第1話 闇に咲く白い花
久しぶりの投稿です
よろしくお願いいたします
窓から差し込む朝の光が、白いシーツの上にやわらかく落ちていた。
レオン・グラディウス・シュタルクはゆっくりと目を開ける。チェスナットブラウンの前髪が額にかかって少しくすぐったい。寝返りをうとうとした瞬間、胸の上にずっしりとした重みを感じて、思わず笑ってしまった。
「……ゼル、また勝手に乗ってる」
『うわ、重いな。またひとまわり大きくなったんじゃないか』
心の中で苦笑いしながら、レオンは胸の上で丸まっている大きな犬の頭をそっと撫でた。
犬の神獣・ゼルは、もう成獣の馬ほどある巨体で、人間の家屋には少々収まりが悪い。それでも本人はすっかりレオンの飼い犬のつもりらしく、毎朝こうしてベッドに乗ってくる。
《ご主人、おはよう》
頭の中に直接、低くて優しい声が響く。
《今日は嫌な予感がするんだ。すごく》
「嫌な予感?」
レオンが声に出して聞き返すと、寝室の窓辺に座っていた黒猫の神獣・シャルが、長いしっぽをゆっくりと揺らした。
《ゼルはいつも嫌な予感がするって言ってるよ》
《今日は本当だってば!》
《はいはい》
ふたりの神獣のやりとりに、レオンは小さく吹き出す。ゼルとシャルはいつもこうだ。心配性のゼルと、冷静で口の悪いシャル。タイプは正反対だが、不思議と仲がいい。
「まあでも、ゼルの予感は当たることもあるからね。気をつけておくよ」
レオンはそう言って、ようやくゼルの巨体を脇にどかし、ベッドから降りた。
寝室の窓を開けると、王都ヴァルトヘルツの空気が部屋に流れ込んでくる。石造りの街並みの向こうに、白亜の王宮の尖塔が見える。
「いい天気だね」
『嫌な予感、か』
レオンは胸の中でつぶやいた。
『気のせいだといいんだけど』
***
午前の鍛錬を終え、城内の執務室に戻ろうとしていたとき、レオンは廊下で呼び止められた。
「レオン。少しいいか」
声をかけてきたのは、宰相ユリウス・クライン・ベーレン。アッシュグレーの髪に、感情の読めないシルバーグレーの瞳。レオンの姉ルクレツィアの夫であり、つまりは義兄にあたる。
「ユリウス。どうかしたの?」
「人払いの利く場所で話したい。執務室まで来てくれ」
その低い声と、わずかに眉を寄せた表情で、レオンは即座に察した。
『公務じゃないな。これは』
「わかった」
短く頷いて、レオンはユリウスのあとに続いた。
宰相執務室の重い扉が閉まり、ユリウスは念入りに鍵をかけた。窓の厚いカーテンも引き、室内に薄暗い静寂が満ちる。
「単刀直入に言う」
ユリウスは机の引き出しから一通の封書を取り出して、レオンの前に置いた。
「今夜、闇オークションが開催される」
「闇オークション……」
その言葉に、レオンの表情からふっと笑みが消えた。
「場所は城下の旧地下倉庫区。獣人、薬物、密造武器、その他もろもろ。ここ数年で組織は急速に大きくなっている」
「数年で、ね」
「ああ。妙だろう。普通、犯罪組織がこれほど急に巧妙化するのは不自然だ」
ユリウスは細い指で、机の上の地図を叩いた。
「俺も気持ち悪いんだよ、この組織の動き方が。やたらと先回りが上手いし、構成員はみんなどこか焦点が合っていない」
「焦点が……?」
