第2話 番(つがい)
すみません、長くなってしまいました
夜明け前。
まだ世界が薄青い色に包まれている時間、レオンは、ふと、目を覚ました。
「……ん」
首が、わずかに、痛い。背中も、少し、強張っている。
ぼんやりとした頭で、レオンは、自分が置かれている状況を、ゆっくりと、理解した。
『……あ。そうか。僕、ここで、寝ちゃったのか』
昨夜、ノアが眠りにつくまで、手を握っていた。
規則正しい寝息を聞きながら、「もう少し、もう少しだけ」と、見守っているうちに——いつの間にか、ベッドの脇の椅子に座ったまま、自分も、眠ってしまっていたらしい。
そして。
レオンの右手は、今も——。
ノアの小さな手を、握ったままだった。
いや、正確には。
ノアの方が、レオンの指を、ぎゅっと、握りしめて、離していなかった。
眠りの中でも、その手は、確かな力で、レオンに、繋がっていた。
『……離さなかったんだな。ずっと』
レオンは、その小さな手を見つめて、思わず、口元を、ほころばせた。
手を引き抜こうと思えば、引き抜けた。けれど、そうしなかった自分のことも、レオンは、なんとなく、わかっていた。
ノアは、ベッドの真ん中で、身体を完全に丸めて、眠っていた。掛布団に半分もぐって、白い耳も、ぴたりと頭に伏せて。
まるで、丸くなって眠る、子猫のように。
『ほんとに、猫みたいだな』
寝顔は、昨夜泣いていた跡が少し残っていたが、表情は、穏やかだった。
レオンは、空いている左手で、ノアの白い髪を、そっと指先で撫でた。
ノアは少しだけもぞもぞと動いて、また静かな寝息に戻った。
部屋の隅、暖炉の前のラグの上で、大きな身体を伏せていたゼルが、片目だけ開けてレオンを見た。
《ご主人。おはよう》
《僕とシャル、一晩中、ここにいたよ》
頭の中に、少し誇らしげなゼルの声が響く。
《ご主人も、結局、一晩中、ノアの手、握ってたね》
「……あー……うん。そうみたいだね」
レオンは、少し、照れたように、首の後ろを掻いた。
《ノア、夜中に何度かうなされてた。でも、ご主人が手を握ってて、僕がそばで寄り添って、シャルが子守唄みたいに喉を鳴らしてあげたら、すぐ落ち着いたんだ》
「……そっか。ありがとう、ゼル」
レオンはゼルの大きな頭を、撫でた。
見れば、ノアの枕元——サイドテーブルの上に、黒猫の神獣・シャルが、姿勢正しく座っていた。
長いしっぽが、ゆっくりと左右に揺れている。
『シャルも、ずっと、ここに……』
冷静で、口数の少ないシャルが、一晩中、ノアの枕元を、離れなかった。
二匹とも、口では何も言わないけれど——昨夜、出会ったばかりのこの子のことを、もう、ちゃんと、気にかけているのだ。
「シャルも、ありがとう」
《……別に。ただ、気になっただけ》
シャルは、ふい、と、視線を逸らした。
けれど、その長いしっぽは、機嫌よさそうに、ゆれていた。
《ご主人。どうするの、これから》
いつもの冷静な声。けれど、その奥には深い関心が滲んでいた。
「……うん。少し、考えないといけないね」
窓の外では、東の空がうっすらと白み始めている。
長い夜が、やっと、終わろうとしていた。
***
ノアが目を覚ましたのは、それから一刻ほど経ってからだった。
「……ん」
小さく身じろぎして、ゆっくりと淡い紫の瞳が開く。
ぼんやりと天井を見上げて、それから、ハッとしたように身体を起こした。
まるで、自分がどこにいるのかを、思い出せなくて怯えるように。
「ノア」
ベッドの脇の椅子に座ったまま、ずっとノアの手を握っていたレオンが、優しく、声をかけた。
ノアの瞳が、レオンを捉えた瞬間、その小さな身体から、ふっと力が抜けた。
「……れおん」
「うん。おはよう」
「……おはよう」
ノアは寝間着の裾を握りしめて、しばらく、レオンを見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「ノア、ねむってた」
「うん。よく眠れた?」
「……うん」
「夢、見た?」
「……みた。でも、こわく、なかった」
「そっか」
レオンは、優しく微笑んだ。
「お腹、空いてる?」
「……」
ノアはしばらく考えるような顔をしてから、こくんと頷いた。
その表情があまりにも幼くて、レオンはまた、胸の奥が温かくなった。
「じゃあ、ご飯にしよう。下に、用意してあるから」
手を差し出すと、ノアはためらいなく、その手を握った。
昨夜よりも、少しだけ、力が強くなっていた。
***
ダイニングのテーブルに、湯気の立つ皿が並べられていた。
白パン、温かいスープ、薄切りのハム、果実、そして果実の絞り汁。
もちろんこれは、ノアの胃に負担をかけないように、料理長が特別に配慮したメニューだった。レオンが「昨晩から、ほとんど食べてない子がいる」と頼んだのだ。
ノアは、椅子に座らされた瞬間、目をぱちくりとさせて、テーブルの上を見ていた。
そして、信じられないものを見るような顔で、レオンを見上げた。
「これ……ノアの?」
「うん。ノアのだよ」
「……ぜんぶ?」
「うん。全部」
ノアの瞳が、見るからに大きくなった。
「ぜんぶ、たべて、いいの……?」
「いいよ。好きなだけ食べて」
レオンの言葉に、ノアはおずおずと手を伸ばした。
白パンに、指先で、そっと触れる。確かにそこにあると、確かめるように。
そして、両手でぎゅっと白パンを掴むと、もぐもぐと食べ始めた。
「……」
