第15話 荒れゆく王都
よろしくお願いいたします。
神獣の森を、後にして。
ノアとレオンは待たせていた馬のもとへと、戻ってきた。
不思議なことに、あれほど苦しかった神気は、森から離れるにつれて、すうっと引いていった。レオンの足取りも、しっかりと、もとに戻ってくる。ノアはその横顔に、ほっと胸をなでおろした。森の主に会えたこと。やさしい時間を過ごせたこと。胸のなかは、まだ、あたたかな余韻で、満たされていた。
「……れおん。だいじょうぶ? もう、苦しくない?」
「ああ。すっかり平気だよ。……それより、ノア」
レオンはふと空を見上げた。そして、わずかに、眉をひそめる。
「おかしいな。森に入ったのは、たしか昼すぎだったはずだ。なのに、もう、夕暮れの色をしている」
言われて、ノアも空を仰いだ。木々のあいだから見える空は、たしかに、茜色に染まりはじめている。森のなかで過ごしたのは、ほんの数刻のはずだったのに。半日も、経っていたというのだろうか。
《……気づいた?》
黒猫の神獣シャルがゼルの背から、ぴょん、と飛び降りた。
《神獣の森はね。外の世界とは、時間の流れが、まるでちがうんだ。森のなかのひとときは……外では、ずっと、ずっと、長い》
「……どういう、こと?」
ノアがこてんと、首をかしげる。シャルの金色の瞳が、すっと細くなった。
《つまり、ぼくたちが森で過ごしていたあいだに。外の世界では——もう、何日も、経っているかもしれない、ってこと》
「……っ」
レオンの背筋が、ひやりとした。何日も。自分たちが、森で穏やかな時を過ごしているあいだに。外の世界では、あの妖精が好きなだけ暴れられる時間が、流れていたということだ。
胸のなかの、あたたかな余韻が、すっと、引いていく。かわりに、嫌な予感が、じわりと、せり上がってきた。
「……急ごう。何も起きていないと、いいけど」
レオンはノアを馬上に抱え上げると、来た道へと、馬首を向けた。
***
馬を、駆る。
来た道を、ひたすら、引き返していく。けれど——進めば進むほど、レオンの胸の嫌な予感は、確信へと、変わっていった。
行きには、あんなにのどかだった田園が、どこか、荒れている。畑は、手入れもされぬまま、放られている。すれ違う人々の顔は、暗く、こわばっていた。誰もが、互いを、避けるように歩いている。
ある村の広場では、男たちが、つかみ合いの喧嘩をしていた。止めようとする者もいない。別の村では、家々が固く戸を閉ざし、人っ子ひとり、出てこない。井戸のそばで、女たちが、誰かのことを、ひそひそと、なじり合っている。
道ばたでは、ひとりの母親が、泣きじゃくる子どもの手を、苛立たしげに、ぐいと引いていた。いつもなら、きっと、やさしく抱き上げただろうに。その目もとには、疲れと、苛立ちが、濃くにじんでいる。
「……なんだか、みんな、ぴりぴり、してる」
ノアの声が、不安げに揺れた。胸が、きゅっと痛む。みんな、ほんとうは、こんなふうじゃ、なかったはずなのに。やさしく笑い合って、暮らしていたはずなのに。それを、ぜんぶ、ねじ曲げてしまうもの。その正体を、ノアは知っている。
レオンは馬を止め、通りかかった老人に、声をかけた。
「すまない。少し、尋ねたい。……このあたりは、いつから、こんな様子に?」
「……あんた、旅の者かい」
老人は、警戒するように、レオンを見上げた。落ちくぼんだ目には、深い疲れが、にじんでいる。
「ここ半月ばかりで、すっかりおかしくなっちまった。あちこちで、諍いが絶えん。昨日まで仲のよかった者同士が、今日には、いがみ合っておる。まるで、何かに取り憑かれたみたいに、な。……わしも、孫と、つまらんことで、口論しちまった。なぜ、あんなにかっとなったのか、自分でも、わからん」
「——半月」
レオンと、ノアは思わず顔を見合わせた。