「証言を取った数人がそうだった。捕まえても『誰の指示だったか思い出せない』『気がついたら命令に従っていた』。まあ薬物の影響と片付けることもできるが」
ユリウスは肩をすくめた。
「で、今夜の話だが」
「うん」
「お前、潜入してくれ」
「わかった」
即答したレオンに、ユリウスは一瞬、間をおいて、それから深いため息をついた。
「お前、自分の立場わかってるのか? 騎士団長だぞ」
「うん。でも、潜入できる人材は限られてるでしょう?」
「……まあな」
「単独?」
「ああ。お前の動きを縛らないためにも、連絡要員すら入れない。何かあったら自力で抜けてくれ」
「了解」
ユリウスは封書をレオンに渡しながら、淡々と続けた。
「会場の見取り図、合言葉、入場用の偽装書類。全部入っている。素性は『南方の小国から流れてきた成金商人』。多少訛っていてもバレない設定にしてある」
「至れり尽くせりだね」
「お前が雑だから補わざるを得ないだけだ」
辛口の声に、レオンは笑った。ユリウスは本当に容赦がない。けれどそのぶん、信頼できる。
「目的は?」
「本来なら一網打尽にしたい。だが現実的には、まず内部の構造と顧客リストを掴むことが優先だ。無理はするな。今夜は『見て、聞いて、戻ってくる』。それだけでいい」
「うん」
「……それと、レオン」
ユリウスは珍しく、わずかに声を落とした。
「『本日の目玉商品』が出るらしい。希少な獣人の子供だそうだ」
その瞬間、レオンの胸の奥が、奇妙に軋んだ。
『……希少な、獣人の子供』
「無理に手を出すな。お前ひとりじゃ会場ごと潰すのは無理だ。情報を持って帰ってくれれば、後日改めて作戦を組む」
「うん。わかってる」
わかってる、と答えながら、レオンの胸の中ではゼルの言葉が鳴っていた。
《今日は嫌な予感がするんだ。すごく》
『……ゼル。当たりかもしれないね、それ』
「任務後は早急に報告書を」
「うん」
「無理するなよ、絶対に。ルクレツィアが悲しむ」
ユリウスは最後にぼそりとそう言って、レオンを送り出した。
***
夜。
分厚い雲に月が隠れた、不気味なほど暗い夜だった。
城下街の北外れ、かつて穀物倉庫として使われていた地下区画。今ではすっかり廃墟と化したその場所に、人目を避けるようにして黒い馬車が次々と停まっていく。
レオンもまた、用意された地味な外套に身を包み、偽の身分証を懐に忍ばせて、その流れに紛れた。
顔を半分覆う黒い仮面をつけ、足音を消して進む。
『臭うな』
古い石壁の奥から漂ってくるのは、湿った土の匂いと、それに混じる甘ったるい香。神経を麻痺させる類の薬草だろう。客の警戒心を緩め、欲望に火をつけるためだ。
「合言葉を」
扉の前に立つ屈強な男に声をかけられ、レオンは事前に教えられた言葉を低く返した。
男は無言で頷き、扉を開けた。
その瞬間、レオンの目に飛び込んできた光景に、彼の中で何かが冷たくなった。
石造りの広間。中央には円形の舞台。その周囲に階段状の客席。豪奢な椅子に深く腰かけた男たちが、葉巻をふかしながら笑っている。
舞台の上には、すでに「商品」が並べられていた。
まず、太った男が一頭の若い狼の獣人を引き出してくる。鎖で繋がれ、口には噛みつき防止の革製の覆い。獣人は震えていたが、抵抗する力はもう残っていないようだった。
「さあ、本日最初の品。北方の山岳地帯で捕獲された純血の狼の獣人ですぞ。狩猟用、護衛用、お好みのままに」
