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闇オークションで落札した白猫獣人が、運命の番でした 〜騎士団長は最愛の彼女を溺愛する〜  作者: 月代 緋色


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20/21

第19話 ありがとう

よろしくお願いいたします。

 夜明けの光のなか、レオンはノアの手を引いて歩いていた。


 崩れかけた廃城は、もう背後にある。あれほど重く、冷たく、息をするだけで胸を締めつけてきた闇は、嘘のように消えていた。空は薄い金色に染まり、遠くの森の梢が、朝露をまとってきらきらと光っている。


 長い夜が、終わったのだ。


 けれど、レオンの胸の奥には、まだ重たいものが残っていた。妖精は消えた。ノアは戻ってきた。けれど、その結末は、決して晴れやかなものではなかった。


 隣を歩くノアは静かだった。白銀の髪は朝日に溶けるように輝き、歩くたび腰まで流れる髪がさらりと揺れる。白い肌には、月光を閉じ込めたような銀の斑紋が、うっすらと浮かんでいた。


 美しい。


 息をのむほどに。


 だが、その横顔には、まだ深い悲しみが残っていた。


「疲れていない?」


 レオンが声をかけると、ノアはゆっくり顔を上げた。淡い紫の瞳が、朝の光を映して揺れる。


「体は、大丈夫」


「体は?」


 問い返すと、ノアは少しだけ困ったように笑った。


「心は、まだ……ちょっと、痛い」


「……そうだね」


 レオンはそれ以上、軽々しく言葉を重ねなかった。


 ノアは最後まで、妖精に手を伸ばした。恨んでいないと告げた。一緒に帰ろうと願った。けれど、その手は届かなかった。


 妖精は最後まで拒み、最後までノアを睨んだまま、光のなかへ消えていった。


 救えなかった。


 その事実は、ノアのやさしい心に、きっと深く突き刺さっている。レオンはつないだ手に、そっと力を込めた。ノアが、ほんの少しだけ握り返してくる。


 そのぬくもりに、レオンは胸をなでおろした。


 生きている。


 ここにいる。


 それだけで、今は十分だった。


***


  ルクレツィアとユリウスの暮らすベーレン家の屋敷が見えたころ、門の前にはすでに人影が集まっていた。


 ルクレツィア、ユリウス、ロザリオ、カティア。そして、テオ、ルカ、リナ。全員が、夜通し眠れなかったような顔をしていた。


 ルクレツィアは遠くから近づいてくるレオンの姿を見つけた瞬間、一歩前へ出た。


「レオン……!」


 その声は震えていた。そして、レオンの隣に立つノアを見た瞬間、言葉を失う。


 白銀の髪。淡い紫の瞳。月光を閉じ込めたような銀の斑紋。そこにいるのは、誰も見たことがないほど美しい女性だった。


 けれど、その瞳だけは変わらない。


 みんなが知っている、ノアの瞳だった。


 数秒の沈黙が流れる。最初に動いたのは、テオだった。


 テオはゆっくり前へ出た。驚いている。混乱もしている。それでも長男として、まず言わなければならない言葉があった。


「お帰りなさい、ノア姉さま」


 少しだけ震える声だった。


 ノアの瞳が揺れる。


「ただいま、テオ」


 その瞬間、テオの目に涙が浮かんだ。けれど、彼は必死にこらえた。母を支えて、弟妹を支えて、長男として泣かないようにしていたのだろう。


「ご無事で……よかったです」


 最後だけ、少し声が裏返った。


 ノアは胸がいっぱいになった。テオの小さな肩が、どれだけの不安を背負っていたのか、今ならわかる。


「テオ……」


 ノアが手を伸ばそうとした、その時だった。


「でも大人だ」


 ぽつりと呟いたのはルカだった。


 全員の視線が集まる。ルカは真剣な顔でノアを見ていた。


「ノア姉さまだ」


 うんうん、と頷く。


「でも大人だ」


 また頷く。


「ノア姉さまだ」


「ルカ?」


「でも大人だ」


 ルカはとうとう頭を抱えた。


「わからない」


 張りつめていた空気の中、ロザリオが思わず吹き出した。


「混乱してる!」


「してます」


 ルカは即答した。


「だって昨日まで子どもだったのに」


「確かにそうね」


「でもノア姉さまだし」


「そうね」


「でも大人だし」


