第17話 廃城の闇
月のない、夜だった。
星さえ、分厚い雲に、隠されて。世界ぜんぶが、墨を、流したように、暗い。
ノアはたったひとり。森の外れへと続く、暗い道を、歩いていた。冷たい夜気が、薄い夜着の、すそを、揺らす。屋敷を、抜け出すとき、上着を、羽織るのも、忘れていた。けれど、寒さも、もう、感じなかった。胸のなかが、それ以上に、ひりひりと、痛んでいたから。
手には、灯りも、ない。けれど、不思議と、足は、迷わなかった。胸の奥が——いや、もっと、深いところが。引き寄せられるように、ある一点を、指している。あの妖精のいる場所を。同じ森から、来たものどうし。惹かれ合うように、ノアには、それが、わかった。
『……れおん。ごめんね。勝手なこと、して』
歩きながら、ノアは何度も、心のなかで、謝った。眠るレオンの安らかな寝顔が、目に焼きついて、離れない。あの傷。あの、血の色。あれは、ぜんぶ、ノアのせいだ。これ以上、れおんを。みんなを。傷つけさせるわけには、いかない。
だから——ひとりで、行く。
森の主は言っていた。ふたりで、なら、と。ひとりでは、だめだと。それは、わかっている。わかっているけれど。
『……それでも。ノアはれおんを、守りたいの』
夜風が、冷たく、頬を、撫でた。ひとりきりの夜は、こんなにも、こわい。出会うまえの、闇市の檻のなかを、思い出す。あのころは、ずっと、ひとりだった。怯えて、震えて、誰も、助けてくれなかった。
けれど、もう、ちがう。ノアには、帰る場所が、ある。れおんが、いる。あたたかな、家族が、いる。守りたいものが、できた。だから——こわくても、歩ける。
『だいじょうぶ。ノア、ひとりじゃない。……れおんが、くれた勇気が、ちゃんと、ここにあるもの』
ノアは胸に手を当て、自分に、言い聞かせた。指切りをした、あの夜の約束。「世界でいちばん可愛い」と、笑ってくれた、あの声。ぜんぶ、お守りみたいに、抱きしめて。
やがて行く手に。それは、姿を、現した。
打ち捨てられた、古い城。崩れかけた尖塔。割れた窓。蔦に覆われた、灰色の壁。かつては、誰かの、にぎやかな住まいだったのだろう。けれど今は——濃い、濃い、闇が。城ぜんぶを、ぬめるように、包み込んでいた。生きものの気配は、なく。鳥の声ひとつ、しない。ただ、しんと、死んだような、静けさだけが、満ちている。
近づくだけで、肌が、ぞわりと、粟立つ。空気が、重い。息を吸うだけで、胸の奥に、黒いものが、忍び込んでくるような。ここに、長くいてはいけない。本能が、そう、告げていた。
ノアはごくり、と、喉を鳴らした。それでも。震える足を叱咤して、一歩、踏み出す。
「……いる、んだよね。ここに」
ぎい、と。朽ちた城門が。ひとりでに、ひらいた。まるで、ノアを招き入れるように。奥から、ねっとりとした、闇が、こぼれ出す。
ノアはひとつ、深く、息を吸って。その闇のなかへと、足を、踏み入れた。
***
城のなかは、闇だった。
昼か、夜かも、わからない。窓から、月明かりも、差し込まない。ただ、深い、深い、闇。足もとも、ろくに、見えない。それなのに、ノアの足は、迷わなかった。胸の奥の、引き寄せられる感覚が。いっそう、強く、なっていく。
崩れた石畳。剥がれ落ちた、壁の装飾。ぼろぼろの、垂れ幕。かつての、栄華の、なれの果て。そのあいだを、ぬるりとした闇が、生きもののように、這いまわっている。
ノアが進むと。闇のあちこちで、ちいさな気配が、ざわめいた。くすくす。ひそひそ。耳ざわりな、囁きが、四方から、まとわりついてくる。妖精が操り、引き連れてきた、ちいさな悪意の、群れ。けれど、それらは、ノアに手出しは、しない。ただ、奥へ、奥へと、誘うように。
やがてノアは広間と、おぼしき場所へ、たどり着いた。
そこに。
いた。
「……来たのね、ノア」
黒い、もやの、かたまり。かろうじて、人のかたちを、保った、それが。ゆらり、と闇のなかで、揺れた。姿は、もう、おぼろげなのに。声だけが、やけに、なまめかしく、響く。
「ひとりで。ちゃんと、約束を、守って。……ふふ。いい子。ほんとうに、いい子ね」