半月。森で過ごした、あの、ほんのひとときが。外の世界では、半月もの長さに、なっていたのだ。シャルの言葉は、本当だった。
「特に、ひどいのは、王都だと聞くよ」
老人は、声をひそめた。
「人が、人を、信じられなくなっちまってな。毎日のように、騒ぎが起きてるそうだ。お役人さまも、もう、手がつけられんとか。……あんたら、王都へ行くなら、よくよく、気をつけることだ」
「……っ、王都が」
ノアの顔から、さっと、血の気が引いた。
王都には、家族がいる。やさしいルクレツィアが。明るいロザリオが。ちいさな、子どもたちが。
「ノア。急ぐよ」
「うん……!」
***
半日、駆け通して。ようやく、王都の城壁が、見えてきた。
けれど。
その光景に、ノアは思わず、息を呑んだ。
いつもなら、夕暮れには、無数のあたたかな灯りが、宝石のようにきらめくはずの街。それが——どんよりと沈んでいた。ところどころから、細い煙が、不穏に立ちのぼっている。活気にあふれていた市場の大通りは、人影もまばらで。行き交う人々は、みな、うつむき、肩をいからせ、互いを避けるように、足早に通り過ぎていく。
「……ここ、ほんとうに、王都……?」
ノアが呆然と、つぶやいた。
あの、きらびやかで、あたたかかった街は、どこにも、なかった。ノアがはじめてレオンに連れられて歩いた、あの、やさしい街は。
ふとすぐそばの路地で、激しい怒鳴り声が、響いた。男が二人、互いの胸ぐらをつかみ合っている。その片方の目が——どろりと、虚ろに濁っているのを、ノアは見てしまった。
『……あの目。操られてる』
ノアの胸が、ぎゅっと痛んだ。あの、ベルナ夫人と。あの、伯爵夫人と。同じ目。心を、妖精に明け渡してしまった者の、うつろな目。
ここに来るまでの道も、ひどかった。けれど、王都に満ちた空気は、それとは比べものにならないほど、淀んでいた。憎しみと、疑いと、孤独が。街じゅうの、すみずみにまで、しみ込んでいる。
ふとノアの足が、止まった。
通りの片隅。崩れた木箱のかげで、ちいさな女の子が、ひとり、膝を抱えて泣いていた。三つか、四つか。リナと、同じくらいの。周りの大人たちは、誰も、その子に気づかない。自分のことで、精いっぱいなのだ。
「……ノア?」
気づいたときには、ノアはもう、その子のそばに、しゃがみこんでいた。
「だいじょうぶ? どうしたの? ひとりなの?」
女の子は、びくっと顔を上げた。けれど、ノアのやさしい声と、まなざしに。こわばっていた表情が、ふっとゆるむ。
「……ままが、おこって。こわくて、にげてきたの。ままが、ままじゃ、ないみたいで……」
「そっか。こわかったね」
ノアはその、ちいさな手を、そっと握った。その瞬間——ノアの指先から、ほんのかすかに、淡くあたたかな光が、こぼれた。ノア自身も気づかないほど、ささやかな、銀色のきらめき。
すると。女の子の、強張っていた肩から、すうっと、力が抜けた。涙も、止まる。
「……なんだか。おねえちゃんの、て。あったかい」
「ふふ。よかった。……きっと、ままも、すぐ、もとに戻るからね」
「ノア!」
追いついたレオンがノアの肩を、ぐっと抱き寄せた。その腕は、わずかに震えている。怒りに。そして——間に合わなかった、という、深い悔しさに。
「……離れないで。こんなときに、君を見失ったら、僕は」
「ごめんなさい。……でも、れおん。この子、放っておけなくて」
女の子は、もう、泣いていなかった。きょとんと、ノアを見つめ、ちいさく、手を振る。その光景に、レオンはふと胸をつかれた。
『……今、ノアの手が、光らなかったか? あの子の、こわばりが、ふっと解けたように、見えたけど』
けれど、それを確かめる間もなく。ノアはレオンの手を、ぎゅっと握って、歩き出していた。
***
クライン公爵邸の門を、くぐる。
その、瞬間だった。
「ノアちゃん……!」