レオンは、その様子を見ていて、ふっと胸が痛くなった。
『……この子、フォークも知らないのか』
いや、フォークだけじゃない。テーブルマナーも、椅子の座り方も、すべてが「初めて」という感じだった。
獣人の集落でも、簡素なフォークやスプーンくらいは使う。それすら知らないということは——。
『この子、本当に、どこから』
考えながらも、レオンはノアに優しく声をかけた。
「ノア。これね、フォークっていうんだよ」
銀のフォークを、ノアによく見えるように持ち上げて見せる。
「これでね、ハムを刺して、口に運ぶの。やってみる?」
「……」
ノアは、レオンの手元をじっと見ていた。
レオンが実際にハムを一切れ刺して見せると、ノアは慎重にフォークを受け取った。
そして、ぎこちない手つきで、ハムを刺そうとした。
ぷすっ、と一回目は失敗。皿の上で滑った。
二回目、ようやくハムが刺さった。
ノアは、それをじっと見つめてから、ゆっくりと口に運んだ。
「……っ」
淡い紫の瞳が、見る間に潤んだ。
「ノア?」
「……おいしい」
「うん」
「ノア、こんなおいしいの、はじめて……」
その言葉に、レオンは黙ってしまった。
『……はじめて』
『十年も生きてきて、はじめて』
胸の奥が、熱くなる。
「もっと、ある?」
「いっぱいあるよ。ゆっくり食べて」
「……うん」
ノアは、もう一度フォークを握り直した。
まだ手つきはぎこちなかったけれど、二切れ目、三切れ目と、慎重に食べ進めていった。
その光景を、テーブルの脇からじっと見ていた二つの神獣がいた。
《……ご主人》
シャルの声が、レオンの頭の中に響いた。
《あの子、本当に、人間社会で育ってないよ》
「……うん」
《どこかの森……いや》
シャルは、ふと言葉を切った。長いしっぽが、ぴくりと跳ねた。
《……まさかね》
「シャル?」
《いや。今は、いい。あとでね》
黒猫の神獣は、それきり口を閉ざして、ノアを見つめていた。
その瞳には、確信めいた何かが、宿っていた。
***
朝食を終えて、レオンはノアを応接間のソファに座らせた。
暖炉に火を入れ、温かい飲み物を用意する。
ノアは、フカフカのソファに座らされた瞬間、また目をぱちくりとさせていた。柔らかさが、信じられないらしい。
「ノア」
レオンは、ノアの隣ではなく、向かいの一人掛けに腰を下ろした。
話を聞くなら、目を合わせて、丁寧に。そう思ったからだった。
「いくつか、聞いてもいい?」
「……うん」
「無理に答えなくていい。話したくないことは、話さなくていいから。約束する」
「……うん」
ノアは、ソファの上で、また少し身体を縮めた。けれど、レオンの目をじっと見ていた。
「『番』って、どういう意味?」
その問いに、ノアは少し困ったような顔をしてから、たどたどしく答えた。
「……ずっと、いっしょの、ひと」
「うん」
「はなれられない、ひと」
「うん」
「あうと、すぐ、わかるって。むねが、どきどきして、あつくなって」
ノアは小さな手を、自分の胸に当てた。
「ノアも、わかった。れおん、みたとき」
「……」
レオンは、自分の胸の奥でも、何かが、とくん、と鳴った気がした。
「ぬしが、いってた」
「……ぬし?」
その瞬間。
レオンの足元で、ゼルの身体がぴくりと跳ねた。シャルも、ふっと目を細めた。
けれど、ノアはそれに気づかずに、続けた。
「ぬしは、ノアの、おとうさん。みたいなもの。えらくて、つよくて、やさしい」
「うん」
「ぬしが、いつか、ノアにも、つがいができるって。つがいといっしょになると、ノア、ほんとうの、ノアになれるって」
「本当のノアに、なれる……?」
「うん。ノアもね、よく、わからないの。でも、ぬしが、いってた」
ノアは、自分の言葉を、必死に思い出そうとしているように見えた。
「ぬしは、ぜったいに、うそ、つかない。だから、ノア、しんじてる」
「うん」
「だから、れおんに、あったとき。ノア、すぐに、わかったの。これが、つがいだって」
ノアは、淡い紫の瞳で、まっすぐにレオンを見つめた。
「だから、れおん。はなれない、で、ね?」
『——』
レオンは、その言葉に、何も返せなかった。
戸惑いはあった。混乱もあった。
けれど、それ以上に。
この子の真っすぐな瞳を、裏切るなんて、できるはずがなかった。
「……うん」
短く、けれど、はっきりと、レオンは答えた。
「離れないよ。約束する」
ノアの瞳が、ふわりと細められた。
それは、ノアがレオンの前で見せた、初めての、「笑顔」と呼べる表情だった。
その時。
レオンの足元に伏せていたシャルが、静かに口を開いた。
《ご主人。少し、話しておかないといけないことがある》
「……シャル」
いつになく、シャルの声が、重かった。
《番の絆は、僕たち神獣にも、ある》
その言葉に、レオンとノアの視線が、シャルへ向いた。
《一生に一度だけ出会う、魂の伴侶。結ばれれば、その絆は、永遠のものになる》
「……」
《でも》
ゼルが、言いにくそうに、続けた。
《離れれば、心も身体も、蝕まれていく》
『——え』
レオンは、息を飲んだ。
《それに——》
シャルが、静かに付け加えた。
《君から感じる力は、ちょっと、普通の獣人とは、違う気がするんだ》
《だから、番との絆も、もしかしたら、普通より、ずっと、深いかもしれない》
「待って」
レオンの声が、わずかに掠れた。
「蝕まれる、って。それは、どういう、意味」
