表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闇オークションで落札した白猫獣人が、運命の番でした 〜騎士団長は最愛の彼女を溺愛する〜  作者: 月代 緋色


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/16

第15話 荒れゆく王都

よろしくお願いいたします。

 神獣の森を、後にして。


 ノアとレオンは待たせていた馬のもとへと、戻ってきた。


 不思議なことに、あれほど苦しかった神気は、森から離れるにつれて、すうっと引いていった。レオンの足取りも、しっかりと、もとに戻ってくる。ノアはその横顔に、ほっと胸をなでおろした。森の主に会えたこと。やさしい時間を過ごせたこと。胸のなかは、まだ、あたたかな余韻で、満たされていた。


「……れおん。だいじょうぶ? もう、苦しくない?」


「ああ。すっかり平気だよ。……それより、ノア」


 レオンはふと空を見上げた。そして、わずかに、眉をひそめる。


「おかしいな。森に入ったのは、たしか昼すぎだったはずだ。なのに、もう、夕暮れの色をしている」


 言われて、ノアも空を仰いだ。木々のあいだから見える空は、たしかに、茜色に染まりはじめている。森のなかで過ごしたのは、ほんの数刻のはずだったのに。半日も、経っていたというのだろうか。


《……気づいた?》


 黒猫の神獣シャルがゼルの背から、ぴょん、と飛び降りた。


《神獣の森はね。外の世界とは、時間の流れが、まるでちがうんだ。森のなかのひとときは……外では、ずっと、ずっと、長い》


「……どういう、こと?」


 ノアがこてんと、首をかしげる。シャルの金色の瞳が、すっと細くなった。


《つまり、ぼくたちが森で過ごしていたあいだに。外の世界では——もう、何日も、経っているかもしれない、ってこと》


「……っ」


 レオンの背筋が、ひやりとした。何日も。自分たちが、森で穏やかな時を過ごしているあいだに。外の世界では、あの妖精が好きなだけ暴れられる時間が、流れていたということだ。


 胸のなかの、あたたかな余韻が、すっと、引いていく。かわりに、嫌な予感が、じわりと、せり上がってきた。


「……急ごう。何も起きていないと、いいけど」


 レオンはノアを馬上に抱え上げると、来た道へと、馬首を向けた。


***


 馬を、駆る。


 来た道を、ひたすら、引き返していく。けれど——進めば進むほど、レオンの胸の嫌な予感は、確信へと、変わっていった。


 行きには、あんなにのどかだった田園が、どこか、荒れている。畑は、手入れもされぬまま、放られている。すれ違う人々の顔は、暗く、こわばっていた。誰もが、互いを、避けるように歩いている。


 ある村の広場では、男たちが、つかみ合いの喧嘩をしていた。止めようとする者もいない。別の村では、家々が固く戸を閉ざし、人っ子ひとり、出てこない。井戸のそばで、女たちが、誰かのことを、ひそひそと、なじり合っている。


 道ばたでは、ひとりの母親が、泣きじゃくる子どもの手を、苛立たしげに、ぐいと引いていた。いつもなら、きっと、やさしく抱き上げただろうに。その目もとには、疲れと、苛立ちが、濃くにじんでいる。


「……なんだか、みんな、ぴりぴり、してる」


 ノアの声が、不安げに揺れた。胸が、きゅっと痛む。みんな、ほんとうは、こんなふうじゃ、なかったはずなのに。やさしく笑い合って、暮らしていたはずなのに。それを、ぜんぶ、ねじ曲げてしまうもの。その正体を、ノアは知っている。


 レオンは馬を止め、通りかかった老人に、声をかけた。


「すまない。少し、尋ねたい。……このあたりは、いつから、こんな様子に?」


「……あんた、旅の者かい」


 老人は、警戒するように、レオンを見上げた。落ちくぼんだ目には、深い疲れが、にじんでいる。


「ここ半月ばかりで、すっかりおかしくなっちまった。あちこちで、諍いが絶えん。昨日まで仲のよかった者同士が、今日には、いがみ合っておる。まるで、何かに取り憑かれたみたいに、な。……わしも、孫と、つまらんことで、口論しちまった。なぜ、あんなにかっとなったのか、自分でも、わからん」


