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闇オークションで落札した白猫獣人が、運命の番でした 〜騎士団長は最愛の彼女を溺愛する〜  作者: 月代 緋色


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第16話 届かぬ刃

よろしくお願いいたします。

 あれから、数日。


 王都の荒れようは、日に日に、ひどくなっていった。諍いは、絶えず。煙の立たない日は、なく。人々の顔から、笑みが、ひとつ、またひとつと、消えていく。


 ノアとレオンはいつでも動けるよう、心を備えていた。けれど——相手は、なかなか、姿を見せない。どこにいるのか。いつ、動くのか。その不気味な沈黙が、かえって、二人を追いつめた。


「……れおん。あの子、なにを、待ってるのかな」


 朝の支度をしながら、ノアがぽつりとつぶやく。


「わからない。……でも、近いうちに、必ず動く。そんな気が、するんだ」


 レオンはノアの髪を、そっと撫でた。


「こわいか?」


「……うん。すこし。でも、ノア、逃げない。れおんと、いっしょなら、立ち向かえるから」


 その、まなざしの強さに。レオンはふっと目を細めた。出会ったころの、怯えてばかりだった、あの子は、もう、どこにもいない。


「ああ。……一緒に、終わらせよう。きっと」


 そして——その朝は、唐突に、訪れた。


 夜明けとともに、王都の中心から、悲鳴が、上がった。


 市場の広場。何の前触れもなく、人々が、いっせいに、いがみ合いはじめたのだ。昨日まで、肩を並べていた者たちが。手にした道具を、振り上げて。その目は、みな——どろりと、虚ろに、濁っていた。


 屋台は、ひっくり返り。果物が、地に、散らばる。子どもを抱えた母親が、悲鳴をあげて、逃げ惑う。誰も、誰も、止められない。まるで、街そのものが、内側から、狂いはじめたかのようだった。


「これは……っ」


 報せを受けて、駆けつけたレオンは息を呑んだ。これまでの、ぽつぽつとした諍いとは、まるで規模が、違う。広場じゅうが、憎しみの坩堝と、化していた。妖精がついに、本気で、牙をむいたのだ。


「れおん。あれ……!」


 ノアが空を、指さした。


 広場を見下ろす、古い時計塔。その、てっぺんに。ひとつの、影が、立っていた。


 人の、かたちを、しているようで。していない。黒いもやのようなものが、その輪郭を、ゆらゆらと、覆っている。背の羽も、長い髪も、すべてが、墨を流したような闇に、溶けかけていた。遠目にも、はっきりと、わかる。あれは——もう、まともな、なにかでは、ない。


「……あの子」


 ノアの声が、震えた。間違えるはずも、ない。ずっと、ノアを苦しめてきた、あの妖精。


「ノア。離れるな。……俺の、そばに」


 守るときの、低い声。レオンの一人称が、切り替わる。剣の柄に、手をかけて。レオンはまっすぐに、時計塔を、見上げた。


「行こう。……あれを、止めるんだ」


***


 二匹の神獣を、引き連れて。レオンとノアは荒れ狂う広場を、駆け抜けた。


 操られた人々が、二人にも、襲いかかってくる。けれど、レオンはその刃を、的確に、いなし、受け流すだけ。決して、傷つけは、しない。


「この人たちは、悪くない。……操られてるだけ、だからな」


 レオンの額に、汗がにじむ。剣の腕は、確かだ。けれど、敵を斬らずに、抑え続けるのは——尋常な消耗では、なかった。


 ふとノアが息を呑んだ。襲ってくる人々のなかに、見覚えのある顔が、あったのだ。いつも市場で、花を売っていた、やさしげな女性。以前、ノアにこっそり一輪、くれたことのある人。それが今は、虚ろな目で、刃物を、振り回している。


