第18話 ほんとうのわたし
よろしくお願いします。
暗い、暗いところだった。
光も、音もない。
ただ、冷たい闇だけが、どこまでも続いている。底も、果てもわからない。時間が流れているのかさえ、もうわからなかった。
ここがどこなのか。
自分がどうしてここにいるのか。
ノアには、それを考える力さえ残っていなかった。
その闇のまんなかで、ノアは小さくうずくまっていた。膝を抱え、顔を伏せて、ただじっとしている。
氷のように冷たい闇が、ゆっくりとノアの輪郭を溶かしていく。指の先から。つま先から。少しずつ、少しずつ、闇に混ざっていくようだった。
『……生まれてこなければ、よかった』
妖精の言葉が、何度も、何度も、頭のなかで響いていた。
『ノアがいるから。みんなが傷つく。れおんも、けがをした。森のみんなも。この国の人たちも。……ノアなんて、いないほうがよかったんだ』
考えるのも、もうつらかった。
このまま闇に溶けて、消えてしまえば。
きっと、楽になれる。
みんなも、しあわせになれる。
だれも、もう傷つかずにすむ。
それでいい。
それが、いい。
ノアはそっと目を閉じた。
あたたかかった記憶も。レオンの顔も。屋敷のみんなの笑い声も。神獣たちのぬくもりも。
全部、遠くなっていく。
指の先が、つま先が、だんだん感覚をなくしていく。自分というものが、ゆっくりほどけて、闇の底へ沈んでいく。
ああ、もうすぐ。
もうすぐ、全部、終わるんだ——。
——その、とき。
ぽつりと、闇のなかに光が灯った。
小さな、小さな光だった。
けれどそれは、凍りついた闇のなかで、たしかにあたたかかった。ノアの消えかけていた意識を、やさしく手招きするように、ゆらゆらと揺れている。
「ノア」
その声に、ノアははっと顔を上げた。
聞き間違えるはずがない。
何度も、何度も、ノアの名を呼んでくれた。世界でいちばんやさしい声。
光のなかから、誰かが歩いてくる。
よく知った、やさしい人が。
「れおん……?」
「やっと見つけた」
光のなかから現れたのは、レオンだった。
けれど、ノアにはそれがすぐには信じられなかった。だって、レオンは屋敷で眠っているはずなのだ。深い傷を負って、苦しそうに息をしていたはずなのだ。
「……れおん、なの? ほんとうに? ノア、夢を見てるの……?」
「夢じゃないよ。ちゃんと、ここにいる。君を迎えに来た」
レオンはうずくまるノアの前に膝をついた。
そして、冷えきったノアの手を、両手でそっと包みこむ。
あたたかい。
凍えた指先に、じんわりとぬくもりが染みてくる。ずっと遠くに行ってしまったと思っていた感覚が、少しずつ戻ってくる。
「こんな暗いところに、たったひとりでいたんだね。こわかっただろう。さみしかっただろう。もう、大丈夫だよ」
「……っ、だめ。れおん、こっちに来ちゃだめ」
ノアは震える声で言った。
握られた手を引き抜こうとする。けれど、レオンの手はやさしく、でも決して離れなかった。
「ノアのそばにいたら……れおんも、きっと不幸になっちゃう。ノアなんて、いないほうがいいんだもの」
「それは違うよ」
レオンの声は静かだった。
けれど、そこには一片の迷いもなかった。
「君がいてくれてよかった。君に出会えて、僕はほんとうによかったと思ってる」
「……うそ。だって、ノアのせいで」
「嘘じゃない」
レオンは、ノアの涙に濡れた頬をそっと撫でた。
その指先は、闇のなかでも変わらずあたたかかった。
「君が来てから、僕の毎日は全部、あたたかくなったんだ」
「……?」
「君が初めて笑ってくれた日のこと。指切りをした、あの夜のこと。家族が君を囲んで笑っていた顔。神獣たちと君がじゃれあう姿。君が小さな手で、僕の袖をつかんだこと。名前を呼んでくれたこと。眠る前に、不安そうに僕を探してくれたこと」