「そうね」


「だからわからない」


 カティアが小さく笑った。


「珍しいですね。ルカがそこまで悩んでいるのは」


「悩みます。これは難しいです」


 ルカは真面目に答えた。その真剣さがかえっておかしくて、ロザリオがまた口元を押さえる。


 その時、小さな声が響いた。


「ノア姉さま……」


 リナだった。大きな瞳を潤ませながら、ノアを見上げている。ノアはすぐにしゃがみ込んだ。


「リナ」


 次の瞬間、リナは勢いよく飛びついた。


「ノア姉さまぁぁ……!」


 ぎゅうっと首にしがみつく。小さな肩が震えていた。


「会いたかった……!」


 ノアの胸が締めつけられる。そっと抱き上げると、リナは安心したようにノアの肩へ顔を埋めた。


「ごめんね」


「やだ」


 即答だった。


 ノアが目を瞬く。


「リナ?」


「もういなくならない?」


 泣きそうな声だった。


 ノアはリナをぎゅっと抱きしめた。


「うん」


「ほんと?」


「ほんと」


 リナはようやく少しだけ笑った。


「よかったぁ……」


 その様子を見た瞬間、ルクレツィアの堪えていたものが決壊した。


「ノア……!」


 ルクレツィアは駆け寄り、リナごとノアを抱きしめた。何度も、何度も、頬に触れる。髪に触れる。本当にここにいるのか、確かめるように。


「よかった……」


 涙が止まらない。


「本当に……本当によかった……!」


「ねえさま……」


「痛いところはない? 苦しいところは? 寒くない? ちゃんと食べた?」


 矢継ぎ早に問われて、ノアはぱちぱちと瞬きをした。


「痛いところはない。苦しいところもない。寒くもない。食べたかは……たぶん」


「たぶん!?」


 ルクレツィアがさらに泣きそうになる。


 ロザリオが吹き出した。


「そこは『はい』でしょ!」


「だって、覚えてないもの」


「ノアらしいわね……!」


 ロザリオは笑いながら目元を拭った。カティアも腕を組んだまま、ほんの少し表情をやわらげる。


「本当に無事でよかったです」


 その時、後ろで静かに見守っていたユリウスが歩み寄った。アッシュグレーの髪が朝の風に揺れ、銀灰色の瞳がノアをまっすぐに見る。


「帰ってきたな」


 短い言葉だった。


 けれど温かかった。


 ノアはまっすぐ頷く。


「はい」


 ユリウスも小さく頷いた。


「それでいい」


 それだけだった。


 責めない。問い詰めない。ただ帰還を喜ぶ。ユリウスらしい言葉だった。


 ノアの瞳に、また涙が浮かんだ。


 レオンはその光景を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。ノアはもう、ひとりではない。闇のなかで消えようとしていた少女は、こんなにもたくさんの人に待たれている。


 そのことが、たまらなく嬉しかった。


 しかし、感動の空気はそこで終わらなかった。


「兄さん」


 カティアが静かに言う。


「なんだい?」


「説明してください」


「うん」


「全部です」


「全部は無理かな」


 すかさずロザリオも身を乗り出す。


「兄さん!」


「今度はなんだい」


「何したの!?」


「何もしてない」


「本当に?」


「本当に」


 ユリウスが横から静かに呟いた。


「その台詞は、だいたい怪しい」


「ユリウスまで!?」


 思わずレオンが叫ぶ。


 その瞬間、張りつめていた空気が少しだけほどけた。ロザリオが笑い、ルカがまだ難しい顔でノアを見上げ、リナはノアの首にしがみついたまま離れようとしない。


 ノアはその光景を見つめながら思った。


 帰ってきた。


 本当に。


 自分には、帰る場所があったのだと。


***


 屋敷の中は、朝から大騒ぎになった。


 厨房には急ぎの朝食が用意され、客間には毛布と温かい飲み物が運ばれた。使用人たちは、戻ってきたノアの姿を見て一瞬固まったものの、すぐに深々と頭を下げた。その誰もが、安堵した顔をしていた。


 ノアはそのたびに少し照れくさそうに微笑んだ。大人の姿になったせいか、使用人たちは以前よりも丁寧に接しようとする。けれど、ノアがスープの器を両手で持ち、ふうふうと冷ましながら飲もうとした瞬間、空気は少しだけ以前のものに戻った。