値がつき、すぐに買われていく。
次は、まだ十代と思しき兎の獣人の少女。次は、老いて目の濁った熊の獣人。
値がつくたびに、客席から下卑た笑いと拍手が起こる。
『……気持ちが悪い』
レオンは込み上げる吐き気を奥歯で噛み殺した。
『これが、人間の作る世界か』
獣人だって、心がある。痛みも、悲しみも、ある。
それなのに、ここにいる男たちは、彼らをまるで「物」のように値踏みしている。それも、「人間より下等な物」として。
拳を握りしめそうになるのを、レオンは必死で抑えた。
『今日は耐えるんだ。情報を持ち帰ること。それだけ』
『今夜全員を救うことはできない。それは僕にも、誰にもできないことだ』
『でも、必ず、いつか』
唇を噛んで、客席の隅から舞台を見つめ続ける。
次々と「商品」が運ばれ、売られていく。
時間が経つほど、客席の熱気は高まっていった。葉巻の煙、香、汗、欲望。空気そのものが粘りついて重い。
そして、ついに——。
「お待たせいたしました、お客様方」
舞台の上に立った司会の男が、もったいぶった調子で声を張り上げた。
「本日の目玉商品でございます」
会場がしんと静まり返る。
「ご覧いただきましょう」
舞台の脇から、ひとつの檻が押し出されてきた。
檻の中には——。
レオンの息が、止まった。
***
白だった。
すべてが、白かった。
白い髪。白い肌。短く切られた粗末な布をまとっただけの、小さな身体。
檻の中で、その子は小さく丸まっていた。
膝を抱えて、顔を伏せて、ふるえている。
犬とも猫ともつかない、けれどどう見ても獣人の証である白い耳が、頭の上でぺたりと寝ていた。
「ご覧くださいませ。極めて希少な、白猫の獣人の子供でございます」
司会者の声が、どこか遠くで聞こえる。
「年の頃は十歳ほど。まだ手垢のついていない、清純そのもの。愛玩用としてもよし、研究用としてもよし、収集家の方には垂涎の品でございましょう」
ぐらり、とレオンの視界が揺れた。
『……研究用、だって?』
『この子は、人間だ。子供だ』
胸の奥から、燃えるような何かが込み上げてくる。怒りだ。これまで一度も自分が抱いたことのないほどの、純粋な怒り。
そのとき。
檻の中の少女が、ゆっくりと顔を上げた。
髪の隙間から覗いた瞳は、淡い淡い、紫だった。
澄んだ、雪解けの花のような色。
その瞳が、なぜか、まっすぐに——。
客席の隅にいたレオンを、捉えた。
『……え』
レオンの息が、ふたたび止まった。
ふたりの目が、合った。
会場のざわめきも、葉巻の煙も、すべてが遠のいていく。
ただ、その瞳だけが、こちらを見ていた。
驚きでも、怯えでもなく。
まるで——。
まるで、ずっと前から、そこにいる相手を見つけたかのように。
次の瞬間、少女の唇が、ほんのわずかに動いた。
声は届かないはずだった。
舞台と客席の間には距離があり、会場のざわめきもある。
それなのに、なぜか、レオンの耳には届いた。
ふるえる、小さな、たったひとつの言葉が。
「……つがい」
『——え』
『え。なに。今、なんて』
『つがい?』
頭が真っ白になった。
獣人の「番」という言葉は、レオンも知っている。獣人にとっての運命の相手。一生に一人、本能で感じ取るという。
でも、それが、なぜ、僕?
