#第13話 森からの招き
よろしくお願いします。
——どこか、光の届かない場所で。
ひとりの妖精が、くすくすと、笑っていた。
細い指先からは、無数の、銀色の糸が伸びている。その糸の先は、人の心の、いちばん柔らかく、いちばん弱いところへ——後ろめたさを抱えた者の、罪の意識へと、するりと、もぐり込んでいた。
「ふふ。いいわ。もっと、疑いなさい。もっと、憎みなさい」
くい、と糸を引けば、遠くで、また、ひとつ、諍いが生まれる。穏やかだった町に、ひびが入る。仲のよかった者同士が、互いに、刃を向け合う。それを眺めるのが、妖精には、たまらなく、心地よかった。
糸の何本かは、すでに、国境を越えていた。隣の国——ルキアノスの、奥深くへと。
「あの国にも、ずいぶん、面白い澱が、たまっているのよねえ。……ふふ。あそこは、あとの、お楽しみ」
妖精の、美しい顔が、うっとりと、ゆがむ。けれど、その瞳の奥には、どろりと暗いものが、渦巻いていた。
「……ねえ、ノア」
ふいに、その声が、低くなった。
「あなただけは。あなただけは、しあわせになんて、させてあげない。あのときみたいに。——ぜんぶ、ぜんぶ、奪ってあげる」
くすくす。くすくす。
冷たい笑い声が、闇のなかへ、溶けていった。
***
夜会の成功から、しばらく。
ノアをめぐる噂は鎮まり、王都には、穏やかな日々が戻った——かに見えた。
けれど。
「……また、けんか騒ぎ?」
朝食の席で、ロザリオが眉をひそめた。今日も今日とて、屋敷に届く知らせには、物騒なものが、まじっている。
仲のよかった夫婦が、突然、いがみ合う。実直な職人が、ある日、店の金に手をつける。——そして本人たちは、なぜそんなことをしたのか、まるで覚えていない。そんな話が、あちこちで、ぽつぽつと増えていた。
「気味が悪いわね」
カティアが紅茶のカップを置いて、低くつぶやく。
「みんな、目つきが、おかしかったって。どこか、虚ろで……まるで、別人みたいだったと」
「……あの、伯爵夫人と、同じね」
ルクレツィアの言葉に、場が、しんと静まった。
夜会で、ノアを糾弾し、そして我に返った、あの夫人。あのとき広間に流れた、ひやりとした空気を、誰もが思い出していた。
その輪の中で、ノアはそっと自分の胸に手を当てた。
『……あの妖精が、また』
胸の奥が、ざわざわと、ざわめいていた。
***
その厄介事は、騎士団にも、影を落としていた。
「団長。捕らえた者は、みな、自分のしたことを、覚えていないのです」
副団長ガイルが低い声で言う。
「そして決まって、こう漏らします。『頭のなかで、ずっと、声がしていた』と。昔の過ちを、ねちねちと責め立てる、声が。まるで、心の弱みを、見透かされたように」
レオンは窓の外を見つめた。剣では斬れない敵。人の後ろめたさにつけ込んでくる、見えない手。それが今、静かに、この国じゅうへ広がろうとしている。
『……早く、なんとかしないと』
焦りにも似た想いが、レオンの胸を締めつけた。
***
王城。王の私室。
国王アルノーは、めずらしく難しい顔で、一通の書状を見つめていた。差出人は、隣国ルキアノスの王——セレム。向かいには、宰相ユリウスが控えている。
「……困ったものだな、ユリウス」
アルノーが、ため息をついた。
「セレムから、詫び状が来た。先日こちらへ寄越した使者が、突然、無礼を働いた件だ。曰く『あの者が、なぜあのような暴言を吐いたのか、まるで見当もつかぬ。どうか、許されよ』と」
「……セレム王ご自身は、関与していない、と」
「うむ。あれは、根がまっすぐな男だ。私の妹を、長年、大切にしてくれている。戦を仕掛けるような、肝の小さい男ではない」