《番と認識した相手と、引き離されると、獣人は、衰弱していく》
シャルは、ゆっくりと、けれどはっきりと言った。
《最悪の、場合は》
その先を、シャルは、言葉にしなかった。
長い、長い、沈黙が、応接間に落ちた。
暖炉の薪が、ぱちっと、はぜた。
『……最悪の場合』
レオンは、ノアを見た。
ノアは、淡い紫の瞳で、レオンを、じっと、見つめていた。
その瞳は、揺れていなかった。
むしろ、「自分はそれを、知っている」とでも言うように、ただ、静かだった。
「ノア」
レオンは、声を絞り出すようにして、聞いた。
「君も、知ってる? 今の、シャルの話」
「……うん」
ノアは、こくん、と頷いた。
「ぬしが、いってた。つがいから、はなれたら、ノア、こわれちゃうって」
『——』
昨夜、ノアが言った、あの言葉。
あれは、比喩でも、誇張でも、なかったのだ。
レオンは、自分の指先が、わずかに冷たくなっていることに、気づいた。
『……そうか』
『この子は、僕と離れたら、本当に、壊れてしまうのか』
責任の重さが、ずしりと、肩にのしかかった。
けれど、不思議と、後悔は、なかった。
「ノア」
レオンは、ソファの正面に腰を下ろし、ノアの両手を、そっと、自分の手で包んだ。
「僕も、君を、守りたいと思ってる」
声に、いつもよりも、わずかな震えが混ざっていた。
「理由は、まだ、よくわからない。でも、君を傷つけさせたくない。それだけは、はっきり、わかってる」
「……うん」
「だから、絶対に、離れないようにする」
ノアの淡い紫の瞳に、また、ふわりと、涙が滲んだ。
けれどそれは、悲しみの涙ではなくて、もっと、温かい、なにかだった。
***
話を続けながら、レオンは少しずつ、ノアの過去のかけらを集めていった。
全部を一気に話させるのは、無理だ。ノアにとって、辛い記憶であることは、間違いないのだから。
だから、ぽつり、ぽつりと、ノアが話せる範囲でだけ。
「ノアは、どこで、生まれたの?」
「……わかんない」
「うん。じゃあ、ずっとどこに、いた?」
「……もり」
「森?」
「うん。きれいな、もり。みんな、いた」
「みんな?」
「ぬしと、神獣と、妖精と」
その瞬間、ゼルとシャルの動きが、ぴたりと止まった。
《ご主人》
ゼルの声が、いつもよりずっと低かった。
《今、なんて言った?》
『……うん。聞こえてた、ゼル』
神獣。妖精。森。主。
それらの言葉が、すべて、ひとつの場所を指していることに、レオンも気づいていた。
『神獣の森……?』
『そんな、まさか』
神獣の森は、伝説上の存在として語られてきた、神秘の森だ。さまざまな神獣が暮らし、その神気が濃すぎて、通常の人間や獣人は生きられないとされている。
実在するという話も、確かに、ある。
けれど、その森から、誰かが「出てきた」という話は、聞いたことがなかった。
「ノア」
レオンは、声を慎重に選んで、聞いた。
「その森には、どうして、いたの?」
ノアは、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……ぬしが、ノアを、ひろってくれた」
「拾って、くれた」
「うん。ノア、ちっちゃい、ちっちゃいときに、もりの、はずれに、ころがってたって」
「……」
「だれの、こか、わからない。でも、ぬしが、だいたら、ぐずらなかったから。ぬしが、そだてた」
『……捨てられた、子ども』
レオンの胸が、また、ぎゅっと締めつけられた。
「神獣たちにも、妖精たちにも、かわいがってもらった。ノア、しあわせだった」
「うん」
「でも」
ノアの声が、急に小さくなった。
淡い紫の瞳が、ふっと、暗くなった。
「ある、ようせいが、ね」
「うん」
「ずっと、ノアのこと、きらいって、いってた」
「……」
「『おまえなんか、いなくなればいい』って」
ぽつり、と。
ノアの白い頬を、ひとすじの涙が伝った。
ノアは、それに気づかないように、続けた。
「ある日、その、ようせいが、ノアを、ひとの、せかいに、つれてきて」
「うん」
「そして、おいて、いった」
「……」
「ノア、もりに、かえりたかった。でも、かえりかた、わからない」
「……」
「そしたら、わるいひとたちに、つかまって」
「……」
「いっぱい、しらない、ばしょ、つれてかれて」
「……」
「さいごに、あの、おへやで」
「……」
「れおんと、あった」
ノアは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、まっすぐにレオンを見ていた。
「だから、ノア、おもうの。あの、ようせいに、すてられて、わるいひとたちに、つかまったのは。ぜんぶ、れおんに、あうため、だったんじゃないかって」
「ノア……」
「ぬしは、いつか、つがいに、あえるって、いってた。ノア、ずっと、つがいに、あいたかった」
「……」
「やっと、あえた」
ノアは、ぐっと、両手で涙を拭った。
「だから、ノア、もう、つらかったこと、おもいだしたく、ない。れおんと、いられるなら、それで、いい」
その言葉を、レオンは、黙って聞いていた。
胸の中に、いくつもの感情が、渦を巻いていた。
怒り。悲しみ。憤り。そして、深い、深い、慈しみ。
『……君は、本当に、いい子だね』
レオンは、立ち上がって、ノアの座るソファの隣に、そっと腰を下ろした。
そして、ノアの細い肩を、優しく、片腕で抱き寄せた。
「もう大丈夫だよ、ノア」
「……うん」