それを考えるよりも先に、レオンの身体は動いていた。
「五百万」
司会者が、競りの開始を告げた瞬間。
レオンは、ほとんど反射的に、札を上げた。
「七百万」
声が出ていた。
会場の視線が、いっせいにレオンへ集まる。
『……何を言ってるんだ、僕は』
『任務中なのに.....』
「八百万」
別の客が札を上げる。
「九百万」
また別の客。
声が冷たく、欲望に満ちている。あの子を、あの白い子を、自分のものにしたい。そう言っている。
その瞬間、レオンの背筋を、ぞっとするほどの何かが走り抜けた。
『……いやだ』
『この子を、あんな男たちに渡す?』
『絶対に、いやだ』
「一千万」
レオンの口から、明確な、揺るぎない声が出た。
会場が、しんと静まった。
「……一千万。一千万、出ました。ほかにございますか?」
司会者の声が震えていた。一千万は、相場をはるかに超える金額だ。
誰も札を上げない。
「一千万、ございませんか。……はい、落札! ご紹介、客席十九番のお客様!」
司会者の声が、どこか遠くで響いていた。
舞台の上では、檻の中の少女が、小さく、本当に小さく、息を吐いた。
その淡い紫の瞳が、もう一度、レオンを見ていた。
『……ああ』
レオンは、自分でもよくわからない感情に飲み込まれそうになっていた。
任務は、失敗した。
会場ごと壊滅させるどころか、目玉商品を一千万で買って帰る、騎士団長。
ユリウスにどう報告すればいいのか、想像もつかない。
それなのに、なぜか、後悔は、少しもなかった。
***
オークションが終わり、レオンは別室に通された。
古い石造りの部屋。壁には燭台が一本だけ。
その揺れる灯りの中に、あの子が、立っていた。
粗末な布だけを巻きつけた、白い小さな姿。両手はうしろで縛られたまま。首には鈍く光る金属の輪。
司会者の手下らしい男が、横柄な口調で言った。
「お買い上げありがとうございます。お代金は、すでに口座への振り込みを確認しております。あとはこの『商品』を、お好きにお持ち帰りくださいませ」
「縄を解いてくれ」
レオンの声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「は?」
「縄を、解いてくれと言ったんだ」
「いやいや、お客様。逃げられたら困りますんで……」
「君は」
レオンは静かに、けれど有無を言わせない声で言った。
「『商品』を粗末に扱う売り手から、客が逃げると思っているのか? 縄を解いてくれ」
男は一瞬たじろいだ。レオンが纏う空気が、明らかに普通の客のそれではないことに気づいたのだ。
「……はい。失礼いたしました」
男は手早く少女の縄を解き、首の輪も外した。
「では、ごゆっくり」とだけ言い残して、扉の向こうに消えていった。
部屋に、ふたりだけが残された。
「……」
少女は、突っ立ったまま、レオンを見上げていた。
手首に縄の痕が赤く残っている。布の端から覗く脚は、信じられないほど細い。きちんと食事を与えられていなかったのだろう。
レオンは、その場にゆっくりと膝をついた。
少女の目線に、自分の目線を合わせるために。
「怖かったね」
声が、震えていた。
「もう、大丈夫だよ」
少女は、何も言わなかった。
ただ、その淡い紫の瞳が、まじまじとレオンを見つめていた。
『……目が、綺麗だな』
ふと、そんな場違いなことを思った。
まるで、月明かりに溶けた花の色だ。こんな瞳の色は、見たことがなかった。
「君、名前は?」
レオンが優しく問いかけると、少女は少し困ったような顔をして、それからぽつりと言った。
「……ノア」
「ノア。いい名前だね」
もう一度、笑いかける。けれど少女は——ノアは——笑わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、レオンの方へ身体を傾けた。