「あ」


 ロザリオが嬉しそうに言う。


「そこは変わらないのね」


 ノアは器を持ったまま首をかしげた。


「そこ?」


「熱いものを、すごく慎重に飲むところ」


「熱いのは、こわい」


「かわいい」


「ロザリオ」


 カティアがたしなめる。


「今のノアは大人の女性です。あまり子ども扱いしてはいけません」


「でも、かわいいものはかわいいわ」


「それは否定しません」


「否定しないんだね」


 レオンが思わず口を挟むと、カティアは当然のように言った。


「事実ですから」


 ノアはスープの器を抱えたまま、少し困ったように笑った。ルクレツィアはそんなノアの肩に、そっとショールをかける。


「寒くない?」


「うん。あったかい」


「おかわりは? 足りている?」


「まだ、これ飲んでる」


「そうね。でも足りなかったら、すぐ言うのよ」


「うん」


「眠くない? 横になる?」


「まだ大丈夫」


「本当に?」


「ほんとう」


 ルクレツィアの声はやさしい。けれど、その手はまだ少し震えていた。ノアはそれに気づき、そっとルクレツィアの指先に触れた。


「ねえさま」


「なあに?」


「ねえさま、ずっと心配してた?」


 ルクレツィアは一瞬だけ言葉を止めた。それから、泣きそうな顔で微笑む。


「当然でしょう」


「……そっか」


「当然よ。あなたは、私たちの大切な子なんだから」


 ノアの胸の奥が、じんわりと熱くなった。


 大切な子。


 その言葉が、痛いくらいあたたかかった。


「ルクレツィア。少し落ち着け」


 ユリウスが横から声をかける。


「落ち着いています」


「落ち着いている者は、同じ質問を三度しない」


「三度もしました?」


「した」


「……していたかしら」


「していたな」


 ユリウスの淡々とした指摘に、ロザリオがまた笑う。カティアは「義兄さまが正しいです」と冷静にうなずいた。


 レオンはスープを飲みながら、そのやり取りを静かに眺めていた。重たい夜を越えたあとだからこそ、この何気ない騒がしさが胸に沁みる。


 ノアも同じだったのだろう。泣いたり笑ったりしながら、温かいスープを少しずつ飲んでいた。


 その横顔には、まだ悲しみが残っている。けれど、その悲しみの奥に、ほんの少しだけ、やわらかな光が戻りはじめているように見えた。


***


 昼過ぎ、ノアは庭へ出ていた。


 屋敷の庭には、以前と変わらず色とりどりの花が咲いている。まだ小さな姿だったころ、ノアはよくここで花を眺めていた。風に揺れる花びらを飽きずに見つめ、ときどき小さな声で話しかけていたこともある。