「……っ、あの人まで」


 ノアの胸が、引き裂かれそうに痛んだ。みんな、ほんとうは、こんな人たちじゃない。やさしくて、あたたかい、ふつうの人たちなのだ。それを、あの妖精はもてあそんでいる。


《ノア、こっち! 道はぼくらが作る!》


 犬の神獣ゼルが勇ましく吠え、人々の足元を駆けまわって、その動きを、攪乱する。黒猫のシャルはノアの肩で、鋭く周囲を、見張った。


《ご主人の、左! ふたり来てる!》


「——わかってる!」


 神獣たちの援護を受けながら。一行は、ようやく、時計塔のふもとへと、たどり着いた。


 その、てっぺんから。妖精がふわりと舞い降りてきた。


 間近で見て。ノアはことばを、失った。


 ちがう。記憶のなかの、あの子じゃ、ない。


 ノアが覚えている妖精はきれいで、きらきらしていて。森でいちばん美しいと、讃えられた子だった。けれど、今、目の前にいるのは——黒いもやに、すっぽりと覆われた、なにか。透き通っていたはずの肌も。星屑のようだった瞳も。もう、どこにも、面影が、ない。ただ、淀んだ闇だけが、ゆらゆらと、かろうじて、人のかたちを、保っている。


 半月のあいだに、人の憎しみを、喰らいすぎて。あの子は——自分の姿さえ、闇に、明け渡して、しまったのだ。


 その変わり果てた姿に。ノアの胸が、ずきりと、痛んだ。


 ノアを闇市から助けたあの夜から、ずっと。この気配が、影のように、二人を、追いかけてきたのだ。それが今、ついに、目の前に、姿を現した。


「……あら。ひさしぶりね、ノア」


 鈴を転がすような、美しい声。けれど、その響きには、ねっとりと、暗いものが、絡みついていた。


「ずいぶん、大きくなったこと。……それに、なんだか、いい匂いが、するわね。森の匂い。——森の主に、会ってきたの?」


「……っ」


 ノアの肩が、こわばる。妖精はくすくすと、笑った。


「いいのよ、隠さなくて。なにか、もらってきたんでしょう? 大丈夫。どうせ——あなたには、使いこなせやしないわ」


***


「やめて」


 ノアは勇気を、ふりしぼって、一歩、前に、出た。


「お願い。もう、こんなこと、やめて。みんなが、苦しんでる。……あなただって、ほんとうは、こんなこと、したくないんでしょう?」


 その言葉に。妖精の笑みが、すっと、消えた。


「……したくない?」


 声が、低く、なる。


「わたしの、気持ちが、わかるような口を、きかないで。……あなたに、なにが、わかるの。生まれてきただけで、なにもかも、手に入れた、あなたに」


「ちがう、ノアは……」


「みんな、あなたばかり。森の主も。神獣たちも。妖精たちも。……わたしが、どれだけ、歌っても。どれだけ、尽くしても。あなたが、来た、とたんに。みんな、あなたばかり、見るように、なった」


 妖精の瞳が、ぎらりと、燃えた。憎しみと。そして、底知れぬ、孤独で。


「わたしは、ずっと、ひとりだった。あなたが来てから。広い森のなかで、ずっと、ずっと、ひとりぼっちだった。……あなたには、わからないでしょうね。その、寒さが」


「……ちがうの」


 ノアの瞳に、涙がにじんだ。


「ノアもずっと、ひとりだと、思ってた。あなたに、置いていかれて。知らない世界で、ずっと、こわくて。……ノア、あなたの寒さ、すこし、わかるよ。だから、こんなこと、しないで。いっしょに——」


「黙れッ……!!」


 妖精の地の底から響くような、怒号。黒いもやが、ぶわりと、ふくれあがる。空気が、びりびりと、震えた。


「同情なんて、いらない……! あなたに慰められるくらいなら。いっそ、ぜんぶ、壊れてしまえばいい……! あなたさえ、あなたさえ、いなければ……! わたしは、ずっと、いちばん愛される子で、いられたのに……っ」


 その叫びは、もはや、怒りというより——慟哭だった。ノアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。憎い、はずなのに。やっぱり、かなしくて、たまらなかった。