「君を捨てた人にも、君を売った人にも、絶対に、もう、会わせない」
「……うん」
「君は、ここで、僕と、一緒にいていい」
「……れおん」
ノアは、レオンの胸に、ぐっと、顔を埋めた。
白い髪が、レオンの胸元で、揺れた。
暖炉の火が、静かに、ぱちぱちと音を立てていた。
***
ノアが少し落ち着いて、暖炉の前で寝かせていたゼルの大きな背中を撫で始めた頃。
屋敷の玄関の方から、大きな声が聞こえてきた。
「レオン! いるんでしょう!?」
その声に、レオンの背筋が、ピシっと伸びた。
『……あ』
「ねえ、兄さん! 聞いたわよ!」
「兄さん、まさか、本当なの!?」
『あ。あ。あ。あ』
その声は、聞き間違えようがなかった。
屋敷中に響く、落ち着いた声は——姉のルクレツィア。
そして、その後ろから追いかけてくる、賑やかな二つの声は——妹の、ロザリオと、カティア。
シュタルク家の、姉と、妹たち。
全員、揃って、来た。
『……早すぎないかな!?』
『昨夜の今朝、だよ!?』
慌てるレオンの心など知らず、廊下を駆ける軽やかな足音が三つ、応接間に近づいてくる。
そして、扉が、勢いよく、開け放たれた。
「レオン!」「兄さん!」「ねえ、説明して!」
三方向から飛び込んできた姉と妹は、応接間の真ん中で、ぴたりと、止まった。
全員の視線が、レオンの隣に座っていた、ひとりの白い小さな存在に、釘付けになった。
「……」
「……」
「……」
しばし、沈黙。
それから。
「「「かわいい——!!!」」」
三人の声が、見事に、ハモった。
次の瞬間、三人が一斉にノアへ突進した。
「ねえねえ、あなたが、噂の子!? ねえねえ!」
「ふわふわふわふわ! お耳! お耳触っていい!?」
「ロザリオ、待って、突進しないの! その子、びっくりしてるでしょ!」
「だってかわいいんだもん! ねえねえ!」
「ちょっとあなたたち、落ち着きなさい——!」
『あ』
『あ、あ、あ』
レオンが、ぽかんと口を開けている間に、応接間はすっかり戦場と化していた。
ロザリオがソファの脇から覗き込み、カティアがそのロザリオを引き戻し、ルクレツィアが両手で二人をまとめて押さえようとしている。
ノアは、ソファの上で、目をぱちくりとさせて、その光景を見つめていた。
怖がる、というより、ただただ、驚いている。生まれて初めての光景、という顔だった。
応接間の隅で、ゼルが小さくなっていた。
《……ご主人。僕、ちょっと、隠れててもいい?》
『うん。ゼル、賢明な判断だと思う』
シャルは、いつもどおり姿勢正しく窓辺に座って、長いしっぽを揺らしながら、その光景を冷静に眺めていた。
「ちょっと、姉さん! ロザリオも、カティアも、いったん、落ち着いて——!」
レオンの声に、ようやく三人が、はっと、動きを止めた。
「あ、ごめんね。びっくりさせちゃって」
ルクレツィアが、ふー、と息をついて、ロザリオの首根っこをつかんで、ソファから引き剥がした。
そして、しゃがんで、ノアの目線に、合わせた。
「私はルクレツィア。レオンの、お姉さんよ」
落ち着いた、母性的な声。
「この騒がしい子たちは、私の妹たち。レオンの、妹なの」
「私、ロザリオ! よろしくね!」
「カティアよ。さっきはごめんね。ロザリオが、いつもうるさくて」
「ちょっとカティア、私のせいにしないでよ!」
「ロザリオが先に突進したんでしょ」
「あんたも一緒に来たじゃない!」
「私はあんたを止めようとしてただけ!」
『……ノアの前で、喧嘩しないで欲しいな……』
レオンは、こっそり、深い、ため息をついた。
それから、騒がしい姉妹の注目を、自分に集めるように、ぽん、と、手を打った。
「姉さん、ロザリオ、カティア。紹介するよ」
レオンは、ノアの肩に、そっと、手を置いた。
「この子は、ノア。昨夜から、僕が、預かってる」
「ノア、っていうの?」
「まあ、なんて、可愛い名前」
「ノアちゃん、ね」
三人の視線が、いっせいに、ノアへと、集まる。
ノアは、ぴくっ、と、肩を震わせて、レオンの服の裾を、ぎゅっと、握った。
「ノア。怖くないよ」
レオンが、優しく、声をかける。
「この人たちは、僕の、姉さんと、妹たち。みんな、ノアの、味方だよ」
「……みかた?」
「うん。味方」
ノアは、しばらく、おそるおそる、三人を、見ていた。
けれど、レオンの胸の中の空気感と、三人の瞳の優しさを感じ取ったのか——やがて、ぺこり、と、小さく、頭を下げた。
「……ノア、です」
『——』
「「「っ……かわいいっ……!!」」」
三姉妹が、また、胸を、押さえた。
けれど、ノアは、そんな騒がしい姉妹を、むしろ、興味深そうに、見ていた。
淡い紫の瞳が、ぱちくりと瞬きながら、ロザリオを、カティアを、ルクレツィアを、順番に、見比べる。
そして、レオンを見上げて、ぽつりと言った。
「……れおん、おねえさん、たくさん?」
「うん。お姉さんが一人と、妹が、二人いるよ」
「……すごい」
『何が「すごい」のかは、よくわからないけど』
「ねえねえ、ノアちゃん。お耳、ふわふわ? 触っていい?」
ロザリオが、また性懲りもなく、にじり寄ってきた。
今度はカティアが、ロザリオの襟首を、しっかり掴んでいた。
ノアは、しばらく目をぱちくりとさせてから、おずおずと、頷いた。
「……いい、よ」
「やったー!」
ロザリオが、ノアの白い耳に、そっと触れる。
「ふわぁぁぁ……っ! すごい、ふわふわ! カティアも触ってみて!」