「……あなたを、止めに来たの」
ノアはありったけの勇気を、ふりしぼって、言った。
「もう、誰も、傷つけないで。みんなを、自由にして。……お願い。もう、こんなこと、やめて」
言いながら、ノアの胸は、痛んでいた。目の前の、黒いもやのかたまり。そこに、もう、あのきれいな子の面影は、ない。歌が、上手で。きらきらと、笑っていた、あの子は。憎しみを、喰らいすぎて。自分の姿さえ、なくしてしまった。
『……あなたは、ほんとうは。こんなふうに、なりたかったわけじゃ、ないんでしょう』
「やめて?」
もやが、ぐにゃり、と歪んだ。笑った、らしい。
「ふふ、ふふふ。やめるわけ、ないでしょう。だって、わたしは。あなたの、苦しむ顔が。あなたの、大切なものが、こわれていくのが。……たまらなく、たまらなく、見たいんだもの」
「……っ、そんなこと、言わないで」
ノアは首を、横に振った。
「あなただって、ほんとうは。さみしいだけ、なんでしょう。ずっと、ひとりで。誰かに、見てほしくて。……ねえ、もう、やめよう。いっしょに、森に、帰ろう?」
「——黙れ」
もやが、どす黒く、脈打った。
「その、わかったような口が。いちばん、腹立たしいのよ……!」
もやの奥から、ぎらり、と、憎しみが、噴き出す。
「いっしょに帰ろう、ですって? 今さら……今さら、そんなこと。あなたが、来るまで。あの森は、わたしの、場所だったの。いちばん美しいって。いちばん歌が上手だって。みんなが、わたしを、見てくれた。……それを、ぜんぶ。あなたが、奪ったのよ」
ノアは首を、振った。ちがう。ノアは何も、奪ってなんか。けれど、妖精には、もう、その声は、届かない。
「あなたは、ただ、そこにいるだけで、よかった。何もしなくても、みんなに、愛された。……わたしが、どれだけ、努力しても、手に入らなかったものを。あなたは、生まれながらに、持っていた。……ねえ、それが。どれだけ、惨めか。あなたに、わかる?」
その叫びは。憎しみの皮を、かぶった、痛々しいほどの、孤独だった。ノアの胸は、締めつけられる。それでも——もう、言葉で、止められる段階は、とうに、過ぎていた。
***
黒い、もやが。ぶわり、と、ふくれあがった。
その一部が、無数の、触手のように、伸びて。ノアめがけて、襲いかかる。
「……っ!」
ノアはとっさに、両手をかざした。胸の奥の、ちいさな力の芽。それを、必死にたぐり寄せる。淡い、銀色の光が、ノアを包んだ。伸びてきた闇の触手が、その光に触れて——じゅっ、と音を立てて、わずかに、ひるむ。
「……っ、まだ、いける」
ノアはレオンを想った。みんなを想った。シャルの言葉を、思い出す。誰かを心から想ったとき、力はいちばん強くなる、と。だから、必死に、想いを、かき集めた。光が、ほんの少し、強くなる。闇を、押し返す。
けれど。
ひるんだのは、ほんの一瞬だった。
「あらあら。健気ねえ」
闇は、すぐに勢いを取り戻した。それどころか、二倍にも、三倍にも、ふくれあがる。城の天井を、ぜんぶ、覆い尽くすほどに。ノアのちいさな光など、夜にともった、ひとつの蝋燭のよう。あっという間に、押し包まれていく。
「言ったでしょう。あなたの力は、まだ、芽が出たばかり。森の主がいくら、肩入れしたって。……たったひとりで、わたしに、敵うはず、ないじゃない」
闇の触手が、ノアの手足に、絡みついた。冷たい。氷のように。いや——氷よりも、ずっと、おぞましい。生気を。ぬくもりを。希望を。じわじわと、吸い取っていくような、感触。
「あ……っ、はなして……っ」
ノアはもがいた。けれど、もがけば、もがくほど。闇は、いっそう、強く、締めつけてくる。指の先から。つま先から。あれほど、あたたかかった、銀の光が。すうっと、闇に、吸われていく。力が、抜けていく。
『……だめ。このままじゃ。……でも、どうしたら』
ふたりで、なら。森の主の言葉が、よぎる。けれど、ここに、れおんは、いない。ノアがひとりで、来てしまったから。
『……ノアがひとりで、来ちゃったから……っ』