レオンはひとつひとつ、宝物を取り出すように言葉を重ねた。
「全部、僕の大切な記憶だ。君がいたから、僕の世界は明るくなった。君がいたから、帰りたい場所ができた」
「……でも。でも、妖精が言ったの。ノアがいなければ、みんなしあわせだったって。生まれてこなければ、よかったって……っ」
「それは違う」
レオンははっきりと首を横に振った。
「もし君が生まれてこなかったら、僕は君に出会えなかった。あの闇市で、君を見つけた夜。僕の世界は変わったんだ」
闇市。
冷たい檻。
震えていた小さな体。
けれど、こちらを見上げた紫の瞳は、どこか必死に生きようとしていた。
レオンはあの瞬間のことを、今でも忘れていない。
「君がいない世界なんて、僕はもう考えられないよ」
「……っ」
「傷を負ったのは、僕がそう決めたからだ。君を守れたことを、僕は誇りに思ってる。だからね、ノア。お願いだ」
レオンはノアの手を、ぎゅっと握りしめた。
あたたかい、大きな手。
何度もノアの頭を撫でてくれた、あの手だった。
「いなくなろうとか、消えようとか。そんなこと、言わないで」
「……れおん」
「僕は君にいてほしい。これからもずっと、僕のとなりで笑っていてほしいんだ」
ノアの瞳から、ぼろぼろと涙があふれた。
あたたかい。
この手のぬくもりが。この言葉が。凍りついた心のいちばん奥まで染みこんでくる。
妖精の言葉が刻んだ冷たい棘を、ひとつ、ひとつ、溶かしていく。
ひとりじゃない。
ノアはいてもいいんだ。
ここにいて、いいんだ。
だれかに、こんなにも生きていてほしいと願ってもらえる。
それだけで、もう闇はこわくなかった。
『……ノア、生きたい』
はじめて、心の底からそう思った。
『れおんと、いっしょに。みんなと、いっしょに生きたい。もっと、いっしょに笑いたい。指切りした約束も、まだ全部、果たしてないもの』
ノアは握られた手を、今度は自分からぎゅっと握り返した。
冷たかった指先に、レオンのぬくもりが巡っていく。
すると。
あれほど深くノアを覆っていた闇が、すうっと潮が引くように後ずさりはじめた。あたたかな光に追われるように、黒い闇が少しずつ薄れていく。
『行こう、ノア』
レオンの声が、まっすぐに響いた。
その手に引かれて、ノアはゆっくりと立ちあがる。
もう、うつむかない。
顔を上げて、前を見る。
その瞬間。
ふたりのつないだ手から、あたたかな銀色の光があふれだした。
光は、ノアの胸の奥へ流れこんだ。
そこに、小さな種火があった。
いつか森の主が、ノアのひたいに灯してくれた、あたたかな光。その種火が、レオンのぬくもりに触れた瞬間、ふわりと花ひらく。
同時に、見たことのない景色がノアのなかを駆け抜けた。
白銀の雪原。
月光に照らされて走る、美しい獣人たち。
しなやかな尾。雪を踏む足音。神獣たちと寄り添いながら生きる、誇り高い一族。
そして、誰かの声。
——生きて。
——どうか、しあわせに。
遠く、やさしいその声は、ノアを包む銀の光と同じぬくもりをしていた。
ノアは知らなかったはずなのに。
なぜか、懐かしかった。
***
廃城の広間。
レオンの腕のなかで、ノアの体が淡く銀色に光りはじめた。
「……これは」
光はしだいに強くなっていく。
やがてノアの白い肌に、ほのかな銀の斑紋が浮かびあがった。雪の結晶のような。月の光をすくいとって散りばめたような。それは息をのむほど美しい紋様だった。
さっきまで消えかけていた命の灯。
それが今は、その身のうちから、あたたかく清らかな力となって、とめどなくあふれだしている。
そして。
ノアの体が、ゆっくりと変わっていった。
