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M属性 ~嗚呼、あなたに踏まれたい~  作者: 高谷正弘
第三章 新王都アムリタ
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八十六夜 亜州よりの物体X

 晩餐会用のホールは人で溢れていた。

 ヴィーラ殿下をウダカ城にお招きすると急使が駆け、大臣格や有力貴族から司教ら都市の有識者たちが、覚えめでたくあろうと詰め掛けたのだ。

「城の晩餐会用ホールとはいえ、立ち入り数には限度がある。地位や役職の席順、交渉に妥協と脚の引っ張り……複雑な駆け引きが、繰り広げられたのだろうなあ」

 晩餐会に呼ばれるかどうかが、側近にとってのステータス。

 場合によっては貴族間の確執から決闘にも発展する。笑顔の下で行われた戦いを想像して、少しばかりげんなりしたけど……。

 厨房が張り詰めた雰囲気になるのも、無理からぬ状況であった。

 2階吹き抜けのギャラリーは楽師が静かな音楽を演奏し、香辛料と――飲まない分気になるのか、アルコール臭が充満している。

 マナスルと同じくテーブルが壁に沿って並列に並んでおり、給仕が空いた深皿や板を下げ飲み物を運んでいた。

 取り皿扱いの平たく硬いパン(トランショワール)が、もったいなくも床に捨てられている。

 これは別名「(ほどこ)し皿」と呼ばれていた。汁を吸って軟らかくなるので、使用人や家畜に分け与えられていたのだ。

 こちらでは放し飼いの犬が処理していたのだろう、今はなぜか(・・・)姿を消している。

「ふう……よしっ!」

 ぼくはひと呼吸し、磁器の平皿を持ってホールの中央へ一歩踏み出す。

 ただそれだけで、甘く胸躍る香りが立ち込め場を支配した。

「おお……なんだこの、香ばしさは……」

「なんとも甘い……デザートですかな?」

 ウダカの有力者が何事かと顔を向け、視線がぼくに集中する。

 それがパンの焼けた香りだと、理解できた者はいただろうか。執事さんほどではないけど、ぼくも緊張しながら歩く。

「なにしろ美味しさに震えた殿下が、悔しさのあまりに鞭振るうかもしれないのだ――なんて理不尽な対応だろう、嗚呼……素晴らしい!」

 我が暴君に対し否が応にも背筋が震え、頬が高揚するのを止められない。

 見ればラクシュと両国の因果伯だけ、フォークで食事をしていたようだ。ルタがシャンティ卿に説明していたのか、フォークをかざし止まっていた。

「そういえばシャンティ卿に渡してなかった。チャンドラは来てないようだけど、希望するならお2人にもフォークをプレゼントしよう」

 ぼくの視線に気づいたルタが、横に座るヨーギの袖をつかむ。パンの香りに釣られ飛び出しかねないからだ。

 彼は本当によく気がつく、微笑を浮かべて感謝する。


 ヴィーラ殿下は当然、主賓席(メインテーブル)の真ん中に座っておられた。

 向かって右にラクシュ、左に領主であるウマー伯爵。両者が殿下から若干離れて見えるのは、ドレスから顔を出してるカレシーのせいではないと思いたい。

「殿下のあらぬ噂が、また広まりそうだなあ」

「シ――~?」

「縄張り」から犬を遠ざけた蛇の王が、苦笑するぼくを見て首を傾げる。

 ふと見ると、殿下のテーブルにフォークが置いてあった。ラクシュのではない、ならばサーガラの噂を聞き独自で用意されたのだろうか?

 正直殿下が「がっつく」姿は見たくなかったので、喜びがさらに増さる。

 そう思っていると、殿下がおもむろにフォークをかざして目を細めた。

「さすがでございます殿下。食の安全対策をすでに実地し、素手の食事を止――」

 ……あれ?

 見れば「銀製のやたらと凝った装飾のフォーク」は、記憶にある。

『――っそれは、スーリヤ様のフォークでは!?』

 言葉にせずとも口を開け凝視してしまい、殿下がいたずらっ娘のように微笑む。

「マナスル伯爵からの献上品(・・・)だ、素晴らしいだろう?」

 取り上げましたね――!?