***


 その瞬間。


 妖精の背後で。操られた人々が、いっせいに、こちらへ、押し寄せてきた。


「——ノア、下がれ!」


 レオンがノアを背に、かばう。剣を、ふるい、迫る人波を、必死に、押しとどめる。けれど、その数は、あまりにも、多い。


「ふふ。剣の、騎士さま。お困りのようね」


 妖精が嘲笑う。


「斬れば、いいじゃない。たかが、操られた、人形よ。あなたが、本気を出せば、ひとひねり、でしょう?」


「……断る」


 レオンは歯を、食いしばった。


「この人たちは、被害者だ。一人だって、傷つけさせは、しない。……それが、騎士の、誇りだ」


「あら、立派。……でも、その誇りが。あなたの、命取りに、なるのよ」


 レオンは迫る人波の、わずかな隙を、突いた。地を蹴り、一気に、妖精との間合いを、詰める。そして——その細い体めがけて、渾身の一閃を、振り抜いた。


 手応えは、なかった。


 剣は、妖精の体を、すうっと通り抜けた。まるで、霧でも、斬ったかのように。


「……っ、なんだと」


「ふふ。むだよ」


 妖精は斬られた姿勢のまま、平然と、微笑んでいた。


「わたしは、妖精なの。それも——もう、誰よりも、強い、妖精。人の憎しみを、喰らって、喰らって。こんなにも、強くなった。……たかが、人間の剣なんかで。斬れるわけが、ないでしょう?」


 レオンの背に、冷たい汗が、伝った。斬れない敵。これまで、どんな強敵を相手にしても、剣さえあれば、道は、ひらけた。けれど、この相手には——その剣が、まるで、意味を、なさない。


 妖精がすい、と指を振る。すると、人波の勢いが、増した。レオンの防御が、わずかに崩れる。


「れおん……!」


 ノアはたまらず、両手を、前にかざした。


 森の主が、ひたいに灯してくれた、あの力。胸の奥で、ちいさく脈打つ、その芽を。ノアは必死に、たぐり寄せた。


『お願い……! 力よ、出て……! みんなを、止めて……! れおんを、守って……!』


 ノアの白い髪が、淡く、銀色に光る。胸の奥が、熱くなり、その熱が、腕を、指先へと、駆け抜けていく。やがて指先から、ふわりとあたたかな光が、こぼれた。雪のように、白く、きらめく光。


 その光に触れた、何人かの人々が——ふっと足を止める。振り上げた腕が、止まる。虚ろだった目に、わずかに、正気の色が、戻った。


「……っ、できた」


 ほんの、数人。けれど、確かに、届いた。ノアの胸に、小さな希望が、灯る。


 けれど。


「ふふ。それが、精いっぱい?」


 妖精の声は、余裕に満ちていた。


「数人、正気に、戻したくらいで。……ねえ、見て。わたしは、この街、ぜんぶを、操っているのよ」


 妖精が腕を、ひろげる。とたん、正気に戻りかけた人々が、ふたたび、虚ろな目に、戻った。ノアのちいさな光など、あっという間に、暗い波に、呑み込まれていく。


「あなたの力は、まだ、芽が、出たばかり。わたしには、遠く、及ばない。……森の主も、罪な、ことをするわ。こんな、半端なもので、わたしに、勝てると、思わせるなんて」


 妖精がふたたび、腕を、ひとふり、する。すると、広場じゅうの人々が——いや、それだけでは、ない。近くの通りからも、家々からも。虚ろな目をした人々が、ぞろぞろと、湧き出してきた。その数は、もはや、数えきれない。


「うそ……こんなに……」


 ノアの顔から、血の気が、引いた。


 じわじわと、包囲が、狭まっていく。


「団長ーッ! ご無事ですかっ!」


 異変を聞きつけた、騎士団の部下たちが、広場へ、なだれ込んできた。けれど——状況は、好転しなかった。それどころか。操られた人々の数は、あまりにも多い。騎士ひとりに、五人、六人と、群がっていく。斬るわけにはいかない相手に、ただ、揉みくちゃにされ、ひとり、またひとりと、押し倒されていった。