「いや、私は、いい……」
言いながらも、カティアの目が、明らかにキラキラしていた。
「カティアちゃんも、触る?」
「……一回だけ、いい?」
ノアが、こくんと頷くと、カティアもおずおずと、ノアの白い耳に触れた。
「……ふわふわね」
「ねっ、ふわふわでしょ!」
「ロザリオ、声が大きい!」
「ふわふわなんだもん!」
『……これ、姉さんが止めないと、永遠に続くな……』
レオンは、もう一度、深いため息をついた。
「あなたたち。本題」
ようやく、ルクレツィアが、ぴしゃりと、口を挟んだ。
その「本題」という一言で、ロザリオも、カティアも、ぴたりと止まった。
さすが、姉さん。
ルクレツィアは、レオンの方を向いた。
「で、レオン。説明、お願い」
「……うん。話すよ」
レオンは、観念して、姉妹に経緯を話した。
昨夜の任務、闇オークション、目玉商品としてのノア、「番」のささやき、衝動的な落札、屋敷へ連れ帰るまで——。
話を聞き終えた三人は、しばらく、沈黙した。
最初に口を開いたのは、ルクレツィアだった。
「……レオン」
「うん」
「あなた、これから、ノアちゃんを、どうするつもり?」
「うん。ここで、僕が、守る」
即答だった。
ルクレツィアは、その答えを、しばらく見つめてから——ゆっくりと、首を横に振った。
「レオン。あなた、本気で、自分一人で、この子の世話、できると思ってる?」
「……え?」
「お風呂、入れられる?」
「……う」
「髪、梳いてあげられる? 女の子の髪は、絡まりやすいのよ」
「……それは……」
「着替えは? 女の子の服って、男の人がいる場で着替えさせるわけにはいかないのよ」
「……」
「子どもの食事の量、わかる? 昨日、夕飯ほとんど食べてなかったでしょう。胃に何が負担かかるか、知ってる?」
「……」
レオンは、見事に、言葉を失った。
「兄さん。私のときも、髪、結えなかったでしょ」
カティアが、追い討ちをかける。
「……うっ」
「私、十歳のとき、兄さんに『髪結って』って頼んだら、もしゃもしゃの団子になって、泣いて姉さんのところに駆け込んだの、覚えてる?」
「……お、覚えてない……ようにしたい……」
「覚えてるじゃない」
「あと、ノアちゃんの服、これしかないんでしょ?」
ロザリオが、ノアの粗末な布の服を見て、眉を寄せた。
「子ども用の服、用意できるの? ねえ、兄さん、女の子の靴のサイズって、何号?」
「……」
「下着の話とか、しなくていいわよね、兄さん、絶対知らないでしょ」
「カティア、あなた、もう少し言葉を選びなさい」
「だって、事実でしょ」
『……これは、まずい』
『何ひとつ、反論できない』
レオンは、急に、自分が、いかに無力か、思い知らされた気分だった。
ノアを守ると決めた。誰にも渡さないと誓った。
けれど、それは「自分が立ち向かう」という抽象的な決意であって、「日々の生活の細部を、自分で全部やる」という実務には、全然、繋がっていなかったのだ。
「……」
レオンが頭を抱えていると、ロザリオが、ぽん、と、手を打った。
「あ、じゃあさ。兄さんも、ノアちゃんも、二人とも、姉さんの家に、来ちゃえばいいんだよ」
「……え?」
「だって、兄さんの家、男所帯でしょ? ノアちゃんのケア、無理じゃない」
「……」
「でも、姉さんの家なら、子どもたちもいるし、子ども用品も山ほどあるし、優しい侍女さんたちも、女の子の世話に、慣れてる」
「……」
「そこに、兄さんも、ノアちゃんも、一緒に、住むの。そしたら、ノアちゃんのケアも、ばっちり。兄さんと、ノアちゃんも、離れなくて、いい」
『……ロザリオ、頭、回転、はや……』
妹のロザリオは、見た目こそ明るく能天気だが、こういう実務的な判断には、意外と鋭い。
ルクレツィアは、ふむ、と考え込むような表情をしてから、ゆっくりと頷いた。
「……いい案ね、ロザリオ」
「でしょ!」
「レオン。あなたも、ノアちゃんも、しばらく、うちに、いらっしゃい」
「姉さん……いいの?」
「もちろんよ」
ルクレツィアの瞳が、まっすぐにレオンを見ていた。
「女の子には、女の人が必要なこともあるでしょう? お風呂、髪、着替え。うちには、それを、ちゃんとできる侍女が、揃ってる」
「……うん」
「それに、子どもたちもいるから、賑やかよ。ノアちゃんも、寂しくないわ」
「……」
「あなたは、毎日、城から、うちに帰ってくればいい。ノアちゃんと、ずっと、一緒にいられる」
「……いいの? 本当に」
「あなた、さっきから、それしか言ってないわよ」
ルクレツィアは、ふっと、苦笑した。
「弟と、その大切な子が、困ってるのよ。姉が、助けないで、どうするの」
「……姉さん」
「それに——もうひとつ、いい点がある」
ルクレツィアの瞳が、ふっと、和らいだ。
「ユリウスと、毎日、顔を合わせられるでしょう」
「……あ」
「ノアちゃんの過去のこと、これから、調べる必要があるのよね? ユリウスは、宰相よ。同じ家にいれば、夕食の席でも、夜でも、いつでも、ゆっくり、相談できる」
「……たしかに」
「わざわざ城で時間を作って、人目を気にしながら話すより、ずっと、いいわ」
『……それは、本当に、そうだ』
レオンは、頷くしかなかった。
ルクレツィアの言うとおりだった。日々のケアも、過去の調査も、レオンの屋敷で、男手だけでやるよりも、姉夫婦の家でなら、はるかに、しっかり、できる。