「——半月」


 レオンと、ノアは思わず顔を見合わせた。


 半月。森で過ごした、あの、ほんのひとときが。外の世界では、半月もの長さに、なっていたのだ。シャルの言葉は、本当だった。


「特に、ひどいのは、王都だと聞くよ」


 老人は、声をひそめた。


「人が、人を、信じられなくなっちまってな。毎日のように、騒ぎが起きてるそうだ。お役人さまも、もう、手がつけられんとか。……あんたら、王都へ行くなら、よくよく、気をつけることだ」


「……っ、王都が」


 ノアの顔から、さっと、血の気が引いた。


 王都には、家族がいる。やさしいルクレツィアが。明るいロザリオが。ちいさな、子どもたちが。


「ノア。急ぐよ」


「うん……!」


***


 半日、駆け通して。ようやく、王都の城壁が、見えてきた。


 けれど。


 その光景に、ノアは思わず、息を呑んだ。


 いつもなら、夕暮れには、無数のあたたかな灯りが、宝石のようにきらめくはずの街。それが——どんよりと沈んでいた。ところどころから、細い煙が、不穏に立ちのぼっている。活気にあふれていた市場の大通りは、人影もまばらで。行き交う人々は、みな、うつむき、肩をいからせ、互いを避けるように、足早に通り過ぎていく。


「……ここ、ほんとうに、王都……?」


 ノアが呆然と、つぶやいた。


 あの、きらびやかで、あたたかかった街は、どこにも、なかった。ノアがはじめてレオンに連れられて歩いた、あの、やさしい街は。


 ふとすぐそばの路地で、激しい怒鳴り声が、響いた。男が二人、互いの胸ぐらをつかみ合っている。その片方の目が——どろりと、虚ろに濁っているのを、ノアは見てしまった。


『……あの目。操られてる』


 ノアの胸が、ぎゅっと痛んだ。あの、ベルナ夫人と。あの、伯爵夫人と。同じ目。心を、妖精に明け渡してしまった者の、うつろな目。


 ここに来るまでの道も、ひどかった。けれど、王都に満ちた空気は、それとは比べものにならないほど、淀んでいた。憎しみと、疑いと、孤独が。街じゅうの、すみずみにまで、しみ込んでいる。


 ふとノアの足が、止まった。


 通りの片隅。崩れた木箱のかげで、ちいさな女の子が、ひとり、膝を抱えて泣いていた。三つか、四つか。リナと、同じくらいの。周りの大人たちは、誰も、その子に気づかない。自分のことで、精いっぱいなのだ。


「……ノア?」


 気づいたときには、ノアはもう、その子のそばに、しゃがみこんでいた。


「だいじょうぶ? どうしたの? ひとりなの?」


 女の子は、びくっと顔を上げた。けれど、ノアのやさしい声と、まなざしに。こわばっていた表情が、ふっとゆるむ。


「……ままが、おこって。こわくて、にげてきたの。ままが、ままじゃ、ないみたいで……」


「そっか。こわかったね」


 ノアはその、ちいさな手を、そっと握った。その瞬間——ノアの指先から、ほんのかすかに、淡くあたたかな光が、こぼれた。ノア自身も気づかないほど、ささやかな、銀色のきらめき。


 すると。女の子の、強張っていた肩から、すうっと、力が抜けた。涙も、止まる。


「……なんだか。おねえちゃんの、て。あったかい」


「ふふ。よかった。……きっと、ままも、すぐ、もとに戻るからね」


「ノア!」


 追いついたレオンがノアの肩を、ぐっと抱き寄せた。その腕は、わずかに震えている。怒りに。そして——間に合わなかった、という、深い悔しさに。


「……離れないで。こんなときに、君を見失ったら、僕は」


「ごめんなさい。……でも、れおん。この子、放っておけなくて」


 女の子は、もう、泣いていなかった。きょとんと、ノアを見つめ、ちいさく、手を振る。その光景に、レオンはふと胸をつかれた。


『……今、ノアの手が、光らなかったか? あの子の、こわばりが、ふっと解けたように、見えたけど』


 けれど、それを確かめる間もなく。ノアはレオンの手を、ぎゅっと握って、歩き出していた。


***


 クライン公爵邸の門を、くぐる。


 その、瞬間だった。


「ノアちゃん……!」


 屋敷の扉が、勢いよく開いて。飛び出してきたのは、ルクレツィアだった。いつも、どんなときも落ち着いている、あの彼女が。髪を振り乱し、転がるように駆けてきて——ノアを力いっぱい、抱きしめた。