「斬るな……! みんな、操られているだけだ! 当て身で、抑えろ……!」


 レオンの号令も、押し寄せる波には、追いつかない。多勢に、無勢。守ろうとするほどに、こちらが、削られていく。


《ご主人……っ、多すぎる……!》


 ゼルが苦しげに、悲鳴をあげた。シャルの息も、あがっている。


 そのとき。力を使い果たしたノアの膝が、がくりと、折れた。まだ、目覚めきらぬ力は、ノアの体を、容赦なく、削っていた。


「ノア……っ!」


 その声に、レオンの注意が、ほんの一瞬、ノアへと、逸れる。その、わずかな隙を。操られた人波は、見逃さなかった。


 けれど、レオンもただの騎士では、ない。背後から振り下ろされた一撃を、振り向きざまに、半身で、かわす。横から伸びてきた腕を、肘で、打ち払う。そして、膝を折ったノアの前へ、滑り込むように、立ちはだかった。剣を横薙ぎに構え、群がる者たちを、一歩、また一歩と、押し返していく。さすがは、王国一と謳われた、騎士団長だった。


 ——だが。


 返す刃が、ない。斬れば、無辜の民が、死ぬ。だから、ただ、受け、いなし、当て身で、退けるしか、ない。攻めに転じれば、十人が相手でも、ひるませる腕も。守りに徹すれば、ひとりを、さばくのが、やっとだった。そして、相手は、ひとりでは、ない。


 ふたり。さんにん。背後から、しがみつかれる。腕を、つかまれる。肩に、背に、こぶしが、鈍器が、雨のように、降りそそいだ。


「——っ、ぐ……!」


 それでも、レオンは倒れなかった。歯を食いしばり、ノアを背にかばう位置から、一歩も、引かない。打たれても。引きずられても。ノアを抱く、その腕だけは、決して、ゆるめなかった。


 けれど、人の波は、無尽蔵だった。ひとりを退ければ、ふたりが湧く。確かなはずの足場が、じりじりと、削られていく。汗が、目に流れ込む。息が、上がる。腕が、重い。


 そして——。


 横合いから、大きく振りかぶられた、太い鉄具。レオンの目には、それが、はっきりと、見えていた。見えて、いたのに。——ノアを抱きかかえた、その体勢では。よける術が、なかった。


 よけよう、とすれば。ノアを突き飛ばすことに、なる。


 だから、レオンは。よけなかった。


 鈍い衝撃。一拍、遅れて。焼けつくような激痛が、脇腹を、貫いた。


「——っ、ぐ、あ……ッ!」


 鉄具は、レオンの脇腹を、深く、深く、えぐっていた。


「れおん……っ! れおん、血が……っ、こんなに……!」


 ノアの悲鳴。レオンの脇腹から、見る間に、赤が、広がっていく。とても、かすり傷などでは、ない。守るために、あえて受けた——深い、深い、傷だった。


「……っ、平気、だ」


 レオンは苦痛に顔を歪めながらも、それでも、ノアを離さなかった。片膝をつき、震える腕で、なおも、ノアを守ろうとする。


「平気、だから……っ。ノアは俺の、後ろに……」


 けれど、その顔は、紙のように、青ざめていた。誰ひとり傷つけまいと、戦い続けて。そのうえ、この深手。レオンの体力は、もう、限界を、超えていた。


「……ふふ。いいわね。とっても、いいわ」


 妖精がうっとりと、その光景を、眺めていた。


「ノア。あなた、わかった? あなたが、誰かを、大切に思えば、思うほど。……それは、あなたの、弱みに、なるのよ」


 妖精の視線が。レオンへと、すうっと注がれた。


「その、騎士さま。あなたの、番、なんでしょう? ……ふふ。決めた。次は、あれを、もらうことに、するわ」


 妖精の黒いもやの指先が、つい、と、レオンを指した。その瞬間、レオンはぞくりと、背筋が凍るのを感じた。剣で斬れぬ相手に、名指しされる。それが、何を意味するのか。


「……っ、やめて。れおんには、手を出さないで……!」


 ノアが両腕をひろげて、レオンの前に、立ちはだかった。ちいさな体で。必死に。


「あらあら。そんなに、必死になって。……いいわ。なら、取引を、してあげる」


 妖精はゆらりと、宙に舞い上がった。黒いもやが、その姿を、いっそう、ぶ厚く、覆っていく。


「森の外れに、打ち捨てられた、古い城があるでしょう。あの廃城で、待っているわ。……ひとりで、おいで、ノア。誰も連れずに。あなた、ひとりで、ね」


「……っ」


「来なければ——その騎士さまも。あなたの、あたたかい家族も。ひとり残らず、わたしが、もらっていく。あのときみたいに。ううん。あのときより、ずっと、ずっと、念入りに、ね」


