第19話 ありがとう
よろしくお願いいたします。
夜明けの光のなか、レオンはノアの手を引いて歩いていた。
崩れかけた廃城は、もう背後にある。あれほど重く、冷たく、息をするだけで胸を締めつけてきた闇は、嘘のように消えていた。空は薄い金色に染まり、遠くの森の梢が、朝露をまとってきらきらと光っている。
長い夜が、終わったのだ。
けれど、レオンの胸の奥には、まだ重たいものが残っていた。妖精は消えた。ノアは戻ってきた。けれど、その結末は、決して晴れやかなものではなかった。
隣を歩くノアは静かだった。白銀の髪は朝日に溶けるように輝き、歩くたび腰まで流れる髪がさらりと揺れる。白い肌には、月光を閉じ込めたような銀の斑紋が、うっすらと浮かんでいた。
美しい。
息をのむほどに。
だが、その横顔には、まだ深い悲しみが残っていた。
「疲れていない?」
レオンが声をかけると、ノアはゆっくり顔を上げた。淡い紫の瞳が、朝の光を映して揺れる。
「体は、大丈夫」
「体は?」
問い返すと、ノアは少しだけ困ったように笑った。
「心は、まだ……ちょっと、痛い」
「……そうだね」
レオンはそれ以上、軽々しく言葉を重ねなかった。
ノアは最後まで、妖精に手を伸ばした。恨んでいないと告げた。一緒に帰ろうと願った。けれど、その手は届かなかった。
妖精は最後まで拒み、最後までノアを睨んだまま、光のなかへ消えていった。
救えなかった。
その事実は、ノアのやさしい心に、きっと深く突き刺さっている。レオンはつないだ手に、そっと力を込めた。ノアが、ほんの少しだけ握り返してくる。
そのぬくもりに、レオンは胸をなでおろした。
生きている。
ここにいる。
それだけで、今は十分だった。
***
ルクレツィアとユリウスの暮らすベーレン家の屋敷が見えたころ、門の前にはすでに人影が集まっていた。
ルクレツィア、ユリウス、ロザリオ、カティア。そして、テオ、ルカ、リナ。全員が、夜通し眠れなかったような顔をしていた。
ルクレツィアは遠くから近づいてくるレオンの姿を見つけた瞬間、一歩前へ出た。
「レオン……!」
その声は震えていた。そして、レオンの隣に立つノアを見た瞬間、言葉を失う。
白銀の髪。淡い紫の瞳。月光を閉じ込めたような銀の斑紋。そこにいるのは、誰も見たことがないほど美しい女性だった。
けれど、その瞳だけは変わらない。
みんなが知っている、ノアの瞳だった。
数秒の沈黙が流れる。最初に動いたのは、テオだった。
テオはゆっくり前へ出た。驚いている。混乱もしている。それでも長男として、まず言わなければならない言葉があった。
「お帰りなさい、ノア姉さま」
少しだけ震える声だった。
ノアの瞳が揺れる。
「ただいま、テオ」
その瞬間、テオの目に涙が浮かんだ。けれど、彼は必死にこらえた。母を支えて、弟妹を支えて、長男として泣かないようにしていたのだろう。
「ご無事で……よかったです」
最後だけ、少し声が裏返った。
ノアは胸がいっぱいになった。テオの小さな肩が、どれだけの不安を背負っていたのか、今ならわかる。
「テオ……」
ノアが手を伸ばそうとした、その時だった。
「でも大人だ」
ぽつりと呟いたのはルカだった。
全員の視線が集まる。ルカは真剣な顔でノアを見ていた。
「ノア姉さまだ」
うんうん、と頷く。
「でも大人だ」
また頷く。
「ノア姉さまだ」
「ルカ?」
「でも大人だ」
ルカはとうとう頭を抱えた。
「わからない」
張りつめていた空気の中、ロザリオが思わず吹き出した。
「混乱してる!」
「してます」
ルカは即答した。
「だって昨日まで子どもだったのに」
「確かにそうね」
「でもノア姉さまだし」
「そうね」
「でも大人だし」
「そうね」
「だからわからない」
カティアが小さく笑った。
「珍しいですね。ルカがそこまで悩んでいるのは」
「悩みます。これは難しいです」
ルカは真面目に答えた。その真剣さがかえっておかしくて、ロザリオがまた口元を押さえる。