そして何より——ノアと、離れずに、いられる。
全部、ノアの、ためになる。
「ノアさえ、よければ、だけど」
全員の視線が、ノアに集まった。
その瞬間。
ノアは、ぎゅっと、レオンの服の裾を、握りしめた。
淡い紫の瞳には、見る見るうちに、不安が、滲んでいく。
白い耳が、ぺたんと、頭に伏せられた。
「……ノア、れおんと、はなれるの……?」
『——』
その声の、あまりの心細さに、レオンの胸が、ぎゅっと、痛んだ。
ついさっき、シャルから聞いたばかりの言葉が、頭の中で響く。
『——番と認識した相手と、引き離されると、獣人は、衰弱していく』
『最悪の、場合は』
「ノア」
レオンは、すぐに、ノアの目線に、しゃがんで、合わせた。
そして、ノアの両手を、しっかりと、握った。
「離れないよ」
「……っ」
「離れない。僕も、一緒に、姉さんの家に、住むんだ」
「……いっしょ?」
「うん。同じ、家。同じ、屋根の下」
「……れおんも?」
「うん。僕も」
ノアの淡い紫の瞳が、ぱちくりと、瞬いた。
「あさ、おきたら、れおん、いる?」
「いるよ」
「ごはんも、いっしょ?」
「うん。一緒」
「よるも……?」
「うん。同じ家に、いる」
ノアの瞳から、ふっと、不安の色が、消えていった。
代わりに、見る見るうちに、その瞳が——きらきらと、輝き始めた。
「……っ」
ノアは、ぱあっ、と、顔を、ほころばせた。
白い耳が、ぴん、と、立ち上がる。
「いっしょ……ノアと、れおん、いっしょ……!」
「うん。一緒だよ」
「えへへ……えへへっ」
ノアは、嬉しくて、たまらない、という様子で、レオンの手を、ぎゅっぎゅっと、握った。
その無邪気な喜びように、姉妹三人も、顔を見合わせて、ふっと、微笑んだ。
「決まりね」
ルクレツィアが、優しく、頷いた。
「じゃあ、レオン。あなたも、ノアちゃんも、今日から、うちの家族よ」
「……ありがとう、姉さん」
「ふふ。賑やかになるわね」
レオンは、ノアの方へ、向き直った。
「ノア。ひとつ、約束、しようか」
「……やくそく?」
「うん」
レオンは、自分の小指を、立てて、ノアの前に、出した。
「これ、指切りっていうんだ。小指と小指を、絡めて、約束する。人間の世界で、いちばん大事な、約束のしかた」
「……ゆびきり」
「うん。——僕は、ずっと、ノアと、一緒にいる。離れない。それを、約束するよ」
ノアは、しばらく、レオンの小指を、じっと、見つめていた。
それから、おずおずと、自分の小さな小指を、レオンの小指に、絡めた。
ふたつの小指が、絡まる。
「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本のます。指切った」
レオンが歌うように唱えると、ノアは目を丸くした。
「……はり、せんぼん、のむの……?」
「あ、それは、嘘ついたら、ね。僕は嘘つかないから、大丈夫」
「……」
ノアは、絡んだ小指を、しばらく、じっと見つめていた。
それから、淡い紫の瞳を、ゆっくりと、細めた。
「……うん。ノア、れおん、しんじる」
「うん。ありがとう、ノア」
決定が下された瞬間、ロザリオが、ぱあっと、顔を輝かせた。
「やったー! じゃあじゃあ、ノアちゃん。一緒に、お家、行こうね!」
「ロザリオ、押すんじゃないわよ」
「だってかわいいんだもん! ねえねえ、お耳触っていい? ふわふわ?」
ノアは、ぱちくりと目を瞬かせて、ロザリオに耳を触らせていた。
ロザリオが「ふわぁぁぁ」と感激した声を上げる。
カティアは腕を組んで、「ああ、これは私たち、毎日入り浸ることになるわね」と苦笑していた。
ルクレツィアは、温かい瞳で、その光景を見守っていた。
応接間に、にぎやかな空気が、満ちていった。
***
夕暮れ時。
レオンの屋敷で、当面の荷物を、まとめ終えると、レオンとノアは、ルクレツィア家の馬車に、乗り込んだ。
使用人たちには、しばらく屋敷を空けることを伝え、留守を任せてある。
神獣のゼルとシャルも、もちろん一緒だ。
馬車が、ゆっくりと、走り出す。
ノアは、レオンの隣に、ぴったりと、身を寄せて、馬車の窓の外を、瞬きもせずに、眺めていた。
夕焼けの街並みが、流れていく。
「……れおん」
「うん?」
「あたらしい、おうち。どんな、ところ?」
その声には、わずかな、緊張が、滲んでいた。
ノアにとっては、また、知らない場所。知らない人たち。
「大丈夫だよ」
レオンは、ノアの小さな手を、そっと、握った。
「さっき会った、姉さんと、子どもたちが、いる家だよ。みんな、優しいから」
「……れおんも、いる?」
「うん。僕も、いる。同じ家で、ずっと、一緒」
その言葉に、ノアの肩から、ふっと、力が、抜けた。
淡い紫の瞳が、ゆっくりと、和らいでいく。
「……えへへ」
ノアは、レオンの手を、ぎゅっと、握り返して、嬉しそうに、笑った。
窓の外の夕焼けよりも、ずっと、あたたかい笑顔だった。
***
ルクレツィア家の屋敷に着くと、子どもたちが、賑やかに、出迎えてくれた。
ルクレツィアの三人の子どもたち——十歳の長男テオ、七歳の次男ルカ、二歳の長女リナ——は、新しい同居人に、興味津々だった。
「レオンおじさまだ!」
「テオ、ルカ。久しぶりだね」
テオとルカが、レオンに駆け寄ってくる。
レオンは、しゃがんで、二人の頭を、わしわしと撫でた。
「今日から、しばらく、僕とノアも、ここでお世話になるんだ。よろしくね」
