、ぽつりと言った。


「ふむ……神獣の森、か」


「はい」


「実在したのだな、あれは」


「……そのようです」


「面白い」


 王は、楽しそうに、微笑んだ。


「実に、面白い」


『陛下、本気で楽しんでる……』


 けれど、次の瞬間、王の表情が、わずかに、引き締まった。


「で、レオン。ひとつ、聞いていいか?」


「はい」


「お前、その子を、これから、どうするつもりだ?」


「守ります」


 即答だった。


 王は、わずかに、目を細めた。


「どうやって?」


「……」


 レオンは、しばらく、黙った。


 王の瞳は、優しいけれど、真剣だった。茶化しているわけではなくて、本気で、レオンの覚悟を、問うていた。


『どうやって、守るのか』


 ノアと出会ってから、レオンが、ずっと、考えていたことだった。


 その答えは、もう、レオンの中に、あった。


『……「番」っていうのが、本当のところ、何なのか正直、僕には、まだ、よく、わからない』


 ノアは言う。レオンは、自分の番だ、と。


 その絆を、レオンも、感じないわけでは、なかった。ノアを見ると、胸の奥が、温かくなる。離れたくない、と思う。


 けれど、「番」という言葉は、レオンにとって、どこか、まだ、ふわふわとして、掴みきれない。


『でも——』


『ノアと、ずっと、一緒にいたい。あの子を、守りたい。あの子に、笑っていて、ほしい』


『その気持ちを、僕の言葉で、言うなら』


 ふと、ひとつの言葉が、レオンの中で、すとん、と、収まった。


 不思議なくらい、しっくりと。



「……お嫁さんに、します」



 しん、と、王の私室が、静まり返った。


 窓辺の風が、カーテンを、わずかに、揺らした。


 王は、ゆっくりと、紅茶のカップを、ソーサーに置いた。


「……は?」


「お嫁さんに、します」


「……今、なんて、言った?」


「お嫁さん、です」


「……」


 王は、しばらく、レオンを、まじまじと、見つめた。


 それから、自分の額に、手を当てた。


「レオン」


「はい」


「お前、それ、自分で言ってて、わかっているか」


「はい」


「見た目、十歳の子だぞ」


「実年齢は、二十歳、だそうです」


「……それは、まあ、聞いた」


「はい」


「だが、見た目は、十歳だぞ」


「はい」


「それ、噂、もっと加速するぞ?」


「構いません」


「お前、本気か」


「本気です」


 王は、しばらく、無言だった。


 それから——。


 ぷっ、と、噴き出した。


「ふっ……ふははは!」


「陛下?」


「ふははは! お前、本当に、ぶっとんでるな、レオン!」


 王は、しばらく、声を上げて笑ってから、ようやく、目尻を拭った。


 それから、すっと、表情を、真剣に戻した。


「……いいだろう」


「陛下?」


「私は、お前のその、真っ直ぐさが、好きだ」


「……」


「お前は、いつも、そうだったな」


 王の瞳が、懐かしそうに、細められた。


「私が、まだ王太子だった頃。お前は、剣の腕も平凡だった」


「……はい」


「だが、誰よりも、真っ直ぐで、誰よりも、諦めなかった」


「……」


「『お前なら、騎士団長になれる』と私が言ったら、お前は、本当に、なってしまった」


「……陛下が、信じてくださいましたから」


「ふっ。今度は、私が、お前を信じる番だ」


 王は、立ち上がり、レオンの肩に、手を置いた。


「ヴァルトヘルツ国王として、お前の婚約を、認めよう」


「……陛下」


「正式な発表は、まだ、待て。状況が、整わない。だが、私の許しは、もう、ここに、ある」


「……」


「胸を、張れ、レオン」


「……はい」


 レオンは、深く、頭を下げた。


「ありがとう、ございます」


 王は、ふっと、笑った。


「ただし、ひとつ、条件がある」


「はい」


「噂は、お前の力で、なんとかしろ。国王が認めたから黙れ、なんて言ったら、それこそ政治問題になる」


「……はい。承知しました」


「お前なら、できる。私は、信じている」