助けて。そう、叫びたかった。れおん。シャル。ゼル。森の主さま。——けれど、誰も、いない。この、深い闇のなかには、ノア、ただひとり。約束を守って、誰も、連れてこなかった。守りたかったから。みんなを、巻き込みたく、なかったから。
その選択が、今。ノアをたったひとりで、絶望の底へと、突き落とそうとしていた。
***
ずるずる、と。ノアは闇の中心へと、引きずり込まれていった。
黒い、もやの、ただなかで。妖精の声だけが、すぐ、間近で、ささやく。耳もとで。心の、奥底で。
「ねえ、ノア。知ってる? ……今、この国が、こんなにも、こわれてしまったの。ぜんぶ、ぜんぶ、あなたの、せいよ」
「……ち、がう……」
「ちがわないわ。あなたが、いるから。わたしは、あなたを憎んだ。あなたを憎んだから。わたしは、こんなふうに、なった。……つまり、すべての、はじまりは。あなた、なのよ」
「……っ」
「あの、やさしい騎士さま。深手を負ったでしょう? 血を流して。苦しんで。……あれも、あなたが、いたから。あなたを守ろうとしたから。ねえ、わかる? あなたが、そばにいるだけで。大切な人は、傷ついて、いくの」
ノアの胸が。ぎりぎりと、軋んだ。やめて。聞きたくない。けれど——その言葉は。ノアがいちばん、こわれそうな、いちばん柔らかいところを。的確に、抉ってきた。
よみがえる。脇腹から、流れた、赤い血。苦痛に歪んだ、れおんの顔。泣いていた、リナ。やつれた、ロザリオ。荒れ果てた、王都。淀んだ、人々の目。
——もし。ノアが闇市で、れおんに、買われなかったら。ノアがこの国に、来なかったら。そうしたら。れおんは、あんな傷を、負わなかった。みんなは、おだやかに、暮らしていた。
「あなたなんて、生まれてこなければ。よかったのよ。そうすれば。森の、あの子たちも。この国の、人たちも。あの騎士さまも。……誰も、傷つかずに、すんだ」
「……ぁ」
「あのとき、わたしが、あなたを、人間の世界に捨てたのは。きっと、正しかったの。あなたは、どこにいても。誰かを、不幸にする。そういう、存在なのよ」
ノアの瞳から。つう、と、涙がこぼれた。
ちがう、と、言いたいのに。声が、出ない。胸の奥に、ずっと、しまっていた、いちばん、こわい考えを。妖精に暴かれて、しまった。——ノアがいなければ。みんな、しあわせ、だったのかもしれない。
「ね、そうでしょう? あなたも、ほんとうは、わかっているのよ。だから——もう、いいの。ぜんぶ、わたしに、あずけて。あなたは、消えてしまえば。それで、みんな、楽になる」
闇のなかに、ぼんやりと、いくつもの、まぼろしが、浮かんだ。妖精が見せているのだ。——燃える、王都。泣き叫ぶ、人々。剣を、向け合う、騎士たち。倒れた、誰か。そのまぼろしのなかで、誰もが、ノアを責めるように、こちらを、見ていた。
『……ノアのせいで』
ちがう、と、思いたい。けれど、否定する、力が、もう、ない。まぼろしは、ノアのいちばん、暗い場所に、どんどん、爪を、立てていく。
甘い、甘い、囁きが。氷のように、冷たい囁きが。ノアのこころに、しんしんと、降り積もっていく。
力が、抜けていく。光が、消えていく。闇が、心の、すみずみまで、染み込んでくる。抗おうという気持ちさえ、もう、わいてこない。
『……そうなのかな。ノア、なんて。いなければ、よかったのかな』
その瞬間。
ノアを包んでいた、銀色の光が——ふっとかき消えた。
***
廃城の、闇のなか。
光を失ったノアは。ぐったりと、闇に、囚われていた。
「ふふ。いい顔。やっと、その顔が、見られた」
妖精のもやが。とろり、と、ノアの頬を、撫でる。氷のように、冷たい感触。けれど、ノアには、もう、それを払いのける力すら、なかった。
「絶望した、顔。すべてを、あきらめた、顔。……ずっと、ずっと、見たかったの。あなたの、その顔を。森のみんなに、ちやほやされて。騎士さまに、溺愛されて。……いつも、しあわせそうだった、あなたの。こういう、顔が」
「……」
ノアはもう、何も、言い返さなかった。涙だけが、止めどなく、頬を、伝う。心の灯が、ふっ、ふっ、と、消えかけている。
