第3話 噂と真実
翌朝。
王都ヴァルトヘルツの中央広場は、いつもよりずっと、ざわついていた。
「ねえ、聞いた? 昨日の話」
「闇市場のやつでしょ? 騎士団長様が、変な買い物をしたって」
「変な、って……まさか、本当に、あれ?」
「白い、小さな子だって。十歳くらい」
「えええ……騎士団長様、まさか、そういう……」
果実商の前で、肉屋の前で、井戸端で、酒場の窓辺で。
その「噂」は、王都の隅々まで、染み込むように広がっていた。
「あの、レオン様が?」
「だって、火のないところに煙は立たないって、いうじゃない」
「でも、レオン様だよ? あの、誠実そうな……」
「人は、見かけによらないって、よく言うわ」
ある主婦は、買ったばかりのパンを抱きしめながら、こう言った。
「もし本当だったら、騎士団長、辞めてもらわないと困るわ。子供を持つ親としてね」
別の老人は、葉巻をくゆらせながら、こう言った。
「結局、人間なんて、皮を一枚剥がせば、みんなおんなじってこった」
誰も、ノアの本当の姿を、知らなかった。
誰も、レオンが、なぜそうしたのかを、知らなかった。
ただ、「騎士団長が、闇オークションで、幼女を買った」——その事実だけが、独り歩きしていた。
***
同じ頃、騎士団の宿舎では。
「……団長が?」
「嘘だろ、あの、レオン団長が?」
「いや、何かの間違いだろう」
古参の騎士たちが、戸惑いの表情で、互いに顔を見合わせていた。
ヴァルトヘルツ騎士団長レオン・グラディウス・シュタルクは、団員たちにとって、誇りそのものだった。
誠実で、強く、優しく、決して部下を見捨てない人。
その人が、闇オークションで、子供を買ったなどと——信じたくない、信じたくないと、誰もが思っていた。
けれど、噂は、確かに、広がっていた。
「副団長、これ、本当ですか?」
若い騎士の一人が、副団長に、震える声で問いかけた。
副団長は、しばらく黙ってから、ゆっくりと、首を横に振った。
「俺も、まだ、何も聞いていない」
「で、でも、もし本当なら……」
「レオン団長を、信じよう」
副団長は、若い騎士の肩に、手を置いた。
「あの方が、理由もなく、そんなことをするはずがない。何か、深い事情が、あるはずだ」
「副団長……」
「俺たちは、ただ、団長の言葉を、待つ」
その言葉に、若い騎士は、何度も、頷いた。
けれど、彼らの胸の中には、消えない不安が、確かに、生まれていた。
***
その日、レオンは、いつもより少し早く、王城に出仕した。
城門をくぐった瞬間、すれ違う貴族たちの視線が、明らかに、違っていた。
ある者は、好奇の目で。
ある者は、軽蔑の目で。
ある者は、ただ、目を逸らした。
『……速いな。もう、ここまで広まってるのか』
レオンは、心の中で苦笑した。
予想していたとはいえ、現実として目の当たりにすると、なかなかに、堪える。
けれど、足取りは、止まらなかった。
『噂なんて、どうでもいい』
『大事なのは、ノアを、守ることだから』
廊下を歩いていると、若い騎士が、慌てて駆け寄ってきた。
「れ、レオン団長! お、お、おはようございます!」
声が、明らかに、上ずっていた。
「おはよう。何かあった?」
「あの、その、ユ、ユリウス宰相が、お、お呼びです」
「うん。ありがとう」
レオンは、笑顔で頷いた。
予想通り、だった。
『……お説教、長くなるだろうな』
覚悟を決めて、レオンは、宰相の執務室へ向かった。
***
宰相執務室の扉を、レオンが開けた瞬間。
「お前」
ユリウスは、机の向こうで、両手を組んで、レオンを睨んでいた。