 最後に、ぞっとするような含み笑いを、残して。妖精の姿は、黒いもやごと、すうっと、空に、溶けて、消えていった。


 とたん、操られていた人々が、糸の切れた人形のように、その場に、くずおれる。広場に、静寂が戻った。けれど、それは——勝利の静寂では、なかった。


 ノアはふらつく足で、駆け寄った。さきほどの、花売りの女性。地面にくずおれた、その人のそばに、しゃがみこむ。


「……だいじょうぶ?」


 女性は、ぼんやりと、目を開けた。


「……わたし、なにを……? ああ、頭が、痛い……」


 何も、覚えていない。自分が、刃物を、振り回していたことも。ノアはほっと、息をついた。傷つけずに、すんだ。それだけが、せめてもの、救いだった。


「……よかった。なにも、覚えてないなら、それでいいの」


 ノアは女性の手を、そっと握った。けれど、その胸のなかでは。やりきれない思いが、渦巻いている。この人たちは、ただ、巻き込まれただけ。やさしい、ふつうの人たちなのに。こんなにも、もてあそばれて。


 立ち上がり、ノアは荒れ果てた広場を、見渡した。倒れ伏す人々。割れた屋台。散らばる、果物。——これが、妖精の本気。そして、これでもまだ、終わりでは、ないのだ。


***


 クライン公爵邸。


 血まみれのレオンの姿に、屋敷は、騒然となった。


「兄さん、その傷……っ! 誰か、急いで、医者を……!」


 ロザリオが悲鳴のような声を、あげる。ルクレツィアは青ざめながらも、てきぱきと、止血の指示を、飛ばした。脇腹の傷は深く、布を当てても、赤がにじみ続ける。子どもたちは、扉の隙間から、震えながら、こちらをうかがっていた。


「おじさま……っ、しなないで……」


 リナの半泣きの声。レオンは薄れそうな意識のなかで、それでも、子どもたちを安心させようと、無理やり、笑ってみせた。


「……平気、だよ。これくらい……すぐ、治る。……心配、かけて、ごめんな」


 けれど、その声はかすれ、顔からは、すっかり血の気が、失われていた。誰の目にも、それが、軽い傷でないことは、あきらかだった。いつも頼もしいおじさまの、変わり果てた姿は、子どもたちの胸に、戦いの恐ろしさを、深く、刻みつけた。


 医者の手当てを受け、どうにか、血は止まった。けれど、レオンは高い熱を出し、ベッドから起き上がることも、できなくなった。誰ひとり傷つけまいと、戦い抜いた代償は、あまりにも大きかった。