「よかった……! 無事、だったのね……! ああ、よかった……、ほんとうに……!」


「……ルクレツィアねえさま」


「もう、半月よ……! いくら待っても、待っても、帰ってこないから……! 神獣の森で、何か、よくないことが、あったんじゃないかって……っ、わたし、生きた心地が、しなくて……っ」


 ルクレツィアの声は、涙で、ぐしゃぐしゃに、震えていた。その腕の、必死な力に。ノアの胸も、じいんと、熱くなる。こんなにも、案じてくれていた。こんなにも、帰りを、待っていてくれた。


「ごめんなさい……。心配、かけて。森の時間が、外と、ちがってて……ノア、ぜんぜん、気づかなくて」


「兄さん……!」


 続いて、ロザリオが駆けてきた。その顔は、げっそりとやつれている。いつもの、はじけるような明るさは、すっかり影をひそめていた。


「よかった……ほんとうに、よかったよぉ……。毎日、毎日、外は、こわい騒ぎばかりで……兄さんたちまで、帰ってこなかったら、わたし、どうしようかと……っ」


「ロザリオ。……すまない。こんなときに、留守を押しつけて」


 レオンが妹の肩を、そっと叩く。気丈なロザリオがその手に、ぼろぼろと、泣き崩れた。


 そこへ、子どもたちも、ぱたぱたと駆けてきた。けれど——いつものように、無邪気に、はしゃぎはしない。長男のテオがいちばん下のリナをしっかりと抱きかかえ、不安そうに、大人たちを見上げている。次男のルカもその後ろに、ぴたりと隠れていた。


「……おじさま。ノアおねえちゃま。おかえり、なさい」


 いつもは、ませて、しっかり者のテオの声さえ、今は、かすかに、震えている。


「……ただいま、テオ。ルカもリナも。……いい子で、待っててくれたんだね」


 ノアがしゃがんで、三人を、まとめて、ぎゅっと抱きしめた。とたん、リナがノアの胸で、堰を切ったように、わぁっと泣き出した。


「おねえちゃまぁ……っ、こわかったよぉ……。まいにち、そとが、こわいおとで……おうちから、でられなくて……っ」


「……うん。うん。こわかったね。よく、がんばったね、リナちゃん。……もう、だいじょうぶ。ノアが帰ってきたよ」


 ノアはちいさな背を、ゆっくりとなで続けた。テオもルカもこらえきれずに、ノアにしがみつく。


 その、ちいさな温もりを、抱きしめながら。ノアの胸の奥では——静かな、けれど、確かな、怒りと、決意が、芽生えはじめていた。


 この子たちの笑顔を、奪ったもの。この街の灯りを、消したもの。それを、ぜったいに、許せない、と。


 ノアが子どもたちを、なだめおえると。ルクレツィアがそっとノアと、レオンの背に、手を添えた。


「……さあ、ふたりとも。まずは、なにか、お腹に入れましょう。半月も、旅をしてきたのよ。話は、それから」


 こんなときでも、家族を、気づかうことを、忘れない。その、変わらないやさしさに。ノアの張りつめていた心が、ほんの少し、ゆるんだ。


 久しぶりに、家族で囲む、食卓。外は、荒れ果てているのに。この屋敷のなかだけは、まだ、あたたかな灯りと、家族の温もりが、ちゃんと、残っていた。


『……これを、守りたい』


 ノアはあらためて、そう、思った。この、あたたかな場所を。世界じゅうの、こういう、ちいさなしあわせを。あの妖精にこれ以上、奪わせは、しない。


***


 子どもたちが、ようやく泣きやんで、乳母に連れられていったあと。


 屋敷の応接間で、宰相ユリウスと、副団長ガイルが待っていた。二人とも、見るからに、憔悴しきっている。目の下には、濃い隈が、刻まれていた。


「……戻ったか、レオン」


 ユリウスのいつもの皮肉めいた口調にも、今は、力がない。


「無事で、何よりだ。心底、そう思う。……だが、見ての通りだ。事態は、最悪だ」


「ユリウス。説明してくれ。この半月で、いったい、何が起きた」


 レオンの問いに、ユリウスは深いため息をついた。


「お前たちが発ってから、数日は、まだ、持ちこたえていた。だが、ある時を境に、潮目が、変わった。まるで、堰を切ったように、混乱が、王都じゅうに、広がりはじめたんだ」