アルノーは、書状を机に置いた。
「だが現に、両国の国境では、つまらぬ小競り合いが増えている。双方の兵が、なぜか苛立ち、いがみ合う。……まるで、誰かに焚きつけられているようにな」
「例の、妖精でしょうな」
ユリウスが、低く言う。
「人の心の隙につけ込み、後ろめたさを煽る。それを国と国の間でやられれば、ひとたまりもない。剣を抜く前に、心のほうが、先に毒されていく」
「やれやれ。剣でも兵でも、防げぬ敵とはな」
アルノーが、肩をすくめた。それから、ふと、その目がすっと細くなる。いつものどこか抜けた風情が、すうっと消えた。
「……だがな、ユリウス。私は、少し、気になっていることがある」
「と、おっしゃいますと」
「あの妖精。なぜ、これほどまでにルキアノスに執着する? ただ混乱を撒きたいだけなら、どこの国でも、よかろうに」
アルノーは、窓の外——遠い北の空を見つめた。
「あの国には、古い“いわく”がある。表沙汰にはなっておらぬが。我が妹を嫁がせるときにも、少々、きな臭い噂を聞いた」
「……初耳ですな」
「うむ。今は、まだ話せぬ。確証もない。だが、もし、あの妖精の狙いが、ルキアノスの、その“いわく”に繋がっているのだとしたら——」
アルノーは、ふっと息をついた。
「これは、思うておるより、ずっと根が深いやもしれぬ。……」
その呟きの意味を、まだ、誰も知らない。
「ともあれ」
アルノーが、いつもの穏やかな顔に戻った。
「今は、レオンとノアに託すしかあるまい。すべての鍵が、あの森にあるのなら。ユリウス。留守のあいだ、国を頼んだぞ」
「は。妻にも、よく言い含めておきます」
「ふ。ルクレツィアには、お前も敵わぬか」
「……まったくで」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
***
その日の夜。ノアの部屋。
眠りについたノアの枕元に、二匹の神獣が、静かに、寄り添っていた。犬のゼルと、黒猫のシャル。二匹とも、いつもと違う、真剣な顔をしている。
《ノア。起きてる?》
ノアはもう、目を開けていた。最近は、ずっと、よく眠れない。瞼を閉じれば、決まって、あの夢を見るのだ。
白い羽根が、降りそそぐ、深い緑の森。やわらかな声が、ノアを呼ぶ。
《ノア……おかえり、と》
「……シャル。ノア、最近、ずっと、おなじ夢を見るの」
ノアはぽつりと、口を開いた。
「森の、夢。だれかが、ノアを呼んでるの。すごく、なつかしい声で」
ノアは目を閉じた。森のことなら、ちゃんと覚えている。忘れたことなんて、一度もない。
「ノア、おぼえてるよ。森の主さまが、おおきな体で、だっこしてくれたこと。きれいな妖精たちが、くるくる踊ってたこと。神獣たちと、いっぱい、遊んだこと。……あったかい、場所だった」
けれど、その記憶の片隅には、いつも、冷たい影が、ひとつ。
「……でも、ひとりだけ。ノアのこと、きらいな子が、いたの。きれいで、つよい、妖精。その子に、ずっと、ひどいことを言われて。……最後は、知らない世界に、置いていかれた」
《……うん。知ってる》
シャルが黒い尾を、ゆっくりと揺らした。
《今、君を呼んでるのは——その、森の主だよ。ずっと前から、呼んでた。でも、ここ最近、その声が、強くなってる。……きっと、伝えたいことが、あるんだ》
「伝えたい、こと?」
《あの妖精のことだと思う》
シャルの金色の瞳が、まっすぐに、ノアを射た。
「……あの、妖精」
ノアの淡い紫の瞳が、揺れた。
「もしかして。いま、みんなを苦しめてるのは……ノアをきらいだった、あの子、なの?」
