第14話 神獣の森
よろしくお願いします。
一歩、踏み出すごとに。
霧が、すうっと、晴れていく。
まるで、ノアを迎え入れるように。乳白色のヴェールが、左右へとひらき、その向こうに——息を呑むような、緑の世界が、広がっていた。
見上げるほど高い木々。そのあいだから、金色の光が、幾筋も、降りそそぐ。苔は、宝石のように、しっとりと輝き、足元には、淡く発光する花が、ひっそりと、咲いている。空気は、どこまでも澄んで、甘い。
神気。人を拒むはずの、その濃密な力が——ノアには、ただ、やわらかな毛布のように、あたたかかった。
「……ただいま」
ぽつり、とこぼれる。
なつかしさが、胸の奥から、波のように、こみ上げてきた。覚えている。この匂い。この光。この、世界ぜんぶの、やさしさを。ノアはここで、育ったのだ。
ここを駆けまわって、遊んだ。木の実を、神獣たちと、わけあって食べた。色とりどりの妖精たちが、花のあいだを舞い、歌うのを、飽きずに、眺めていた。夜は、森の主のおおきな体に寄り添って、眠った。——そのすべてを、ノアは忘れてなんかいない。ちゃんと、覚えている。
ただ、その記憶のなかには、ひとつだけ、冷たい棘がある。きれいで、つよくて、けれど、いつも、ノアを睨んでいた、ひとりの妖精。『お前なんか、いなくなればいい』——そう繰り返した、あの声。
でも、今は。
その棘よりも、ずっと、ずっと、たくさんの、あたたかい記憶のほうが、胸を満たしていた。
ふわり、と。
どこからか、小さな光の粒が、いくつも、飛んできた。それは、近づくと、ちいさな、ちいさな、神獣たちだった。リスのような、鳥のような、見たこともない、ふしぎな生きものたち。
《ノアだ》
《ノアが帰ってきた》
《おかえり。おかえり、ノア》
口々に、そう囁いて、ノアの周りを、くるくると、舞う。ふわふわの毛をすり寄せてくる子。肩に、ちょこんと乗る子。みんな、まるで、ノアが昨日まで、ここにいたかのように、あたりまえに、迎えてくれた。
「……みんな。ただいま。ノア、帰ってきたよ」
ノアの瞳に、じわりと、涙がにじんだ。けれど、それは、しあわせの、涙だった。長いあいだ、ひとりだと思っていた。でも、ちがった。ここには、ずっと、ノアの帰りを待っていてくれた者たちが、いたのだ。
「ねえ、みんな。森の主さまは……?」
《こっちだよ》
《ついておいで》
ちいさな神獣たちが、先を、ふわふわと飛んでいく。けれど、すぐに、ノアの周りに戻ってきては、口々に、おしゃべりを始めた。
《ねえ、ノア。おっきくなったね。前は、こーんなに、ちっちゃかったのに》
《どこ、行ってたの? ずーっと、待ってたんだよ》
《ノアの匂い、すこし、変わった。……人間の匂いが、する》
「えへへ。あのね、ノア、人間の国で、暮らしてたの。やさしい人たちと、いっしょに」
《人間って、こわくないの?》
《とがった歯、ない? ノアのこと、たべちゃわない?》
「ふふ。たべないよ。みんな、すっごく、やさしいの。おでこに、キスもしてくれるんだから」
《おでこに、キス!?》
《なにそれ、なにそれ!》
ちいさな神獣たちが、きゃあきゃあと、はしゃぐ。ひとつ、またひとつと、ノアの肩や、頭に、ちょこんと乗ってくる。そのくすぐったさに、ノアは声をあげて、笑った。森を出てから、ずっと忘れていた、子どもみたいな、無邪気な笑い声だった。
「もう。くすぐったいよ、みんな」
《えへへ》
《ノアだ。ノアの笑い声だ》
《かわらない。ぜんぜん、かわってない》
その光の道をたどって、ノアは森のいっそう奥へと、進んでいった。一歩進むごとに、空気は澄み、神気は濃くなる。けれど、ノアの足取りは、迷いなく、軽やかだった。
あの、なつかしい声のする、ほうへ。
***
いっぽう、霧の手前。
レオンは木の幹に背を預けたまま、ノアの消えた方角を、じっと見つめ続けていた。神気の苦しさは、まだ、引かない。けれど、それ以上に、胸の奥が、落ち着かなかった。
《ご主人。だいじょうぶ?》
犬の神獣ゼルが心配そうに、すり寄ってくる。
「……ああ。平気だよ」