『……あ、これは、まずいやつだ』
「失礼、ユリウス——」
「で、報告書は?」
「……えっ」
「報告書」
「……」
「報告書、どこだ」
ユリウスの声が、低かった。
いつもの皮肉混じりの辛口じゃなくて、純粋に、怒っていた。
「……忘れていました」
「は?」
「ノアの世話で、頭がいっぱいで……」
「お前」
ユリウスが、両手を、机に、ばん、と打ちつけた。
「報告・連絡・相談、知ってるか?」
「……知ってます」
「やってないだろうがッ!!」
『う、うわぁ』
レオンは、思わず、半歩、後ずさった。
ユリウスが、本気で、怒っていた。
「単独潜入から戻って、報告なし。任務失敗の連絡なし。一千万の支出について相談なし。これ、何か言うことあるか?」
「……ありません」
「新人騎士でもやらないぞ、こんな対応」
「うっ……」
「お前、騎士団長だろ?」
「……はい」
「騎士団長が、報告も連絡も相談もせずに、自宅に女の子連れて帰って、一晩過ごして、翌朝姉妹に押しかけられて、夕方には妻子持ちの義兄の家に女の子連れで転がり込んで、翌日のこのこ出仕してきたと?」
「……まとめると、そうなります」
レオンは、神妙な顔で、頭を下げた。
「……すみません……」
ユリウスは、深い、深い、ため息を、ついた。
それから、ぐしゃりと、自分の前髪を、かき上げる。
「……いいか、レオン。俺は、昨夜、家に、帰れなかった」
「……」
「お前の、後始末のためにな。城に、泊まり込みだ」
「……」
「俺だって、家に、帰りたい。妻の顔も、見たい。子どもたちが、寝る前に、『おやすみ』も、言ってやりたい」
「……」
「リナなんて、まだ二歳だぞ。一日会わないだけで、父親の顔、忘れるかもしれん」
『そ、それは、さすがに、ないと思うけど……』
「それを、全部、お預けにして、俺は、ここで、徹夜だ。お前の為にな」
「……本当に、すみません」
「わかればいい」
ユリウスは、もう一度、ため息をついた。
「で、噂、もう王都中に広まってるからな」
「……えっ」
「えっ、じゃないんだよ」
ユリウスが、ため息をつきながら、机の上を指差した。
そこには、ずっしりと、書類の束が、積まれていた。
「これ、全部、お前の件だ」
「……うわ」
「貴族からの抗議文、商人ギルドからの問い合わせ、騎士団の他部署からの確認、それから、王城各所の事情説明要求」
「……」
「お前、これ、全部、自分で対応する気か?」
「……あの、できれば、ユリウスに——」
「そうだ! 俺がやるんだよッ! 知ってるよ、わかってるよ、もう取りかかってるよ!」
「……はい」
『ユリウス、ごめん、ごめんね本当に』
レオンは、ひたすら、頭を下げ続けた。
ユリウスは、深い、深い、ため息をついた後、ようやく、両手を組み直した。
「……まあ、お前のことだから、何か理由はあるんだろう」
「はい。話します」
「話すじゃなく、報告しろ。書類で」
「……はい」
「で、口頭でも、いいから、まずは、聞かせろ」
ユリウスの声が、ようやく、いつもの、静かな辛口に、戻った。
レオンは、姿勢を正して、報告した。
昨夜の任務、闇オークション、ノアとの出会い、「番」の発言、衝動的な落札、神獣たちの反応、姉妹の介入、ノアの過去——。
話の途中で、ユリウスの片眉が、何度も、ぴくりと跳ねた。
「……神獣の森」
「はい」
「妖精」
「はい」
「お前、それ、本気で言ってるのか?」
「はい、本気です」
「……」
ユリウスは、しばらく、沈黙した。
それから、机の上の書類の束を、ぐっと、押しのけて、両手で、顔を覆った。