「ある時……」


『——僕たちが、森で、穏やかな時を、過ごしていた、あいだだ』


 レオンの胸に、苦いものが、こみあげた。あの、あたたかな再会の時間。その裏で、外の世界は、こんなにも、崩れていたのだ。


「街じゅうで、諍いが、絶えん」


 ガイルがこぶしを、強く握りしめた。


「親が、子を。夫が、妻を。長年の友が、互いを。ほんの、ささいなことで、いがみ合い、傷つけ合う。騎士団総出で、鎮めにまわっても、追いつかん。なにせ、相手は、人の心だ。剣じゃ、斬れん。ひとつ鎮めても、また、別の場所で、火が上がる。……正直、もう、限界だ」


「操られた者は、皆、あの、虚ろな目をしている」


 ユリウスが低く続けた。


「そして、我に返ると、何も覚えていない。例の妖精の仕業に、間違いない。あれは、この半月で、桁違いに、力をつけた。人々の憎しみと、苦しみを、喰らって、な」


「……隣国は」


「ますます、きな臭い。国境では、いつ、本格的な衝突が起きても、おかしくない有り様だ。あの妖精はこの国だけでなく、隣国との関係まで、根こそぎ、壊そうとしている」


「カティアさまからは、毎日のように、急報が」


 ガイルが机の上の、何通もの書状を、示した。レオンはその一通を、手に取る。きびきびとした、カティアらしい筆跡で、こう、記されていた。


『——兄さんへ。辺境は、もう、ぎりぎりよ。国境の兵も、街の民も、些細なことで、いきり立つ。先日は、ずっと仲のよかった隊長同士が、刃を抜きかけた。止めに入ったうちの夫が、危うく、斬られるところだったわ。


 向こう——ルキアノスも、同じみたい。セレム王は、必死に兵を抑えてるって。あの王さまは、悪い人じゃない。なのに、国も、民も、内側から、おかしくなっていく。まるで、誰かが、両国の憎しみを、わざと煽ってるみたいに。


 ねえ、兄さん。私、思うの。あの妖精の狙いは、ただの混乱じゃない。とくに、ルキアノスに、何か、執着してる。……あの国に、私たちの知らない“何か”がある。そんな気が、して仕方ないの。


 とにかく、こっちは私が、なんとか食い止める。だから、兄さんと、ノアちゃんは。……早く、あの元凶を、止めて。たのむわ。——カティア』


「……カティアらしい」


 レオンは書状を、そっと置いた。気丈な妹が、最前線で、必死に踏ん張っている。その姿が、ありありと、目に浮かぶ。


「あの妖精は辺境も、隣国も、王都も。すべてを、いっぺんに、呑み込もうとしている」


 ユリウスが低く、つぶやいた。


「……時間は、ない。長くは、保たんぞ」


 重い沈黙が、応接間に、落ちた。


 窓の外。荒れ果てた王都の空に、また、ひとすじ、煙が、立ちのぼっていく。


「……だが」


 ユリウスがふとレオンと、ノアを見た。その目に、わずかな、光が、戻る。


「お前たちが、帰ってきた。それだけで、俺は、少しだけ、希望が持てる。……森で、何か、つかんできたんだろう?」


「……ああ」


 レオンはノアと、目を合わせた。ノアがこくりと、頷く。


「妖精を止める手がかりを。……必ず、終わらせる。この、悪夢を」


***


 翌朝。レオンは王城へと、向かった。


 いつもは、磨き上げられ、凛とした空気の満ちる王城も、今は、どこか、ざわついていた。廊下では、文官たちが、声をひそめ、互いをうかがうように、行き交う。すれ違った貴族のひとりは、虚ろな目で、ぶつぶつと、誰かを呪う言葉を、つぶやいていた。


 謁見の間。玉座には、国王アルノーが座していた。けれど、その姿は、レオンがはじめて目にするものだった。いつもの、どこか、おっとりとした、あたたかな空気は、影をひそめ。深い疲労と、それを押し殺す、王としての強い意志とが、その横顔に、刻まれている。