屋敷の扉が、勢いよく開いて。飛び出してきたのは、ルクレツィアだった。いつも、どんなときも落ち着いている、あの彼女が。髪を振り乱し、転がるように駆けてきて——ノアを力いっぱい、抱きしめた。
「よかった……! 無事、だったのね……! ああ、よかった……、ほんとうに……!」
「……ルクレツィアねえさま」
「もう、半月よ……! いくら待っても、待っても、帰ってこないから……! 神獣の森で、何か、よくないことが、あったんじゃないかって……っ、わたし、生きた心地が、しなくて……っ」
ルクレツィアの声は、涙で、ぐしゃぐしゃに、震えていた。その腕の、必死な力に。ノアの胸も、じいんと、熱くなる。こんなにも、案じてくれていた。こんなにも、帰りを、待っていてくれた。
「ごめんなさい……。心配、かけて。森の時間が、外と、ちがってて……ノア、ぜんぜん、気づかなくて」
「兄さん……!」
続いて、ロザリオが駆けてきた。その顔は、げっそりとやつれている。いつもの、はじけるような明るさは、すっかり影をひそめていた。
「よかった……ほんとうに、よかったよぉ……。毎日、毎日、外は、こわい騒ぎばかりで……兄さんたちまで、帰ってこなかったら、わたし、どうしようかと……っ」
「ロザリオ。……すまない。こんなときに、留守を押しつけて」
レオンが妹の肩を、そっと叩く。気丈なロザリオがその手に、ぼろぼろと、泣き崩れた。
そこへ、子どもたちも、ぱたぱたと駆けてきた。けれど——いつものように、無邪気に、はしゃぎはしない。長男のテオがいちばん下のリナをしっかりと抱きかかえ、不安そうに、大人たちを見上げている。次男のルカもその後ろに、ぴたりと隠れていた。
「……おじさま。ノアおねえちゃま。おかえり、なさい」
いつもは、ませて、しっかり者のテオの声さえ、今は、かすかに、震えている。
「……ただいま、テオ。ルカもリナも。……いい子で、待っててくれたんだね」
ノアがしゃがんで、三人を、まとめて、ぎゅっと抱きしめた。とたん、リナがノアの胸で、堰を切ったように、わぁっと泣き出した。
「おねえちゃまぁ……っ、こわかったよぉ……。まいにち、そとが、こわいおとで……おうちから、でられなくて……っ」
「……うん。うん。こわかったね。よく、がんばったね、リナちゃん。……もう、だいじょうぶ。ノアが帰ってきたよ」
ノアはちいさな背を、ゆっくりとなで続けた。テオもルカもこらえきれずに、ノアにしがみつく。
その、ちいさな温もりを、抱きしめながら。ノアの胸の奥では——静かな、けれど、確かな、怒りと、決意が、芽生えはじめていた。
この子たちの笑顔を、奪ったもの。この街の灯りを、消したもの。それを、ぜったいに、許せない、と。
ノアが子どもたちを、なだめおえると。ルクレツィアがそっとノアと、レオンの背に、手を添えた。
「……さあ、ふたりとも。まずは、なにか、お腹に入れましょう。半月も、旅をしてきたのよ。話は、それから」
こんなときでも、家族を、気づかうことを、忘れない。その、変わらないやさしさに。ノアの張りつめていた心が、ほんの少し、ゆるんだ。
久しぶりに、家族で囲む、食卓。外は、荒れ果てているのに。この屋敷のなかだけは、まだ、あたたかな灯りと、家族の温もりが、ちゃんと、残っていた。
『……これを、守りたい』
ノアはあらためて、そう、思った。この、あたたかな場所を。世界じゅうの、こういう、ちいさなしあわせを。あの妖精にこれ以上、奪わせは、しない。
***
子どもたちが、ようやく泣きやんで、乳母に連れられていったあと。
屋敷の応接間で、宰相ユリウスと、副団長ガイルが待っていた。二人とも、見るからに、憔悴しきっている。目の下には、濃い隈が、刻まれていた。
「……戻ったか、レオン」
ユリウスのいつもの皮肉めいた口調にも、今は、力がない。
「無事で、何よりだ。心底、そう思う。……だが、見ての通りだ。事態は、最悪だ」