「……」


 王の信頼に、レオンは、また、深く、頭を下げた。


『陛下……ありがとうございます』


『絶対に、ノアを、守ります』


『そして、必ず、噂も、覆してみせます』


 王の私室を後にして、廊下を歩きながら、レオンは、心の中で、何度も、誓った。


***


 その頃、ルクレツィア家の屋敷では——。


「ノアちゃん、ご機嫌よう、よ」


「……ごき、げん、よう」


「はい、上手! じゃあ次、お辞儀の練習!」


 応接間の中央に、一人の白い小さな存在が、立っていた。


 その周りを、姉妹三人が、囲んでいる。


「ロザリオ、声大きい。ノアちゃん、びっくりしてるじゃない」


「だってノアちゃん、覚えるの早いんだもん!」


「お辞儀は、こうよ」


 ルクレツィアが、優雅に、お手本を見せた。両手を前で軽く重ねて、ふわりと、頭を下げる。


「ノアちゃん。やってみて?」


「……うん」


 ノアは、必死に、ルクレツィアの真似をした。


 手を前で重ねて、頭を下げる。


 ぺこ、と。


「あらまあ、上手じゃない!」


「かわいい〜!」


「ロザリオ、声」


「だってかわいい!」


『あの、ロザリオ姉さま、声、おっきい』


 ノアは、目をぱちくりとさせながらも、すぐに、ルクレツィア姉さまの方に、視線を戻した。


『姉さま、たち、ノアに、いっぱい、おしえてくれる』


『ノア、がんばる』


「ノアちゃん」


「はい、ルクレツィア、ねえ……あの……」


 言葉を、慎重に、選ぶ。


 ノアは、人間の世界の、敬語というものを、まだ、よくわかっていなかった。


 けれど、姉妹が、丁寧に、ひとつひとつ、教えてくれていた。


 「ねえさま」と呼ぶこと。


 「うん」じゃなくて「はい」と答えること。


 お辞儀のしかた。お礼の言いかた。


「あなた、もう、『はい』って言えるのね。すごいじゃない」


「うん——あ、はい」


「『うん』も、レオンとの間ではいいのよ。ただ、外の人と話すときは、『はい』」


「はい」


「いい子ね、ノアちゃん」


 ルクレツィアの優しい瞳に、ノアは、ふわりと、頬を染めた。


「あ、それと、ノアちゃん」


 ふと、ルクレツィアが、何かを、思い出したように、手を打った。


「忘れてたわ。大事なこと、教えなきゃ」


「……はい?」


「ノアちゃん、レオンのこと、なんて呼んでる?」


「……れおん」


「うん、そうよね」


 ルクレツィアは、優しく、頷いた。


「実はね。レオンは、騎士団長なの」


「きしだん、ちょう?」


「うん。お国の、偉い人。だから、本当は——」


「『様』、つけるのよ」


 横から、ロザリオが、ぱっ、と、口を挟んだ。


「ロザリオ、急に挟まないで」


「だってだって、姉さま、説明、長くなりそうなんだもん」


「説明する側がいきなり来るんじゃないわよ、ロザリオ」


 カティアが、肘で、ロザリオを軽く小突いた。


「カティア、痛い〜!」


「うるさい」


 ノアは、目を、ぱちくりとさせて、姉妹三人を、順番に、見ていた。


「えっと、あの、ね」


 ルクレツィアが、咳払いをひとつしてから、ノアに向き直った。


「外で、他の人がいる場所では、『レオン様』って、呼んでね」


「れおん……さま?」


「そう」


「……」


 ノアは、しばらく、考えていた。


 それから、ぽつりと、口にしてみた。


「れおん、さま」


「うん、上手じゃない」


「れおん、さま」


「いいわよ、ノアちゃん」


 何度か、口に出して、繰り返してみる。


 ぎこちなく、けれど、舌の上に、新しい響きが、少しずつ、馴染んでいった。


『……れおん、さま』


 ところが——。


 なぜだろう。


 その響きを、口にするたび、ノアの胸の奥に、何か、ちくり、と、刺さるような、感覚があった。


『……』


 ノアは、何度か、首を、傾げた。


 ルクレツィアが、ふと、その様子に、気づいた。


「ノアちゃん? どうかした?」


「……」


「言いにくい?」


「……ううん」


「じゃあ、なに?」