「さあ、ノア。もう、楽になりましょう。あなたの、その、やさしくて、おせっかいな心ごと。……わたしが、ぜんぶ、もらってあげる」
闇が。ノアの胸の中心へと。ゆっくりとゆっくりと手を、伸ばす。一刻も、惜しむように。その絶望を、味わい尽くすように。ノアのいのちの灯を。その、あたたかな心を。今にも、握りつぶそうと。
ノアはもう。抗う力も、残っていなかった。ただ、ぼんやりと、闇を、見つめる。
——それでも。
こんなときでも。ノアの心の、いちばん奥には。ちいさな、ちいさな、灯が。まだ、消えずに、残っていた。
『……かわいそうな、妖精。こんなになるまで、ひとりで。さみしかったんだね』
握りつぶされる、まさにその瞬間まで。ノアは自分を苦しめる相手のことを——憐れんでいた。その、やさしさだけは。どんな闇にも、染められなかった。
そして。消えゆく意識の、その、いちばん奥で。ノアはたったひとつのことだけを、想っていた。
会いたい。
『……れおん。最後に、もう一度。あなたに、会いたかったな』
その、ちいさな、けれど、なによりもつよい想いが。
闇をすり抜け。夜を越え。遠く、遠く——眠れる騎士の胸へと。確かに、届いた。
***
クライン公爵邸。
深い眠りの底で。レオンはもがいていた。
番の絆を通して、流れ込んでくる、ノアの想い。——会いたかった。その、あきらめの響きが。レオンの胸を、焼く。
『だめだ……っ、そんな声を、出すな……! 僕は、ここにいる……!』
けれど、ノアのかけた、やさしい眠りは、深く。指一本、動かせない。
——と。
その寝室の扉が、静かに、ひらいた。黒いマントの人影。腕には、長い布に巻かれた、なにか。それが、かたかた、かたかた、と、激しく、震えている。
人影は、その包みを、レオンの枕もとに、置いた。とたん、布の隙間から、まばゆい光が、あふれ出す。番の絆の、呼び声と。その光とが、重なって——眠りの鎖を、内側から、砕いた。
「……っ、は……!」
レオンの瞼が、かっと、ひらいた。跳ね起きる。そして、枕もとに立つ人物を見て、目を見張った。
「……陛下!? なぜ、こんなところに……」
「久方ぶり、と挨拶している暇は、なさそうだな」
供も連れず、たったひとり。王の威儀も、かなぐり捨てて。アルノーは自ら、この夜更けの寝室まで、来ていた。
「お前の番が、ひとりで、あれのもとへ、向かった。お前は、眠らされていた。……だが、こいつが、どうしても、お前を起こしたいと、暴れてな」
アルノーは枕もとの、布の包みを、目で示した。
「我が家に、代々、託されてきた——アルバの大剣だ。かつて、闇に堕ちた神獣を討つために。森の主をはじめ、数多の神獣が、力を寄せ合って、鍛えたと、伝わっている。……歴代の、どの王も、振るえなかった。この私も、何度、手にしたことか。だが、ついぞ、応えては、くれなんだ。それが——今夜は、ずっと、こうだ」
布の包みは、かたかた、かたかた、と。早く、と急かすように、震え続けている。
「……これが、僕に?」
レオンが手を伸べる。布をほどくと、古い、けれど、気高い、一振りの剣が、姿を現した。柄を握った、その瞬間。剣は、よろこぶように、共鳴し、レオンの手に、しっくりと、なじんだ。
「ほう。……やはり、お前か」
アルノーがふ、と、口もとを、ゆるめた。けれど、その目は、真剣だった。
「剣でも、兵でも、私の権威でも。あれには、何ひとつ、届かなかった。……だが、その剣なら。あるいは、人ならぬものにも、届くやもしれぬ。確証は、ない。だが——賭ける価値は、あるだろう」
「……っ、ありがとうございます」
レオンは剣を握りしめ、立ち上がった。脇腹の傷は、ノアが癒やしてくれたおかげで、もう、痛まない。体は、羽のように、軽い。
「行ってまいります。……必ず、あの子を、連れて、帰ります」
「ああ。行け、レオン。——お前にしか、できぬことだ」
その背を、押すように。アルノーの声が、夜に、響いた。
***
その、ころ。
レオンは夜の道を、駆けに、駆けていた。