ほっそりとしていた手足が、すらりと伸びやかに。
まだ少女らしさの残っていた顔立ちが、凛と大人びて整っていく。
雪のように白かった髪は白銀の光をまとい、さらりと長く流れ落ちた。
まるで、ほころびかけた蕾が、ゆっくりとひらいて花になるように。
光はいよいよまばゆさを増し、崩れかけた廃城のよどんだ闇を、すみずみまで白く照らしだした。
どこからか、しゃらん、と鈴のような音が聞こえる。
それは、遠い神獣の森に満ちていた、あのあたたかな神気によく似ていた。森の主がノアに託した力。その源が今、ここによみがえったかのようだった。
レオンの腕のなかにいたのは、もう、あのあどけない少女ではなかった。
息をのむほどに美しい、二十歳の乙女。
レオンは、ただ見とれていた。
目の前で起きていることが信じられなかった。けれど、不思議と腑に落ちる気持ちも、どこかにあった。
ああ、そうか。
これが、森の主の言っていた「ほんとうのノア」なのか。
あの夜、闇市で出会った白猫の獣人。その奥にずっと眠っていた、本当の姿。
だが、レオンの胸を強く揺らしたのは、その美しさだけではなかった。
白銀の髪も、透きとおるような肌も、月光のような斑紋も、たしかに目を奪われるほど美しい。
けれど、レオンが見つめていたのは、もっと奥にあるものだった。
腕のなかの彼女が、たしかにノアであること。
それが、どうしようもなく胸を熱くした。
長い睫毛がふるえた。
ゆっくりと瞼がひらく。
あらわれたのは、淡い紫の瞳。
けれどそこに宿る光は、もう、あどけない少女のものではなかった。静かで、聡明な、大人のまなざし。
「……レオン」
その唇からこぼれたのは、澄んだ大人の声だった。
幼く、たどたどしかった話し方は、もうどこにもない。
レオンは目を見開いた。
腕のなかの見知らぬ——けれど、たしかに見知ったその人を、まじまじと見つめる。
「ノア……君、なのか……?」
「うん。……私だよ、レオン」
ノアはふわりと微笑んだ。
その笑みは、たしかにいつものノアのものだった。
けれど、どこか大人びて見えた。
ノアはゆっくりと身を起こし、自分の長く伸びた髪を手に取った。雪のようだった白が、今は月光をすくいとったような白銀に輝いている。
不思議そうに見つめてから、ノアは小さく息を吐いた。
「声も、体も……変わってる。でも、ちゃんとわかるの。これが、本当の私なんだって」
「本当の……君」
「うん」
ノアは、自分の手のひらを見つめた。
銀の斑紋が淡く光っている。その光を見つめているうちに、すべてがすとんと胸に落ちてきた。
自分がいったい何者なのか。
なぜこの力が目覚めたのか。
「ごめんね。心配かけて。……もう大丈夫。私、目が覚めたの。ほんとうの私に」
その声も、しぐさも、すっかり大人のものだった。
けれど、レオンを見上げる瞳のまっすぐさだけは、あの頃のノアと何ひとつ変わっていなかった。
「私は……雪豹の獣人。神獣の森に連なる、めずらしい種族なの。だから、あの森の濃い神気のなかでも生きていられた」
「雪豹の……獣人」
「うん。雪と月の神気に近い一族。神獣たちとともに森を守り、森の主に仕えてきた、古い血筋」
ノアの声は静かだった。
けれど、その奥には、自分でもまだ受け止めきれないほどの記憶が揺れていた。
「でもね、レオン。私たちは、もうほとんどいなくなってしまったの」
ノアの声が、少し翳る。
「たぶん、今生きているのは、私ひとりだけだと思う」
「……っ」
レオンは言葉を失った。
たったひとり、生き残ってしまった。
その静かなひと言が、どれほどの重さを抱えているのか。軽々しく慰めることなどできなかった。
だからレオンは、ただノアの手を握った。
