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闇オークションで落札した白猫獣人が、運命の番でした 〜騎士団長は最愛の彼女を溺愛する〜  作者: 月代 緋色


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第20話 永遠の番

ここまでありがとうございます。最終話です。

 妖精との戦いから、半年が過ぎた。


 長い夜を越えた国は、少しずつ日常を取り戻していた。妖精に操られていた者たちは正気に返り、闇オークションに関わった者たちは、それぞれの罪に応じて裁きを受けた。もちろん、操られていたからといってすべてが許されるわけではない。けれど、彼らの中には、自分が何をしていたのかを知って泣き崩れる者も多かったという。


 レオンはその報告を聞くたびに、複雑な思いを抱いた。


 救えた者もいる。救えなかった者もいる。すべてを綺麗に終わらせることなどできない。それでも、あの夜、ノアが最後まで手を伸ばしたことには、確かに意味があったのだと、今なら思える。


 ノアもまた、この半年で少しずつ変わっていった。


 大人の姿になったばかりのころは、鏡を見るたびに不思議そうな顔をしていた。長く伸びた白銀の髪を持て余し、ルクレツィアに結い方を教わり、ロザリオに髪飾りを選ばれ、カティアに「まずは自分で整える練習からです」と櫛を渡された。


 社交の作法も、最初は戸惑うことばかりだった。優雅な礼。正しい言葉遣い。大人の女性としての立ち居振る舞い。以前のように、思ったことをそのまま口にしてしまうと、ロザリオが笑い、カティアがため息をつき、ルクレツィアが「そこが可愛いのだけれど」と微笑んだ。


 ノアは時々、恥ずかしそうに言うようになった。


「ノア……じゃなくて、私、がんばる」


 そのたびにレオンは、胸の奥があたたかくなるのを感じた。


 無理に変わらなくていい。ノアはノアのままでいい。それでも、彼女が自分の足で前へ進もうとしていることが、レオンには何より誇らしかった。


 そして、その半年は、穏やかなだけではなかった。


 ある日はドレスの採寸。ある日は装飾品選び。ある日は招待客の確認。ある日は式場の打ち合わせ。そして、ある日は王妃セイラやルクレツィアに捕まり、一日中、花嫁修業とやらに付き合わされることもあった。