レオンは自分の胸に、そっと手を当てた。番の絆。そこを通して、かすかに、ノアの気配が、伝わってくる。遠い。けれど、確かに、生きている。そして——なぜだろう。とても、穏やかで、しあわせそうな気配だった。
「……よかった」
ふっとレオンの表情が、やわらいだ。
「ノアはちゃんと、たどり着けたみたいだ。……あの子の、帰る場所に」
待つことしか、できない。けれど、信じて待つ。それが今、自分にできる、精いっぱいの愛し方だった。
『……ゆっくり、おいで。僕は、ここで、待ってるから』
***
ちいさな神獣たちに、導かれて。
ノアはひときわ大きな、木々のあいだを、抜けた。
そして——その先に、それは、いた。
森の、いちばん奥。光が、滝のように降りそそぐ、ひらけた場所。そこに、ゆったりと横たわる、おおきな、おおきな影が、あった。
最初、ノアはそれを、銀色の丘か、何かだと思った。けれど、それは、ゆっくりと息をしていた。山のように、おおきな体躯。月の光を集めたような、長く、なめらかな毛並み。額には、淡く輝く、ひとすじの紋様。そして、すべてを見透かし、すべてを包み込むような、深く、あたたかなまなざし。
神々しい、としか、言いようのない、その姿。
森の、主。
ノアの足が、止まった。胸が、いっぱいで。何も言えなくて。ただ、その姿を、見つめることしか、できなかった。
《……おかえり、ノア》
森じゅうに、響くような。低く、あたたかな、声。
《よく、帰ってきた。大きく、なったね》
「……っ」
その声を聞いた瞬間。ノアのなかで、何かが、はじけた。
「……森の、主さま……!」
ノアは駆け出した。おおきな体に、勢いよく、飛び込む。やわらかな、銀色の毛並みに、顔をうずめて。
「……っ、ただいま……! ただいま、森の主さま……! ノア、帰ってきた……!」
ぼろぼろと、涙があふれて、止まらない。ずっと会いたかった。ずっと、ここに帰りたかった。やっと思い出せた、いちばんあったかい場所。やっと、いちばん会いたかった人のもとへ、帰ってこられた。
銀色の毛並みは、記憶のなかと、まるで同じだった。やわらかくて、ひなたの匂いがして、どこまでも、あたたかい。幼い頃、こわい夢を見た夜には、いつも、この毛並みに包まれて眠ったのだ。何も、こわいものなんて、なかった。世界は、やさしさで、できていた。
その温もりに、ノアの張りつめていた心が、ほろほろと、ほどけていく。
《うん。うん。……よく、がんばったね、ノア》
森の主はおおきな顔を、そっと寄せて。ノアの白い髪を、ふうわりと撫でるように、息を吹きかけた。それは、まるで、おとぎ話の抱擁のようだった。
《ずっと、見ていたよ。お前が、つらい目に遭ったことも。遠い人間の世界で、ひとりぼっちで、震えていたことも。……何もしてやれなくて、すまなかった》
「ううん……! ううん。森の主さまは、わるくないよ」
ノアはぶんぶんと、首を振った。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、けれど、せいいっぱいの笑顔で。
「ノアね。今、しあわせなの」
ノアは銀色の毛並みに、頬を寄せたまま、ぽつぽつと、語りはじめた。
「あのね。あったかい人たちに、出会えたの。ノアを闇市から、助けてくれた人がいて。その人がね、ノアの番、だったの。れおんっていう、すごく、やさしい人」
《ほう。番が》
「うん。れおんはね、いつも、ノアを守ってくれるの。おでこに、キスもしてくれる。ノアが笑うと、れおんも、うれしそうにするの。……ノア、れおんのこと、だいすき」
話すうちに、ノアの頬が、ぽっと、染まる。森の主の瞳が、いとおしげに、細められた。
「それにね。お姉さまみたいな、やさしい人たちもいて。ちいさな子たちも、いて。みんな、ノアのこと、かぞくだって、言ってくれるの。……ノア、もう、ひとりじゃないの」
《……そうか》
森の主の深い瞳が、ほそく、なった。まるで、微笑むように。
《よかった。……ほんとうに、よかった。お前が、しあわせなら。私は、それで、いい》
その声には、長いあいだ案じ続けた者だけが持つ、深い、安堵が、にじんでいた。
***
しばらくノアは森の主のおおきな体に、寄り添っていた。子どもの頃に、そうしていたように。