まるで、寒いところから、暖かい場所に、そっと寄り添うように。
「……つがい」
ノアの小さな唇が、また動いた。
「ノアの、番」
『——』
レオンは、息を飲んだ。
『やっぱり、聞き間違いじゃ、なかった』
「あの……ノア」
恐る恐る、聞いてみる。
「番、っていうのは、その、ええと」
うまく言葉が出てこない。
すると、ノアはこくんと頷いて、たどたどしく言った。
「つがい。ずっと、いっしょの、ひと」
「……」
「はなれられない、ひと」
その言葉に、なぜかレオンの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
『離れられない人、か』
信じられないとか、戸惑っているとか、そういう感情はもちろんあった。
けれど、それ以上に。
目の前の小さな子を、放り出して帰るなんて、考えられなかった。
誰がなんと言おうと、この子はもう、誰にも渡せない。
胸の奥に、その確信だけが、静かに、燃えていた。
「ノア」
「……うん」
「君を連れて帰るよ。僕の家に」
「おうち?」
「うん。今日から、君のおうちでもあるよ」
ノアは、しばらく黙ってレオンを見ていた。
それから、本当にちいさな、消え入りそうな声で、こう言った。
「……うん」
「うれしい、の。ノア、うれしい……」
その瞬間、レオンの中で、何か大きなものが決まった気がした。
『絶対に、この子を守る』
『この子の「うれしい」を、もう二度と、奪わせない』
レオンは外套を脱いで、ノアの肩にそっとかけた。
そして、抱き上げる。
ノアは、嫌がらなかった。むしろ、自然にレオンの首にぎゅっとしがみついた。
驚くほど軽かった。十歳の子供にしては、軽すぎた。
『……まずは、ちゃんとごはんを、食べさせよう』
レオンは、夜の闇に紛れて、その子と共にオークション会場をあとにした。
***
屋敷に着くまでの道のりを、ノアはずっと、レオンの腕の中で大人しくしていた。
馬車の窓から見える夜の街並みを、瞬きもせずに眺めている。
「街、見るの初めて?」
レオンが優しく聞くと、ノアはこくんと頷いた。
「きれい……」
灯りの灯る家々。石畳の通り。遠くに見える教会の鐘楼。
ノアにとっては、それらすべてが、初めて見る景色だったのかもしれない。
『この子、どこから来たんだろう』
ふと、そんな疑問がよぎる。
獣人は、たいてい辺境の集落で暮らしている。それでも、街を見たことがない、というのはあまりにも不自然だ。
『……まあ、いいや。今は、急がなくていい』
レオンは、ノアの白い髪を、そっと撫でた。
それから、ふと、大事なことを、まだ伝えていないことに、気づいた。
「ノア。あのね」
「……?」
「僕、まだ、名前、言ってなかったね」
「なまえ?」
ノアが、こてん、と、首を傾げて、レオンを見上げた。
「僕は、レオン。レオン・グラディウス・シュタルク」
「……れ」
ノアは、その名前を、口の中で、転がすように、ゆっくりと、繰り返した。
「れ……お」
「うん」
「れ、おん……れおん」
何度も、つっかえながら。
舌が、慣れない音を、一生懸命、たどっていく。
「れおん」
「うん。上手だね」
「……れおん」
ようやく、ちゃんと、言えた。
ノアは、その響きを、大事そうに、もう一度、口にした。
「れおん……ノアの、つがい」
「……うん」
なぜか、否定する気には、ならなかった。
『うん。そう。そういうことに、なるのかもしれない』
『よくわからないけど、でも、それでもいい』
ノアは、レオンの名前を、覚えたことが、よほど、嬉しかったのだろう。
その後も、窓の外の景色を眺めながら、ときおり、「れおん」「れおん」と、小さな声で、繰り返していた。
まるで、大切な宝物を、何度も、確かめるように。
月明かりの下、馬車は静かに走り続けた。
ノアの白い髪が、月の光をやわらかく弾いていた。
***
屋敷の門をくぐったとき。