「……もういい。報告書、二日以内に出せ。詳細に、漏れなく」
「はい。書きます」
「噂のほうは、俺が処理する。だが、限界がある。お前の方でも、行動で示せ」
「……行動で?」
「『闇オークションで幼女を買った騎士団長』というイメージを、覆す行動だ。具体的に、何をするかは、お前が、決めろ」
ユリウスが、ようやく、顔を上げた。
その瞳には、怒りと、それから、わずかな心配が、宿っていた。
「最後に、ひとつ」
「はい」
「アルノー陛下が、お前を呼んでる」
「……陛下が」
「もちろん、この件についてだ」
「……」
「覚悟しろ。陛下も、お前のことを、心配してる」
「……はい」
レオンは、深く、頷いた。
『姉さんに、ユリウスに、そして、陛下にも、心配をかけてる』
『本当に、僕は、抜けてるな』
『でも——』
『それでも、ノアを、守るって決めたから』
レオンの瞳に、揺るぎない決意が、宿った。
「行ってくる」
「ああ」
扉に向かう途中、レオンは、ふと、振り返った。
「ユリウス」
「なんだ」
「ありがとう」
ユリウスは、ふん、と、鼻を鳴らして、書類の山に手を伸ばした。
「妻に、感謝しろ。お前のことは、俺じゃなくて、ルクレツィアが、いちばん、心配してる」
「……うん」
レオンは、ふっと、笑って、執務室を出た。
***
王の私室——非公式の謁見の間。
アルノー王は、窓辺の長椅子に、深く腰を下ろし、紅茶を飲んでいた。
レオンが入ってくるのを見て、王は、にっこりと、微笑んだ。
「来たな、レオン」
「陛下。お呼びと、伺いまして」
レオンは、騎士の礼で、深く頭を下げた。
「ふむ、面白い話を、聞いたな」
『……陛下、楽しんでます?』
王は、紅茶のカップを、ソーサーに置いた。
「闇オークションで、白猫の獣人を、一千万で落札したそうだな?」
「はい、陛下」
「なかなかに、興味深い話だ」
王の口元が、わずかに、笑っていた。
『本当に楽しんでるなぁ、陛下』
「そう、かしこまるな。座れ、レオン」
「……失礼します」
レオンは、王の向かいの椅子に、腰を下ろした。
王は、紅茶を、もう一口、飲んでから、ゆっくりと、レオンを見つめた。
「で、レオン。状況を、詳しく、聞かせてくれるか?」
「はい」
レオンは、ユリウスに話したのと同じ内容を、王にも、報告した。
ただし、王には、もう少し、丁寧に。神獣の森のこと、番のこと、ノアの育ちのこと。
王は、時々頷きながら、最後まで、黙って聞いていた。
話を聞き終えた王は、しばらく、紅茶のカップを見つめてから、ぽつりと言った。
「ふむ……神獣の森、か」
「はい」
「実在したのだな、あれは」
「……そのようです」
「面白い」
王は、楽しそうに、微笑んだ。
「実に、面白い」
『陛下、本気で楽しんでる……』
けれど、次の瞬間、王の表情が、わずかに、引き締まった。
「で、レオン。ひとつ、聞いていいか?」
「はい」
「お前、その子を、これから、どうするつもりだ?」
「守ります」
即答だった。
王は、わずかに、目を細めた。
「どうやって?」
「……」
レオンは、しばらく、黙った。
王の瞳は、優しいけれど、真剣だった。茶化しているわけではなくて、本気で、レオンの覚悟を、問うていた。
『どうやって、守るのか』
ノアと出会ってから、レオンが、ずっと、考えていたことだった。
その答えは、もう、レオンの中に、あった。
『……「番」っていうのが、本当のところ、何なのか正直、僕には、まだ、よく、わからない』
ノアは言う。レオンは、自分の番だ、と。
その絆を、レオンも、感じないわけでは、なかった。ノアを見ると、胸の奥が、温かくなる。離れたくない、と思う。