「やったー!」
「レオンおじさま、剣、おしえて!」
「ふふ、今度ね」
それから、テオとルカは、レオンの後ろに、半分隠れていた、ノアに気づいた。
二歳のリナも、ぱたぱたと、近づいてくる。
ノアは、見知らぬ子どもたちに、ぴくっ、と、肩を、強張らせた。
「ノア。大丈夫だよ」
レオンが、優しく、ノアの背に、手を添える。
「この子たちは、姉さんの子どもたち。テオと、ルカと、リナ」
「……」
ノアは、おそるおそる、子どもたちを、見た。
その時、いちばん小さなリナが、ノアの白い耳を見つけて、ぱあっと、顔を輝かせた。
「あ、こねこちゃんみたい!」
「……っ」
「みみ、ふわふわ? ねえ、ふわふわ?」
無邪気に、見上げてくる、リナ。
その、まんまるな瞳には、警戒も、悪意も、何も、なかった。
ノアは、しばらく、ぱちくりと、瞬きをして——それから、そっと、しゃがんで、リナと、目線を合わせた。
「……ノア。ノア、っていうの」
「のあちゃん!」
「うん」
「のあちゃん、ふわふわ?」
「……うん。ふわふわ、だよ」
ノアが、こてん、と、頭を傾けて、白い耳を、リナの方に、向けてあげる。
リナが、ちょこん、と、その耳に触れて、「ふわぁ」と、嬉しそうに笑った。
その様子を見て、テオとルカも、ぱっと、表情を、明るくした。
「ノアおねえちゃん、っていうの? よろしく!」
「いっしょに、あそぼ!」
「……うん。よろしく」
ノアの白い頬が、ふわりと、ほころんだ。
『……よかった』
レオンは、その光景に、こっそりと、胸を、撫で下ろした。
賑やかな子どもたちの声。あたたかな屋敷の灯り。
ノアは、もう、ひとりぼっちじゃない。
その光景を見ながら、レオンの胸に、じんわりと、温かいものが、広がっていった。
***
その夜。
レオンに用意されたのは、ノアの部屋の、すぐ隣の客間だった。
ノアが、夜中に、不安にならないように。すぐに、駆けつけられるように。
ルクレツィアの、細やかな、配慮だった。
ノアを、ベッドに寝かせて、レオンが、客間に下がろうとした、そのとき。
「……れおん」
ノアが、ぎゅっと、レオンの服の裾を、握った。
「うん?」
「……れおん、ねむるまで、いて」
淡い紫の瞳が、すこし、不安げに、揺れていた。
新しい家。新しい部屋。新しいベッド。
ノアにとっては、また、すべてが、初めてのことだった。
「うん。いいよ」
レオンは、優しく、微笑んで、ベッドの脇の椅子に、腰を下ろした。
そして、ノアの小さな手を、そっと、握った。
「ノア。僕の部屋はね、すぐ、隣なんだ」
「……となり」
「うん。だから、夜中に、目が覚めて、不安になったら——壁を、とんとんって、叩いて」
「とんとん?」
「うん。そしたら、僕も、とんとんって、返すから。すぐ、隣にいるよ、って」
「……れおん、すぐ、くる?」
「すぐ、行くよ。約束する」
ノアは、こくん、と、頷いた。
レオンが、手を握ったまま、静かに、待っていると——やがて、ノアの瞼が、とろん、と、落ちてきた。
「……れおん」
「うん」
「きょう……ノア、しあわせ」
「……うん」
「れおんと、いっしょの、おうち。ノア、ずっと、ここに、いたい」
その言葉を最後に、ノアの寝息が、すう、と、規則正しく、なった。
レオンは、しばらく、その寝顔を、見つめていた。
それから、起こさないように、そっと、手を離して——部屋を、出た。
自分の客間に戻り、ベッドに、横になる。
『……「しあわせ」、か』
ノアの、あの言葉が、胸の奥に、まだ、温かく、残っていた。
その時。
こんこん、と。
壁を、控えめに、叩く音がした。
『……あれ? まだ、起きてたのかな』
レオンは、ふっと、笑って、壁を、こんこん、と、叩き返した。
壁の向こうから、くすくす、という、小さな笑い声が、聞こえた。
それから、満足したように、ことん、と、静かになった。
『……可愛いな』
番という、不思議な縁で、出会った子。
その子が、すぐ隣の部屋で、安心して、眠っている。
それだけのことが、なぜだか、レオンの胸を、こんなにも、温かくした。
***
翌朝。
本来なら、昨夜のうちに、ユリウスに報告を済ませておきたかった。
ユリウスは、レオンの義兄。家で、ゆっくり話せれば、いちばん良かった。
けれど、昨夜、ユリウスは、帰ってこなかった。
闇オークションの後始末や、緊急の政務が重なり、城に泊まり込みになった——と、ルクレツィアが、ため息まじりに、教えてくれた。
『……闇オークションの、後始末』
『……それ、僕の、任務だったやつ』
『あ。あ。あ。やばい。ぜんぶ、僕のせいだ』
昨夜の任務——闇オークションの壊滅。
それを、レオンは、果たせなかった。任務を、放り出して、ノアを、連れ帰ってきた。
その後始末を、ユリウスが、徹夜で、片付けるはめになった。
『……ユリウス、絶対、怒ってる』
レオンは、思わず、遠い目に、なった。
けれど——逃げるわけには、いかなかった。
自分のしたことの責任は、自分で、取らなければならない。
まず、何よりも先に。一番に、ユリウスのもとへ、報告に行かなければ。
昨夜の任務——闇オークションの件。
任務は、失敗。そのうえ、一千万で、ノアを、落札してきた。
レオンは、身支度を整えると、ノアの部屋を、訪ねた。
ノアは、もう、目を覚ましていて、ベッドの上に、ちょこんと、座っていた。
「ノア。おはよう」
「……れおん、おはよう」