玄関の前で待ち構えていた二つの影が、いっせいに、駆け寄ってきた。
《ご主人! 遅い! 心配したんだぞ——》
大きな犬の神獣・ゼルが、長いしっぽを激しく振りながら、レオンに向かって、駆けてくる。
けれど。
あと数歩、というところで。
ゼルの足が、ぴたり、と、止まった。
しっぽの動きも、止まる。
まるで、見えない壁にぶつかったかのように。
《……ご主人》
ゼルの声が、急に、低くなった。
《……それ》
ゼルの大きな鼻先が、レオンの腕の中で、身を縮めている、白い小さな存在へと、向けられる。
《その子、なに?》
「ええと……」
《ご主人。その子から……すごい、なにか、感じる》
心配性のゼルが、こんなにも、警戒した声を出すのは、珍しかった。
その鼻は、ひくひくと、空気の匂いを、確かめている。
そのとき、屋敷の窓辺から、ふわりと、黒い影が、降りてきた。
黒猫の神獣・シャル。長いしっぽをゆらりと揺らしながら、ゆっくりと、レオンの足元に、近づいてくる。
シャルもまた、レオンに飛びつくことは、しなかった。
ただ、静かに、ノアを、見上げた。
《……ご主人》
シャルの声は、いつもの冷静さを失っていなかった。けれど、その瞳は、ひどく真剣だった。
《あの子、普通じゃないよ》
「え?」
《すごく強い力を感じる。獣人の力じゃない、もっと違う、深いもの》
「……シャル」
《どこで育ったのか、聞いた?》
「……まだ。何も」
レオンは、自分の腕の中の小さな存在を、改めて見下ろした。
ノアは、きょとんとした顔で、ゼルとシャルを見ていた。
怖がる様子は、まったくない。むしろ、不思議な懐かしさを感じている、そんな顔だった。
「ゼル……?」
ノアが、恐る恐る、犬の名を呼んだ。
まだ会ったばかりなのに、なぜか名前を知っている、とでも言うように。
《……うん。僕は、ゼル》
ゼルは、警戒する様子から一転、ぱたぱたとしっぽを振り始めた。
《君は、ノア、っていうんだね》
「! わかるの……?」
《わかるよ。獣人さんなら、僕の声、届くから》
獣人と神獣は、根源的なところで通じ合っているらしい。ノアの瞳が、わずかにきらめいた。
シャルも、ゆっくりとノアに近づき、その細い足に頬を擦り寄せた。
《ようこそ、ノア》
「……うん」
ノアは、しゃがんでシャルをそっと撫でた。手つきが、ぎこちないけれど、優しかった。
『動物の扱いを、知ってる』
レオンは、それを見ながら、また新しい疑問を抱いた。
『この子、本当にどこから来たんだろう』
けれど、今は、それを問い詰める時じゃなかった。
ノアは、見るからに疲れていた。お風呂に入れて、ご飯を食べさせて、温かい寝床に寝かせてあげること。それが、今いちばん大事なことだ。
***
使用人の女性に、ノアの世話を頼もうとした、そのとき。
ノアは、女性の手に渡されそうになった瞬間、レオンの服の裾を、必死の力で、ぎゅっと、掴んで、離さなかった。
「あ、あ、あ……」
「ノア?」
「……はなれない。ノア、れおんから、はなれない」
淡い紫の瞳が、潤んでいる。
怯えと、必死さと、それから、何かにすがるような切実さで。
「……うん。わかった。わかったよ」
レオンは、慌てて、使用人を、いったん、下がらせた。
そして、しゃがんで、ノアの目線に、合わせた。
「ノア。あのね、お風呂って、わかる?」
「……おふろ?」
ノアは、こてん、と、首を、傾げた。
その反応で、レオンは、察した。
『……やっぱり、知らないのか』
「えっとね、あったかい、お湯に、入って、身体を、きれいにすることだよ」
「……あったかい、おゆ?」
「うん。気持ちいいよ」
「ノア、かわ、はいってた。つめたい、かわ」
「……川」
『そうか。この子は、川で、身体を洗ってたのか』
レオンの胸が、また、ちくりと、痛んだ。
「お風呂はね、川と違って、あったかいんだ。冷たくない。湯気が出てて、ぽかぽかする」