「ユリウス。説明してくれ。この半月で、いったい、何が起きた」
レオンの問いに、ユリウスは深いため息をついた。
「お前たちが発ってから、数日は、まだ、持ちこたえていた。だが、ある時を境に、潮目が、変わった。まるで、堰を切ったように、混乱が、王都じゅうに、広がりはじめたんだ」
「ある時……」
『——僕たちが、森で、穏やかな時を、過ごしていた、あいだだ』
レオンの胸に、苦いものが、こみあげた。あの、あたたかな再会の時間。その裏で、外の世界は、こんなにも、崩れていたのだ。
「街じゅうで、諍いが、絶えん」
ガイルがこぶしを、強く握りしめた。
「親が、子を。夫が、妻を。長年の友が、互いを。ほんの、ささいなことで、いがみ合い、傷つけ合う。騎士団総出で、鎮めにまわっても、追いつかん。なにせ、相手は、人の心だ。剣じゃ、斬れん。ひとつ鎮めても、また、別の場所で、火が上がる。……正直、もう、限界だ」
「操られた者は、皆、あの、虚ろな目をしている」
ユリウスが低く続けた。
「そして、我に返ると、何も覚えていない。例の妖精の仕業に、間違いない。あれは、この半月で、桁違いに、力をつけた。人々の憎しみと、苦しみを、喰らって、な」
「……隣国は」
「ますます、きな臭い。国境では、いつ、本格的な衝突が起きても、おかしくない有り様だ。あの妖精はこの国だけでなく、隣国との関係まで、根こそぎ、壊そうとしている」
「カティアさまからは、毎日のように、急報が」
ガイルが机の上の、何通もの書状を、示した。レオンはその一通を、手に取る。きびきびとした、カティアらしい筆跡で、こう、記されていた。
『——兄さんへ。辺境は、もう、ぎりぎりよ。国境の兵も、街の民も、些細なことで、いきり立つ。先日は、ずっと仲のよかった隊長同士が、刃を抜きかけた。止めに入ったうちの夫が、危うく、斬られるところだったわ。
向こう——ルキアノスも、同じみたい。セレム王は、必死に兵を抑えてるって。あの王さまは、悪い人じゃない。なのに、国も、民も、内側から、おかしくなっていく。まるで、誰かが、両国の憎しみを、わざと煽ってるみたいに。
ねえ、兄さん。私、思うの。あの妖精の狙いは、ただの混乱じゃない。とくに、ルキアノスに、何か、執着してる。……あの国に、私たちの知らない“何か”がある。そんな気が、して仕方ないの。
とにかく、こっちは私が、なんとか食い止める。だから、兄さんと、ノアちゃんは。……早く、あの元凶を、止めて。たのむわ。——カティア』
「……カティアらしい」
レオンは書状を、そっと置いた。気丈な妹が、最前線で、必死に踏ん張っている。その姿が、ありありと、目に浮かぶ。
「あの妖精は辺境も、隣国も、王都も。すべてを、いっぺんに、呑み込もうとしている」
ユリウスが低く、つぶやいた。
「……時間は、ない。長くは、保たんぞ」
重い沈黙が、応接間に、落ちた。
窓の外。荒れ果てた王都の空に、また、ひとすじ、煙が、立ちのぼっていく。
「……だが」
ユリウスがふとレオンと、ノアを見た。その目に、わずかな、光が、戻る。
「お前たちが、帰ってきた。それだけで、俺は、少しだけ、希望が持てる。……森で、何か、つかんできたんだろう?」
「……ああ」
レオンはノアと、目を合わせた。ノアがこくりと、頷く。
「妖精を止める手がかりを。……必ず、終わらせる。この、悪夢を」
***
翌朝。レオンは王城へと、向かった。
いつもは、磨き上げられ、凛とした空気の満ちる王城も、今は、どこか、ざわついていた。廊下では、文官たちが、声をひそめ、互いをうかがうように、行き交う。すれ違った貴族のひとりは、虚ろな目で、ぶつぶつと、誰かを呪う言葉を、つぶやいていた。
謁見の間。玉座には、国王アルノーが座していた。けれど、その姿は、レオンがはじめて目にするものだった。いつもの、どこか、おっとりとした、あたたかな空気は、影をひそめ。深い疲労と、それを押し殺す、王としての強い意志とが、その横顔に、刻まれている。