馬を、飛ばし。森の外れの、廃城を、目指す。番の絆が、磁石のように、まっすぐに、ノアの居場所を、指していた。けれど——その絆を伝って、流れ込んでくる、ノアの気配は。刻一刻と、細く、弱く、なっていく。今にも、ぷつりと、切れてしまいそうに。
『……間に合ってくれ。頼む。頼むから……っ』
手のなかで、アルバの大剣が、共鳴するように、淡く、輝いている。まるで、レオンの焦りに、応えるように。早く。早く、と。
やがて、闇に沈む、廃城が、見えた。レオンは馬から飛び降り、崩れた城門を、駆け抜ける。奥へ。奥へ。光をまとった剣が、行く手の闇を、押しのけていく。
そして、たどり着いた、広間で。
レオンは見た。
黒い闇のかたまりに、すっぽりと、呑み込まれ。ぐったりと、力なく、囚われている、ノアの姿を。その胸へと、闇の手が、伸びていくのを。
頭の奥が、かっと、燃えた。
「——ノアから、離れろッ……!!」
その声は、もう、いつもの、穏やかなレオンのものでは、なかった。
迷わず、地を蹴る。一直線に。ノアを捕らえる、闇の中心へと。そして、剣を、振り抜いた。
——ザンッ。
確かな、手応え。
これまで、すり抜けるばかりだった刃が。今度は、はっきりと。闇のもやを、断ち斬った。妖精の体から、ぎゃっ、と、悲鳴が、ほとばしる。黒いもやが、裂け、ノアを捕らえていた触手が、ばらばらと、ほどけ落ちた。解き放たれたノアの体が、ぐったりと、冷たい床へ、崩れ落ちる。
「な……っ、斬れ……る……!? ばかな……人間の剣で、わたしを……っ!?」
妖精がはじめて、うろたえた声を、あげた。
「斬れるさ。……これは、ただの剣じゃ、ない」
レオンは倒れたノアを背にかばう位置へ、素早く、回り込む。アルバの大剣を、低く、構えた。
「……っ、舐めないでッ!」
うろたえは、一瞬だった。妖精の慟哭めいた叫びとともに。広間じゅうの闇が、ぶわりと、沸き立つ。無数の、黒い刃が。鞭が。槍が。四方八方から、レオンめがけて、襲いかかった。
——けれど。今度は、ちがう。
レオンは地を蹴り、宙を舞い、迫る闇を、つぎつぎと、斬り払っていく。アルバの大剣が、薙ぐたびに。淡い光の軌跡が、闇を、裂いた。当たれば、消し飛ぶばかりだった攻撃を。今は——断てる。返せる。届く。
とはいえ、相手は、半月で、桁違いの力をつけた、妖精。一瞬でも、気を抜けば。闇は、レオンをノアごと、呑み込もうと、押し寄せてくる。斬っても、斬っても、際限がない。汗が、飛ぶ。息が、上がる。攻防は、一進一退。広間を、光と闇が、めまぐるしく、駆けめぐった。
それでも、レオンは。決して、ノアのそばを、離れなかった。一歩も。床に倒れた、その体を、守る位置から。
「なぜ……っ、なぜ、あなたが……! ただの、人間が……っ、わたしの、闇を……!」
妖精の声に、焦りが、にじむ。届かぬはずの刃に、斬られ、削られ。その身に、はじめて、怯みが、生まれていた。
「離れろ。……ノアには、指一本、触れさせない」
レオンのまっすぐな眼光に。闇が、たじろいだ。そして——。
「……っ、おぼえて、なさいよッ……!」
妖精のもやが。ぶわっと、上へ、舞い上がる。崩れた天井の、はるか高み。手の届かない、闇の、いちばん濃いところへ。——逃げる、といっても。城の外へは、出られないらしい。アルバの光を、恐れてか。ただ、上へ、退いただけ。そこから、爛々と、ふたりを、見下ろしている。
つかの間の、静寂が、訪れた。
その隙に。レオンは剣を、傍らに置き。倒れたノアのかたわらへ、膝をついた。そして、その体を、そっと抱き起こした。
軽い。あまりにも、軽い。冷たくなった、頬。閉じられた、瞼。血の気の、失せた、唇。けれど——胸に、耳を寄せれば。確かに、まだ、ちいさく、鼓動が、刻まれている。か細く。けれど、たしかに。
「……っ、よかった。生きてる。……生きて、くれてた」
レオンの全身から、どっと、力が抜けた。間に合った。間に合ったのだ。もし、ほんの、少しでも、遅かったら。そう思うと、抱きしめる腕が、震えた。
「ノア……っ、ノア! 僕だ。れおんだよ。……迎えに来た。遅くなって、ごめん。ごめんな」