《……たぶん、ね》
シャルが静かに頷く。ノアの胸が、ずきりと、痛んだ。やっぱり、繋がっていた。自分の悲しい過去と、今、この国を蝕んでいる、あの影とが。
《ノア。あの妖精はね。ただ、力が強いだけじゃない。人の心の、いちばん弱いところに、するりと、入り込む。剣じゃ、斬れない。……たぶん、今のレオンの力でも、今の君の力でも、あれは、倒せない》
「……っ」
《でも、森の主なら、何か知ってるはず。あの妖精のことを、いちばん、よく知ってるのは、森の主だから。だから——呼んでるんだと、思う》
ノアはぎゅっと毛布を握りしめた。
会いたい。あの、なつかしい声の主に。それに——このまま、何もできずに、みんなが傷ついていくのを、見ていたくなかった。
「……ノア、森に、行きたい。森の主さまに、会いに」
決意を込めて、ノアは顔を上げた。
《……うん。きっと、それがいい》
ゼルがふさふさの尻尾を、ぱたん、と振った。
《でも、ご主人にも、ちゃんと、相談しなきゃ。ね?》
「……うん。れおんに、話す」
***
翌朝。庭で、ノアはレオンにすべてを打ち明けた。夢のこと。神獣たちの言葉。そして、森へ行きたいという、自分の気持ちを。
レオンは静かに、聞いていた。聞き終えると、少しのあいだ、考え込むように、黙る。
「……正直に言うとね」
やがてレオンは口を開いた。
「行かせたくない、っていうのが、僕の本音だよ」
「れおん……」
「神獣の森は、人が、生きていられない場所だって言われてる。危ないに、決まってる。……ノアに何かあったら、僕は」
レオンの声が、わずかに、揺れた。けれど、すぐに、その瞳に、覚悟の光が、戻る。
「——でも。それでも、行きたいんだろう? ノアが自分で決めたんだろう?」
「……うん」
ノアはまっすぐに、頷いた。その目には、これまでにない、強い意志が、宿っていた。
「ノア、もう、守られてるだけは、いやなの。ノアにも、できることが、あるなら。ノアの大切な人を、守りたいの。れおんを。みんなを。……この国を」
その言葉に。レオンはふっと、目を細めた。
『……強くなったね、ノア。あの、怯えてばかりだった君が』
「わかった」
レオンはノアの手を、そっと握った。
「なら、僕も、行く。ノアをひとりになんか、しない。——どこまでも、一緒だ」
「……っ、れおん」
じわりと、にじむ涙を、ノアは慌てて、ぬぐった。
「ありがとう。……ノア、れおんが、いてくれたら、こわくないの」
ふたりは、しばらく、並んで、朝の庭を眺めていた。
「ねえ、れおん」
ぽつりと、ノアが、つぶやく。
「森はね。ノアにとって、すごく、だいすきな場所なの。森の主さまも、神獣たちも、いて。あったかくて。……でも、こわい場所でも、あるの。あの子に、ひどいことを言われた場所だから」
好きと、こわいが、同じ場所に、ある。その複雑な想いを、ノアは、はじめて、言葉にした。
「だから……ひとりで帰るのは、ちょっとだけ、勇気がいるの。でも、れおんが、いっしょなら」
「うん。いっしょに行こう」
レオンは、ノアの白い髪を、やさしく撫でた。
「もう、ノアは、ひとりぼっちの子じゃない。こわい思い出のある場所にも、僕が、ちゃんと、ついていく。……だから、安心して、帰っておいで。君の、大切な人に」
「……うん」
その言葉が、ノアの胸の、いちばん奥のこわばりを、ふわりと、ほどいた。
***
森行きの話は、すぐに、家族へと、伝わった。
クライン公爵邸の客間に、姉妹が、集まる。けれど、その空気は、いつもと、少し違った。
「……実はね」
口火を切ったのは、カティアだった。