あたたかな沈黙が、ふたりを包む。降りそそぐ光。やわらかな風。遠くで、ちいさな神獣たちが、楽しげに遊ぶ声。何もかもが、記憶のなかと、同じだった。
「ねえ、森の主さま。おぼえてる? ノア、ちいさい頃、木のてっぺんから降りられなくなって、半日、泣いてたこと」
《ああ。よく、おぼえているとも。お前は、こわがりのくせに、高いところが、好きだったからね》
「えへへ。……あのとき、森の主さまが、おおきな体で、受け止めてくれたんだよね」
《お前は、いつだって、まっすぐ飛び込んでくる子だった。……今も、変わらないな》
ノアはくすぐったそうに、笑った。胸の奥が、じんわりと、あたたかい。失われてなんか、いなかった。この場所も、この時間も、ずっと、ノアのなかに、生きていた。
やがて森の主が静かに、口を、ひらいた。
《ノア。お前が、ここに呼ばれた理由を……話さなければ、ならないね》
「……うん」
《お前を、苦しめている、あの妖精。あの子のことを、覚えているね》
「……うん。ノアのこと、きらいだった、あの子」
ノアの声が、わずかに、震えた。森の主はゆっくりと頷く。けれど、その瞳には、怒りではなく——深い、かなしみが、宿っていた。
《あの子はね。お前が、来るまでは。この森で、いちばん、愛らしく、いちばん、美しいと、皆に、慈しまれていた子だった》
「……そうなの?」
《ああ。陽だまりのように、よく笑う子でね。花の蜜を集めては、神獣たちに、わけてまわっていた。私も、あの子の歌が、好きだった》
森の主の声は、遠い昔を、いとおしむように、やわらいだ。けれど、すぐに、その響きに、かなしみが、にじむ。
《けれど、ある日、お前が来た。捨てられて、凍えて、今にも消えそうだった、ちいさなお前を、私が拾った。そして、皆が、お前を慈しんだ》
《あの子は、それが、許せなかった。自分の居場所を、奪われたと、思い込んだのだ。……ほんとうは、誰も、奪ってなどいなかった。愛は、ひとつ増えても、減りはしない。けれど、あの子は、どうしても、それを信じられなかった》
「……」
《妬みは、少しずつ、あの子の、あのきれいな心を、内側から蝕んでいった。歌は、消えた。笑顔も、消えた。残ったのは、ひりつくような、孤独だけ。……そうして、あの子は、お前を、人間の世界へ、置き去りにした。そして、私の怒りに触れ、この森を、追われた》
森の主は深く、息をついた。
《今も、あの子は。その妬みと、孤独に、囚われたまま。人の心の闇を手繰り、世界を、壊そうとしている。……かなしいことだ。ほんとうに、かなしいことだよ》
ノアの胸が、きゅう、と痛んだ。あんなに、ひどいことを、されたのに。それでも——どこか、かなしかった。きれいな歌を歌っていた、という、その子のことが。
「……森の主さま。あの子も、ほんとうは。……さみしかった、のかな」
その言葉に。森の主はほんの少し、おどろいたように、ノアを見た。それから、やさしく、目を細める。
《……お前は、やさしい子だね。昔から、ずっと》
ノアは少しのあいだ、考え込んだ。そして、おずおずとたずねた。
「ねえ、森の主さま。……あの子、もとの、いい妖精に戻れるの? また、歌をうたって。みんなと、笑って。……そういうふうに、なれる?」
森の主はすぐには、こたえなかった。深い瞳に、なんとも言えない、かなしみの色が、よぎる。
《……正直に、言おう。それは、とても、むずかしい》
「むずかしい……」
《あの子は、あまりにも長く、人の闇を喰らいすぎた。妬みと孤独は、もう、あの子そのものに、なってしまった。……昔の、あのきれいな心は、もう、ほとんど、残っていないだろう》
「……」
《止めるには。きっと、痛みが、ともなう。お前にとっても、つらい結末に、なるかもしれない。……それでも、お前は、あの子のことを、案じるのかい》
「……うん」
ノアはためらいながらも、こくりと頷いた。
「だって。あの子も、昔は、しあわせだったんでしょう? 歌をうたう子、だったんでしょう? ……ノア、それを、思うと。やっぱり、ちょっと、かなしいの」
森の主はしばらく、ノアを見つめていた。それから、おおきな顔を、そっとノアの頬に、寄せる。