ノアはそのぬくもりに励まされるように、もう一度、顔を上げた。
「そして、あの子が——妖精が私をあんなに憎んだ理由も、今ならわかるの」
ノアは、高みで息をひそめる闇のほうへ静かに目を向けた。
「雪豹の一族は、森のなかでも特別だった。生きているだけで、神気をまとい、花や獣たちに祝福される存在だった。きっと、あの子はずっと、それが許せなかった」
闇の奥で、妖精の気配がぴくりと揺れる。
「私がただ生きて、きれいに育っていくことが。あの子の——“いちばん”の座を奪ってしまうから」
レオンはしばらく言葉を失っていた。
けれど、やがてノアの頬に手を添える。
「君が何者でも。たとえ世界にひとりきりの雪豹でも。僕の気持ちは何も変わらないよ」
「レオン……」
「君は、僕の大切なノアだ」
たったひとりになるまで、この子はどれほどの悲しみを背負ってきたのだろう。
そう思うと、レオンの胸は強く締めつけられた。
「でも、もう君はひとりじゃない。これからは僕が、何があっても君を守るから」
「……ありがとう、レオン」
ノアはその手に頬を寄せた。
あたたかい。
この手のぬくもりは、姿が変わっても、何ひとつ変わらない。
「ふしぎ。体はこんなに大人になったのに、レオンのことが好きな気持ちだけは、なんにも変わらないの」
ノアはくすりと笑った。
その横顔は大人びている。
けれど、まなざしには、あの頃のノアのまっすぐさが確かに残っていた。
レオンは一瞬、言葉を失った。
幼い姿のノアから向けられていた好意は、守りたいという感情に近かった。愛おしくて、放っておけなくて、ただ大切にしたいと思っていた。
けれど今、目の前にいるノアは違う。
大人の姿で、まっすぐに自分を見つめている。
その瞳に宿る想いが、同じ言葉でもまったく違う重みを持って胸に届く。
「……どうしたの?」
「いや」
「?」
「その姿に、まだ慣れなくて」
レオンが少しだけ視線をそらすと、ノアはぱちぱちと瞬きをした。
それから、ほんのり頬を染める。
「……変、かな」
「違う」
レオンはすぐに首を振った。
「とても、きれいだ」
ノアの頬が、さらに赤くなった。
その反応だけは、やっぱりノアだった。
レオンは思わず、やわらかく笑った。
そしてノアも、少し恥ずかしそうに笑った。
その胸の奥に、あふれるあたたかな力を、ノアははっきりと感じていた。
森の主がいつか、ひたいに灯してくれた種火。
それが今、ようやく花ひらいたのだ。
守りたい人がいる。
守りたいものがある。
だから、こんなにも力が湧いてくる。
『……森の主さま。あなたが言っていた、「ふたりでひらく扉」って。きっと、これだったんだね』
ノアは心のなかで、遠い森の大きな存在にそっと語りかけた。
ひとりでは決して開かなかった扉。
レオンが隣にいてくれるから。
レオンを想う気持ちがあるから。
だからこそ、この力は目を覚ました。
***
「——いやよ……っ、いや、いやッ……!」
高みから、引き裂くような叫びが降ってきた。
妖精だった。
闇のもやをわなわなと震わせ、ノアの本当の姿を見下ろしている。
「なんで……っ、なんで、あなたがそんなにきれいなの……!? みとめない……みとめないわ、そんなの……!!」
妖精の声は、もはや言葉というより悲鳴に近かった。
ノアのあまりに気高く、美しい姿。
それは、妖精がずっと恐れ、憎みつづけてきたもの——自分の“いちばん”の座を奪っていく存在の、まぎれもない完成形だった。
「わたしの……わたしのものだったのに……! いちばんきれいなのは。いちばん愛されるのは。ぜんぶ、わたしのはずだったのにッ……!!」
闇が、ぶわりと膨れあがった。
さっきとは比べものにならない量の黒いもやが、広間ぜんぶを呑みこむように広がっていく。