「私、明日、辺境に、戻るわ」
「カティア!?」
ロザリオが目を丸くする。カティアは腕を組んで、ため息をついた。
「うちの領、国境沿いでしょう。……最近、向こうが、きな臭いの。隣国との間で、つまらない小競り合いが、増えてる。たぶん、これも、あの妖精の仕業よ」
「……っ」
「それにね」
カティアが声を、少し落とした。
「気になることが、あるの。あの妖精——どうも、ルキアノスのほうに、ずいぶん執着してるみたいなのよ。ただ国同士を、いがみ合わせたいだけ、にしては……なんだか、向こうに、何か、別の狙いがある気がして」
「別の、狙い?」
「さあ。そこまでは、わからない。……でも、あの国には、まだ私たちの知らない“何か”が、眠ってる。そんな気が、するの」
その言葉に、ノアはなぜだか、胸が、ざわりとした。けれど、その正体は、まだ、誰にも、わからなかった。
「……まあ、今は、考えても仕方ないわね。夫だけに、任せておけない。私が、いなきゃ。——だから、ノアちゃんの森行きには、ついていけない。ごめんね」
「ううん。カティアねえさま、辺境のこと、おねがい」
ノアが首を振る。カティアはその頭を、ぽんと撫でた。
「あなたも、無事に帰ってきなさいよ。……約束、破ったら、承知しないからね」
「うん。やくそく」
ルクレツィアが静かに、頷いた。
「私と、ロザリオは王都に残るわ。子どもたちもいるし、ここの守りも、必要だもの。……それぞれの場所で、できることを、しましょう」
それまで黙っていた、宰相ユリウスがふっと口を開いた。
「国内の混乱と、隣国との折衝は、俺と、騎士団のガイルで、なんとか抑える。お前たちは、森のことに、専念しろ」
いつもの、辛口な口調。けれど、その目は、確かに、ノアたちを案じていた。
「レオン。お前が留守のあいだ、騎士団は、俺が預かる。心配するな。……ただし、ノアちゃんを泣かせて帰ってきたら、承知しないからな」
「……ふふ。肝に銘じておくよ、義兄さん」
レオンが苦笑する。張りつめていた空気が、ほんの少しだけ、やわらいだ。
「……うん。みんな、ありがとう」
ばらばらの場所へ。けれど、想いは、ひとつだった。誰もが、それぞれの戦場で、大切なものを、守ろうとしている。
ふとロザリオがぐすっと、洟をすすった。
「……ほんとは、みんなで、ずっと一緒にいたいのに」
「めそめそしない」
カティアがその背を、ぱしんと叩く。けれど、その手は、いつもより、ずっと、優しかった。
「すぐ、また、集まれるわよ。ノアちゃんが、森から帰ってきたら。……盛大に、お帰りなさいを、しましょう」
「……うん! ぜったい、よ!」
***
出発を明日に控えた夜。ノアはなかなか寝つけずにいた。
そっと部屋を抜け出すと、廊下の窓辺に、レオンがいた。今夜は屋敷に泊まり込みで、出発の支度を手伝ってくれていたのだ。月明かりに照らされた横顔を見て、ノアの胸が、とくんと鳴る。
「れおん。ねむれないの?」
「ノアこそ。……おいで」
レオンが隣を、ぽんと叩いた。ノアはちょこんとその隣に腰かける。しばらくふたりで、黙って月を眺めた。やわらかな沈黙が、ふしぎと、心地よかった。
「……ねえ、れおん。ノア、ちょっとだけ、こわいの」
ぽつりと、ノアがこぼした。
「森の主さまに会えるのは、うれしい。でも、あの妖精のことを思うと……ノアのことを、きらいだった、あの子のことを思うと、胸が、ぎゅってなるの」
レオンは何も言わず、ノアの頭を、自分の肩に、そっと引き寄せた。大きな手のひらが、ノアの白い髪を、ゆっくりと撫でる。