その時、小さな声が響いた。
「ノア姉さま……」
リナだった。大きな瞳を潤ませながら、ノアを見上げている。ノアはすぐにしゃがみ込んだ。
「リナ」
次の瞬間、リナは勢いよく飛びついた。
「ノア姉さまぁぁ……!」
ぎゅうっと首にしがみつく。小さな肩が震えていた。
「会いたかった……!」
ノアの胸が締めつけられる。そっと抱き上げると、リナは安心したようにノアの肩へ顔を埋めた。
「ごめんね」
「やだ」
即答だった。
ノアが目を瞬く。
「リナ?」
「もういなくならない?」
泣きそうな声だった。
ノアはリナをぎゅっと抱きしめた。
「うん」
「ほんと?」
「ほんと」
リナはようやく少しだけ笑った。
「よかったぁ……」
その様子を見た瞬間、ルクレツィアの堪えていたものが決壊した。
「ノア……!」
ルクレツィアは駆け寄り、リナごとノアを抱きしめた。何度も、何度も、頬に触れる。髪に触れる。本当にここにいるのか、確かめるように。
「よかった……」
涙が止まらない。
「本当に……本当によかった……!」
「ねえさま……」
「痛いところはない? 苦しいところは? 寒くない? ちゃんと食べた?」
矢継ぎ早に問われて、ノアはぱちぱちと瞬きをした。
「痛いところはない。苦しいところもない。寒くもない。食べたかは……たぶん」
「たぶん!?」
ルクレツィアがさらに泣きそうになる。
ロザリオが吹き出した。
「そこは『はい』でしょ!」
「だって、覚えてないもの」
「ノアらしいわね……!」
ロザリオは笑いながら目元を拭った。カティアも腕を組んだまま、ほんの少し表情をやわらげる。
「本当に無事でよかったです」
その時、後ろで静かに見守っていたユリウスが歩み寄った。アッシュグレーの髪が朝の風に揺れ、銀灰色の瞳がノアをまっすぐに見る。
「帰ってきたな」
短い言葉だった。
けれど温かかった。
ノアはまっすぐ頷く。
「はい」
ユリウスも小さく頷いた。
「それでいい」
それだけだった。
責めない。問い詰めない。ただ帰還を喜ぶ。ユリウスらしい言葉だった。
ノアの瞳に、また涙が浮かんだ。
レオンはその光景を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。ノアはもう、ひとりではない。闇のなかで消えようとしていた少女は、こんなにもたくさんの人に待たれている。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
しかし、感動の空気はそこで終わらなかった。
「兄さん」
カティアが静かに言う。
「なんだい?」
「説明してください」
「うん」
「全部です」
「全部は無理かな」
すかさずロザリオも身を乗り出す。
「兄さん!」
「今度はなんだい」
「何したの!?」
「何もしてない」
「本当に?」
「本当に」
ユリウスが横から静かに呟いた。
「その台詞は、だいたい怪しい」
「ユリウスまで!?」
思わずレオンが叫ぶ。
その瞬間、張りつめていた空気が少しだけほどけた。ロザリオが笑い、ルカがまだ難しい顔でノアを見上げ、リナはノアの首にしがみついたまま離れようとしない。
ノアはその光景を見つめながら思った。
帰ってきた。
本当に。
自分には、帰る場所があったのだと。
***
屋敷の中は、朝から大騒ぎになった。
厨房には急ぎの朝食が用意され、客間には毛布と温かい飲み物が運ばれた。使用人たちは、戻ってきたノアの姿を見て一瞬固まったものの、すぐに深々と頭を下げた。その誰もが、安堵した顔をしていた。
ノアはそのたびに少し照れくさそうに微笑んだ。大人の姿になったせいか、使用人たちは以前よりも丁寧に接しようとする。けれど、ノアがスープの器を両手で持ち、ふうふうと冷ましながら飲もうとした瞬間、空気は少しだけ以前のものに戻った。
「あ」
ロザリオが嬉しそうに言う。
「そこは変わらないのね」
ノアは器を持ったまま首をかしげた。
「そこ?」
「熱いものを、すごく慎重に飲むところ」