怒り。
嫉妬。
孤独。
長いあいだ喰らいつづけてきた人々の憎しみ。
そのすべてが混ざり合い、巨大な闇となって、妖精の背後で渦を巻いた。
けれど。
ノアはもう、怯えなかった。
レオンの腕からそっと離れ、自分の足で立ちあがる。
白銀の髪が、ふわりと舞った。
その姿は凛として気高く、まるで夜空に立つ一筋の月の光のようだった。
レオンは思わず見とれた。
けれど、すぐにはっと剣を握りなおす。
彼女をひとりで戦わせはしない。
ノアは迫りくる闇に、まっすぐ手をかざした。
「もう、こわくない」
静かな声だった。
だが、その声は闇に飲まれなかった。
「あなたの言葉に、私はもう惑わされない」
ノアの全身から白銀の光があふれだす。
その光が、押し寄せる闇の第一波を正面から受けとめた。
ぶつかり合う光と闇。
広間ぜんぶが、白と黒のせめぎ合いに揺れる。
「レオン」
「ああ。ひとりにはしない。ずっと、君のとなりにいる」
ノアのとなりに、アルバの大剣を構えたレオンが並ぶ。
剣はノアの光に呼応するように、いっそうまばゆく銀色に輝きだした。
「みとめない……みとめないッ……! あなたなんか……あなたなんか、消えてしまえッ……!!」
妖精が咆哮した。
膨れあがった闇が、いっせいに牙をむく。
無数の黒い触手。
鋭いいばらの鞭。
獣の爪のような影。
それらが四方八方から、ふたりめがけて殺到した。
レオンは一歩前へ出た。
アルバの大剣が銀の弧を描く。
迫る触手がまとめて斬り払われ、黒いもやとなって散った。けれど、闇は切られたそばから形を変える。触手は鞭となり、鞭は刃となり、刃は足もとから伸びる影となってふたりを絡め取ろうとした。
「——っ!」
レオンの腕に重い衝撃が走る。
闇の刃を受け止めた剣が、ぎり、と鳴った。
半月のあいだ、人々の憎しみを喰らいに喰らって肥えた闇。その力は凄まじかった。ノアの光を押し返し、レオンの剣を飲みこもうと蠢いている。
「レオン、後ろ!」
ノアの鋭い声。
レオンの背後に忍び寄っていた闇の刃が、ノアの放った白銀の光に撃ち抜かれ、霧散する。
「助かった」
「ううん。私こそ」
ノアの足もとに絡みつこうとした闇も、レオンの剣がすかさず断っていた。
守られ、守り。
背中を預け合いながら、ふたりは嵐のような闇の只中で、一歩も引かずに立ちつづけた。
戦っているはずなのに、不思議と恐怖はなかった。
ノアには、レオンのいる場所がわかった。
振り返らなくても、彼がどこで剣を振るっているのかがわかる。彼が何を守ろうとしているのかが、胸の奥に伝わってくる。
レオンも同じだった。
ノアの光がどこへ伸びるのか。次にどの闇を払おうとしているのか。それが言葉にしなくてもわかった。
ふたりの呼吸が、少しずつ重なっていく。
剣と光。
守る力と、断つ力。
ふたつは、はじめからそうあるべきだったかのように噛み合っていた。
「……まだまだ、よッ!」
妖精が両の腕を高々と掲げた。
すると、広間じゅうの闇という闇が、その一点へと集まりだす。
ぐるぐると渦を巻き、みるみる巨大な黒い津波となっていく。天井を覆い、壁を軋ませ、すべてを呑みこもうと、ふたりの頭上から襲いかかってきた。
「来るぞ、ノア!」
「うん……っ! レオン、いっしょに!」
ノアは両手をひろげた。
ありったけの想いを込める。
レオンはその隣で、アルバの大剣をまっすぐ天へと掲げた。
ノアの白銀の光と、剣の銀の輝きが溶け合う。
そして、ひとつのまばゆい光の柱となった。
——ふたりで、ひらく扉。
森の主のあの言葉は、きっとこのことだったのだ。
黒い津波と、白銀の光が正面から激突する。
広間が震えた。