けれど、「番」という言葉は、レオンにとって、どこか、まだ、ふわふわとして、掴みきれない。
『でも——』
『ノアと、ずっと、一緒にいたい。あの子を、守りたい。あの子に、笑っていて、ほしい』
『その気持ちを、僕の言葉で、言うなら』
ふと、ひとつの言葉が、レオンの中で、すとん、と、収まった。
不思議なくらい、しっくりと。
「……お嫁さんに、します」
しん、と、王の私室が、静まり返った。
窓辺の風が、カーテンを、わずかに、揺らした。
王は、ゆっくりと、紅茶のカップを、ソーサーに置いた。
「……は?」
「お嫁さんに、します」
「……今、なんて、言った?」
「お嫁さん、です」
「……」
王は、しばらく、レオンを、まじまじと、見つめた。
それから、自分の額に、手を当てた。
「レオン」
「はい」
「お前、それ、自分で言ってて、わかっているか」
「はい」
「見た目、十歳の子だぞ」
「実年齢は、二十歳、だそうです」
「……それは、まあ、聞いた」
「はい」
「だが、見た目は、十歳だぞ」
「はい」
「それ、噂、もっと加速するぞ?」
「構いません」
「お前、本気か」
「本気です」
王は、しばらく、無言だった。
それから——。
ぷっ、と、噴き出した。
「ふっ……ふははは!」
「陛下?」
「ふははは! お前、本当に、ぶっとんでるな、レオン!」
王は、しばらく、声を上げて笑ってから、ようやく、目尻を拭った。
それから、すっと、表情を、真剣に戻した。
「……いいだろう」
「陛下?」
「私は、お前のその、真っ直ぐさが、好きだ」
「……」
「お前は、いつも、そうだったな」
王の瞳が、懐かしそうに、細められた。
「私が、まだ王太子だった頃。お前は、剣の腕も平凡だった」
「……はい」
「だが、誰よりも、真っ直ぐで、誰よりも、諦めなかった」
「……」
「『お前なら、騎士団長になれる』と私が言ったら、お前は、本当に、なってしまった」
「……陛下が、信じてくださいましたから」
「ふっ。今度は、私が、お前を信じる番だ」
王は、立ち上がり、レオンの肩に、手を置いた。
「ヴァルトヘルツ国王として、お前の婚約を、認めよう」
「……陛下」
「正式な発表は、まだ、待て。状況が、整わない。だが、私の許しは、もう、ここに、ある」
「……」
「胸を、張れ、レオン」
「……はい」
レオンは、深く、頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
王は、ふっと、笑った。
「ただし、ひとつ、条件がある」
「はい」
「噂は、お前の力で、なんとかしろ。国王が認めたから黙れ、なんて言ったら、それこそ政治問題になる」
「……はい。承知しました」
「お前なら、できる。私は、信じている」
「……」
王の信頼に、レオンは、また、深く、頭を下げた。
『陛下……ありがとうございます』
『絶対に、ノアを、守ります』
『そして、必ず、噂も、覆してみせます』
王の私室を後にして、廊下を歩きながら、レオンは、心の中で、何度も、誓った。
***
その頃、ルクレツィア家の屋敷では——。
「ノアちゃん、ご機嫌よう、よ」
「……ごき、げん、よう」
「はい、上手! じゃあ次、お辞儀の練習!」
応接間の中央に、一人の白い小さな存在が、立っていた。
その周りを、姉妹三人が、囲んでいる。
「ロザリオ、声大きい。ノアちゃん、びっくりしてるじゃない」
「だってノアちゃん、覚えるの早いんだもん!」
「お辞儀は、こうよ」