 その夜。応接間に、重い沈黙が、垂れこめていた。


「……あの妖精。ノアちゃんを、廃城に、ひとりで来い、と言ったそうだな」


 ユリウスが低く、口をひらいた。広場での出来事は、すでに、皆に、伝わっていた。


「言うまでもないが——罠だ。のこのこ、ひとりで、行かせるわけには、いかん」


「ですが、かといって」


 ガイルが苦い顔で、続けた。


「騎士団で、押しかければ。あの妖精は容赦なく、街の者を、操って、盾にします。今日のように。……下手をすれば、被害は、もっと、広がる」


「行かなければ、家族を奪う、と脅されている。かといって、行けば、罠。……八方ふさがり、というわけだ」


 ユリウスがこめかみを、押さえた。剣も、兵も、王の力も、通じない、敵。打つ手が、まるで、見えない。誰も、答えを、出せなかった。


「ともかく、今夜は、休みましょう。レオンの傷も、深い。焦って動けば、それこそ、相手の思うつぼよ」


 ルクレツィアが皆をなだめるように、言った。けれど、その声にも、隠しきれない、不安が、にじんでいる。


 その輪の隅で。ノアはずっと、黙ったまま。じっと自分の手のひらを、見つめていた。


***


 みんなが、それぞれの部屋へ、下がったあと。ノアはひとり、バルコニーに出た。手のひらに、昼間の、あの銀色の光を、思い浮かべる。あれが、もっと、ちゃんと、使えたら。


 肩に、ふわりと、シャルが飛び乗った。


《ノア。あの力はね。無理やり、引き出そうとしても、出ないよ》


「……どうして?」


《あれは、君の、心と、つながってるから。さっき、いちばん強く光ったの、いつだったか、覚えてる?》


 ノアは思い返した。——「れおんを、守って」。そう願った、あの瞬間。光は、いちばん、強く、きらめいた。


《そう。誰かを、心から、想ったとき。君の力は、いちばん、強くなる。……森の主が、“ふたりで”って言ったのも、きっと、そういうこと》


「……れおんを、想う、気持ちで」


《うん。だから、こわがらないで。君の、いちばんの強みは——その、やさしい心、なんだから》


 シャルの言葉が、ノアの胸に、すとんと落ちた。弱みだと、妖精に言われた。大切な人がいることが、弱みだと。けれど、ちがう。それこそが、ノアの力の、源なのだ。


「……ありがとう、シャル」


 黒猫の神獣は、ぴょん、と床に降りて、夜の闇へと、消えていった。


***


『……ノアのせいで。れおんが、あんなに、傷ついて。みんなが、こんなに、苦しんでる』


 ノアの胸が、締めつけられた。妖精の言葉が、何度も、よみがえる。——大切なものから、ひとつひとつ、奪っていく、と。


 もし。このまま、みんなで、立ち向かえば。きっと、また、誰かが、傷つく。今度こそ、レオンを失うかもしれない。あの、あたたかな家族を。子どもたちを。


『……それだけは。それだけは、いやだ』


 森の主は、言っていた。ふたりで、なら、と。ひとりでは、だめだと。それは、ノアにも、わかっていた。けれど——大切な人を、これ以上、危険にさらすくらいなら。


『……ノアがひとりで、行く』


 その決意は、静かに、けれど、揺るぎなく、ノアの胸に、灯った。


***


 夜更け。屋敷が寝静まったころ。


 ノアはそっとレオンの寝室の扉を、開けた。


 ベッドのなかで、レオンは苦しげに、眠っていた。熱に浮かされ、額には、汗がにじんでいる。脇腹の傷は、痛々しく、布で、覆われていた。


「……れおん」


 ノアはベッドのかたわらに、ひざまずいた。そして、傷の上に、そっと両手を、かざす。


『お願い。……れおんを、治して。ノアの力よ』


 目を閉じ、心の、いちばん深いところで、レオンを想った。出会った夜のこと。指切りの約束。馬上の温もり。「世界でいちばん可愛い」と、言ってくれた、あの声。守りたい。この人だけは。何があっても。


 その想いに応えるように——ノアの両手が、淡く、銀色に、光りはじめた。


 シャルの言葉が、よみがえる。『誰かを、心から想ったとき。君の力は、いちばん、強くなる』。ほんとうだった。あふれる想いが、そのまま、力に、変わっていく。


 銀の光が、レオンの傷に、そっと染みこんでいった。すると——みるみるうちに、深かった傷が、ふさがっていく。荒かった息が、おだやかになり。青ざめていた顔に、わずかに、血の色が、戻った。


「……よかった。これで、れおん、動けるくらいには」


 ノアはほっと、息をついた。けれど、すぐに、その瞳に、別の決意が、宿る。


 まだ、力は、残っている。ノアはもう一度、レオンの額に、手を、かざした。


『……ごめんね、れおん。お願い。ノアが戻るまで。どうか、ぐっすり、眠っていて』


 淡い銀の光が、レオンをやさしく、包みこむ。深く、安らかな、まどろみが。レオンの意識を、そっと眠りの底へと、沈めていった。これで、当分、目を覚ますことは、ない。追いかけて、また、傷つくことも。