床石が砕け、窓枠が軋み、崩れかけた天井から細かな砂が降る。
闇が光を呑もうとする。
光が闇を押し返そうとする。
ノアの足が、ずる、と後ろへ滑った。
その背を、レオンが支える。
「ノア!」
「大丈夫……っ」
レオンの腕が軋む。
その痛みを、ノアの光が包みこむ。
レオンは歯を食いしばり、剣を支えた。ノアは震える両手を、それでも下ろさなかった。
負けない。
ここで負けたら、また闇に飲まれてしまう。
もう二度と、あの暗い場所へは戻らない。
レオンのとなりで生きると、決めたのだから。
「……私は、生きる」
ノアの声が、光のなかに響いた。
「レオンと。みんなと。これからも、生きていく!」
その瞬間、白銀の光がいっそう強く輝いた。
じり、じり、と。
光が、闇を押しはじめる。
「いや……いやよ……! やめて……っ!」
妖精の声が揺れた。
堰を切ったように、白銀の光が黒い津波をまるごと呑みこむ。
闇は悲鳴のような音を立て、霧散した。
「そん、な……っ」
妖精の闇が、みるみる薄くなっていく。
あれほど無尽蔵に見えた黒いもやが、もうほとんど残っていない。
立場は完全に逆転した。
ノアの光が、痩せ細った闇を白く照らしだす。その奥にひそむ妖精の本体が、ようやくあらわになった。
レオンの大剣が、すかさずそこへ斬り込んでいく。
光と剣。
守りと攻め。
ふたつがぴたりと噛み合い、じわじわと妖精を追いつめていった。
ノアが一歩踏みだせば、レオンも同じだけ踏みだす。
レオンが剣を振るえば、ノアの光がその背を守る。
まるで、ずっと前からこうして並んで戦ってきたかのように、ふたりの呼吸は合っていた。
たがいを信じているから。
たがいのいる場所を、誰よりもわかっているから。
「なぜ……っ、なぜそんなに強いの……!? あなたは……ずっと、ひとりだったはずなのに……!」
妖精の声が悲鳴に変わる。
ノアは、その叫びに胸を締めつけられた。
闇の奥で震える妖精の気配。
そこには、怒りだけではないものがあった。
置いていかれたさみしさ。
誰かに見てほしかった痛み。
自分より美しいものが現れるたびに、自分の価値が消えてしまうような恐怖。
それはきっと、長い長い時間をかけて、妖精の心を蝕んできたものだった。
「……ひとりじゃないからだよ」
ノアは静かに答えた。
「あなたも、ほんとうは、ひとりになりたかったわけじゃないんだよね」
「……っ」
「ただ、さみしかった。誰かに、いちばんに見てほしかった。愛してほしかった。それだけなんだよね」
「黙って……」
「森で歌っていたころのあなたは、きっと、とてもきれいだった。みんながあなたの歌を好きだった。あなたも、それがうれしかった」
「黙ってよ……!」
「でも、いつか誰かが、あなた以外のものを見た。あなたより新しいものを、あなたより弱いものを、あなたより守りたいものを見た。それが、こわかったんだね」
「黙れって言ってるでしょうッ……!!」
妖精が最後の力を振りしぼった。
残っていた闇のすべてを一点に束ね、ノアめがけて叩きつける。
それは、これまででいちばん大きく、いちばん必死な一撃だった。
けれど、ノアは一歩も退かなかった。
「ごめんね」
ノアは両手を広げた。
「気づいてあげられなくて。あなたの、そのさみしさに」
白銀の光が、ふわりと広がった。
押し寄せた闇は、その光に触れたとたん、みるみる勢いを失う。
憎しみがほどける。
嫉妬が薄れていく。
黒いもやは霧のように散り、あたたかな光のなかで形を失っていった。
もう、妖精にはノアを傷つける力は残っていなかった。
***
ノアは両手を胸の前で合わせた。
あふれていた白銀の光が、しだいに一点に集まっていく。そして、レオンの掲げたアルバの大剣へと、すうっと宿った。