 慌ただしくも幸せな日々は、驚くほどあっという間に過ぎていった。


 そして今日。


 いよいよ結婚式を数日後に控えたベーレン家の屋敷は、朝から大騒ぎだった。


***


「ノア! 次はこちらも確認しましょう!」


 勢いよく扉を開けたルクレツィアに、ノアは思わず肩を震わせた。


 つい先ほど、ようやく本番用のドレスの最終確認が終わったばかりである。裾の長さ、銀糸の刺繍、髪飾りとの相性まで丁寧に見てもらい、これで終わりだと思っていた。


 けれど、今度は式後に着替えるための淡い銀糸の入ったドレスが運び込まれてきた。


「まだあるの?」


 ノアが素直に尋ねると、ルクレツィアは当然のように頷いた。


「もちろんあるわ!」


「なんで?」


「花嫁だからよ!」


 答えになっているようで、なっていない。


  ノアは助けを求めるようにレオンを見た。だが、レオンはレオンで仕立て屋たちに囲まれていた。


「騎士団長様、礼服の最終確認を」

「腕を上げてください」

「肩まわりに少し余裕を持たせましょう」

「こちらは花嫁衣装と並んだ時の色味を確認します」

「式後のお召し替え用はこちらです」


「えっ、僕もまだあるの?」


 困惑するレオンの声が聞こえる。


 ロザリオが当然のように言った。


「当たり前でしょう? 花嫁の隣に立つのよ。兄さんの衣装だって、ノアちゃんと並んで一番綺麗に見えるようにしないと」


 カティアも頷く。


「式用、祝宴用、移動用。最低でも三着は確認します」


「最低でも?」


「最低でもです」


 レオンは助けを求めるようにノアを見た。


 ノアは少し考えてから、こくりと頷いた。


「レオンも、がんばって」


「……うん。がんばるよ」


 どうやら味方はいないらしい。


「レオンも、大変?」


 ノアが尋ねると、レオンは苦笑する。


「うん。思ったより大変だね」


「逃げる?」


「逃げたいけど、逃げたらカティアに捕まると思う」


「正解です」


 いつの間にか背後に立っていたカティアが、分厚い紙束を抱えて言った。


 レオンは肩を跳ねさせる。


「カティア、気配を消さないでくれるかな」


「消していません。兄さんが油断しているだけです」


「昔から手厳しいね」


「兄さんにはこのくらいがちょうどいいです」


 カティアはそう言って、今度はノアのほうへ向き直った。


「ノア、こちらは招待客一覧です。念のため確認してください」


「しょうたいきゃく?」


「はい」


 ノアは差し出された紙束を見る。一枚目を見た。二枚目を見た。三枚目を見た。まだ続いている。四枚目を見たあたりで、そっと紙束を閉じた。


「多い」


「多いですね」


 カティアも淡々と頷く。


「王家関係だけでかなりの人数になります。加えて騎士団、宰相家、シュタルク家の縁者、王妃様のご実家、隣国からの来賓もいます」


「……みんな来る?」


「来ます」


「王さまも?」


「当然です」


「セイラさまも?」


「もちろんです」


 そこへロザリオが割り込んできた。


「それだけじゃないわよ!」


 目が輝いている。


 ノアは少しだけ身構えた。ロザリオがこういう顔をしている時は、大抵、何か大きな話がある。


「隣国の王様も来るの!」


「セレム王様?」


「そう! ルキアノス王国のセレム陛下。わざわざいらっしゃるんですって」


「なんで?」


 ノアは首を傾げる。自分に会いたい理由が思いつかなかったからだ。


 レオンもその話は聞いていたが、詳しい理由までは知らされていなかった。アルノー王からは「セレムがどうしても祝いに来たいと言っている」とだけ聞いている。


 ロザリオはあっさり言った。


「会いたいんじゃない?」


「ノアに?」


「たぶんね」


 ノアはますます不思議そうな顔をした。


 その様子を見ていたルクレツィアが、優しく微笑む。


「きっと、理由があるのよ」


「理由?」


「ええ。でも、それはセレム陛下ご本人から聞いた方がいいわ」


 そう言って、ルクレツィアは再びドレスを手に取った。


「では、まずはこちらを着てみましょう」


「まだ着るの?」


「着ます」


「……はい」


 ノアは観念したように頷いた。


 その横で、レオンも礼服の採寸を続けられている。お互いに目が合う。ふたりは同時に、小さく笑った。


 戦場とは違う。命の危険もない。けれど、これはこれで、逃げ場のない戦いだった。


***


 昼過ぎになるころには、ノアはすっかり疲れきっていた。


 ドレスを着て、脱いで、また着て、髪を結われ、飾りを合わせ、靴を履き替え、歩き方まで確認される。ルクレツィアは終始楽しそうで、ロザリオは「こっちも似合う」「あっちも捨てがたい」と騒ぎ、カティアは冷静に記録を取っていた。