「……レオン。戻ったか」


 アルノーの声に、わずかな安堵が、にじんだ。


「無事で、何よりだ。お前まで帰らぬかと、気が気でなかった。……ノアは息災か」


「は。ノアも無事です。ご心配を、おかけしました」


「うむ。あの子が無事なら、それでよい」


 アルノーはふっと目もとをやわらげた。けれど、それも、つかの間。すぐに、その表情に、重いものが戻る。


「見ての通りだ。この半月で、国は、ずいぶんと荒れた。宮廷とて、無縁ではない。昨日まで忠実だった者が、今日には、根も葉もない噂を信じ込み、同僚を糾弾する。……誰を信じてよいやら、わからぬ有り様だ」


「陛下……」


「だが、私が倒れるわけには、いかぬ。私が揺らげば、この国は、本当に崩れる。だから、こうして、しがみついて、おるのだ」


 その言葉の重さに、レオンは深く頭を垂れた。この王が、たったひとりで、崩れゆく国を、必死に支えていたのだ。自分たちが、森にいた、あいだも。


「陛下。……隣国は、いかがですか」


 レオンの問いに、アルノーの表情が、いっそう険しくなった。


「ルキアノスも、同じだ。いや——もっと、悪いやもしれぬ。セレムからの文は、日に日に、悲痛なものになっておる。国境の小競り合いは、もはや、抑えがきかぬ。双方の民が、互いを憎み合い、剣を抜こうとしている」


 アルノーは窓の外、遠い北の空を、見つめた。


「セレムは、必死に、止めておる。あれは、戦など、望んではおらぬ。だが、人の心を、内側から毒されては。王の力など、無力に等しい。……我が妹も、かの国で、さぞ、胸を痛めて、おろう」


 その瞳に、妹を案じる、兄の色が、よぎる。けれど、すぐに、それを振り払うように、アルノーはレオンを見据えた。


「レオン。私は、お前と、ノアに賭ける。剣でも、兵でも、王の権威でも、止められぬ、この災いを。……止められるのは、もはや、お前たちだけ、かもしれぬ」


「……っ、は」


「頼んだぞ。この国の——いや。この、ふたつの国の、明日を」


 その言葉は、命令では、なかった。ひとりの人として、すべてを託す、祈りのようだった。レオンは深く膝をついて、応える。


「……必ず。必ず、お止めします。この、災いを」


 その声に、もう、迷いは、なかった。


***


 その夜。


 ノアは屋敷のバルコニーに、ひとりで立っていた。眼下に広がる、王都の、淀んだ灯り。それを、じっと見つめている。


「……ノア」


 レオンがそっと隣に並んだ。


「れおん。……ぜんぶ、ノアのせいなのかな」


 ぽつりとこぼれた声は、夜風に、消え入りそうだった。


「あの妖精がこんなに、ひどいことをするのは。ノアがいるから。ノアのことを、きらいだから。……ノアさえ、いなければ。みんな、こんな目に、遭わなかったんじゃないかって。そう思うと、ノア、胸が、苦しいの」


「ノア。それは、違う」


 レオンはノアの両肩に、そっと手を置いて、まっすぐに、向き合った。


「君のせいじゃない。悪いのは、あの妖精だ。妬みに、負けたのは、あの子自身だ。……それに、ね」


 その若草色の瞳が、まっすぐに、ノアを見つめる。


「君が、いなければ、なんて。二度と、言わないでくれ。……僕は、君に、出会えたから。こんなにも、誰かを守りたいと、強く思えるようになったんだ。君は、いていいんだよ。いや——いて、ほしいんだ。ずっと、ずっと、僕の、そばに」


「……れおん」


 ノアの淡い紫の瞳に、涙がにじむ。


「それに、ね」


 レオンはノアの濡れた頬を、指で、そっとぬぐった。


「森の主さまが言ったんだろう。あの妖精を止められるのは、君と、僕。ふたりで、ならって。……つまり、君がいなきゃ、誰にも、止められないってことだ。君は、この国を救える、たったひとりなんだよ。だから——自分を、責めないで」