「熱いのは、こわい」
「かわいい」
「ロザリオ」
カティアがたしなめる。
「今のノアは大人の女性です。あまり子ども扱いしてはいけません」
「でも、かわいいものはかわいいわ」
「それは否定しません」
「否定しないんだね」
レオンが思わず口を挟むと、カティアは当然のように言った。
「事実ですから」
ノアはスープの器を抱えたまま、少し困ったように笑った。ルクレツィアはそんなノアの肩に、そっとショールをかける。
「寒くない?」
「うん。あったかい」
「おかわりは? 足りている?」
「まだ、これ飲んでる」
「そうね。でも足りなかったら、すぐ言うのよ」
「うん」
「眠くない? 横になる?」
「まだ大丈夫」
「本当に?」
「ほんとう」
ルクレツィアの声はやさしい。けれど、その手はまだ少し震えていた。ノアはそれに気づき、そっとルクレツィアの指先に触れた。
「ねえさま」
「なあに?」
「ねえさま、ずっと心配してた?」
ルクレツィアは一瞬だけ言葉を止めた。それから、泣きそうな顔で微笑む。
「当然でしょう」
「……そっか」
「当然よ。あなたは、私たちの大切な子なんだから」
ノアの胸の奥が、じんわりと熱くなった。
大切な子。
その言葉が、痛いくらいあたたかかった。
「ルクレツィア。少し落ち着け」
ユリウスが横から声をかける。
「落ち着いています」
「落ち着いている者は、同じ質問を三度しない」
「三度もしました?」
「した」
「……していたかしら」
「していたな」
ユリウスの淡々とした指摘に、ロザリオがまた笑う。カティアは「義兄さまが正しいです」と冷静にうなずいた。
レオンはスープを飲みながら、そのやり取りを静かに眺めていた。重たい夜を越えたあとだからこそ、この何気ない騒がしさが胸に沁みる。
ノアも同じだったのだろう。泣いたり笑ったりしながら、温かいスープを少しずつ飲んでいた。
その横顔には、まだ悲しみが残っている。けれど、その悲しみの奥に、ほんの少しだけ、やわらかな光が戻りはじめているように見えた。
***
昼過ぎ、ノアは庭へ出ていた。
屋敷の庭には、以前と変わらず色とりどりの花が咲いている。まだ小さな姿だったころ、ノアはよくここで花を眺めていた。風に揺れる花びらを飽きずに見つめ、ときどき小さな声で話しかけていたこともある。
その場所に、今は大人の姿で立っている。
ノアはしゃがみ込み、白い花にそっと触れた。
「……元気」
小さく呟いた声は、風に溶けていく。
しばらく花を見ていると、近づいてくる足音があった。振り返ると、テオが立っていた。
「ノア姉さま」
「テオ」
「隣、いいですか?」
「うん」
テオはノアの隣に腰を下ろした。朝の涙はもう引いていたが、どこかいつもより真面目な顔をしている。
しばらく、二人で花を見ていた。
風だけが吹く。
やがて、テオがぽつりと言った。
「まだ、悲しいですか?」
ノアは少し驚いた。
「どうして?」
「笑っているけど、少しだけ、無理をしているように見えました」
テオは花を見たまま続ける。
「母さまも、そういう時があります。大丈夫と言うけど、本当は大丈夫じゃない時」
「……テオは、よく見ているね」
「長男なので」
真面目に言うテオに、ノアは少しだけ笑った。けれど、すぐに目を伏せる。
「うん。まだ、悲しい」
「妖精さんのことですか?」
ノアはゆっくり頷いた。
「助けたかったの。ほんとうに」
あの時のことを思い出す。妖精は最後まで、自分を憎んでいた。最後まで拒み、最後まで睨んでいた。それでもノアは、助けたかった。一緒に森へ帰りたかった。
「一緒に帰ろうって、言ったの。でも、聞いてくれなかった」
テオはしばらく黙っていた。幼い彼なりに、その言葉の重さを受け止めようとしているのがわかった。
「ぼくには、難しいです」
やがて、テオが言った。
「ぼくだったら、自分を傷つけた人に、一緒に帰ろうとは言えないと思います」
「テオ……」
「でも、ノア姉さまは言いました」