「……ぽかぽか」
「うん。すごく、気持ちいいよ。ノア、きっと、好きになる」
ノアは、しばらく、考えるような顔をしていた。
それから、また、レオンの服を、ぎゅっと、握り直した。
「……れおんも、はいる?」
「あ——えっと」
レオンは、一瞬、言葉に、詰まった。
「ノアはね、女の子だから……お風呂は、女の人と、入るんだ」
「……れおんは?」
「僕は、男の子、だから。一緒には、入れないんだ。でも、ね」
レオンは、安心させるように、優しく、微笑んだ。
「すぐ、近くにいる」
「……ちかく?」
「うん。お風呂のすぐ隣の、お部屋で、待ってる。声が、聞こえる距離だよ」
「……やだ」
ノアは、ふるふる、と、首を、横に振った。
「おへや、やだ。れおん、みえなく、なる」
「……ノア」
「みえないと、こわい」
ノアの淡い紫の瞳が、また、不安げに、揺れた。
『……そうか。隣の部屋でも、姿が見えなくなるのが、怖いんだ』
レオンは、少し、考えた。
それから、ふと、いいことを、思いついた。
「じゃあ、こうしよう」
「……?」
「お風呂場の中に、衝立を、置くよ。大きな、布の、仕切り」
「……ついたて?」
「うん。その衝立の、向こう側に、ノアと、女の人が、いる。お風呂に、入る」
「……」
「で、衝立の、こっち側に、僕が、いる。背中を向けて、座ってる」
レオンは、自分の手で、空中に、仕切りの形を、描いて見せた。
「同じ部屋に、いるんだ。ノアの声も、すぐ聞こえる。ノアが、呼んだら、すぐ、返事する」
「……れおん、おなじ、へや?」
「うん。同じ部屋。すぐ、そこにいる」
「……みえる?」
「衝立があるから、姿は、見えないけど……でも、すぐ、そこにいる。手を伸ばせば、届くくらい、近くに」
ノアは、しばらく、考えていた。
それから、ぽつりと、言った。
「……れおん、ちゃんと、いる?」
「いるよ。絶対、いる」
「……どこにも、いかない?」
「行かない。約束する」
レオンは、ノアの小さな手を、両手で、そっと、包んだ。
「ノアが、お風呂から出るまで、僕、ずっと、同じ部屋に、いる。ね」
ノアは、レオンの目を、じっと、見つめた。
その瞳の中に、嘘がないか、確かめるように。
それから、ようやく、こくん、と、小さく、頷いた。
「……うん。れおん、いてね」
「うん。いるよ。絶対」
***
お風呂場には、大きな衝立が、運び込まれた。
衝立の向こう側で、使用人の女性が、ノアの世話をして、湯浴みを、させてくれている。
衝立の、こちら側。
レオンは、椅子に座って、背中を、衝立に向けて、待っていた。
「ノア、大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
「お湯、熱くない?」
「……あったかい。きもちいい」
衝立越しに、ノアの、安心した声が、返ってくる。
最初は、戸惑っていたノアも、だんだん、お湯の温かさに、慣れてきたようだった。
『……よかった』
レオンが、ほっと、息をついた、その時だった。
ふと——。
視線を、感じた。
レオンが、ちらりと、横を見ると。
衝立の、端から。
ひょこっ、と。
白い髪の、小さな頭が、覗いていた。
淡い紫の瞳が、じーっ、と、レオンを、見ている。
「……ノア?」
「……れおん、いた」
ノアは、それだけ言うと、安心したように、ひょこっ、と、衝立の向こうに、引っ込んだ。
『……た、確認しに、来たのか』
レオンは、思わず、笑ってしまった。
それから、しばらくして。
また、衝立の端から、ひょこっ、と、白い頭が、覗く。
「……れおん、まだ、いる」
「うん。いるよ」
「……」
ひょこっ。引っ込む。
また、しばらくして。
ひょこっ。
「……れおん」
「うん、いるよ。ずっと、いるからね」
ノアは、何度も、何度も、衝立から、顔を覗かせては、レオンが、そこにいることを、確かめた。