《……その、やさしさを。どうか、忘れないでおくれ、ノア。たとえ、この先、何があっても。お前のその心は、きっと、まちがっていないのだから》
その言葉の、ほんとうの意味を。ノアはまだ、知らなかった。
***
その頃、霧の手前では。
レオンがじりじりと、待ち続けていた。
ノアが消えてから、どれくらい経ったのだろう。半刻か、それとも、もっとか。この深い霧のなかでは、日の傾きも見えず、時間の感覚が、すっかりおかしくなっていた。一瞬のようにも、永遠のようにも、感じられる。
神気に蝕まれた体は重く、立ち上がることもできない。それでもレオンの意識は、ただ一点——番の絆を、手繰り寄せることに、注がれていた。
胸の奥に、かすかに灯る、ノアの気配。それが今、おだやかな温かさに満ちていることだけが、レオンの唯一の救いだった。
『……泣いてるな。でも、これは、悲しい涙じゃない』
不思議と、わかる。ノアが今、長いあいだ求めていた何かに、ようやく抱きとめられていることが。
《ご主人。顔色、ましになってきたよ》
「ああ。……ノアがしあわせだと。なぜか、僕まで、楽になるみたいだ」
番とは、ふしぎなものだ。離れていても、こんなにも、繋がっている。どれだけ待たされても、不思議と、焦りはなかった。レオンはふっと笑って、もう一度、霧の奥へと、目を凝らした。
『……ゆっくりでいい。気の済むまで、過ごしておいで。僕は、いつまでだって、ここで待ってるから』
***
森の、いちばん奥。
《ノア。よく、お聞き》
森の主の声が、あらたまった。
《あの妖精はもう、ただの、妬みの妖精では、ない。長い年月をかけて、人の闇を、喰らい、膨れ上がった。剣では、斬れない。並の力では、止められない。……だが》
森の主の銀色の瞳が、まっすぐに、ノアを射た。
《お前になら、止められる。ノア。お前の、内に眠る、ほんとうの力が、目覚めれば》
「……ノアの力?」
《そう。お前は、ただの、白い獣人では、ない。お前が、この森の濃い神気のなかで、生きていられるのも。……お前の、ほんとうの姿が、まだ、眠っているからだ》
ノアは自分の、白い手を、見つめた。
「……ノアのほんとうの、姿」
ふとずっと、胸の奥に、しまっていた問いが、口をついて出た。
「ねえ、森の主さま。……ノアって、どこから、来たの? ノア、捨て子、だったんでしょう? ノアのほんとうのおうちは、どこに、あったの?」
森の主はしばらくこたえなかった。ただ、深い瞳で、いとおしげに、ノアを見つめている。
《……それも、いずれ、わかるときが、来る》
その声は、どこか、せつなげだった。
《今は、まだ。お前が、ほんとうのお前に、目覚めたとき。きっと、すべてが、つながる。……だから、それまで、こわがらずに、お行き》
「……うん」
ノアには、まだ、よく、わからなかった。けれど、森の主が何か、大切なことを、そっと胸にしまっているのだということだけは、伝わってきた。
《いずれ、わかる。お前が、ほんとうに、目覚めるとき。……それは、お前ひとりでは、できない。お前が、心から、信じ、愛する者と。ふたりで、はじめて、ひらく扉だ》
森の主はふっと目を細めた。
《お前の、番。さっき、お前が、話してくれた、あの者と。……ふたりで、あの妖精に立ち向かいなさい。そのとき、お前は、ほんとうの、お前に、なれる》
「……れおんと、いっしょに」
《そうだ》
森の主の言葉は、まだ、半分も、わからなかった。けれど、ひとつだけ、はっきりと、わかったことが、あった。
ひとりじゃ、ない。
れおんと、いっしょなら。きっと——。
***
《では。最後に、ひとつ、贈り物を》
森の主がおおきな顔を、そっと寄せた。そして、ノアのひたいに——ふうっと息を、吹きかける。
その瞬間。
ノアの胸の奥が、じんわりと、あたたかくなった。何か、ずっと眠っていたものが、こく、こく、と脈打つような。やわらかな、けれど、確かな、力の芽生え。それは、まるで、長い冬を越えて、雪の下から、芽が顔を出すのに、似ていた。
「……っ、これ……」
ノアは思わず、自分の胸を、押さえた。こわくはない。むしろ、ずっと前から知っていたものに、ようやく再会したような——そんな、なつかしさが、あった。