テオは顔を上げ、ノアをまっすぐ見る。
「だから、すごいと思います」
飾り気のない言葉だった。
慰めようとしているのではない。子どもらしい正直さで、ただ本当にそう思ったことを告げている。
そのまっすぐさが、ノアの胸にやさしく触れた。
「ありがとう」
ノアはそっと手を伸ばし、テオの頭を撫でた。
テオは少し照れたように背筋を伸ばしたが、逃げなかった。
「でも、泣いてもいいと思います」
「え?」
「母さまも言っていました。悲しい時に我慢しすぎると、あとでお腹が痛くなるって」
ノアは思わず目を丸くした。
「お腹?」
「はい。ぼくは前に我慢しすぎて、お腹が痛くなりました」
真剣に言うものだから、ノアはつい、くすりと笑ってしまった。
「そっか。じゃあ、我慢しすぎないようにする」
「その方がいいです」
テオは満足そうに頷いた。
その時、庭の向こうからルカの声がした。
「テオ兄さま! リナが花冠を作るって!」
振り返ると、ルカとリナがこちらへ駆けてくる。リナの手には、まだ形になりきっていない白い花の輪が握られていた。
「ノア姉さまに作るの!」
リナが誇らしげに言う。
「手伝ってくれる?」
「もちろん」
ノアが微笑むと、リナはぱっと顔を輝かせた。
テオは立ち上がり、ルカに向かって少しだけ兄らしい顔をする。
「走ると転びます」
「転ばないよ」
「昨日も転びました」
「あれは石が悪い」
「石は動きません」
兄弟のやり取りに、ノアはまた笑った。
胸の奥の痛みは、まだ消えない。
けれど、こうして笑うことはできる。
妖精を救えなかった悲しみを抱えたままでも、ここには温かい声がある。小さな手がある。自分を待ってくれていた家族がいる。
ノアは、リナと一緒に花冠を編みはじめた。
***
夕方になって、アルノー王からの使者が屋敷を訪れた。
本来であれば、王自ら駆けつけかねないところだったらしい。だが、ルクレツィアとユリウスが「今は休ませるべきです」と強く進言し、ひとまず書状だけに留められたのだという。
応接室に集まった面々の前で、ユリウスが書状を開いた。
「陛下より。『ノア嬢が無事に戻ったと聞き、心から安堵している。レオンもよく戻った。ひとまず今は休め。祝いの席を設けたいところだが、ルクレツィア殿に止められたので我慢する』」
ロザリオが吹き出した。
「陛下、正直すぎません?」
カティアは真顔で頷く。
「止めて正解です。今祝いの席など開かれたら、兄さんもノアも倒れます」
レオンは苦笑した。
「陛下らしいね」
ユリウスはさらに読み進める。
「『なお、落ち着いたら顔を見せに来るように。あと、結婚式の相談もせねばならん』」
「陛下」
レオンが思わず頭を抱えた。
ロザリオの目が輝く。
「あら」
カティアも静かに身を乗り出す。
「それは重要ですね」
「待って。今はその話をする場面かな」
「する場面です」
カティアは即答した。
ロザリオも頷く。
「むしろ今しないでいつするの、兄さん」
「少なくとも今日ではないと思う」
レオンがそう言うと、ユリウスが書状を畳みながら静かに告げた。
「私も陛下に同意する」
「ユリウスまで?」
「遅らせる理由が減った」
「言い方が冷静すぎる」
「事実だ」
レオンは助けを求めるようにノアを見る。
ノアは花冠を膝に置いたまま、頬を赤くして固まっていた。
「ノア?」
「け、結婚式……」
小さく呟いた声に、ロザリオがにやりと笑う。
「そうよ、ノア。花嫁さんよ」
ノアの頬がさらに赤くなる。
リナがぱっと手を挙げた。
「リナ、お花持つ!」
「ぼくは?」
ルカが聞く。
「ルカは転ばないように歩いてください」
テオが真面目に言う。
「転ばないってば!」
「昨日転びました」
「石が悪いって言った!」
そのやり取りに、部屋中が笑いに包まれた。
ノアも、少しだけ笑った。
花冠をそっと手に取る。リナが一生懸命作ってくれた、白い花の冠。少しいびつで、ところどころ茎が飛び出している。けれど、ノアにはどんな宝石よりも美しく見えた。