 なかでも大変だったのは、装飾品選びである。


「これは?」


 ルクレツィアが差し出したのは、透明な宝石が連なった首飾りだった。


 ノアは両手で受け取る。


「きれい」


「でしょう?」


「でも、重い」


「宝石ですからね」


 カティアが冷静に言う。


「花嫁の装飾品は、見た目の美しさだけでなく格式も大切です」


「格式……」


 ノアは首飾りを見つめた。格式はよくわからない。けれど、重いことだけはよくわかった。


 ロザリオが今度は別の髪飾りを持ってくる。


「これは? 白銀の髪に絶対似合うわ!」


「きらきらしてる」


「そう、きらきらしてるの!」


「ロザリオ、説明が雑です」


「だって綺麗なんだもの!」


 カティアにたしなめられながらも、ロザリオは楽しそうだった。


 リナもその横で、目を輝かせている。


「ノア姉さま、おひめさまみたい!」


「おひめさま?」


「うん!」


 リナは両手を広げて、くるりと回った。


「リナも花嫁さんになる!」


「では、リナ様にも花冠を作りましょうか」


 仕立て屋の一人が微笑むと、リナはぱっと顔を輝かせた。


「作る!」


 そのそばで、ルカは退屈そうに椅子の上で足をぶらぶらさせていた。


「まだ終わらないの?」


「ルカ」


 テオがすぐに注意する。


「花嫁の準備は大切です。静かに待ちましょう」


「でも長い」


「長くても待ちます」


「テオ兄さま、眠くないの?」


「眠くありません」


 そう言いながら、テオは欠伸を噛み殺していた。


 ルカはそれをじっと見る。


「今、あくびした」


「していません」


「した」


「していません」


「したよ」


「していません」


 真面目に言い張るテオと、遠慮なく指摘するルカ。そのやり取りに、ノアは思わず笑った。


 この半年で、子どもたちとの距離も変わっていった。


 最初、リナは大人になったノアを少し不思議そうに見ていた。けれど、抱き上げられるとすぐにいつものように首へしがみついた。ルカはしばらく「ノア姉さまだけど大人だ」と言い続け、テオは長男らしく気を張りながらも、時折、ノアが無理をしていないか見守ってくれていた。


