京大生はおことわり(2)
アマリ会長の答えは辛辣だった。
「それはその、なんだ、中世の数学オリンピックの残滓だな」
「ザンシ?」
「残りかすのことだ。理系で『因数分解』や『連立方程式』を使う場面があるかというと、少なくとも僕は使ったことがない。世界中の義務教育でも教えてはいるらしい。が、日本ほどたくさん演習をさせる国はないと聞いている。僕の持論では、その分の時間を統計学と確率論の教育にさくべきだ」
難しい顔だ。
「数学オリンピックなんてあったんですか?」
「特に競技会があったわけじゃない。だが、タルタリアが三次方程式の特殊解を考えつき、その弟子のフェラーリが四次方程式までの一般解を考えついたという数学史の中で、数学者同士の熾烈な戦いがあったことは事実だ。現に、フェラーリは四三歳で毒殺されている」
「毒殺! それっていつ頃の話なんです?」
「十六世紀、だったかな。その中で複素数の考え方が生まれたのだから、歴史的には重要だとは思う」
私はずっと疑問に思ってきたことをたずねてみた。
「虚数って、実際の役に立つんでしょうか」
「う、うーん。かつては量子力学の世界では不可欠という話はあったんだが、それが実数だけで記述出来るという話も出ている。シュレーディンガー方程式関係なんだけどね。ただ、僕が研究している理論物性の世界では、虚数温度という概念があってだな」
会長は金田一耕助よろしく自分の髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「……簡単に言うと、虚数方向の温度の逃げを考えないと説明出来ない現象があるんだ」
???
簡単じゃなかった。
「例をあげよう。ゼロ・ケルビンに極めて近い物質一リットルに対して、二七三ケルビンの物質を十リットル混ぜた場合、混成された物質がゼロ・ケルビンになることは常識ではあり得ない。ところが、特殊な条件下ではそんな現象が起きることがあるんだ」
粘性とか超流動とか熱とエネルギーの互換性とかのわけのわからない解説が続く。
……そうか。宇宙ちゃんもこれをやられたんだ!
なんとなく「京大生不可」の理由がわかったのだった。
私と右原さんの二人セットでの家庭教師は穏やかに続いた。
宇宙ちゃんが引きこもりになったのは、賢こすぎて周囲と話が合わないのが原因のようだった。そもそもが、複数の正解が予測されるクイズを出してその場で対応出来るなんてのは、かなり頭の回転が速い証拠だ。
ひるがえって私が中二の頃に話していた内容といえば、人気アイドルに面白動画、流行りのお菓子、アニメにマンガに部活に恋愛。頭の悪い会話しかしていなかった。選挙の話なんて一度も出なかった。……まあこのあたりは政治家の娘、という生育環境が影響していたのだろうけど。
引きこもりで、書庫の本とネットの動画(これは親の意向できびしく統制されていた)を情報源としてすごしている宇宙ちゃんには、私たちの存在はいい刺激になっいるように思えた。袋菓子偏愛の生活からバラエティーあふれるおやつへの変化。掃除、裁縫、料理への興味。そして恋バナ。特に無菌培養のお嬢様に欠けがちな性教育(というかエロ話)は、私たちがしなければ誰も手をつけなかった分野だろう。
平等と自由と権利の話もした。『人間不平等起源論』をテキストとして、「自然状態」の人間が本当に平等とは言えるだろうか、全ての人が納得出来る平等なんてあるのだろうか、本当に不平等は悪と言えるのだろうか、といった議論をした。たどりついた結論は、「概念や標語は真相を隠してしまうので疑ってかかれ」だった。宇宙ちゃんはなかなかの理想論者だったが、現実と史実を前にすると折れざるを得ないこともあった。
とまあ、青臭い(もちろん私たちは花の女子大生なのでそんな臭いを漂わせたりはしないが)議論をしていると、それがお父上の耳に届いた。
ある時、母屋で夕食をお呼ばれしていると、刺木康造氏が現れた。政界のドンの息子にして現衆議院議員、宇宙ちゃんのお父上だ。
「やあ、君たち、そのままそのまま」
立って挨拶しようとする私たちに、議員先生は鷹揚に言った。そして、宇宙ちゃんの教育がいい方向に進んでいるとお褒めの言葉をいただいた。
「これはわずかだか私からの謝礼だ。娘には内緒だよ」