 その場所に、今は大人の姿で立っている。


 ノアはしゃがみ込み、白い花にそっと触れた。


「……元気」


 小さく呟いた声は、風に溶けていく。


 しばらく花を見ていると、近づいてくる足音があった。振り返ると、テオが立っていた。


「ノア姉さま」


「テオ」


「隣、いいですか?」


「うん」


 テオはノアの隣に腰を下ろした。朝の涙はもう引いていたが、どこかいつもより真面目な顔をしている。


 しばらく、二人で花を見ていた。


 風だけが吹く。


 やがて、テオがぽつりと言った。


「まだ、悲しいですか?」


 ノアは少し驚いた。


「どうして?」


「笑っているけど、少しだけ、無理をしているように見えました」


 テオは花を見たまま続ける。


「母さまも、そういう時があります。大丈夫と言うけど、本当は大丈夫じゃない時」


「……テオは、よく見ているね」


「長男なので」


 真面目に言うテオに、ノアは少しだけ笑った。けれど、すぐに目を伏せる。


「うん。まだ、悲しい」


「妖精さんのことですか?」


 ノアはゆっくり頷いた。


「助けたかったの。ほんとうに」


 あの時のことを思い出す。妖精は最後まで、自分を憎んでいた。最後まで拒み、最後まで睨んでいた。それでもノアは、助けたかった。一緒に森へ帰りたかった。


「一緒に帰ろうって、言ったの。でも、聞いてくれなかった」


 テオはしばらく黙っていた。幼い彼なりに、その言葉の重さを受け止めようとしているのがわかった。


「ぼくには、難しいです」


 やがて、テオが言った。


「ぼくだったら、自分を傷つけた人に、一緒に帰ろうとは言えないと思います」


「テオ……」


「でも、ノア姉さまは言いました」


 テオは顔を上げ、ノアをまっすぐ見る。


「だから、すごいと思います」


 飾り気のない言葉だった。


 慰めようとしているのではない。子どもらしい正直さで、ただ本当にそう思ったことを告げている。


 そのまっすぐさが、ノアの胸にやさしく触れた。


「ありがとう」


 ノアはそっと手を伸ばし、テオの頭を撫でた。


 テオは少し照れたように背筋を伸ばしたが、逃げなかった。


「でも、泣いてもいいと思います」


「え?」


「母さまも言っていました。悲しい時に我慢しすぎると、あとでお腹が痛くなるって」


 ノアは思わず目を丸くした。


「お腹?」


「はい。ぼくは前に我慢しすぎて、お腹が痛くなりました」


 真剣に言うものだから、ノアはつい、くすりと笑ってしまった。


「そっか。じゃあ、我慢しすぎないようにする」


「その方がいいです」


 テオは満足そうに頷いた。


 その時、庭の向こうからルカの声がした。


「テオ兄さま! リナが花冠を作るって!」


 振り返ると、ルカとリナがこちらへ駆けてくる。リナの手には、まだ形になりきっていない白い花の輪が握られていた。


「ノア姉さまに作るの!」


 リナが誇らしげに言う。


「手伝ってくれる?」


「もちろん」


 ノアが微笑むと、リナはぱっと顔を輝かせた。


 テオは立ち上がり、ルカに向かって少しだけ兄らしい顔をする。


「走ると転びます」


「転ばないよ」


「昨日も転びました」


「あれは石が悪い」


「石は動きません」


 兄弟のやり取りに、ノアはまた笑った。


 胸の奥の痛みは、まだ消えない。


 けれど、こうして笑うことはできる。


 妖精を救えなかった悲しみを抱えたままでも、ここには温かい声がある。小さな手がある。自分を待ってくれていた家族がいる。


 ノアは、リナと一緒に花冠を編みはじめた。


***


 夕方になって、アルノー王からの使者が屋敷を訪れた。


 本来であれば、王自ら駆けつけかねないところだったらしい。だが、ルクレツィアとユリウスが「今は休ませるべきです」と強く進言し、ひとまず書状だけに留められたのだという。


 応接室に集まった面々の前で、ユリウスが書状を開いた。


「陛下より。『ノア嬢が無事に戻ったと聞き、心から安堵している。レオンもよく戻った。ひとまず今は休め。祝いの席を設けたいところだが、ルクレツィア殿に止められたので我慢する』」