ノアの瞼は、閉じたまま。けれど、レオンの声に、応えるように。その指先が、かすかに、動いた気がした。
レオンの胸に、熱いものが、こみあげる。この子は。たったひとりで、こんな恐ろしい場所へ、来たのだ。自分を、守るために。傷を癒やし、眠らせて。「だいすきだよ」と、泣きそうな声で、言い残して。——どれほど、こわかっただろう。どれほど、ひとりで、震えていただろう。
「……ばかだな、君は。守られてばかりは、いやだって。そう、思ってくれたんだろう。……でも、ね、ノア」
レオンはその、白い髪を、そっと、撫でた。
「僕だって、同じなんだ。君を、守りたい。君が、笑ってるのを、見ていたい。それだけで、僕は、どこまでだって、行ける。……だから」
声が、わずかに、詰まる。
「……今度は、僕の番だ。君が、僕を守ってくれたみたいに。今度は——僕が、君を、守る。だから、もう、ひとりで、がんばらなくていい」
レオンは腕のなかの、最愛の少女の。その、冷えた唇に。そっと自分の唇を、重ねた。
まるで、自分の想いを、ぬくもりを、分けあたえるように。番の絆を、通わせるように。
——その、瞬間。
あたたかな、淡い光が。ふたりを、やさしく、包みはじめた。
その、無防備な背中を。好機と、見たのだろう。
高みに退いていた、妖精のもやが。音もなく、急降下した。レオンの真後ろへ。鋭い、黒い刃となって。守るものに気を取られた、騎士の背を——ひと突きに、貫こうと。
「——っ!」
けれど。
ばちんっ。
その刃は。ふたりを包む、淡い光に、触れた、とたん。あっけなく、弾き返された。まるで、見えない、やわらかな繭が。ふたりを、すっぽりと、守っているかのように。
「……なっ……なぜ……っ!?」
妖精がうろたえた。
「なぜ、触れられないの……!? この、光は……っ、まさか……森の、主の……!?」
そう。それは——森の主が、かつて、ノアのひたいに、灯した、あの力。眠るノアのいちばん奥で。最愛の人を、守りたい、という想いに、応えるように。ひとりでに、目を覚まし。淡い光の盾となって、ふたりを、包んでいたのだ。
「いや……っ、いやよ、そんなの……! 消えて……っ、消えなさい、その光ッ……!」
もがく妖精に。光は、いっそう、強く、応えた。ぶわり、と、ひろがり。まばゆく、燃え立つ。
「——ぎゃあああッ……!?」
闇の刃が、光に、灼かれ。妖精のもやが、悲鳴をあげて、高みへと、はじき飛ばされた。
ふたりを包む光は。妖精の声など、届かぬほど。静かに、確かに、強くなっていく。崩れかけた廃城の、深い闇を。すこしずつ、すこしずつ、押しのけながら。
眠れる少女の、いちばん奥で。なにかが——ゆっくりと、目を覚まそうと、していた。
——第17話 了
【あとがき おまけSS 〜アルバの大剣の、おとぎ話〜】
むかし、むかし。まだ、人と、神獣とが、ことばを交わしていた、ころ。
神獣の森に、一頭の、それは美しい神獣がいた。けれど、あるとき。その子は、ふとした哀しみから、闇に、堕ちてしまった。やさしかった神獣は、すべてを、憎み、壊す、恐ろしいものへと、姿を変えた。
誰も、止められなかった。森の、いちばん強い者たちでさえ。なにしろ、もとは、神獣。なまなかな力では、傷ひとつ、つけられない。
そこで、森のものたちは、力を、寄せ合うことにした。森の主がその身の、ひとひらを。風の神獣が、速さを。氷の神獣が、冷たい牙を。ちいさな妖精たちは、月の雫のような、涙を。——みんなが、いちばん大切なものを、すこしずつ、差し出して。たったひとつの、大剣を、鍛えあげた。
その剣は、堕ちた神獣を、そっと闇から、解き放った。憎しみを、断ち。やすらかな、眠りへと、還して。
役目を終えた大剣は、やがて人の王に、託された。いつか、また、闇に堕ちるものが、現れたときのために。そして——剣は、自らにふさわしい、ただひとりの使い手が、現れる日を。幾百年も、幾百年も、静かに、待ち続けたのだという。
その名を。アルバの大剣、という。
……誰も知らない。森の、ふるい、ふるい、おとぎ話。