「……っ、ノアがこの国を、救える?」


「ああ。君と、僕で。きっと、できる」


 その、まっすぐな言葉に。ノアの胸の奥で、ふるえていた何かが、すっと、定まっていくのを感じた。こわくない。ひとりじゃない。れおんが、いる。


 ノアはにじむ涙を、ぐっとこらえて。


 もう一度、眼下の街を、見下ろした。泣きじゃくる、リナの声が、よみがえる。怯えていた、テオの顔が。憔悴した、ロザリオの姿が。淀んだ街に、うずくまる、見知らぬ人々の影が。


「……ノア、決めた」


 しずかな、けれど、はっきりとした声だった。


「あの妖精を止める。森の主さまが、言ってた。ノアと、れおんが、ふたりでなら、できるって。……ノア、もう、いやなの。こわくて、守られて、泣いてるだけの、ノアじゃ。大切なみんなが、傷つくのを、ただ、見てるだけなんて」


 その、瞬間。


 ノアの白い髪が——ふわり、と。淡く、銀色に、光った。今度は、すぐには、消えない。胸の奥で、あの森の主が灯した、ちいさな力の芽が、こく、こく、と、確かに、脈打っている。指の先に、ひやりと、冷たく、けれど、心地よい何かが、宿る。雪の、結晶のように。


「……ノア」


 レオンはその姿に、息を呑んだ。淡い銀の光を、まとうノアは——ぞくりとするほど、美しく、そして、どこか、神々しかった。


『……目覚めようと、している。ノアのほんとうの、何かが』


 夜の風が、ふたりの髪を、やさしく、なびかせる。


 荒れ果てた王都の、その先に。決戦の時が——静かに、けれど、確実に、近づいていた。


***


 同じ夜。荒れ果てた王都を、見下ろす——打ち捨てられた時計塔の、てっぺんで。


 妖精はうっとりと、目を細めていた。


 憎しみ。疑い。孤独。——人々の暗い心が、糸を伝って、とめどなく、流れ込んでくる。それは、妖精にとって、何よりのごちそうだった。


「ふふ。おいしい。……こんなに力が満ちるの、ひさしぶり」


 半月。たった、それだけで、この国は、ここまで脆く崩れた。人の心とは、なんと、もろいものだろう。少しつついてやるだけで。こんなにも、たやすく、憎しみ合う。


「……でも、まだ。まだ、足りないわ」


 妖精の暗い瞳が、ぎらりと光った。その視線の先には——あかりの灯る、ひとつの屋敷。ノアのいる場所。


「ねえ、ノア。あなた、帰ってきたんでしょう? 森から。森の主に会って……なにか、もらってきた?」


 くすくす、と。冷たい笑い声が、夜風に溶ける。


「いいわ。なんでも、もらってくればいい。それでも、わたしは、あなたから、ぜんぶ、奪ってみせる。あなたの大切なものを、ひとつ、ひとつ。……あのときみたいに。ううん——あのときより、もっと、ずっと、念入りに、ね」


 ぞっとするほど美しい微笑みを浮かべて。妖精はゆっくりとその姿を、夜の闇に溶かしていった。


 決戦の時は、もう——すぐ、そこまで、来ていた。


——第15話 了

【あとがき おまけSS 〜こどもたちの、おやすみ前〜】


 その夜。子ども部屋では。


 なかなか寝つけない子どもたちが、ベッドのなかで、ひそひそと、話していた。


「ねえ、にいさま。ノアおねえちゃまが、帰ってきたね」


「ああ。……これで、きっと、だいじょうぶだ」


 長男のテオがいつもの、ませた口調で言う。けれど、その声には、心からほっとした響きが、にじんでいた。


「ノアおねえちゃまと、おじさまが、わるいやつを、やっつけてくれる。そしたら、また、おそとで、あそべるよ」


「ほんと? リナ、おそと、いきたい……」


「ほんとだとも。だから、リナはいい子で、寝るんだ」


「……うん」


 リナがこくんと頷いて、目を閉じる。ルカも安心したように、毛布に、もぐりこんだ。


 ノアが帰ってきた。たった、それだけのことが。子どもたちの、こわばっていた心を、ほんの少し、ほどいていた。


「ノアおねえちゃま……がんばって」


 ちいさな祈りが、夜の屋敷に、そっと溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