 ノアは、しばらく、自分の気持ちを、必死に、探していた。


 番から、引き離されるような、奇妙な、寂しさ。


 でも、そんな複雑な感情、ノアには、まだ、うまく、言葉にできない。


 だから、ノアは、思いついた、いちばん、素直な言葉を、口にした。


「……『さま』、つけると、なんか、れおん、とおいの」


「……」


 しん、と、応接間が、静まり返った。


 三姉妹が、ぴたりと、動きを、止めた。


「……」


「……」


「……」


 それから——。


「「「っ……かわいい!!!」」」


 ノアは、目をぱちくりとさせて、急に騒ぎ始めた姉妹を、見上げた。


「ちょっと、ノアちゃん! 今のなに、今のなに!」


 ロザリオが、両手で、口を覆っていた。


「ねえ姉さま、聞いた今の!? 『さま、つけると、れおん、とおいの』だって!」


「聞こえてたわよ、ロザリオ。落ち着きなさい」


「これ、絶対、れおん兄さん、聞いたら、瀕死になるわよ!」


「ロザリオ、声大きい」


「だってだって!」


 ロザリオが、興奮して、ぴょんぴょん跳ねている。


 その隣で、カティアが、腕を組んで、ふっ、と、笑った。


「兄さん、隅に置けないじゃない」


「カティア、からかわないの」


「だって、事実でしょ。ノアちゃん、もう、立派な、恋する女の子よ」


「……こい?」


 ノアは、また、首を、傾げた。


 ルクレツィアが、苦笑しながら、しゃがんで、ノアの目線に、合わせた。


「ノアちゃん」


「はい」


「外の人がいるところでは、『レオン様』。これはね、ノアちゃんが、レオンをちゃんと、立ててあげるための、おまじない」


「……おまじない?」


「うん。レオンのことを、大事に思ってるからこそ、外でも、ちゃんと、敬う」


「……」


「でもね」


 ルクレツィアの瞳が、ふっと、優しく、なった。


「二人きりのときは、ね」


「うん」


「ノアちゃんが、呼びたいように、呼んでいいの」


「……」


「それは、ノアちゃんと、レオンの、二人だけの、ことだから」


『——』


 ノアの胸の奥が、ふわっと、温かくなった。


『二人だけの、こと』


『ノアと、れおんの……』


 その響きが、なんだか、とても、特別な、もののように、感じた。


「……うん」


 ノアは、こくん、と、頷いた。


 頬が、わずかに、桜色に、染まっていた。


「ふぁぁぁぁ……かわいい……」


 ロザリオが、頬を、両手で、押さえながら、感極まっていた。


「ロザリオ、いい加減にしなさい」


「だってかわいい」


「なんで、あんた、急にうるさくなるのよ」


「カティアもさっき、にやけてたじゃない!」


「にやけてない」


「にやけてた!」


 ノアは、騒がしい姉妹を、ふんわりとした表情で、見つめていた。


 番、二人だけの、こと。


 その新しい、特別な響きを、ノアは、心の中で、そっと、抱きしめていた。


***


 昼が、近づいていた。


 ノアは、先ほどから、何度も、何度も、玄関ホールの、大きな窓の外を、見ていた。


『……れおん、まだ、かな』


 レオンは、約束した。お昼には帰る、と。お昼ごはんは、一緒に食べよう、と。


 けれど——窓の外の太陽は、もう、ほとんど真上に、近づいているのに。


 レオンの馬車は、まだ、見えない。


『おそい……れおん、おそい……』


 ノアは、自分でも、よく、わからなかった。


 ただ、レオンの帰りが遅れている——そう思った瞬間から、胸の奥が、きゅう、と、苦しくなり始めたのだ。


 最初は、小さな、違和感だった。


 それが、時間が経つにつれて、だんだん、大きく、重く、なっていく。


「……っ」


 ノアは、急に、胸の辺りを、ぎゅっと、押さえた。


「……ノア?」


 ルクレツィアが、心配そうに、声をかける。


「……」


「ノアちゃん、どうしたの?」


「……むね、いたい」


「胸?」


「……れおん、まだ……ノア、れおんに、あいたい……」


「……っ」


「むね、くるしい……」


 ノアの顔から、見る間に、血の気が、引いていった。