ルクレツィアが、優雅に、お手本を見せた。両手を前で軽く重ねて、ふわりと、頭を下げる。
「ノアちゃん。やってみて?」
「……うん」
ノアは、必死に、ルクレツィアの真似をした。
手を前で重ねて、頭を下げる。
ぺこ、と。
「あらまあ、上手じゃない!」
「かわいい〜!」
「ロザリオ、声」
「だってかわいい!」
『あの、ロザリオ姉さま、声、おっきい』
ノアは、目をぱちくりとさせながらも、すぐに、ルクレツィア姉さまの方に、視線を戻した。
『姉さま、たち、ノアに、いっぱい、おしえてくれる』
『ノア、がんばる』
「ノアちゃん」
「はい、ルクレツィア、ねえ……あの……」
言葉を、慎重に、選ぶ。
ノアは、人間の世界の、敬語というものを、まだ、よくわかっていなかった。
けれど、姉妹が、丁寧に、ひとつひとつ、教えてくれていた。
「ねえさま」と呼ぶこと。
「うん」じゃなくて「はい」と答えること。
お辞儀のしかた。お礼の言いかた。
「あなた、もう、『はい』って言えるのね。すごいじゃない」
「うん——あ、はい」
「『うん』も、レオンとの間ではいいのよ。ただ、外の人と話すときは、『はい』」
「はい」
「いい子ね、ノアちゃん」
ルクレツィアの優しい瞳に、ノアは、ふわりと、頬を染めた。
「あ、それと、ノアちゃん」
ふと、ルクレツィアが、何かを、思い出したように、手を打った。
「忘れてたわ。大事なこと、教えなきゃ」
「……はい?」
「ノアちゃん、レオンのこと、なんて呼んでる?」
「……れおん」
「うん、そうよね」
ルクレツィアは、優しく、頷いた。
「実はね。レオンは、騎士団長なの」
「きしだん、ちょう?」
「うん。お国の、偉い人。だから、本当は——」
「『様』、つけるのよ」
横から、ロザリオが、ぱっ、と、口を挟んだ。
「ロザリオ、急に挟まないで」
「だってだって、姉さま、説明、長くなりそうなんだもん」
「説明する側がいきなり来るんじゃないわよ、ロザリオ」
カティアが、肘で、ロザリオを軽く小突いた。
「カティア、痛い〜!」
「うるさい」
ノアは、目を、ぱちくりとさせて、姉妹三人を、順番に、見ていた。
「えっと、あの、ね」
ルクレツィアが、咳払いをひとつしてから、ノアに向き直った。
「外で、他の人がいる場所では、『レオン様』って、呼んでね」
「れおん……さま?」
「そう」
「……」
ノアは、しばらく、考えていた。
それから、ぽつりと、口にしてみた。
「れおん、さま」
「うん、上手じゃない」
「れおん、さま」
「いいわよ、ノアちゃん」
何度か、口に出して、繰り返してみる。
ぎこちなく、けれど、舌の上に、新しい響きが、少しずつ、馴染んでいった。
『……れおん、さま』
ところが——。
なぜだろう。
その響きを、口にするたび、ノアの胸の奥に、何か、ちくり、と、刺さるような、感覚があった。
『……』
ノアは、何度か、首を、傾げた。
ルクレツィアが、ふと、その様子に、気づいた。
「ノアちゃん? どうかした?」
「……」
「言いにくい?」
「……ううん」
「じゃあ、なに?」
ノアは、しばらく、自分の気持ちを、必死に、探していた。
番から、引き離されるような、奇妙な、寂しさ。
でも、そんな複雑な感情、ノアには、まだ、うまく、言葉にできない。
だから、ノアは、思いついた、いちばん、素直な言葉を、口にした。
「……『さま』、つけると、なんか、れおん、とおいの」
「……」
しん、と、応接間が、静まり返った。
三姉妹が、ぴたりと、動きを、止めた。
「……」
「……」
「……」
それから——。
「「「っ……かわいい!!!」」」