そのたびに、レオンは、優しく、頷いて見せた。
『……可愛いな』
レオンは、その小さな確認作業を、微笑ましく、見守っていた。
ノアは、ずっと、誰にも、見守られてこなかったのだろう。
だから、こうして、確かめずには、いられないのだ。
すぐそばに、自分を、待っていてくれる人が、本当に、いるのかどうかを。
『……何度でも、確かめていいよ』
『僕は、ここにいる』
『ずっと、ここにいるから』
***
やがて、湯浴みを終えたノアが、清潔な寝間着に着替えて、衝立の向こうから、ちょこんと、出てきた。
白い髪は、まだ少し、湿っていて、頬は、ほんのり、桜色に、上気していた。
「れおん」
「うん。お風呂、どうだった?」
「……あったかかった。きもち、よかった」
ノアは、ふわりと、笑った。
その笑顔を見て、レオンも、ほっと、微笑んだ。
『……あの子は、いったい何者なんだろう』
考えても、わからない。
神獣たちが、あれほど警戒する「強い力」。
川で身体を洗っていた、という暮らし。
「番」という、運命の言葉。
謎は、多い。
けれど、ひとつだけ、レオンには、確信していることが、あった。
『この子は、ここしばらく、ひどい目に、遭ってきたんだろう』
ろくに食事も与えられず、縄で縛られ、物のように、売り買いされて。
誰にも、人として、優しくされてこなかった。
そんな日々を、この小さな身体で、どれだけ、耐えてきたのだろう。
その子が、今、必死に、レオンに、すがろうとしている。
その必死さを、レオンは、痛いほど、感じていた。
『……守るよ』
『君を、必ず、守るから』
***
その夜。
お湯で温まり、用意された粥を少しだけ食べたノアは、客間のベッドに横たわっていた。
白い髪はまだ少し湿っていて、淡い紫の瞳が、半分とろりと閉じかけている。
レオンはベッドの脇に椅子を寄せ、ノアの手をそっと握った。
ノアはその手を、とても弱い力で、けれど確かに、握り返してきた。
「ノア」
「……うん」
「もう大丈夫だからね」
「……うん」
「君のこと、誰にも渡さない」
「……」
「君を守るから」
その言葉に、ノアの瞳が、潤んだ。
声を上げることもなく、ただ、ひとすじの涙が、淡い紫の瞳から、こぼれて、白い枕に落ちた。
「……れおん」
ノアが、馬車の中で覚えたばかりの名前を、そっと、呼んだ。
「うん」
「れおん……ノアの、つがい」
「……うん」
なぜか、否定する気には、ならなかった。
『うん。そう。そういうことに、なるのかもしれない』
『よくわからないけど、でも、それでもいい』
ノアの目が、ゆっくりと閉じていく。
それでも、握った手は離さない。
レオンは、少しだけ笑って、ノアの白い前髪を、そっと撫でた。
「おやすみ、ノア」
「……おやすみ、れおん……」
やがて、ノアの呼吸が、規則正しい寝息に変わった。
猫のように、身体を丸めて、ノアは深い眠りに落ちていた。
寝室の入り口に、ゼルが大きな身体を伏せて、見守っていた。シャルは枕元のサイドテーブルの上で、長いしっぽを揺らしていた。
《ご主人》
シャルの声が、心の中に響いた。
《これは……大変なことになるよ》
「……うん、でも大丈夫」
レオンは、小さく頷いた。
《そうだね、ご主人ならきっと、大丈夫》
《僕たちも、いるから》
《うん、僕も! ぜったい守るよ、ノアのこと!》
ゼルが、しっぽをぱたんと一度、床に打ちつけた。
「……ありがとう。ふたりとも」
月の光が、窓からそっと差し込んでいた。
白い髪を、白い頬を、優しく照らしていた。
『闇の中に、君がいた』
『誰にも見つけられないように、ずっと、そこにいたんだね』
眠るノアの寝顔を見つめながら、レオンは、もう一度、心の中でつぶやいた。
『もう大丈夫だからね』
『誰にも渡さない』
『君を、守るから』
窓の外で、月が、雲に隠れた。
長い、長い、夜の始まりだった。
——第1話 了