《お前の、ほんとうの力への、ちいさな道しるべだ。こわがらなくて、いい。これは、もとから、お前のなかに、あったもの。……いざというとき、きっと、お前を、そして、お前の大切な人を、守ってくれる》
ノアの白い髪が、ほんの一瞬。淡く、銀色に、きらめいた。指の先が、ひやりと、冷たい——けれど、心地よい何かを、まとう。それは、雪の結晶を、思わせた。
けれど、その煌めきは、すぐに、もとに戻った。
まだ、その時では、ない。けれど、確かに、何かが、ノアのなかで、目を覚まそうとしていた。長いあいだ、深い眠りに、ついていた、ほんとうの、ノアが。
***
《さあ、ノア。お行き》
森の主がやさしく、うながした。
《お前の、大切な人が、待っている。……早く、安心させて、おやり》
「……うん」
ノアはこくり、と頷いた。けれど、すぐには、離れがたくて。もう一度、おおきな体に、ぎゅっと抱きついた。
「森の主さま。……ノア、また、来てもいい?」
《もちろんだ》
森の主がふっと笑ったような、気がした。
《ここは、お前の、はじまりの場所。いつでも、帰っておいで。……私は、ずっと、ここにいる》
「……うん! あのね、こんどは、れおんも、つれてくるね。ノアのだいすきな人。森の主さまに、会わせたいの」
《ほう。それは、楽しみだ》
森の主の声に、ふっとおかしそうな響きが、まじる。
《お前を、しあわせにしてくれる相手だ。……一度、この目で、見定めてやらねば、なるまいな》
「えへへ。れおんね、すっごく、やさしいんだよ。きっと、森の主さまも、気に入るから」
ノアの満面の、笑み。それを見て、森の主の深い瞳が、いとおしげに、細められた。
別れではない。だから、ノアの足取りは、軽かった。
「いってきます、森の主さま!」
手を振って。ノアは来た道を、駆け戻っていく。ちいさな神獣たちが、その後ろを、楽しげについてきた。
行きには、あんなにこわかった森の奥が、帰り道では、まるで、やさしく背中を押してくれているようだった。木々が、さわさわと枝を鳴らす。淡く光る花が、行く手を、ぽつぽつと照らす。まるで、森ぜんぶが、「またおいで」と、ノアを見送っているかのように。
やがて待っていたシャルの姿が、見えてきた。
《おかえり、ノア。……いい顔してる》
「シャル! ただいま。あのね、森の主さまに、会えたよ。いっぱい、お話したの」
《うん。よかったね。……さあ、ご主人のところへ。きっと、心配してる》
シャルを抱き上げて。ノアはさらに、霧のなかを、駆けていく。早く。早く、れおんに、会いたい。その一心で。
***
霧の、手前。
「……れおん!」
白い霧を抜けて。ノアが駆けてくる。
「ノア……!」
レオンが立ち上がった。神気の苦しさも、忘れて。両手を、広げる。その胸に、ノアが勢いよく、飛び込んだ。
「れおん、れおん……! ノア、会えたの! 森の主さまに、会えたの……!」
「……うん。うん、よかった」
レオンはノアをぎゅうっと、抱きしめた。腕のなかの、ちいさな温もり。それが、戻ってきてくれた。神気の苦しさよりも、ずっと長く感じられた、この待ち時間。それが、今、報われた。
「おかえり、ノア」
「……ただいま、れおん」
ノアはレオンの胸に顔をうずめたまま、ぽつぽつと、森でのことを、語りはじめた。森の主が変わらず大きくて、あたたかかったこと。ずっと自分を見守ってくれていたこと。そして——あの妖精もほんとうは、さみしかったのかもしれない、ということ。
「あのね、れおん。森の主さまが、言ってたの。あの妖精を止めるには、ノアのほんとうの力が、いるんだって。……でもね、それは、ノアひとりじゃ、できないの」
「ひとりじゃ?」
「うん。れおんと、いっしょじゃないと。ふたりで、はじめて、できることなんだって」
ノアが顔を上げる。涙でぬれた頬は、けれど、晴れやかだった。
「だからね。これからも、ずっと、ノアと、いっしょにいて。……いい?」
「……ああ。もちろんだよ」
レオンはノアの頬の涙を、指で、そっとぬぐった。
「言っただろう。どこまでも、一緒だって。……何があっても、僕は、君のそばにいる」
「……えへへ。うん」