「ノア姉さま、かぶって」
リナに促され、ノアは花冠を頭にのせる。
白銀の髪に、白い花がよく映えた。
リナが両手を合わせる。
「きれい……!」
テオも真面目に頷いた。
「似合っています」
ルカはまだ少し首を傾げながら言う。
「やっぱりノア姉さまだ。でも大人だ」
「ルカ、それはもう分かったわ」
ロザリオが笑う。
ノアは花冠にそっと触れた。
胸の奥は、まだ痛い。
けれど、あたたかかった。
帰ってきたのだ。
本当に、ここへ。
そしてこの場所には、自分を待ってくれる人たちがいる。
ノアは小さく息を吸い、笑った。
「ありがとう」
その声に、レオンは目を細めた。
ノアの悲しみは、きっとすぐには消えない。妖精を救えなかった痛みも、忘れることはないだろう。
それでも。
こうして少しずつ、温かなものに触れながら、前を向いていけるのかもしれない。
そう思えた。
***
夜になった。
賑やかだった屋敷も、少しずつ静かになっていく。テオは最後まで起きていようとしていたが、リナが先に眠ってしまうと、兄らしく彼女に毛布をかけ、そのまま自分も船をこぎはじめた。ルカがそれを見て「テオ兄さまも眠いんじゃないか」と言い、テオは「眠くありません」と答えた直後に目を閉じた。
ロザリオはそれを見て笑い、カティアは呆れながらも子どもたちを寝室へ促した。ルクレツィアは最後までノアのそばを離れたがらなかったが、ユリウスに「少し休め」と言われ、ようやく頷いた。
屋敷が静かになったころ、ノアはそっと部屋を出た。
誰にも気づかれないように。
静かに。
月が出ていた。満月ではない。けれど十分に明るい。白銀の髪を照らす月光は、どこか神獣の森を思い出させた。
ノアは庭へ向かう。
昼間、リナからもらった花冠を手に持ったまま。
風が吹く。やわらかく、優しく。けれど、その優しさがかえって胸を締めつけた。
『……妖精』
思い出してしまう。
最後の姿を。
最後の叫びを。
最後の目を。
あれほど憎んでいたのに。あれほど傷つけられたのに。どうしても嫌いになれなかった。
どうしても、ひとりぼっちに見えてしまった。
ノアは庭のベンチに腰を下ろした。
夜空を見上げる。
星が綺麗だった。
しばらく何も考えずに見ていた。
すると、ふいに風が変わった。
さらり、と森の香りがした。
懐かしい。遠い。大好きだった場所の香り。
ノアははっと顔を上げた。
「……主さま?」
その瞬間、胸の奥に優しい声が響いた。
ずっと昔から知っている声。
大きくて、あたたかくて、どこまでも包み込んでくれる声。
《ノアよ》
ノアの目から涙がこぼれた。
「……主さま」
《よく戦った》
それだけで、もう涙が止まらなかった。
《よく生きた》
《よく戻った》
ノアは唇を噛んだ。泣かないように。けれど、無理だった。
《お前は最後まで手を伸ばした》
《あの子を救おうとした》
《憎まなかった》
《見捨てなかった》
ノアの肩が震える。
「でも……」
声がかすれた。
「でも、助けられなかった」
《うむ》
主は否定しなかった。
《助けられなかった》
優しい声だった。
《それも事実だ》
ノアの瞳から涙が落ちる。
「ノア、頑張ったの」
《知っている》
「いっぱい話したの」
《知っている》
「一緒に帰ろうって言ったの」
《知っている》
「でも……聞いてくれなかった……」
ついに、ノアは声を上げて泣いた。
戦いのあと、家族の前では我慢していた涙。押し込めていた悲しみ。全部が溢れ出す。
「嫌だった……」
「消えてほしくなかった……」
「ひとりぼっちだったのに……」
「助けたかったのに……」
泣きながら、子どものように、ノアは胸の内を吐き出した。
すると、主の声がさらに優しくなる。
《ノア》
《お前にできることは、すべてやった》
《手を伸ばした》
《声をかけた》
《心を寄せた》
《それで十分だ》
ノアは首を振る。涙が止まらない。
《誰かを救うというのはな、必ず救えるということではない》
《手を伸ばしても届かぬことがある》