 白い肌が、いつもより、もっと、白くなっていく。


「ロザリオ、医師を呼んで!」


「は、はい!」


「カティア、レオンに、すぐ、連絡を! 城に、使いを!」


「わかった!」


 慌ただしく、姉妹が動き出す。


 ルクレツィアは、ノアを、ソファに、そっと、寝かせた。


「大丈夫よ、ノアちゃん。すぐに、お医者様を呼ぶからね」


「……」


「レオンも、すぐ、戻ってくるから。ね」


「……れおん…」


「うん。すぐ、来るからね」


 ノアの瞳から、ぽろぽろと、涙が、こぼれた。


『……レオン……ノア、つらい……』


『はやく……はやく……』


 心臓が、ぎゅっと、縮んでいく感覚。


 番から、引き離された、獣人の身体が、悲鳴を、上げていた。


 神獣たちが、警告した、その「最悪」の、入り口に。


 ノアは、立っていた。


***


 城から戻る馬車の中で、レオンは、突然、奇妙な、不安に、襲われた。


『……ノア』


 胸の奥が、ぎゅっと、締めつけられる。


 原因はわからない。ただ、何かが、自分を、ノアの元へ、引き寄せていた。


「御者、急いで! 姉の屋敷へ!」


「はい!」


 馬車の速度が、上がった。


 屋敷の門に着いた瞬間——。


「兄さん!」


 カティアが、玄関から、転がるように、駆け出してきた。


「ノアちゃんが、急に、苦しがって——」


『——』


 最後まで聞かずに、レオンは、馬車から飛び降りた。


 外套が、風に翻る。


 応接間に、駆け込む。


 そして——。


 ソファに、横たわっている、白い小さな存在を、見つけた。


「ノア!」


 ノアの瞳が、ぱちりと、開いた。


 淡い紫の瞳が、レオンを、捉えた瞬間。


「……れおん、さ、ま、」


 ノアの白い手が、ふらりと、レオンに伸びた。


 レオンは、その小さな手を、ぎゅっと、握った。


 膝をついて、ノアの顔を、覗き込む。


「ノア、ごめん。遅くなった」


「……」


 ノアは、レオンの手を、ぎゅっと、握り返した。


 それと同時に。


 ノアの白い頬に、すうっと、血の気が、戻り始めた。


『——』


 部屋の隅で見ていた医師が、目を見開いた。


「これは……」


 ルクレツィアが、ぽつりと、言った。


「番の、絆の力ね」


「……はい」


 医師は、頷きながら、慎重に、ノアの脈を、診た。


「驚きました。先ほどまで、命の危機を感じるほど、弱っていたのに……」


「もう、大丈夫そう?」


「ええ。ですが、こういう症状が出た以上、しばらく、お二人は、極力、離れないほうが、よいかと」


「……」


 その言葉を、レオンは、深く、胸に、刻んだ。


『……離れちゃ、だめだ』


『この子は、本当に、僕がいないと、保たない』


 胸の奥が、また、痛くなった。


 昨日、シャルが言った言葉。「最悪の、場合は」と、口を閉ざしたあの言葉。


 その「最悪」は、こんなにも、近くに、あったのだ。


 レオンは、ノアの手を、ぎゅっと、握り続けた。


「ノア、もう、大丈夫だよ」


「……うん」


「もう、離れない。ずっと、そばに、いる」


 ノアは、ふっと、安堵の表情を、浮かべた。


 それから——。


 ふと、思い出したように、ぽつりと、言った。


「……れおん、さま」


「ん?」


「ノア、ちゃんと、れおんさま、って、よべるよ」


 ノアは、まだ涙の跡を残したまま、ふわりと、笑った。


 その表情に、レオンの、胸の奥が、ぎゅっと、締めつけられた。


『……れおん、さま』


『そうか。姉さんたちが、教えたのか』


『……うれしいような、寂しいような』


 なぜ「寂しい」と感じるのか、レオンは、自分でも、よく、わからなかった。


 ただ、今までの「れおん」という呼び方が、とても、自然で——とても、特別だった気が、するのだ。


***


 医師が帰り、姉妹三人も気を利かせて部屋を出ていったあと。


 ノアの寝室には、レオンと、ノアだけが、残された。


 ノアは、ベッドに横たわって、レオンの手を、ずっと、握っていた。