 ロザリオが吹き出した。


「陛下、正直すぎません?」


 カティアは真顔で頷く。


「止めて正解です。今祝いの席など開かれたら、兄さんもノアも倒れます」


 レオンは苦笑した。


「陛下らしいね」


 ユリウスはさらに読み進める。


「『なお、落ち着いたら顔を見せに来るように。あと、結婚式の相談もせねばならん』」


「陛下」


 レオンが思わず頭を抱えた。


 ロザリオの目が輝く。


「あら」


 カティアも静かに身を乗り出す。


「それは重要ですね」


「待って。今はその話をする場面かな」


「する場面です」


 カティアは即答した。


 ロザリオも頷く。


「むしろ今しないでいつするの、兄さん」


「少なくとも今日ではないと思う」


 レオンがそう言うと、ユリウスが書状を畳みながら静かに告げた。


「私も陛下に同意する」


「ユリウスまで?」


「遅らせる理由が減った」


「言い方が冷静すぎる」


「事実だ」


 レオンは助けを求めるようにノアを見る。


 ノアは花冠を膝に置いたまま、頬を赤くして固まっていた。


「ノア?」


「け、結婚式……」


 小さく呟いた声に、ロザリオがにやりと笑う。


「そうよ、ノア。花嫁さんよ」


 ノアの頬がさらに赤くなる。


 リナがぱっと手を挙げた。


「リナ、お花持つ!」


「ぼくは?」


 ルカが聞く。


「ルカは転ばないように歩いてください」


 テオが真面目に言う。


「転ばないってば!」


「昨日転びました」


「石が悪いって言った!」


 そのやり取りに、部屋中が笑いに包まれた。


 ノアも、少しだけ笑った。


 花冠をそっと手に取る。リナが一生懸命作ってくれた、白い花の冠。少しいびつで、ところどころ茎が飛び出している。けれど、ノアにはどんな宝石よりも美しく見えた。


「ノア姉さま、かぶって」


 リナに促され、ノアは花冠を頭にのせる。


 白銀の髪に、白い花がよく映えた。


 リナが両手を合わせる。


「きれい……!」


 テオも真面目に頷いた。


「似合っています」


 ルカはまだ少し首を傾げながら言う。


「やっぱりノア姉さまだ。でも大人だ」


「ルカ、それはもう分かったわ」


 ロザリオが笑う。


 ノアは花冠にそっと触れた。


 胸の奥は、まだ痛い。


 けれど、あたたかかった。


 帰ってきたのだ。


 本当に、ここへ。


 そしてこの場所には、自分を待ってくれる人たちがいる。


 ノアは小さく息を吸い、笑った。


「ありがとう」


 その声に、レオンは目を細めた。


 ノアの悲しみは、きっとすぐには消えない。妖精を救えなかった痛みも、忘れることはないだろう。


 それでも。


 こうして少しずつ、温かなものに触れながら、前を向いていけるのかもしれない。


 そう思えた。


***


 夜になった。


 賑やかだった屋敷も、少しずつ静かになっていく。テオは最後まで起きていようとしていたが、リナが先に眠ってしまうと、兄らしく彼女に毛布をかけ、そのまま自分も船をこぎはじめた。ルカがそれを見て「テオ兄さまも眠いんじゃないか」と言い、テオは「眠くありません」と答えた直後に目を閉じた。


 ロザリオはそれを見て笑い、カティアは呆れながらも子どもたちを寝室へ促した。ルクレツィアは最後までノアのそばを離れたがらなかったが、ユリウスに「少し休め」と言われ、ようやく頷いた。