「こわくて、いいんだよ。こわいのに、それでも行こうとしてる君は、すごく強い。……でも、ひとりで強くならなくていい。こわくなったら、いつでも、僕に寄りかかって」
「……うん」
「それに、約束しただろう。何があっても、僕がそばにいる。もしまた、誰かに、つらいことを言われても——そのたびに、僕が、何度でも言うから。ノアは世界でいちばん、大切なんだって」
「……っ、れおん」
ノアの瞳が、潤んだ。けれど、それは、もう、こわいだけの涙ではない。レオンの肩に頬を寄せると、番の鼓動が、すぐそばで、とくとくと聞こえてくる。その音を聞いているだけで、胸のこわばりが、少しずつ、ほどけていった。
「……ノア、がんばれる。れおんが、いてくれるなら」
月が、ふたりを、やさしく照らしていた。
***
出発の、朝。
クライン公爵邸の、玄関先。家族が、総出で、見送りに来ていた。
「ノアおねえちゃま、いってらっしゃい!」
子どもたちが、小さな手を、いっぱいに振る。けれど、末っ子のリナだけは、ノアの足に、ぎゅっとしがみついて、離れない。
「おねえちゃま、いっちゃ、やだ……」
「リナちゃん」
ノアはしゃがんで、リナを、ぎゅっと抱きしめた。
「だいじょうぶ。ノア、ちゃんと、帰ってくるから。お土産話、いっぱい、持って。だから、いい子で、待っててね」
「……うん」
涙をこらえて、リナが、こくんと頷く。その健気さに、ノアの胸も、熱くなった。
「ノアちゃん。気をつけて」
ルクレツィアがノアを抱きしめる。
「無事に、帰ってくるのよ。あなたの、帰る場所は——ここよ。忘れないで」
「うん。……ノアのかえる場所」
その言葉を、ノアは宝物みたいに、繰り返した。かつての自分には、なかったもの。帰る場所が、こんなにも、たくさんある。それだけで、もう、十分すぎるくらい、しあわせだった。
「……いってきます」
***
馬が、駆ける。
レオンは馬上に、ノアをしっかりと抱えていた。前に座らせ、その小さな体を、片腕で、ぎゅっと囲うように。
「こわくない?」
「ううん。れおんがいるから、へいき。……それに、なんだか、たのしい」
風を切って進む感覚に、ノアの白い髪が、ふわりとなびく。その横顔は、不安よりも、わくわくの色が、勝っていた。
そのかたわらを、二匹の神獣が、駆けていく。犬のゼルのたくましい背に。ちょこんと黒猫のシャルが乗っかって。
《ゼル、もうちょっと、ゆっくり走ってよ。振り落とされる》
《えー。シャルが自分で走ればいいのに》
《猫は、長距離は、向いてないの》
神獣たちの、のんきな掛け合いに、ノアがくすくすと笑う。
風を切って進むうち、ノアはレオンの腕のなかで、ふと空を見上げた。
「れおん。ノア、こうやって馬に乗るの、はじめて」
「そうなんだ。こわくない?」
「うん。だって、れおんが、ぎゅってしてくれてるもん。……あったかい」
その無邪気な言葉に、レオンの頬が、かすかに赤らんだ。腕のなかの、小さな温もり。これを、誰にも渡したくない。何があっても、守りたい。そんな想いが、胸の奥から、自然とこみ上げてくる。
『……守るって、決めたんだ。何があっても、僕が』
馬の蹄が、軽快に、大地を蹴る。ふたりと、二匹を乗せて、北へ、北へ。
街道を抜け、田園を抜け、人の気配は、しだいに遠ざかっていった。
半日、駆け続けた頃。行く手の景色が、少しずつ、変わり始める。
空気が、ひんやりと、澄んでいく。木々は、見たこともないほど、大きく、深くなっていく。
やがて、ゆるやかな丘を越えたとき。ノアは、息を呑んだ。
眼前に——どこまでも続く、ひときわ濃い緑が、横たわっていた。地図にも載っていない。伝説のなかにしか、存在しないはずの場所。けれど、そこに、確かに、ある。