ノアが花がほころぶように、笑う。その白い髪が、木漏れ日のなかで——ほんの一瞬だけ、銀色に、煌めいた、ような。
『……ノア。君は、いったい』
レオンの胸に、ふしぎな予感が、よぎる。森の主の力か。それとも、ノア自身の、何かが。けれど、今は。ただ、戻ってきてくれた、この子を、抱きしめていたかった。
黒猫の神獣シャルが二匹のそばで、ふっと目を細めた。
《……始まったね。ゆっくりと確かに》
その呟きは、まだ、誰の耳にも、届かなかった。
神気の届かない場所まで、レオンが歩けるようになると、ふたりは、待たせていた馬のもとへと、戻りはじめた。ノアはずっと、レオンの手を握っていた。もう、離れたくない、というように。
「れおん。あのね。森の主さまが、言ってたの。ノアのほんとうの姿が、まだ眠ってるって。……ノア、ちょっとだけ、こわい。ほんとうのノアって、どんなノアなんだろうって」
「どんなノアでも」
レオンは迷いなく、言いきった。
「ノアはノアだよ。何が目覚めても、僕の大切な番で、僕のお嫁さんになる、世界でいちばん可愛い子だ。それは、ぜったいに、変わらない」
「……っ、れおん」
ノアの瞳が、じわりと潤む。けれど、すぐに、ぱあっと、晴れた。
「えへへ。……うん。じゃあ、こわくない。れおんが、そう言ってくれるなら」
手を、つなぎ直して。ふたりは、霧の森を、後にする。
胸に抱いた銀色の羽根は、もう、役目を終えたように、静かに、光を、おさめていた。けれど、その温もりは、確かに、ノアのなかに、残っている。
ほんとうのノアが目覚めるとき。それが、いつ、どんなふうに訪れるのか。まだ、誰も知らない。
けれど——その扉は、もう、ゆっくりとひらきはじめていた。
森が、静かに、ふたりを、見守っていた。
——第14話 了
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【あとがき おまけSS 〜ちいさな神獣たちの、ひそひそ話〜】
ノアたちが、帰っていったあと。
森の奥で、ちいさな神獣たちが、寄り集まって、ひそひそと、話していた。
《ねえ。ノアのとなりにいた、あれ。なに?》
《人間だよ。森の、ぎりぎりまで、来てた》
《人間が、ここまで来られるの、すごくない? ふつう、神気で、ぐったりなのに》
《ノアの番なんだって。番の絆で、守られてたみたい》
ちいさな神獣たちは、ふぅん、と、首をかしげる。
《つがい、って?》
《えっとね。ずーっと、いっしょにいる、だいすきな、相手のこと》
《へえ……。じゃあ、ノア、しあわせなんだね》
《うん。すっごく、しあわせそうだった》
ちいさな神獣たちは、顔を見合わせて、にこにこと、笑った。
《よかったねえ、ノア》
《また、あそびに、来てくれるかなあ》
森の主がその様子を、おおきな瞳で、やさしく、見つめている。
《……ああ。きっと、また来るとも》
光の粒のような、ちいさな笑い声が、緑の森に、いつまでも、こだましていた。
(次回、第15話。ノアの内に眠る、ほんとうの姿とは——ついに、明かされる、白い獣人の、秘密。)
【あとがき おまけSS 〜ちいさな神獣たちの、ひそひそ話〜】
ノアたちが、帰っていったあと。
森の奥で、ちいさな神獣たちが、寄り集まって、ひそひそと、話していた。
《ねえ。ノアのとなりにいた、あれ。なに?》
《人間だよ。森の、ぎりぎりまで、来てた》
《人間が、ここまで来られるの、すごくない? ふつう、神気で、ぐったりなのに》
《ノアの番なんだって。番の絆で、守られてたみたい》
ちいさな神獣たちは、ふぅん、と、首をかしげる。
《つがい、って?》
《えっとね。ずーっと、いっしょにいる、だいすきな、相手のこと》
《へえ……。じゃあ、ノア、しあわせなんだね》
《うん。すっごく、しあわせそうだった》
ちいさな神獣たちは、顔を見合わせて、にこにこと、笑った。
《よかったねえ、ノア》
《また、あそびに、来てくれるかなあ》
森の主がその様子を、おおきな瞳で、やさしく、見つめている。
《……ああ。きっと、また来るとも》
光の粒のような、ちいさな笑い声が、緑の森に、いつまでも、こだましていた。