ノアは、目をぱちくりとさせて、急に騒ぎ始めた姉妹を、見上げた。
「ちょっと、ノアちゃん! 今のなに、今のなに!」
ロザリオが、両手で、口を覆っていた。
「ねえ姉さま、聞いた今の!? 『さま、つけると、れおん、とおいの』だって!」
「聞こえてたわよ、ロザリオ。落ち着きなさい」
「これ、絶対、れおん兄さん、聞いたら、瀕死になるわよ!」
「ロザリオ、声大きい」
「だってだって!」
ロザリオが、興奮して、ぴょんぴょん跳ねている。
その隣で、カティアが、腕を組んで、ふっ、と、笑った。
「兄さん、隅に置けないじゃない」
「カティア、からかわないの」
「だって、事実でしょ。ノアちゃん、もう、立派な、恋する女の子よ」
「……こい?」
ノアは、また、首を、傾げた。
ルクレツィアが、苦笑しながら、しゃがんで、ノアの目線に、合わせた。
「ノアちゃん」
「はい」
「外の人がいるところでは、『レオン様』。これはね、ノアちゃんが、レオンをちゃんと、立ててあげるための、おまじない」
「……おまじない?」
「うん。レオンのことを、大事に思ってるからこそ、外でも、ちゃんと、敬う」
「……」
「でもね」
ルクレツィアの瞳が、ふっと、優しく、なった。
「二人きりのときは、ね」
「うん」
「ノアちゃんが、呼びたいように、呼んでいいの」
「……」
「それは、ノアちゃんと、レオンの、二人だけの、ことだから」
『——』
ノアの胸の奥が、ふわっと、温かくなった。
『二人だけの、こと』
『ノアと、れおんの……』
その響きが、なんだか、とても、特別な、もののように、感じた。
「……うん」
ノアは、こくん、と、頷いた。
頬が、わずかに、桜色に、染まっていた。
「ふぁぁぁぁ……かわいい……」
ロザリオが、頬を、両手で、押さえながら、感極まっていた。
「ロザリオ、いい加減にしなさい」
「だってかわいい」
「なんで、あんた、急にうるさくなるのよ」
「カティアもさっき、にやけてたじゃない!」
「にやけてない」
「にやけてた!」
ノアは、騒がしい姉妹を、ふんわりとした表情で、見つめていた。
番、二人だけの、こと。
その新しい、特別な響きを、ノアは、心の中で、そっと、抱きしめていた。
***
昼が、近づいていた。
ノアは、先ほどから、何度も、何度も、玄関ホールの、大きな窓の外を、見ていた。
『……れおん、まだ、かな』
レオンは、約束した。お昼には帰る、と。お昼ごはんは、一緒に食べよう、と。
けれど——窓の外の太陽は、もう、ほとんど真上に、近づいているのに。
レオンの馬車は、まだ、見えない。
『おそい……れおん、おそい……』
ノアは、自分でも、よく、わからなかった。
ただ、レオンの帰りが遅れている——そう思った瞬間から、胸の奥が、きゅう、と、苦しくなり始めたのだ。
最初は、小さな、違和感だった。
それが、時間が経つにつれて、だんだん、大きく、重く、なっていく。
「……っ」
ノアは、急に、胸の辺りを、ぎゅっと、押さえた。
「……ノア?」
ルクレツィアが、心配そうに、声をかける。
「……」
「ノアちゃん、どうしたの?」
「……むね、いたい」
「胸?」
「……れおん、まだ……ノア、れおんに、あいたい……」
「……っ」
「むね、くるしい……」
ノアの顔から、見る間に、血の気が、引いていった。
白い肌が、いつもより、もっと、白くなっていく。
「ロザリオ、医師を呼んで!」
「は、はい!」
「カティア、レオンに、すぐ、連絡を! 城に、使いを!」
「わかった!」
慌ただしく、姉妹が動き出す。
ルクレツィアは、ノアを、ソファに、そっと、寝かせた。