 ノアはそのたびに思った。


 自分には、帰る場所があるのだと。


 そして、これからはここで生きていくのだと。


***


 夕方近くになって、ようやく試着と装飾品選びが一段落した。


 疲れきったノアは、レオンとともに応接室へ避難していた。香りの良いお茶を前に、ようやく一息つく。


「結婚式って、大変」


「そうだね」


 レオンは苦笑した。彼も礼服の採寸と式次第の確認で、ほとんど休む暇がなかった。


「レオンも疲れた?」


「少し」


「騎士団のお仕事より?」


「種類が違う疲れかな」


 レオンがそう答えると、ノアは真面目に頷いた。


「わかる」


 その様子を見て、レオンは小さく笑う。以前なら、ノアはすぐ膝の上に乗ってきた。疲れた時も、眠い時も、安心したい時も、当たり前のようにレオンのそばへ来た。


 今は違う。


 大人の姿になったノアは、少しずつ自分の立ち位置を覚えようとしている。けれど、ふとした瞬間に以前と同じような表情を見せるから、レオンは何度も胸を揺さぶられた。


「レオン」


「うん?」


「ノア……じゃなくて」


 ノアはそこで少し言葉を止めた。


 そして、ゆっくり言い直す。


「私、ちゃんとできるかな」


 レオンはその言葉に、静かに目を細めた。


 私。


 まだ慣れない響きだった。けれど、ノアが自分で選び取ろうとしている言葉だった。


「できるよ」


「ほんとう?」


「うん。君はもう、ちゃんと前に進んでいる」


 ノアの頬が少し赤くなる。


「でも、まだ間違える」


「間違えてもいいよ」


「いいの?」


「いい。僕も間違える」


「レオンも?」


「うん。今日だけで、式の立ち位置を二回間違えた」


 ノアは目を丸くしたあと、くすりと笑った。


「じゃあ、いっしょ」


「そうだね。いっしょだ」


 その時、書類を抱えたユリウスが応接室へ入ってきた。


「ここにいたか」


「ユリウス、お疲れさま」


「そちらこそ。逃げていたのか」


「避難していただけだよ」


「同じ意味だ」


 ユリウスは淡々と言い、向かいの席へ腰を下ろした。どうやら招待客の最終確認をしていたらしい。厚い書類の束を机に置いたところで、廊下の向こうが少し騒がしくなった。


 使用人が足早に部屋へ入ってくる。


「レオン様、ユリウス様。王城より急ぎの使者が参りました」


 ユリウスが顔を上げる。


「通してくれ」


 ほどなくして入ってきた使者は、深々と頭を下げた。


「ルキアノス王国国王、セレム陛下が、予定を早めて本日王都に到着されました」


 部屋の空気が変わった。


 ノアは小さく首を傾げる。


「セレム王様、もう来たの?」


 使者はさらに続けた。


「セレム陛下は、式の前にどうしてもノア様にお会いしたいとのことです。アルノー陛下も同席のうえ、明日、王城にて内々の面会を設けたいと」


 レオンはノアを見た。


 ノアもレオンを見る。


 なぜ、そこまでして会いたいのか。


 その理由はまだわからない。けれど、レオンの胸には、かすかな予感があった。


 セレム王が会いたいのは、ただの花嫁としてのノアではない。世界にひとり残されたかもしれない、雪豹の獣人としてのノアなのだと。


 ユリウスは静かに頷いた。


「承知した。こちらも準備しよう」


 使者が下がると、部屋にはしばらく沈黙が残った。


 ノアは膝の上で手を重ね、小さく呟く。


「ノアに、話があるのかな」


 レオンはそっとその手に触れた。


「たぶんね」


「こわい話?」


「わからない。でも、僕も一緒にいる」


 ノアはレオンを見上げた。その瞳には少しだけ不安がある。けれど、以前のように怯えてはいなかった。


「うん」


 ノアは頷いた。


「レオンがいるなら、大丈夫」


 その言葉に、レオンは静かに微笑んだ。


 結婚式まで、あと数日。


 幸せな日々の中で、まだ語られていない真実が、ひとつ残っていた。


 それでも、今度はひとりで聞かなくていい。


 レオンはノアの手を握った。


 ノアも、そっと握り返した。


***


 翌日。


 ノアとレオンは王城へ招かれていた。


 今回の面会は公式なものではない。アルノー王の私室に近い応接室で行われる、ごく限られた者だけの席だった。


 部屋にはアルノー王とセイラ王妃、そしてルキアノス王国の国王セレムがいる。ユリウスも同席していたが、彼はいつものように少し後ろへ控え、話の流れを静かに見守っていた。