 窓から差し込む夕日が、白い髪を、淡い金色に、染めていた。


「ノア」


「……はい」


『「はい」、覚えたんだ』


 レオンは、ふっと、笑った。


「あのね」


「はい」


「ひとつ、お願いが、あるんだ」


「……ねがい?」


「うん」


 レオンは、ノアの手を、両手で、包み込んだ。


「『様』、つけなくて、いいんだよ」


「……」


「他の人には、つけていい。それは、人間世界のマナーだから、姉さんたちの教え通り」


「うん」


「でも、ね。僕には、いらないんだ」


「……どうして?」


「君は、僕の——」


 レオンは、わずかに、言葉を、止めた。


 自分でも、なぜ、こう言いたいのか、よくわからなかった。


 ただ、「様」をつけられて呼ばれたとき、不思議と、寂しくなったのだ。


『たぶん、それは——』


『この子と、僕の、距離を、感じたから』


『他の人と、おんなじ呼び方をされるのが、いやなんだ』


『この子は、僕にとって、特別なんだから』


 その想いを、なるべく、優しい言葉で、伝えたかった。


「……君は、僕にとって、特別な子、だから」


「……」


「他の人と、おんなじ呼び方されると——なんか、ちょっと、寂しいんだ」


『——』


 ノアの淡い紫の瞳が、見る見るうちに、潤んだ。


 そして、白い頬が——。


 ふんわりと、桜色に、染まっていった。


「……っ」


 ノアは、口を、ぱくぱくさせた。


 何か、言いたいのに、言葉が、出てこない。そんな顔だった。


 それでも、必死に、何かを伝えようと、ノアは、レオンの手を、ぎゅっと、握り直した。


「……ノア」


「うん」


「ノア、れおん、って、よぶ」


「……うん」


「ふたりのときは、れおん」


「……うん」


「ふたりだけの、ことだから」


「……っ」


 今度は、レオンの方が、言葉に、詰まった。


『——あ』


『……うわ』


『なんで、僕、こんなに、嬉しいんだろう』


『たかが、呼び方ひとつ、なのに』


 胸の奥が、ぎゅっと、温かくなる。


 それは、レオンが、これまで、誰にも、感じたことのない、種類の、温かさだった。


「……うん」


 レオンは、なんとか、それだけを、絞り出した。


「うん。それで、いい」


 夕日が、二人の影を、長く、長く、伸ばしていた。


 窓辺の風が、白いカーテンを、ふわり、と、揺らした。


 誰にも、邪魔されない、二人だけの時間が、そこには、確かに、あった。


***


 その夜——。


 屋敷が、寝静まった頃。


 屋敷の高い塀の上、誰も気づかない場所に。


 小さな、影が、ひとつ、いた。


 子供ほどの大きさ。背中に、薄い、なにか。


 影は、夕方、二人が見つめ合っていた窓——ノアの部屋の窓を、じっと、見ていた。


「……ふぅん」


 その声は、不思議と、可愛らしかった。


 まるで、幼い少女のような、響きで。


 けれど、続いた言葉は、小さく、低く、——歪んでいた。


「あの子……まだ、いる、ね」


「しぶとい……ほんと、しぶとい」


「はやく、しんじゃえば、いいのに」


 その言葉は、幼い少女の声で、紡がれた。


 まるで、おやつの好き嫌いでも、口にするように——あっさりと、軽やかに。


「でも、でも……そっか」


 影は、ふと、何かを、思いついたように、くすっ、と、笑った。


「あのふたり……はなればなれに、すれば、いいんだ」


「そしたら、あの子、よわって……よわって……」


 にたあ、と。


 小さな、白い歯が、暗闇に、覗いた。


「ねぇ、いいこと、おもいついちゃった」


 影は、嬉しそうに、くるり、と、その場で、回った。


「あの子に、また、会わなきゃ、ね」


 羽音が、ぱた、と、一回。


 風が、わずかに、動いた。


 それきり、影は、消えていた。


 誰も、それに、気づかなかった。


 月だけが、その光景を、静かに、見つめていた。


——第3話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