「……森」
ノアの胸が、とくん、と高鳴った。なつかしさと、ほんの少しの、こわさと。胸に抱いた銀色の羽根が、ふわりと、あたたかく光る。まるで、近づくノアに、応えるように。
「あそこに……森の主さまが、いるんだね」
「ああ。もう少しだ」
レオンが、馬の歩みを、ゆるめた。そして——前方に、白いもやが、立ちこめ始めた。
「……霧?」
「ああ。だんだん、濃くなってきた」
レオンが目を細める。馬の歩みが、心なしか、重くなっていた。
***
霧は、進むほどに、深くなった。
数歩先も、見えないほどの、乳白色の世界。そのなかを、神獣たちの気配だけを、頼りに、進んでいく。
やがて——馬が、ぴたりと、足を止めた。
ぶるる、と苦しげに、鼻を鳴らす。それ以上、前に進むのを、嫌がるように。
「……これ以上は、無理そうだね」
レオンが馬を、なだめながら、降りる。続いて、ノアをそっと地面に下ろした。
「ここからは、歩こう。馬は、ここで、待たせておく」
「うん」
徒歩で、霧のなかを、進む。一歩、また一歩。湿った土の感触。鳥の声も、虫の音も、しない、奇妙な静けさ。
霧の合間からは、ときおり巨大な木々の影がぬっと現れては、また白に溶けていく。苔むした岩。淡く光る見たこともない花。まるで世界の果てに迷い込んだような、現実ばなれした静けさが、あたりいちめんを満たしていた。
ノアはその幻想的な光景を、どこか、なつかしそうに見つめていた。けれど、レオンの足取りは、一歩ごとに、重くなっていく。
——そして、それは、ふいに、訪れた。
「……っ」
レオンの足が、もつれた。とん、と近くの木に、手をつく。額には、玉のような汗が、にじんでいた。
「れおん……!?」
「……っ、平気、だよ。ただ、少し……息が、苦しくて」
神気。人や獣人が、生きていられないという、濃密な、力の気配。それが、ここまで来て、レオンの体を、容赦なく、蝕み始めていた。
けれど。
その隣で、ノアは——まるで、平気だった。それどころか、霧の奥へ近づくほどに、その白い頬は、生き生きと、上気していく。
「ノア……君は、平気なのか」
「うん。ノア、なんともないの。……むしろ、なんだか、すごく、落ち着くの。ここ」
ノアが不思議そうに、自分の手を、見つめる。
『……やはり、ノアは。この森と、深く、繋がっている』
レオンの胸に、確信が、生まれる。同時に——胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
『僕は、ここまで、なのか』
***
「れおん」
ノアがレオンの汗ばんだ手を、両手で、そっと包んだ。
「これ以上は、だめ。れおん、すごく、苦しそう。……ここで、待ってて。ノア、ひとりで、行けるから」
「……だめだ」
レオンはふらつく足を、踏ん張った。
「君を、ひとりで、行かせるなんて……っ、できない。俺も、行く」
苦しさに、一人称が、変わる。守るときの、「俺」に。けれど、その足は、もう、ほとんど、動かなかった。
「れおん」
ノアは首を、横に振った。その瞳には、涙が、にじんでいる。けれど、声は、思いのほか、しっかりしていた。
「無理しないで。れおんが、苦しむのは、ノア、いちばん、いやなの。……お願い。ここで、待ってて。ノア、ぜったい、戻ってくるから」
「……っ」
レオンは奥歯を、噛みしめた。番を、ひとりで、行かせる。それは、彼にとって、何よりも、つらいことだった。けれど——ここで、自分が倒れれば、ノアの足手まといに、なる。それも、わかっていた。
「……わかった」
絞り出すように、レオンは頷いた。