古い刃が、銀色に澄んで輝きだす。
——この大剣は、かつて闇に堕ちた神獣を討つために、森の主たちが力を寄せ合って鍛えたもの。
けれど、それはただ滅ぼすための剣ではなかった。
憎しみに囚われたものを、その苦しみごと断ち、やすらかな眠りへと還してやるための剣。
やさしい剣だったのだ。
だから、ノアは願いを込めた。
「これで……終わりにしよう」
ノアの瞳に涙がにじむ。
憎い相手のはずだった。
あれほど自分を苦しめた相手のはずだった。
それなのに、どうしてか涙が止まらなかった。
「もう、苦しまなくていいから。だれかを憎まなくていいから。どうか、安らかに眠って」
ノアは震える声で続けた。
「ほんとうは、あなたも。歌うのが好きな、やさしい子だったんだよね」
「……っ、ぁ……」
妖精のもやが、一瞬びくりと震えた。
まるで、その言葉に何か遠い、懐かしいものを思い出したかのように。
これまで憎しみだけだった気配が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
その瞬間、ノアの脳裏に、ひとつの景色がよぎった。
緑の深い森。
光の粒が舞う泉のほとり。
そこに、ひとりの妖精がいた。
透きとおる羽をきらきらと輝かせ、楽しそうに歌っている。神獣たちが耳を澄ませ、小鳥たちが枝に集まり、花々がその歌に合わせるように揺れていた。
——きれい。
——あなたの歌が、いちばん好き。
誰かの声がする。
妖精はうれしそうに笑っていた。
あのころの彼女は、誰かを憎んではいなかった。
ただ、歌うことが好きだった。
褒められることがうれしかった。
愛されていると信じていた。
けれど、いつしかその喜びは、恐れに変わった。
自分より美しいものが現れたら。
自分より愛されるものが現れたら。
自分は、もう見てもらえないのではないか。
その恐れが、長い時間をかけて彼女を闇へ落としていった。
ノアは涙をこぼした。
「……もう、大丈夫だよ」
レオンがノアと目を交わす。
ノアがこくりとうなずいた。
レオンは銀に輝く大剣を、天へと振りかぶる。
その刃に宿る光は、冷たくはなかった。
あたたかく、静かで、祈りのようだった。
そして、レオンはひと息に剣を振り抜いた。
まばゆい光の奔流が、闇のもやをまっすぐに貫く。
「——ぁ」
その瞬間。
黒いもやの奥に、ほんの一瞬だけ見えた。
かつての妖精の姿。
きらきらと羽を輝かせた、小さな妖精。
森でいちばん美しいと讃えられていた、あのころの姿。
その顔は、泣いているような、それでいてどこかほっとしたような表情をしていた。
長い、長い憎しみから、やっと解き放たれたかのように。
そして、その姿は無数の小さな光の粒となって、ふわりとほどけた。
あたたかな空気に溶けて、夜明けの光のなかへ消えていく。
まるで、はじめから憎しみなどなかったかのように。
あとには、ただ、しんとした静けさだけが残された。
***
崩れかけた廃城の窓の外。
いつのまにか夜が明けていた。
やわらかな朝の光が、壊れた窓から差しこんでいる。
長い、長い夜が、ようやく終わったのだ。
「……終わった、ね」
ノアがぽつりとつぶやいた。
その頬を、つうと涙が伝う。
一粒。また一粒。
とめどなく、こぼれ落ちていく。
「でも……かなしいの、レオン」
ノアは胸に手を当てた。
「あの子は、ただ愛されたかっただけなのに。だれかに、いちばんに見てほしかっただけなのに。それだけのことが、あの子にはどうしても手に入らなくて……だから、あんなふうになるしかなかったんだね」
レオンはそっとノアを抱き寄せた。
すっかり大人びたその体を、やさしく腕のなかに包む。
