第18.5話 フィノアルディアの子守唄
ノアがまだノアと呼ばれる前のお話。
ほんの少しだけ、お付き合いください。
これは、ノアがまだ誰の記憶にもない——ずっと昔のお話。
ある国に、ひとりの雪豹の獣人の娘がいた。
雪のように白い髪。月光を宿したような肌。淡い紫の瞳。
その娘は、あまりに美しかった。
ただ、それだけの理由で自由を奪われ、狭い部屋に閉じ込められた。美しいものを飾り、所有したがる者たちの手によって、娘は人としてではなく、珍しい宝石のように扱われた。
笑うことも、泣くことも、怒ることも許されなかった。
望まれるのは、ただ美しくあることだけ。
誰かの慰みものとして、誰かの誇示する飾りとして、娘は静かに日々を削られていった。
それでも娘の心の奥には、消えない願いがひとつだけあった。
自由になりたい。
誰のものでもない自分として、生きたい。
そして、ある夜。
娘はすべてを振りきって逃げだした。
お腹には、新しい命を宿していた。
追っ手の松明が、幾度もすぐ背後まで迫った。
怒号が聞こえた。
犬の吠える声がした。
枝に肌を裂かれ、石に足を取られ、それでも娘は走った。
捕まれば、自分だけではない。
このお腹の子まで、あの檻につながれてしまう。
それだけは、なんとしても避けたかった。
幾日も、幾日も。
娘は痛む足を引きずって歩いた。
木の実をかじり、沢の水をすすり、夜は木の根元に身を丸めた。
お腹の子が小さく動くたび、娘は震える手でそこを包んだ。
「大丈夫。大丈夫よ」
自分に言い聞かせるように。
お腹の子に祈るように。
娘は、ただひたすら北を目指した。
人の手の届かない場所。
欲深いまなざしの届かない場所。
この子が、この子として生きられる場所を。
そして、たどりついた。
神獣の森のほとり。
深い緑に包まれたその森は、人の世とは違う静けさをまとっていた。空気は澄み、木々のざわめきには、どこか祈りのような響きがあった。
娘は、森の入り口で力尽きるように膝をついた。
その夜。
木々の静かなざわめきのなかで、娘はひとりきりで子を産んだ。
雪のように白い髪の、女の子だった。
小さな手をにぎにぎと動かして、けんめいに泣いている。
その声を聞いただけで、娘の胸はしあわせでいっぱいになった。
「……ああ。なんて、きれいな子」
娘は我が子を胸に抱いた。
小さな体はあたたかかった。
生きている。
この子は、ちゃんと生きている。
それだけで、涙が止まらなかった。
けれど——娘にはわかっていた。
長い逃避行で、すっかり弱りきった自分の体が、もう長くはもたないことを。
この子を抱いて、育ててやることができないことを。
腕のなかのぬくもりを、手放したくなかった。
このままずっと抱いていたかった。
この子が笑うところを見たかった。
初めて歩く日を見たかった。
言葉を覚え、自分の名を呼んでくれる日を夢見たかった。
けれど、自分が力尽きたあと、この子だけがここに残されたら。
きっとまた、人間に見つかってしまう。
あの、おぞましい檻に連れ戻されてしまう。
それだけは、絶対にいやだった。
「ごめんね……」
娘は小さな我が子を、森の入り口にそっと横たえた。
神気の満ちるこの森なら、きっと人間の欲深い手は届かない。
神獣たちが、この子を守ってくれる。
ここでなら、この子は自由に生きていける。
「ほんとうは……この手で育てたかった」
娘は涙をこぼしながら、我が子の頬を撫でた。
「あなたが笑うところも、歩くところも、初めて歌う声も。ぜんぶ、ぜんぶ、見ていたかった」
小さな赤子は、母の指に触れるように手を伸ばした。
その小さなぬくもりに、娘の心は引き裂かれそうになった。
「ごめんね」
娘は最後の力で、我が子の小さな額に口づけた。
「でも、生きて。なにがあっても、生きて。誰のものにもならず、あなた自身として、しあわせに生きて」
娘は震える声で、その名を告げた。
「フィノアルディア」
それは、娘がこの子に贈れる、最初で最後のものだった。
「雪の光に愛された子。私の、たからもの。私の——フィノアルディア」
その名を残して。
娘は、赤子のそばに小さな布をかけた。
自分の身につけていた、白い布だった。何も持たずに逃げてきた娘が、最後まで手放さなかった唯一のもの。
そこには、雪豹の一族に伝わる小さな紋様が刺繍されていた。
月と雪。
そして、守りの祈り。
「愛してる」
娘はもう一度、我が子に微笑んだ。
「ずっと、ずっと、愛してる」
その声は、子守唄のようにやさしかった。
赤子は泣きやみ、母の声を聞くように、小さく目を閉じた。
やがて娘の姿は、朝もやのなかに溶けるように薄れていった。
最後まで、我が子の寝顔を見つめながら。
泣きながら。
けれど、どこかしあわせそうに微笑みながら。
夜が明けるころ。
森の主が、その子を見つけた。
白い布に包まれた、小さな命。
森の主は、赤子の額に残された母の口づけと、布に込められた祈りを見た。
そして、母の願いを知ってか、知らずか。
その子を短く——「ノア」と呼んだ。
それは、それは大切に。
慈しみ、守り、育てたのだという。
長い名前は、いつしか誰の記憶からも消えてしまった。
けれど。
母の祈りは、きっと今も、あの白銀の光のなかに生きている。
生きて。
自由に。
しあわせに。
その、たったひとつの願いは、二十年の時を越えて、たしかに叶えられたのだから。