「ここで、待ってる。ずっと、ここで。……だから、絶対に、戻ってこい。約束だ」
「うん。やくそく」
ノアは最後に、ぎゅっとレオンに抱きついた。番の、温もりを、胸いっぱいに、刻みつけるように。
「……いってきます、れおん」
「……ああ。いってらっしゃい、ノア」
白い背中が、霧のなかへ遠ざかっていく。やがてその姿は、乳白色の向こうにすっかり溶けて、見えなくなった。
レオンは木の幹に背を預けたまま、その方角をじっと見つめ続けた。動けない自分が、ただ、もどかしい。それでも今は、ノアを信じて待つことだけが、自分にできる唯一のことだった。
『……必ず、戻ってこい。ノア』
***
ノアと、シャルだけが、霧の奥へと、進んでいく。ゼルは苦しむレオンのそばに残った。
白い世界を、どれほど、歩いただろうか。
やがて——シャルの足が、止まった。
《……ノア。ごめん。僕も、ここまでだ》
「シャル?」
黒猫の神獣が、苦しげに、その場に、うずくまる。
《この先は……神気が、濃すぎる。神獣の僕でも、もう、進めない。……ここから先に、足を踏み入れられるのは——たぶん、君だけだ》
「……ノア、だけ」
《うん。森の主が、待ってる。まっすぐ、進めば、わかる。……僕も、ここで、待ってるから》
シャルが安心させるように、ふっと、目を細めた。
《大丈夫。君は、もともと、この森の子だもの。何も、こわがらなくて、いい》
ノアはしゃがんで、シャルの黒い頭を、そっと撫でた。それから、立ち上がる。
ひとり。
うしろを、振り返る。霧の向こうに、レオンがいる。シャルがいる。みんな、ここで、待っていてくれる。
『……だいじょうぶ。ノアはひとりじゃない』
ノアは深く、息を吸った。澄んだ、なつかしい、森の空気。それが、ノアの強張った心を、ゆっくりとほどいていく。
不思議だった。これほど深い森のなかにいるのに、ちっとも、こわくない。むしろ、長いあいだ忘れていた何かに、ようやく抱きとめられたような——そんなあたたかさが、胸いっぱいに広がっていく。
風が、木々を、さらさらと鳴らした。その音は、まるで、ノアを呼ぶ声のようだった。おいで、おいで、と。
胸に抱いた、銀色の羽根が——いっそう、あたたかく、光った。
まるで、「おかえり」と、言うように。
「……ただいま。いま、行くね」
ノアはまっすぐに、霧の奥へと、足を踏み出した。
なつかしい声が、待つ、その場所へ。自分の、すべてが、始まった場所へ。
ひとりきりで——けれど、確かな足取りで。
物語は、ノアの原点へと、たどり着こうとしていた。
——第13話 了
【あとがき おまけSS 〜霧の手前で〜】
霧の手前で。
木にもたれて座り込んだレオンの足元で、犬の神獣ゼルが心配そうに、鼻を鳴らしていた。
《ご主人。だいじょうぶ? 顔、まっ青だよ》
「……はは。情けないな。こんなところで、座り込むなんて」
レオンは苦笑しながら、霧の奥を、見つめた。ノアの消えていった方角を。
「……でも、不思議だ。あんなに、心配なはずなのに。……ノアなら、大丈夫だって、思える」
《どうして?》
「番だから、かな」
レオンは自分の胸に、手を当てた。
「ここが、繋がってる気がするんだ。ノアの心と。……ちゃんと、戻ってくる。そういう、確信がある」
《……ふうん》
ゼルがぱたん、と尻尾を振って、レオンの隣に、ぴたりと寄り添った。
《じゃあ、ぼくも、信じて待つ。ご主人と、いっしょに》
「……ありがとう、ゼル」
霧は、深く、静かだった。けれど、その向こうで、何かが、ゆっくりと動き出している。そんな予感が——確かに、あった。