「……レオン。戻ったか」
アルノーの声に、わずかな安堵が、にじんだ。
「無事で、何よりだ。お前まで帰らぬかと、気が気でなかった。……ノアは息災か」
「は。ノアも無事です。ご心配を、おかけしました」
「うむ。あの子が無事なら、それでよい」
アルノーはふっと目もとをやわらげた。けれど、それも、つかの間。すぐに、その表情に、重いものが戻る。
「見ての通りだ。この半月で、国は、ずいぶんと荒れた。宮廷とて、無縁ではない。昨日まで忠実だった者が、今日には、根も葉もない噂を信じ込み、同僚を糾弾する。……誰を信じてよいやら、わからぬ有り様だ」
「陛下……」
「だが、私が倒れるわけには、いかぬ。私が揺らげば、この国は、本当に崩れる。だから、こうして、しがみついて、おるのだ」
その言葉の重さに、レオンは深く頭を垂れた。この王が、たったひとりで、崩れゆく国を、必死に支えていたのだ。自分たちが、森にいた、あいだも。
「陛下。……隣国は、いかがですか」
レオンの問いに、アルノーの表情が、いっそう険しくなった。
「ルキアノスも、同じだ。いや——もっと、悪いやもしれぬ。セレムからの文は、日に日に、悲痛なものになっておる。国境の小競り合いは、もはや、抑えがきかぬ。双方の民が、互いを憎み合い、剣を抜こうとしている」
アルノーは窓の外、遠い北の空を、見つめた。
「セレムは、必死に、止めておる。あれは、戦など、望んではおらぬ。だが、人の心を、内側から毒されては。王の力など、無力に等しい。……我が妹も、かの国で、さぞ、胸を痛めて、おろう」
その瞳に、妹を案じる、兄の色が、よぎる。けれど、すぐに、それを振り払うように、アルノーはレオンを見据えた。
「レオン。私は、お前と、ノアに賭ける。剣でも、兵でも、王の権威でも、止められぬ、この災いを。……止められるのは、もはや、お前たちだけ、かもしれぬ」
「……っ、は」
「頼んだぞ。この国の——いや。この、ふたつの国の、明日を」
その言葉は、命令では、なかった。ひとりの人として、すべてを託す、祈りのようだった。レオンは深く膝をついて、応える。
「……必ず。必ず、お止めします。この、災いを」
その声に、もう、迷いは、なかった。
***
その夜。
ノアは屋敷のバルコニーに、ひとりで立っていた。眼下に広がる、王都の、淀んだ灯り。それを、じっと見つめている。
「……ノア」
レオンがそっと隣に並んだ。
「れおん。……ぜんぶ、ノアのせいなのかな」
ぽつりとこぼれた声は、夜風に、消え入りそうだった。
「あの妖精がこんなに、ひどいことをするのは。ノアがいるから。ノアのことを、きらいだから。……ノアさえ、いなければ。みんな、こんな目に、遭わなかったんじゃないかって。そう思うと、ノア、胸が、苦しいの」
「ノア。それは、違う」
レオンはノアの両肩に、そっと手を置いて、まっすぐに、向き合った。
「君のせいじゃない。悪いのは、あの妖精だ。妬みに、負けたのは、あの子自身だ。……それに、ね」
その若草色の瞳が、まっすぐに、ノアを見つめる。
「君が、いなければ、なんて。二度と、言わないでくれ。……僕は、君に、出会えたから。こんなにも、誰かを守りたいと、強く思えるようになったんだ。君は、いていいんだよ。いや——いて、ほしいんだ。ずっと、ずっと、僕の、そばに」
「……れおん」
ノアの淡い紫の瞳に、涙がにじむ。
「それに、ね」
レオンはノアの濡れた頬を、指で、そっとぬぐった。
「森の主さまが言ったんだろう。あの妖精を止められるのは、君と、僕。ふたりで、ならって。……つまり、君がいなきゃ、誰にも、止められないってことだ。君は、この国を救える、たったひとりなんだよ。だから——自分を、責めないで」