「大丈夫よ、ノアちゃん。すぐに、お医者様を呼ぶからね」
「……」
「レオンも、すぐ、戻ってくるから。ね」
「……れおん…」
「うん。すぐ、来るからね」
ノアの瞳から、ぽろぽろと、涙が、こぼれた。
『……レオン……ノア、つらい……』
『はやく……はやく……』
心臓が、ぎゅっと、縮んでいく感覚。
番から、引き離された、獣人の身体が、悲鳴を、上げていた。
神獣たちが、警告した、その「最悪」の、入り口に。
ノアは、立っていた。
***
城から戻る馬車の中で、レオンは、突然、奇妙な、不安に、襲われた。
『……ノア』
胸の奥が、ぎゅっと、締めつけられる。
原因はわからない。ただ、何かが、自分を、ノアの元へ、引き寄せていた。
「御者、急いで! 姉の屋敷へ!」
「はい!」
馬車の速度が、上がった。
屋敷の門に着いた瞬間——。
「兄さん!」
カティアが、玄関から、転がるように、駆け出してきた。
「ノアちゃんが、急に、苦しがって——」
『——』
最後まで聞かずに、レオンは、馬車から飛び降りた。
外套が、風に翻る。
応接間に、駆け込む。
そして——。
ソファに、横たわっている、白い小さな存在を、見つけた。
「ノア!」
ノアの瞳が、ぱちりと、開いた。
淡い紫の瞳が、レオンを、捉えた瞬間。
「……れおん、さ、ま、」
ノアの白い手が、ふらりと、レオンに伸びた。
レオンは、その小さな手を、ぎゅっと、握った。
膝をついて、ノアの顔を、覗き込む。
「ノア、ごめん。遅くなった」
「……」
ノアは、レオンの手を、ぎゅっと、握り返した。
それと同時に。
ノアの白い頬に、すうっと、血の気が、戻り始めた。
『——』
部屋の隅で見ていた医師が、目を見開いた。
「これは……」
ルクレツィアが、ぽつりと、言った。
「番の、絆の力ね」
「……はい」
医師は、頷きながら、慎重に、ノアの脈を、診た。
「驚きました。先ほどまで、命の危機を感じるほど、弱っていたのに……」
「もう、大丈夫そう?」
「ええ。ですが、こういう症状が出た以上、しばらく、お二人は、極力、離れないほうが、よいかと」
「……」
その言葉を、レオンは、深く、胸に、刻んだ。
『……離れちゃ、だめだ』
『この子は、本当に、僕がいないと、保たない』
胸の奥が、また、痛くなった。
昨日、シャルが言った言葉。「最悪の、場合は」と、口を閉ざしたあの言葉。
その「最悪」は、こんなにも、近くに、あったのだ。
レオンは、ノアの手を、ぎゅっと、握り続けた。
「ノア、もう、大丈夫だよ」
「……うん」
「もう、離れない。ずっと、そばに、いる」
ノアは、ふっと、安堵の表情を、浮かべた。
それから——。
ふと、思い出したように、ぽつりと、言った。
「……れおん、さま」
「ん?」
「ノア、ちゃんと、れおんさま、って、よべるよ」
ノアは、まだ涙の跡を残したまま、ふわりと、笑った。
その表情に、レオンの、胸の奥が、ぎゅっと、締めつけられた。
『……れおん、さま』
『そうか。姉さんたちが、教えたのか』
『……うれしいような、寂しいような』
なぜ「寂しい」と感じるのか、レオンは、自分でも、よく、わからなかった。
ただ、今までの「れおん」という呼び方が、とても、自然で——とても、特別だった気が、するのだ。
***
医師が帰り、姉妹三人も気を利かせて部屋を出ていったあと。
ノアの寝室には、レオンと、ノアだけが、残された。
ノアは、ベッドに横たわって、レオンの手を、ずっと、握っていた。
窓から差し込む夕日が、白い髪を、淡い金色に、染めていた。
「ノア」
「……はい」