 屋敷が静かになったころ、ノアはそっと部屋を出た。


 誰にも気づかれないように。


 静かに。


 月が出ていた。満月ではない。けれど十分に明るい。白銀の髪を照らす月光は、どこか神獣の森を思い出させた。


 ノアは庭へ向かう。


 昼間、リナからもらった花冠を手に持ったまま。


 風が吹く。やわらかく、優しく。けれど、その優しさがかえって胸を締めつけた。


『……妖精』


 思い出してしまう。


 最後の姿を。


 最後の叫びを。


 最後の目を。


 あれほど憎んでいたのに。あれほど傷つけられたのに。どうしても嫌いになれなかった。


 どうしても、ひとりぼっちに見えてしまった。


 ノアは庭のベンチに腰を下ろした。


 夜空を見上げる。


 星が綺麗だった。


 しばらく何も考えずに見ていた。


 すると、ふいに風が変わった。


 さらり、と森の香りがした。


 懐かしい。遠い。大好きだった場所の香り。


 ノアははっと顔を上げた。


「……主さま?」


 その瞬間、胸の奥に優しい声が響いた。


 ずっと昔から知っている声。


 大きくて、あたたかくて、どこまでも包み込んでくれる声。


《ノアよ》


 ノアの目から涙がこぼれた。


「……主さま」


《よく戦った》


 それだけで、もう涙が止まらなかった。


《よく生きた》


《よく戻った》


 ノアは唇を噛んだ。泣かないように。けれど、無理だった。


《お前は最後まで手を伸ばした》


《あの子を救おうとした》


《憎まなかった》


《見捨てなかった》


 ノアの肩が震える。


「でも……」


 声がかすれた。


「でも、助けられなかった」


《うむ》


 主は否定しなかった。


《助けられなかった》


 優しい声だった。


《それも事実だ》


 ノアの瞳から涙が落ちる。


「ノア、頑張ったの」


《知っている》


「いっぱい話したの」


《知っている》


「一緒に帰ろうって言ったの」


《知っている》


「でも……聞いてくれなかった……」


 ついに、ノアは声を上げて泣いた。


 戦いのあと、家族の前では我慢していた涙。押し込めていた悲しみ。全部が溢れ出す。


「嫌だった……」


「消えてほしくなかった……」


「ひとりぼっちだったのに……」


「助けたかったのに……」


 泣きながら、子どものように、ノアは胸の内を吐き出した。


 すると、主の声がさらに優しくなる。


《ノア》


《お前にできることは、すべてやった》


《手を伸ばした》


《声をかけた》


《心を寄せた》


《それで十分だ》


 ノアは首を振る。涙が止まらない。


《誰かを救うというのはな、必ず救えるということではない》


《手を伸ばしても届かぬことがある》


《想いが届かぬこともある》


《それでも》


 風が吹く。


 森の香りが強くなる。


《手を伸ばしたことに意味がある》


 ノアは息を呑んだ。


 その言葉は、ずっと昔から主が教えてくれていたことだった。神獣が傷ついた時も、迷子の獣がいた時も、助けられない命があった時も、主はいつも言っていた。


 結果だけがすべてではない、と。


《ありがとう》


 主が言った。


 静かに。


 心から。


《ありがとう、ノア》


《あの子のために泣いてくれて》


《あの子のために怒ってくれて》


《あの子のために手を伸ばしてくれて》


《ありがとう》


 ノアは両手で顔を覆った。


 泣きながら。


 笑いながら。


 何度も頷く。


「……うん」


《お前は優しい子だ》


「……うん」


《自慢の子だ》


 その言葉に、ノアはもう堪えられなかった。


 声を上げて泣いた。


 嬉しくて。


 悲しくて。


 寂しくて。


 でも、救われた気がした。


 妖精を救えなかった事実は消えない。きっと一生忘れない。


 それでも。


 主は責めなかった。


 誰も責めなかった。


 だから、少しだけ。


 本当に少しだけ。


 前を向ける気がした。


***


「ここにいたんだね」


 聞き慣れた声がした。


 振り返ると、レオンが立っていた。


 いつものように、優しく笑っている。


 ノアは慌てて涙を拭った。


「起きてたの?」


「君がいなかったから」


 レオンは隣に座った。夜風が二人の間を通り過ぎる。


「主様?」


「うん」


「何て?」


 ノアは少しだけ笑った。


「ありがとう、って」


 レオンも微笑む。


「そうだろうね」


「知ってたの?」


「なんとなく」


 しばらく沈黙が続いた。


 嫌な沈黙ではない。心地いい沈黙だった。


 ノアは星空を見上げる。そして、ぽつりと言った。


「ねぇ、レオン」


「うん?」


「ノアね」


「うん」


 少し考える。


 胸の奥を探す。


 そして、自然に言葉が出た。


「生きててよかった」


 レオンは何も言わなかった。


 ただ、そっとノアを抱き寄せた。


 大人の姿になっても、ノアはノアだった。大切な人だった。失いたくない、たったひとりの人だった。


 ノアはレオンの肩に額を預けた。


 あたたかい。


 帰ってきたのだ。


 本当に。


 ようやく。


「レオン」


「うん」


「ただいま」


 レオンは優しく笑った。


 そして。


「おかえり、ノア」


 夜空には満天の星。


 遠く森の方角から、優しい風が吹いていた。


 まるで誰かが、そっと微笑んでいるかのように。


 長い夜は終わった。


 そして、新しい朝が始まろうとしていた。


——第19話 了

【おまけ】

 その夜。


 子どもたちが眠り、屋敷が静かになった頃。


 ルクレツィアは寝台に腰掛けたまま、深いため息をついた。


「どうした」


 先に本を読んでいたユリウスが顔を上げる。


「だって……」


 ルクレツィアは両手で顔を覆った。


「ノアが綺麗だったのよ」


「知っている」


「大きくなっていたのよ」


「知っている」


「結婚するのよ」


「まだ先だ」


「でもするのよ!」


 ユリウスは本を閉じた。


 そして静かに言う。


「親の気分か」


「親です」


 即答だった。


 ユリウスは少しだけ笑う。


「そうだな」


「ノアが来た時なんて、あんなに小さかったのに」


「うむ」


「スープ飲む時にふーふーしていたのに」


「今もしていた」


「そうなのよ!」


 ルクレツィアは再び頭を抱えた。


「中身は変わってないのよ!」


 ユリウスの肩が小さく揺れる。


 笑っている。


「笑わないでください」


「すまん」


 全然すまそうじゃない顔だった。


 ルクレツィアはむくれる。


 だが次の瞬間。


 ユリウスがそっと手を伸ばした。


「お前も頑張った」


「え?」


「ずっと心配していただろう」


 ルクレツィアの目が少し潤む。


 ユリウスは続けた。


「帰ってきた」


「……ええ」


「だから今日は安心して眠れ」


 ルクレツィアは小さく笑った。


「そうします」


 窓の外では夜風が揺れていた。


 久しぶりに。


 本当に久しぶりに。


 穏やかな夜だった。

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