《想いが届かぬこともある》
《それでも》
風が吹く。
森の香りが強くなる。
《手を伸ばしたことに意味がある》
ノアは息を呑んだ。
その言葉は、ずっと昔から主が教えてくれていたことだった。神獣が傷ついた時も、迷子の獣がいた時も、助けられない命があった時も、主はいつも言っていた。
結果だけがすべてではない、と。
《ありがとう》
主が言った。
静かに。
心から。
《ありがとう、ノア》
《あの子のために泣いてくれて》
《あの子のために怒ってくれて》
《あの子のために手を伸ばしてくれて》
《ありがとう》
ノアは両手で顔を覆った。
泣きながら。
笑いながら。
何度も頷く。
「……うん」
《お前は優しい子だ》
「……うん」
《自慢の子だ》
その言葉に、ノアはもう堪えられなかった。
声を上げて泣いた。
嬉しくて。
悲しくて。
寂しくて。
でも、救われた気がした。
妖精を救えなかった事実は消えない。きっと一生忘れない。
それでも。
主は責めなかった。
誰も責めなかった。
だから、少しだけ。
本当に少しだけ。
前を向ける気がした。
***
「ここにいたんだね」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、レオンが立っていた。
いつものように、優しく笑っている。
ノアは慌てて涙を拭った。
「起きてたの?」
「君がいなかったから」
レオンは隣に座った。夜風が二人の間を通り過ぎる。
「主様?」
「うん」
「何て?」
ノアは少しだけ笑った。
「ありがとう、って」
レオンも微笑む。
「そうだろうね」
「知ってたの?」
「なんとなく」
しばらく沈黙が続いた。
嫌な沈黙ではない。心地いい沈黙だった。
ノアは星空を見上げる。そして、ぽつりと言った。
「ねぇ、レオン」
「うん?」
「ノアね」
「うん」
少し考える。
胸の奥を探す。
そして、自然に言葉が出た。
「生きててよかった」
レオンは何も言わなかった。
ただ、そっとノアを抱き寄せた。
大人の姿になっても、ノアはノアだった。大切な人だった。失いたくない、たったひとりの人だった。
ノアはレオンの肩に額を預けた。
あたたかい。
帰ってきたのだ。
本当に。
ようやく。
「レオン」
「うん」
「ただいま」
レオンは優しく笑った。
そして。
「おかえり、ノア」
夜空には満天の星。
遠く森の方角から、優しい風が吹いていた。
まるで誰かが、そっと微笑んでいるかのように。
長い夜は終わった。
そして、新しい朝が始まろうとしていた。
——第19話 了
【おまけ】
その夜。
子どもたちが眠り、屋敷が静かになった頃。
ルクレツィアは寝台に腰掛けたまま、深いため息をついた。
「どうした」
先に本を読んでいたユリウスが顔を上げる。
「だって……」
ルクレツィアは両手で顔を覆った。
「ノアが綺麗だったのよ」
「知っている」
「大きくなっていたのよ」
「知っている」
「結婚するのよ」
「まだ先だ」
「でもするのよ!」
ユリウスは本を閉じた。
そして静かに言う。
「親の気分か」
「親です」
即答だった。
ユリウスは少しだけ笑う。
「そうだな」
「ノアが来た時なんて、あんなに小さかったのに」
「うむ」
「スープ飲む時にふーふーしていたのに」
「今もしていた」
「そうなのよ!」
ルクレツィアは再び頭を抱えた。
「中身は変わってないのよ!」
ユリウスの肩が小さく揺れる。
笑っている。
「笑わないでください」
「すまん」
全然すまそうじゃない顔だった。
ルクレツィアはむくれる。
だが次の瞬間。
ユリウスがそっと手を伸ばした。
「お前も頑張った」
「え?」
「ずっと心配していただろう」
ルクレツィアの目が少し潤む。
ユリウスは続けた。
「帰ってきた」
「……ええ」
「だから今日は安心して眠れ」
ルクレツィアは小さく笑った。
「そうします」
窓の外では夜風が揺れていた。
久しぶりに。
本当に久しぶりに。
穏やかな夜だった。