『「はい」、覚えたんだ』
レオンは、ふっと、笑った。
「あのね」
「はい」
「ひとつ、お願いが、あるんだ」
「……ねがい?」
「うん」
レオンは、ノアの手を、両手で、包み込んだ。
「『様』、つけなくて、いいんだよ」
「……」
「他の人には、つけていい。それは、人間世界のマナーだから、姉さんたちの教え通り」
「うん」
「でも、ね。僕には、いらないんだ」
「……どうして?」
「君は、僕の——」
レオンは、わずかに、言葉を、止めた。
自分でも、なぜ、こう言いたいのか、よくわからなかった。
ただ、「様」をつけられて呼ばれたとき、不思議と、寂しくなったのだ。
『たぶん、それは——』
『この子と、僕の、距離を、感じたから』
『他の人と、おんなじ呼び方をされるのが、いやなんだ』
『この子は、僕にとって、特別なんだから』
その想いを、なるべく、優しい言葉で、伝えたかった。
「……君は、僕にとって、特別な子、だから」
「……」
「他の人と、おんなじ呼び方されると——なんか、ちょっと、寂しいんだ」
『——』
ノアの淡い紫の瞳が、見る見るうちに、潤んだ。
そして、白い頬が——。
ふんわりと、桜色に、染まっていった。
「……っ」
ノアは、口を、ぱくぱくさせた。
何か、言いたいのに、言葉が、出てこない。そんな顔だった。
それでも、必死に、何かを伝えようと、ノアは、レオンの手を、ぎゅっと、握り直した。
「……ノア」
「うん」
「ノア、れおん、って、よぶ」
「……うん」
「ふたりのときは、れおん」
「……うん」
「ふたりだけの、ことだから」
「……っ」
今度は、レオンの方が、言葉に、詰まった。
『——あ』
『……うわ』
『なんで、僕、こんなに、嬉しいんだろう』
『たかが、呼び方ひとつ、なのに』
胸の奥が、ぎゅっと、温かくなる。
それは、レオンが、これまで、誰にも、感じたことのない、種類の、温かさだった。
「……うん」
レオンは、なんとか、それだけを、絞り出した。
「うん。それで、いい」
夕日が、二人の影を、長く、長く、伸ばしていた。
窓辺の風が、白いカーテンを、ふわり、と、揺らした。
誰にも、邪魔されない、二人だけの時間が、そこには、確かに、あった。
***
その夜——。
屋敷が、寝静まった頃。
屋敷の高い塀の上、誰も気づかない場所に。
小さな、影が、ひとつ、いた。
子供ほどの大きさ。背中に、薄い、なにか。
影は、夕方、二人が見つめ合っていた窓——ノアの部屋の窓を、じっと、見ていた。
「……ふぅん」
その声は、不思議と、可愛らしかった。
まるで、幼い少女のような、響きで。
けれど、続いた言葉は、小さく、低く、——歪んでいた。
「あの子……まだ、いる、ね」
「しぶとい……ほんと、しぶとい」
「はやく、しんじゃえば、いいのに」
その言葉は、幼い少女の声で、紡がれた。
まるで、おやつの好き嫌いでも、口にするように——あっさりと、軽やかに。
「でも、でも……そっか」
影は、ふと、何かを、思いついたように、くすっ、と、笑った。
「あのふたり……はなればなれに、すれば、いいんだ」
「そしたら、あの子、よわって……よわって……」
にたあ、と。
小さな、白い歯が、暗闇に、覗いた。
「ねぇ、いいこと、おもいついちゃった」
影は、嬉しそうに、くるり、と、その場で、回った。
「あの子に、また、会わなきゃ、ね」
羽音が、ぱた、と、一回。
風が、わずかに、動いた。
それきり、影は、消えていた。
誰も、それに、気づかなかった。
月だけが、その光景を、静かに、見つめていた。
——第3話 了