金一封をくれた。
「「ありがとうございます」」
私たちはありがたくいただいた。過分の臨時ボーナスだ。
実の所、内心ではびくついていた。宇宙ちゃんに禁止されたビデオを見せていたからだ。といっても、格闘技系の、だが。ジャッキー・チェンの古い映画に始まり、『チョコレート・ファイター』、『ファイティン!』といった作品――中二病少女にはちょっと刺激が強そうな作品群だ。
康造氏は言った。
「娘が世界征服したいとか愚民を導くとか言わなくなったのが一番うれしい。本当に感謝している」
そして、ワインを飲み始めた康造氏は、京都で進めている大型再開発の計画を自慢し始めたのだった。
刺木家からの帰り道、右原さんが言った。
「あの親子、何か高い垣根があるよね」
「う、うん。第二反抗期かな?」
「そう。それもあるけどお父さんの方が全然娘自慢をしてこなかった。普通はああいう場面では幼少期の娘自慢が吹き出す物なんよ」
「ふーん」
「特に異性の子に関しては、ね」
どうやらそれは、右原さんの経験に基づく言葉のようだった。早くに父を亡くしている私には理解出来ない感覚だ。
「刺木」家って、いわゆる京大家系なんよ。だから、宇宙ちゃんにも当然、京大に入ることが期待されている。あの子は、その線路をはずれたがっている」
「だから、家庭教師からも除外している、てこと?」
「そう。家庭教師が女性でも、その兄弟や友達が京大生で縁ができて結婚、なんて、それこそ親の思う壺でしょ。だからあの子はその経路をわざと絶ち切っている」
「そっかー。……まあ、おかげで私たちFラン大学生にもおこぼれが回ってきたってわけね」
右原さんが気色ばんだ。
「ちょ、霧島さん。広域大学と文化大学を一緒にしないで。うちみたいなのが本当のFラン大学。広域大学は玉石混淆のPランク大学でしょ」
「P~!? なんですかそれ!」
「知らない? パンドラの箱のP。ペロウアスのP」
「ペロウアス?」
「危険、てこと」
どうやら箱の中は渾沌としていて、アケルナキケン、という意味らしい。
「模試判定ではPって出るの。表向きはペンディング――データ不足で判定不能、てことになっているけどね。本当は母集団がランダムすぎて計測出来ないらしいの」
「はあ……」
実際の所、私は模試を受けたことはほとんどない。学校で受けさせられた時も、第一志望は公立の加古川大学にして第二志望は適当に選んでいた。お婆ちゃんは、大学といえば京都か大阪、大卒なら給料がいい、くらいの認識で、特にどこを受けろとも言われなかった。
「実を言うと、広域大学大生って横のつながりがなくて、ペロウアスなパンドラの箱、て言われても実感ないんだよねー」
「クラブ活動とかはないの?」
「ない。だから、京大のミステリー研究会に入ってる」
「え!? それじゃ、小説書いているの!?」
右原さんの目が輝いた。
「う、うーん。たまに書きたくなることもあるけど、周りの才能が圧倒的すぎて、書ける気がしない」
「それは残念。でも、作家の知り合いとかはいるんでしょ?」
「う、うん。まあ、いるにはいるけど……」
犬彦矢次郎氏の顔が思い浮かぶ。あとは医学部の大饗先輩くらいか。
「いいなあ。京文大って、そういうすごい先輩はいないからなあ」
遅まきながら私は気づいた。右原さん、絶対に推理小説研究会と勘違いしているよ。私がいるのは「あらゆるミステリーを研究するミステリー研究会」なんだよ!
「でも、京文大の先生にも有名大学出の凄い先生がいっぱいいるでしょ」
「それはそうだけど、それこそ玉石混淆だよ。中にはめっちゃ変な先生もいるし」
メリーさんの姿が目に浮かぶ。
「ミスカトニック大学の卒業生だって人もいる。マサチューセッツ州のアーカムにある大学。……クトゥルー神話の専門家かっていうの」
やっぱりメリーさんだ!
私は、友達のことを悪く言われてちょっとムカッとした。
「その人の授業はとってるの?」
「とってない」
「それってただのレッテル貼りじゃん。だめだよ、知りもしないことを決めつけちゃ。自分で言ってたよね、『概念や標語は真相を隠してしまうので疑ってかかれ』って」
「うん、そだね。面目ない」
ふくれっ面をしつつも、ちょっと恥ずかしそうな右原さんだった。
そしてその夜、事件は起きた。