 セレムは立ち上がると、ノアを見て穏やかに微笑んだ。


「初めまして、ノア嬢」


「初めまして、セレム王様」


 ノアは少し緊張しながら頭を下げる。


 セレムは優しい人だった。王というより、どこか大きな兄のような雰囲気がある。けれど、その瞳の奥には、どこか深い悲しみのようなものもあった。


「会いたかった」


 最初の言葉がそれだった。


 ノアはぱちりと瞬きをする。


「ノアに?」


「ああ」


 セレムは頷いた。


「ずっと会いたかった」


 レオンが少し不思議そうな顔をする。もちろん失礼な意味ではない。だがセレムほどの王が、そこまで言う理由が思い当たらなかったのだ。


 セレムはしばらくノアを見つめていた。


 そして静かに口を開く。


「君は雪豹族だ」


 部屋の空気が少し変わった。


 ノアは黙って頷く。


 首筋に浮かぶ銀の斑紋が、今では隠しようもなくその証となっていた。


「雪豹の獣人は美しい」


 セレムはそう言った。


「昔から、その美しさは語り継がれてきた」


 だが、その表情には喜びではなく苦さがあった。


「だから狙われた」


 ノアが目を見開く。


「狙われた?」


「ああ」


 セレムは静かに続ける。


「雪豹の毛皮を持てば富が手に入る。雪豹の血を飲めば若返る。雪豹の心臓を食べれば永遠の美しさを得る。そんな馬鹿げた言い伝えが、かつて広く信じられていた」


 セレムは首を振った。


「すべて嘘だ。そんなものは存在しない」


 吐き捨てるような声だった。


「だが、人は信じた。信じたい者がいた。欲に目がくらんだ者たちにとっては、真実かどうかなど、どうでもよかったのだろう」


 レオンは思わず拳を握った。


 あまりにもくだらない理由だった。


 くだらないのに、そのせいで命が奪われた。


「昔は我が国にも多くの雪豹族がいた」


 セレムの声が少し遠くなる。


「山岳地帯や雪深い森に集落があった。美しく、誇り高く、穏やかな一族だった」


 ノアは静かに聞いていた。


 知らなかった。自分と同じ種族が、そんなにいたことを。


「だが減った」


 セレムは短く言った。


「年々減り続けた。狩られたからだ」


 部屋が静まり返る。


「私の父も守ろうとした。前王として、何度も法を整えた。騎士を派遣した。保護区も作った」


 セレムは苦く笑う。


「だが、間に合わなかった」


 その一言に、どれほどの無念が込められているのか、レオンにも伝わった。


「私が幼い頃には、すでに数えるほどしか残っていなかった。そして今では——」


 セレムは言葉を切る。


 そしてノアを見る。


「私は君以外を知らない」


 ノアの胸が少しだけ苦しくなる。


 自分は森で育った。同族など見たことがない。森の主も神獣たちもいた。けれど、同じ雪豹はいなかった。


 それが当たり前だと思っていた。


「だから会いたかった」


 セレムは穏やかに言った。


「生きていてくれて嬉しかった」


 その言葉に嘘はなかった。


 王としてではない。一人の人間としての言葉だった。


 ノアはしばらく黙っていた。


 そして小さく言う。


「ノア、生きててよかった?」


 セレムは即座に頷いた。


「ああ。本当によかった」


 その言葉に、ノアは少しだけ笑った。どこか照れたように、そして嬉しそうに。


 セレムもまた微笑む。


「だから安心した。君には家族がいる」


 セレムはレオンを見る。続いてアルノーを見る。セイラを見る。


「守ってくれる者がいる」


 そして最後に言った。


「もう誰にも奪わせない」


 その瞬間。


「当然である」


 アルノーが力強く言った。負けじと胸を張る。


「我が国の騎士団長の妻になるのだからな」


「そこは張り合うところか?」


 セレムが呆れる。


「張り合う」


「なぜだ」


「負けたくない」


 即答だった。


 レオンは思わず額を押さえた。


 セイラがため息をつく。


 そしてユリウスがぽつりと呟く。


「始まったな」


 その一言に、部屋の空気が和らいだ。


 ノアはその光景を見ながら思う。


 自分はもう一人ではない。


 守られるだけでもない。


 帰る場所があって、大切な人たちがいて、これから先を生きていく。


 結婚式は、もうすぐだった。


***


 結婚式当日。


 朝からベーレン家の屋敷は慌ただしかった。


 使用人たちが行き交い、花が運び込まれ、祝いの品が次々と届けられていく。廊下には華やかな布が掛けられ、窓辺には季節の花が飾られていた。どこを見ても、今日という日を祝う準備で満ちている。