けれど、泣き方は出会ったころと少しも変わっていなかった。
声を殺そうとして、でも堪えきれなくて、肩を震わせて泣いている。
「君は、最後の最後まで、あの子のことを想っていたんだね」
「うん。だって、ほうっておけないもの」
ノアはレオンの胸に額を寄せた。
「もし、あの子のそばにひとりでも味方がいてくれたら。あの子に、あなたはそのままでいいんだよって言ってくれる人がいたら。きっと、こんなことにはならなかった」
「やさしいね、ノアは」
レオンはノアの白銀の髪をそっと撫でた。
「ほんとうに、やさしい」
「やさしくなんかないよ。私、こわかった。あの子の言葉に傷ついて、消えたいって思った。レオンが来てくれなかったら、きっと戻れなかった」
「それでも、最後に君はあの子を憎まなかった」
レオンの声は静かだった。
「それは、とても強いことだよ」
ノアは答えられなかった。
ただ、レオンの胸に顔をうずめて泣いた。
勝ったという喜びより、ひとつのさみしい魂を見送った悲しみのほうが、ずっと、ずっと大きかった。
レオンは何も急かさなかった。
ただ黙って、その震える背中を撫でつづけた。
夜明けの光が、ふたりをやさしく包んでいる。
長い夜は終わった。
あたたかな朝が来たのだ。
やがてノアの涙が少しおさまったころ、レオンはそっとその手を取った。
「帰ろう、ノア。みんなが待ってる」
「……うん」
ノアはぐすっと鼻を鳴らした。
それから、はにかむように笑う。
「きっと、びっくりするね。私、こんなに大人になっちゃったから。ロザリオねえさまも、カティアねえさまも。テオたちも」
「そうだね。でも、すぐにわかるよ」
「ほんとう?」
「ああ。だって君は、どんな姿でも全部、ノアだ」
ノアは少し照れたように笑った。
その笑顔を見て、レオンは胸の奥があたたかくなるのを感じた。
けれど同時に、少しだけ困った。
今までと同じように頭を撫でようとして、ふと手が止まる。
「……レオン?」
「いや」
「また?」
「その……どこまで今まで通りにしていいのか、少し迷っている」
ノアは一瞬きょとんとした。
それから、自分が大人の姿になっていることを思い出したのか、ふわりと頬を赤くする。
「私は、今まで通りがいい」
「……そうか」
「うん。レオンの手、好きだから」
まっすぐに言われて、今度はレオンのほうが少しだけ視線をそらした。
ノアはそんなレオンを見て、くすりと笑った。
そして、自分から少しだけ頭を差し出す。
「だから、撫でて?」
レオンは小さく息を吐き、やさしくノアの髪に触れた。
白銀の髪は、朝の光を含んでさらさらと指をすべる。
姿は変わった。
声も変わった。
けれど、そこにいるのは間違いなくノアだった。
レオンが大切にしたいと願った、たったひとりの人だった。
「帰ろう」
「うん。帰ろう、レオン」
ふたりは手をつなぎ、崩れかけた廃城をあとにした。
外には、見わたすかぎりの朝が広がっていた。
やわらかな光が、ノアの白銀の髪をきらきらと照らしている。
それは、長い悪い夢からようやく覚めたあとの、新しい一日のはじまりのようだった。
ノアは一度だけ振り返った。
廃城は、朝の光のなかで静かに佇んでいる。
もう、あの重たい闇の気配はなかった。
「……さようなら」
ノアは小さくつぶやいた。
憎しみに囚われた妖精へ。
そして、闇のなかで消えようとしていた自分自身へ。
もう戻らない。
もう、ひとりで沈まない。
隣にはレオンがいる。
帰る場所がある。
待ってくれている人たちがいる。
ノアはつないだ手に、そっと力を込めた。
レオンも、同じように握り返してくれた。
ふたりの長い戦いは、こうして静かに幕を下ろした。
そして、新しい朝がはじまった。
——第18話 了