「あのね。これから、ちょっと、お城に、行ってくるんだ」
その言葉に、ノアの白い耳が、ぴくっ、と、揺れた。
淡い紫の瞳が、見る見るうちに、不安げに、揺れる。
「……れおん、いっちゃう?」
「ううん、違うよ。ずっと行くんじゃない」
レオンは、すぐに、ノアの目線に、しゃがんで、合わせた。
「ちょっとだけ。お仕事の、大事なお話を、してくるだけ。すぐ、帰ってくる」
「……すぐ?」
「うん。すぐだよ。お昼には、帰ってくる」
「……おひる」
「うん。だからね、お昼ごはんは、ノアと、一緒に、食べよう」
「……いっしょに、たべる?」
「うん。一緒に。約束する」
「……ほんと?」
「本当。指切り、したでしょ? 僕は、嘘つかないよ」
ノアは、しばらく、レオンの顔を、じっと、見つめていた。
それから、こくん、と、小さく、頷いた。
「……うん。ノア、おひるごはん、まってる」
「うん。いい子だね」
レオンは、ノアの白い髪を、そっと、撫でた。
それから、足元の二匹の神獣に、視線を、向けた。
「ゼル、シャル」
《うん!》
《……なに、ご主人》
「僕がいない間、ノアのこと、お願いできるかな」
《もちろん! まかせて、ご主人!》
ゼルが、ぶんぶんと、しっぽを振って、ノアの足元に、ぴたりと、寄り添った。
《ノアのこと、ぜったい、守るよ。ずーっと、そばにいる!》
《……ふん。まあ、僕も、いてあげる》
シャルは、つん、と、すまし顔をしながらも、ノアの膝の上に、ぴょん、と、飛び乗った。
《ご主人がいない間くらい、僕たちが、見てるよ。心配しないで、行ってきなよ》
「……ありがとう。二匹とも」
レオンは、ふっと、笑った。
それから、部屋を出て、ルクレツィアのもとへ、向かった。
「姉さん」
「あら、レオン。もう、行くの?」
「うん。ユリウスに、報告に行ってくる。それで……ノアのこと、なんだけど」
「わかってるわよ」
ルクレツィアは、レオンが言い終わる前に、ふっと、微笑んだ。
「ノアちゃんのことは、私たちに任せて。お風呂も、お着替えも、ごはんも、ぜんぶ、ちゃんと見るわ」
「……ありがとう、姉さん」
「あなたは、自分のやるべきことを、しっかり、なさい。——ノアちゃんのためにも、ね」
「うん」
姉の、頼もしい言葉に、レオンは、深く、頷いた。
玄関まで、ノアが、見送りに来た。
その隣には、ゼルと、シャルも、寄り添っている。
「ノア。行ってくるね」
「……れおん」
ノアは、ぎゅっと、レオンの服の裾を、握って——それから、ぱっと、自分から、手を離した。
「……はやく、かえってきてね」
「うん。すぐ、帰るよ。お昼ごはん、一緒にね」
レオンは、最後に一度、ノアの頭を、撫でた。
それから、足元のゼルとシャルに、もう一度、目配せをする。
『ノアのこと、よろしく』
《まかせて!》
《……わかってるよ》
二匹の、頼もしい返事を、背に受けて——レオンは、城へ向かう、馬車に、乗り込んだ。
馬車が、走り出す。
ひとりきりの車内で、レオンは、ふう、と、息を吐いた。
『……ユリウス、めちゃくちゃ、怒ってるだろうなぁ』
任務は失敗。そのうえ、一千万で、ノアを、落札してきた。
その後始末で、ユリウスは、徹夜まで、している。
『呆れて、怒る気力も、なくしてるかも……いや、それは、ないか』
『絶対、めちゃくちゃ、叱られる』
想像するだけで、気が、重い。
けれど、不思議と、後悔は、なかった。
ノアと出会えた。番と、巡り会えた。
そして、ノアを守るために、これから、やるべきことも、見えていた。
『闇オークションの、黒幕を、突き止める』
『ノアの身元を、はっきり、させる』
『そして——ノアを、正式に、守れる、立場を、作る』
窓の外を、流れていく街並みを見ながら、レオンは、ノアの、最後の言葉を、思い出していた。
『「はやく、かえってきてね」——か』
その声を、思い出すだけで、胸が、温かくなる。
『うん。すぐ、帰るよ、ノア』
レオンは、心の中で、もう一度、誓った。
***
その夜——。
王都の裏通りの、薄暗い、酒場の片隅で。
仮面で顔を半分隠した、男たちが、低い声で、囁き合っていた。
「聞いたか? 昨夜の、闇オークションの話」
「ああ。とんでもない奴が、紛れ込んでたらしいな」
「騎士団長、だってよ。レオン・シュタルク」
下卑た、笑い声が、漏れた。
「『正義の騎士』が、闇オークションで、幼女を、買ったってか」
「一千万も出してな。よほど、お気に召したんだろうよ」
「あの、真面目そうな顔して、趣味が、悪いこった」
男のひとりが、懐から、ずしりと重い、金貨の袋を取り出した。
「この情報、高く、売れるぜ」
「誰に、売るんだ?」
「決まってるだろう」
男は、にやり、と、笑った。
「騎士団長を、引きずり下ろしたい連中は、山ほどいる」
「……なるほど」
「明日には、王都中に、広めるさ。『騎士団長が、闇オークションで、幼女を、買った』ってな」
杯を、ぐいと、あおる。
「そうしたら、騎士団も、おしまいだ」
囁きは、夜の闇に、紛れて、ゆっくりと、けれど確実に、広がっていった。
誰が、最初に流したのかは、わからない。
わからないけれど——。
その囁きは、翌朝には、城下町の、あらゆる広場、井戸端、酒場へと、流れていくことになる。
そして、それは、やがて。
ヴァルトヘルツ騎士団長レオン・グラディウス・シュタルクの、人生を、大きく、揺るがすことになるのだった。
——第2話 了