 だが、その中心にいるはずの花嫁はというと。


「まだ?」


 ノアは鏡の前で小さく呟いた。


「まだよ」


 ルクレツィアが即答する。


「まだです」


 カティアも即答する。


「まだまだよ!」


 ロザリオだけ妙に楽しそうだった。


 ノアは鏡の中の自分を見つめた。


 純白のドレス。白銀の髪。淡い紫の瞳。肩や首筋に浮かぶ銀の斑紋。


 少し前まで、こんな自分になるとは思ってもいなかった。


 一年前。


 ノアは神獣の森にいた。森の主様や神獣たちと暮らし、それがずっと続くのだと思っていた。


 けれど、そこからたくさんのことがあった。怖いこともあった。苦しいこともあった。泣いた日もあった。傷ついたこともあった。失いそうになったこともあった。


 それでも、出会えた人たちがいた。


 守ってくれた人たちがいた。


 家族になってくれた人たちがいた。


 そして、大好きな人がいた。


 ノアは鏡の中の自分を見つめる。


 あの頃は幼かった。何も知らなかった。けれど今は違う。たくさんの人に愛されて、たくさんの幸せを知って、今日、この場所に立っている。


「綺麗よ」


 後ろからルクレツィアの声がした。


 鏡越しに見える彼女の瞳は、もう何度目かわからないほど潤んでいる。


「本当に綺麗」


「まだ泣く場面ではありません」


 カティアが即座に言った。


「わかってるわ」


 そう言いながら、ルクレツィアはしっかり涙を拭っていた。


「姉さま、さっきから五回は泣いてるわよ」


 ロザリオが呆れたように笑う。


「だって!」


「だってじゃありません」


 カティアがぴしゃりと言う。


「まだ式は始まってもいません」


「でもノアが綺麗なのよ!」


「それは全員知っています」


 カティアの返答に、ノアは思わず笑った。


 その笑い声につられるように、部屋の空気もやわらかくなる。


 今日は結婚式。


 人生で一度きりの特別な日。


 だけど、こうして笑っていられるのは、きっと幸せだからなのだろう。


 ノアはそっと胸元に手を当てた。鼓動は少し速い。緊張している。けれど、不安ではなかった。


 レオンがいる。


 家族がいる。


 だから大丈夫。


 そう思えた。


「ノア姉さま!」


 勢いよく飛び込んできたのはリナだった。


 両手に何かを抱えている。


「見て!」


 差し出されたのは、小さな花冠だった。


 白い花を集めて作られた花冠。少しいびつで、少し曲がっていて、でも、一生懸命作ったことが伝わる。


「リナが作ったの」


 ノアの胸が温かくなる。


「ありがとう」


 そっと受け取る。


「宝物にする」


 リナは満面の笑みを浮かべた。


「うん!」


 その後ろからテオとルカも現れる。テオは正装し、少し緊張した顔をしていた。ルカも頑張って正装していたが、襟元が少し曲がっている。


「ノア姉さま」


 テオが少し照れながら言う。


「おめでとうございます」


「ありがとう、テオ」


 ルカも続く。


「おめでとう」


「ありがとう、ルカ」


 ルカは少し考えた。


 そして。


「でもやっぱり大人だ」


 全員が吹き出した。


「まだ言うの!?」


 ロザリオが笑う。


「だってそうだから」


 ルカは真面目だった。


「ノア姉さまだ」


「うん」


「でも大人だ」


「うん」


「不思議」


 ノアは笑った。


 本当に、幸せな朝だった。


***


 一方そのころ、王城の礼拝堂では、レオンが静かに立っていた。


 白を基調とした礼服に、銀の刺繍が入っている。騎士団長としての正装とはまた違う、花婿としての装いだった。


「緊張してるな」


 隣でガイルが笑う。


「少しね」


「戦場より?」


「種類が違うかな」


 レオンは苦笑した。


 騎士団員たちも周囲で笑っている。アルノー王はすでに上機嫌で、セイラ王妃に「少し落ち着いてください」と注意されていた。セレム王はその様子を見て、どこか楽しそうに目を細めている。ユリウスはすべてを見越しているような顔で、式次第の最終確認をしていた。


 式場には、たくさんの人が集まっていた。


 王族、貴族、騎士団、家族、友人たち。そして、ゼルとシャルをはじめとする神獣たちも、静かにその時を待っている。


 やがて、扉の前のざわめきが静まった。


 礼拝堂の扉が開く。


 全員の視線が向く。


 レオンも振り返った。


 そして、言葉を失った。


 純白のドレス。白銀の髪。淡い紫の瞳。銀の斑紋。


 ノアが、そこにいた。


 まるで雪の女神だった。


 綺麗だと思った。


 いや、そんな言葉では足りない。


 生きていてくれてよかった。


 ただ、その想いだけが胸いっぱいに広がった。


 あの闇市で出会った小さな獣人。震えながらも、どこか必死に生きようとしていた紫の瞳。屋敷で少しずつ笑うようになった日々。指切りをした夜。守れなかったと思った痛み。もう一度手を伸ばした、あの暗い闇のなか。


 全部が、今この瞬間につながっていた。


 ノアもレオンを見つける。


 少し照れたように笑った。


 その笑顔に、レオンの緊張は少しだけ和らいだ。


 ノアはゆっくりと歩いてくる。ルクレツィアが後ろで早くも泣いているのが見えた。ロザリオも泣いている。カティアは泣いていないふりをしているが、目元は赤い。リナは花冠を抱きしめ、テオはまっすぐ前を見つめ、ルカは口を開けたままノアを見上げていた。