「……っ、ノアがこの国を、救える?」
「ああ。君と、僕で。きっと、できる」
その、まっすぐな言葉に。ノアの胸の奥で、ふるえていた何かが、すっと、定まっていくのを感じた。こわくない。ひとりじゃない。れおんが、いる。
ノアはにじむ涙を、ぐっとこらえて。
もう一度、眼下の街を、見下ろした。泣きじゃくる、リナの声が、よみがえる。怯えていた、テオの顔が。憔悴した、ロザリオの姿が。淀んだ街に、うずくまる、見知らぬ人々の影が。
「……ノア、決めた」
しずかな、けれど、はっきりとした声だった。
「あの妖精を止める。森の主さまが、言ってた。ノアと、れおんが、ふたりでなら、できるって。……ノア、もう、いやなの。こわくて、守られて、泣いてるだけの、ノアじゃ。大切なみんなが、傷つくのを、ただ、見てるだけなんて」
その、瞬間。
ノアの白い髪が——ふわり、と。淡く、銀色に、光った。今度は、すぐには、消えない。胸の奥で、あの森の主が灯した、ちいさな力の芽が、こく、こく、と、確かに、脈打っている。指の先に、ひやりと、冷たく、けれど、心地よい何かが、宿る。雪の、結晶のように。
「……ノア」
レオンはその姿に、息を呑んだ。淡い銀の光を、まとうノアは——ぞくりとするほど、美しく、そして、どこか、神々しかった。
『……目覚めようと、している。ノアのほんとうの、何かが』
夜の風が、ふたりの髪を、やさしく、なびかせる。
荒れ果てた王都の、その先に。決戦の時が——静かに、けれど、確実に、近づいていた。
***
同じ夜。荒れ果てた王都を、見下ろす——打ち捨てられた時計塔の、てっぺんで。
妖精はうっとりと、目を細めていた。
憎しみ。疑い。孤独。——人々の暗い心が、糸を伝って、とめどなく、流れ込んでくる。それは、妖精にとって、何よりのごちそうだった。
「ふふ。おいしい。……こんなに力が満ちるの、ひさしぶり」
半月。たった、それだけで、この国は、ここまで脆く崩れた。人の心とは、なんと、もろいものだろう。少しつついてやるだけで。こんなにも、たやすく、憎しみ合う。
「……でも、まだ。まだ、足りないわ」
妖精の暗い瞳が、ぎらりと光った。その視線の先には——あかりの灯る、ひとつの屋敷。ノアのいる場所。
「ねえ、ノア。あなた、帰ってきたんでしょう? 森から。森の主に会って……なにか、もらってきた?」
くすくす、と。冷たい笑い声が、夜風に溶ける。
「いいわ。なんでも、もらってくればいい。それでも、わたしは、あなたから、ぜんぶ、奪ってみせる。あなたの大切なものを、ひとつ、ひとつ。……あのときみたいに。ううん——あのときより、もっと、ずっと、念入りに、ね」
ぞっとするほど美しい微笑みを浮かべて。妖精はゆっくりとその姿を、夜の闇に溶かしていった。
決戦の時は、もう——すぐ、そこまで、来ていた。
——第15話 了
【あとがき おまけSS 〜こどもたちの、おやすみ前〜】
その夜。子ども部屋では。
なかなか寝つけない子どもたちが、ベッドのなかで、ひそひそと、話していた。
「ねえ、にいさま。ノアおねえちゃまが、帰ってきたね」
「ああ。……これで、きっと、だいじょうぶだ」
長男のテオがいつもの、ませた口調で言う。けれど、その声には、心からほっとした響きが、にじんでいた。
「ノアおねえちゃまと、おじさまが、わるいやつを、やっつけてくれる。そしたら、また、おそとで、あそべるよ」
「ほんと? リナ、おそと、いきたい……」
「ほんとだとも。だから、リナはいい子で、寝るんだ」
「……うん」
リナがこくんと頷いて、目を閉じる。ルカも安心したように、毛布に、もぐりこんだ。
ノアが帰ってきた。たった、それだけのことが。子どもたちの、こわばっていた心を、ほんの少し、ほどいていた。
「ノアおねえちゃま……がんばって」
ちいさな祈りが、夜の屋敷に、そっと溶けていった。