「……勝手で、ごめんね。でも、ノア、れおんを、これ以上、危ない目に、遭わせたくないの」


 ノアは眠るレオンの頬に、そっと口づけを、落とした。涙が一粒、レオンの頬に、こぼれ落ちる。


「いってきます。……ぜったい、戻ってくるから。だから、目が覚めても。ノアのこと、怒らないでね」


 声が、震えた。


「……だいすきだよ、れおん」


 最後に、もう一度、その寝顔を、目に焼きつけて。ノアは立ち上がった。


 窓の外。青白い月が、廃城のある、森の外れを、照らしている。


 ひとりきりで。けれど、確かな足取りで。


 ノアは夜の闇のなかへと、歩き出した。いちばん、つらい戦いの、待つ場所へ。


***


 翌朝。


 目を覚ましたロザリオはノアの部屋が、もぬけの殻なのに気づいて、血の気が引いた。


 ベッドの上には、たどたどしい字で書かれた、一枚の紙が、残されていた。


『みんなへ。


 ノア、ひとりで、いってきます。


 みんなを、これいじょう、きずつけたく、ないの。


 れおんを、おこさなくて、ごめんなさい。


 ぜったい、ぶじで、もどってくるから。


 まってて。  ノア』


「……っ、ノアちゃん! なんてことを……!」


 その頃。深い眠りについた、レオンの胸の奥で。番の絆が、かすかに、ざわめいていた。


 まるで、何かを訴えるように。——目を、覚ませ。彼女が、ひとりで、行ってしまう、と。


——第16話 了

【あとがき おまけSS 〜とある宝物庫にて〜】


 同じ、夜更け。


 王城の、奥深く。人の寄りつかぬ、忘れ去られたような一角を。黒いマントに身を包んだ、ひとりの人影が、誰にも気づかれぬよう、長い、長い回廊を、進んでいた。やがて、突き当たりの、ひときわ重い扉の前で、足を止める。


 幾百年もの時を、ひっそりと、眠り続けてきた——秘されし、宝物庫。


 人影は、懐から取り出した、古い鍵で、錠を開けた。きい、と、低い音を立てて、扉が、ひらく。


 ほこりと、古い時間の匂いが、立ちこめる、その奥に。それは、安置されていた。


 長い布に、幾重にも巻かれた、なにか。人影は、両手を伸べて、それを、そっと、抱え上げた。——ずっしりと、重い。とても、片手では、持ち上がらない。両腕に、ありったけの力を込めて、ようやく、抱えられる。布越しにも、伝わってくる。これが、ただの、ものではないということが。


「……長いあいだ、待たせたな」


 人影は、その布の包みに、語りかけるように、つぶやいた。


「もう、何百年も。お前を、振るうにふさわしい者は、現れなかった。……この私とて、同じだ。幾度、手に取っても。お前は、ついぞ、私を、使い手とは、認めてくれなかった」


 ふっと、自嘲するように、口もとをゆるめる。


「だが、それで、いいのだ。お前は、いつだって、自分の意志で。ふさわしい使い手を、選ぶのだろう?」


 その横顔が、わずかな月明かりに、照らし出された。


 ——国王、アルノー。


 代々の王に、ただひとり、その在りかを伝えられてきた、秘された宝物庫。そして、歴代の、どの王も、ついに振るうことの叶わなかった、伝説の——。 と。


 その布の包みが。アルノーの腕のなかで、ことり、と、身じろぎした。つづいて、かたかた、かたかた、と。小刻みに、震えはじめる。まるで、何かに急かされるように。一刻も早く、ここを、出たがるように。


 幾百年ものあいだ、ぴくりとも、しなかった、伝説の宝。それが、今。こんなにも、はっきりと、応えている。


「……ほう」


 アルノーは、ふっと、目を、見開いた。


「お前、わかるのか。……自分の、使い手が。もう、すぐ、そこまで、来ていることが」


 かたかた。かたかた。布の奥の、なにかが、急く。行きたい。会いに行きたい、と。何百年も、ずっと、待ちわびていた、その相手のもとへ。


 アルノーの瞳には、いつもの、おっとりとした色は、もう、ない。ただ、静かな、覚悟だけが、宿っていた。


「……わかった、わかった。そう、急かすな。……さあ、行こうか。お前が、待ち望んだ。あの、若き騎士の、もとへ」


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