 ノアがレオンの隣へ立つ。


 レオンはそっと手を差し出した。


 ノアは迷わずその手を取る。


 そのぬくもりに、ふたりは小さく笑い合った。


***


 式は厳かに進んでいった。


 神官の声が礼拝堂に響く。誓いの言葉。指輪の交換。家族と国に見守られながら、レオンとノアは静かに向かい合っていた。


 レオンはノアの指に指輪を通した。


 細い指に、銀の輪が光る。


 ノアも少し緊張した手つきで、レオンの指に指輪をはめた。指先が震えていたので、レオンは小さく微笑む。


「大丈夫」


 聞こえないほど小さな声で言うと、ノアは少しだけ頬を赤くして頷いた。


 神官が最後の問いを告げる。


「レオン・グラディウス・シュタルク。あなたはこの者を愛し、敬い、生涯を共に歩むことを誓いますか」


 レオンは迷わなかった。


「誓います」


 はっきりとした声だった。


 神官が頷き、ノアを見る。


「ノア。あなたはこの者を愛し、敬い、生涯を共に歩むことを誓いますか」


 静寂が落ちた。


 ノアはレオンを見た。


 優しい瞳。いつも守ってくれた人。手を差し伸べてくれた人。帰る場所をくれた人。大好きな人。


 だから、自然に言葉が出た。


「私は」


 会場が静まる。


 ルクレツィアが息を呑む。ロザリオが目を見開く。カティアも気づいた。ノアが初めて、自然に、自分を『私』と呼んだことに。


「私は、レオンを愛しています」


 レオンの目が揺れる。


「これから先も」


 ノアは微笑んだ。


「ずっと」


 ルクレツィアが泣いた。


 ロザリオも泣いた。


 テオも目を潤ませている。ルカもなぜか泣いていた。リナは完全に泣いていた。


 神官が穏やかに微笑む。


「では、誓いの口づけを」


 レオンはノアの頬にそっと手を添えた。


 ノアが目を閉じる。


 そして、誓いの口づけが交わされた。


 大きな拍手が響く。


 その瞬間だった。


 風が吹いた。


 優しく、温かく、どこか懐かしい風だった。


 ノアが顔を上げる。


「……あ」


 花びらが舞っていた。


 白い花。


 神獣の森に咲く花だった。


 一枚。二枚。十枚。百枚。


 礼拝堂を埋め尽くすほどの花吹雪が、どこからともなく舞い降りる。参列者たちの間にざわめきが広がった。


 そして、光が舞った。


 小さな光。


 無数の光。


 妖精たちだった。


「おめでとうー!」


「ノアー!」


「幸せになってねー!」


 花火のように、花吹雪のように、無数の光が礼拝堂の空間を駆け抜ける。会場中が驚きに包まれる。


 リナが歓声を上げた。


「わあああ!」


 ルカは口を開けたまま空を見ている。


「飛んでる……!」


 テオは呆然としていた。


「本当に……いたんですね……」


 その時、空気が変わった。


 神気。


 圧倒的な存在感。


 誰も姿は見ていない。なのに、確かにそこにいる。


 ゼルが震える。


《主様……》


 シャルも静かに頭を垂れた。


《来てくださった》


 アルノー王が立ち上がり、ゆっくりと頭を垂れる。セレム王も同じように膝をついた。ユリウスも、騎士たちも、貴族たちも、神獣たちも、誰に命じられたわけでもなく自然と頭を下げていた。


 人を嫌い、森から出ることのなかった主。


 その存在が今、人々の前に祝福として訪れている。


 それだけで、どれほど特別なことなのか、誰もが本能で理解していた。


 そして、声が響く。


 優しく、大きく、どこまでも温かい声。


《ノア》


 ノアの瞳から涙があふれた。


《幸せになりなさい》


 たったそれだけ。


 けれど、何よりも欲しかった言葉だった。


 少しだけ間があく。


 そして。


《おめでとう》


 風が吹く。


 花吹雪が舞う。


 妖精たちの歓声が響く。


 礼拝堂は祝福に包まれた。


 誰も姿を見ていない。


 けれど、誰もが確信していた。


 主様は、ここに来てくれたのだと。


 ノアは泣きながら、空を見上げた。


「主さま……」


 レオンはそっとノアの手を握った。


 ノアも、強く握り返した。


 その手は震えていた。


 けれど、もうひとりで震えているのではなかった。


***


 その後の祝宴は、賑やかだった。


 ゼルは最初から最後まで泣いていた。


《ご主人が……ご主人が結婚したぁぁぁ……》


《うるさい》


 シャルは呆れたように言ったが、その目元もどこか潤んでいる。


《シャルも泣いてる》


《泣いていない》


《泣いてる》


《泣いていない》


 神獣たちのやり取りに、レオンは思わず笑った。


 ロザリオはノアの花嫁姿を見て何度も泣き、カティアに「姉さま、水を飲んでください」とたしなめられていた。ルクレツィアは泣き疲れたのか、途中から静かにノアを見つめていた。その表情は、母親のようにやさしかった。


 テオは礼儀正しく参列者に挨拶をしようと頑張り、ルカは料理の皿を落としかけてテオに注意され、リナは花びらを撒く係として誰よりも張り切っていた。


 アルノー王は上機嫌で祝辞を述べたが、途中で少し話が長くなり、セイラ王妃にそっと袖を引かれていた。セレム王はその様子を楽しそうに見ながら、最後にノアへ静かに言った。


「幸せに」


 ノアは深く頷いた。


「はい」


 たくさんの祝福。


 たくさんの笑顔。


 たくさんの涙。


 そのすべてが、ノアとレオンを包んでいた。


***


 その夜。


 ようやく二人きりになった部屋で、レオンは隣に座るノアを見た。


 式も祝宴も終わり、屋敷はようやく静けさを取り戻していた。窓の外には月が出ている。やわらかな光が、ノアの白銀の髪を照らしていた。


「疲れた?」


 レオンが尋ねると、ノアは少し考えた。


「うん。でも、幸せな疲れ」


「それはよかった」


 レオンが微笑むと、ノアも笑った。


 しばらく、ふたりは黙って月を見ていた。


 長い一日だった。


 けれど、終わってしまうのが惜しいほど、あたたかな一日だった。


「幸せ?」


 レオンが静かに尋ねる。


 ノアは少し考えた。


 そして、ふわりと笑う。


「うん」


 静かな声だった。


 でも、とても幸せそうだった。


「私、とても幸せ」


 レオンも笑う。


 そっと手を握る。


 ノアも握り返した。


 もう離れない。


 もう一人じゃない。


 長い遠回りだった。たくさん泣いた。たくさん傷ついた。失ったものも、救えなかったものもある。


 それでも、ここへ辿り着いた。


 レオンはノアの手を包み込むように握る。


「ノア」


「うん?」


「これからも、よろしくね」


 ノアは少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。


「うん」


 そして、そっとレオンの肩に寄り添う。


「レオンは、ノアの……私の、ずっとの番」


 レオンの胸が熱くなる。


「うん。君も、僕のずっとの番だ」


 窓の外では夜風が揺れている。


 遠く、神獣の森の方角から、祝福するような優しい風が吹いていた。


 それは、森の主の声にも、妖精たちの笑い声にも、神獣たちの祈りにも似ていた。


 レオンはノアの手を握る。


 ノアも、握り返す。


 これは、騎士団長と雪豹の獣人の物語。


 長い遠回りの末に、ようやく居場所を見つけた二人の物語である。


——完


あとがき


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


レオンとノアの物語は、これにて完結です。


たくさん遠回りをしましたが、二人が幸せになれてよかったです。


少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しく思います。


また別の物語でお会いできましたら幸いです。

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