 スーリヤ様のすがる光景が思い浮かび、磁器の平皿を持ったまま天をあおぐ。

 ぼくの驚きがよほど可笑しかったのか、殿下が顔を伏せて喉を鳴らした。殿下は時に周囲が困惑するほどの余興(おふざけ)を好み、反応を見て喜んだ。

「年相応ともいえるけど……スーリヤ様に対しては、本当に容赦がないですねえ」

 少し羨ましくもあったけど。


 ――銀には殺菌剤や、抗生物質としての用途がふくまれている。

 古代ギリシャやローマでは腐敗予防に銀の器や壺を使い、エジプトでは疫病予防に効果があったと記述が残っているほど。

 すでに銀による病原菌の殺菌作用が知られていたのだ。

 医学や医薬品の整わない時代においては予防こそが重要だった。だが王侯貴族で銀食器が貴重品とされたのは、もう一点別の理由がある。

 毒による、暗殺予防。

 暗殺で使用された硫砒鉄鉱――水溶性のヒ素は無味無臭であり、食事に混入されると判断が難しく多くの悲劇が起こった。

 そこでヒ素にふくまれる硫黄に触れると黒変する、銀の特質で検知したのだ。

 晩餐会などで銀の食器を高位の方に提示するのは、不敬な行いをしないと安全のアピールもふくまれている。

 スーリヤ様に鉄ではなく銀のフォークをプレゼントしたのは、領主である立場を配慮してであった。

「殿下のお立場を考えるなら、銀のフォークをお持ちいただくのに適してるか」

 それに「サーガラフライ」はサーガラの名物であり、フォークだけが広まるには相応の時間を要するだろう。

 比べてヴィーラ殿下のひと声は、瞬く間に国を駆け巡る。

 すでに貴族の中には給仕に、殿下がお使いの熊手はなにかと訊き。自分にも用意するよう申しつける姿も見受けられた。

 殿下が妙な食器を使っていたと、此度の晩餐会の様子も噂が広まるに違いない。

 フォークが「正しい行為」に見直され、欲しがる者も出てくるはず。

「殿下に使っていただくのが、フォークを広めるのに一番近道……かなあ?」

 スーリヤ様にはまたプレゼントしよう、すでに持っているかもしれないけど。


「――殿下、ご要望の「唸らせる料理」でございます」

 気を取り直しヴィーラ殿下のテーブルにそっと配膳する。食器の丁寧な扱いに、横に座るウマー伯爵が盛大に肩を落としていた。

 平皿には丸いパンが数個と、スライスした長方形のパンが数枚が乗っている。

 白き器とまさしく小麦色のパンが、温かな彩色をほどこす。カレシーが舌を出し入れして観察する、さして興味はなさそうだ。

「ほおお――~…」

 周囲に息を呑む音が響いた。食事をしてすでにお腹いっぱいなのに、香りと色が相まって生唾が溢れたのだ。

 だが幾人かは露骨に眉をしかめている。

 教義においてワインは神々の飲み物であり「血」を表す。そしてパンは「聖体」であり洗礼にも用いるのだ。

 布の上にあるべき体を、硬い石の上に置くのかと。

「アユム卿……このパンだけか? いやこれが、殿下を唸らせる料理(・・)?」

 しかし教義以上に、ラクシュは大層な料理を想像していたのだろう。テーブルに残っている白パンと遜色のなさに、唖然と呟く。

 殿下も真剣な眼差しでパンを睨み、真偽を探ろうとしていた。

「……確かに良き香りだし厳選された品だろうが、これはただのパンだろう?」

「はい、ただの(・・・)パンです」

 ぼくは当然とばかりに頷く。

 殿下に対して聞き方によれば……いや、そのままでも煽る返答。

「まずはそのまま、スライスしたパンをどうぞ。物足りなければこちらに、プラムのジャムもご用意いたしました」

 後ろに並ぶ給仕から木製コップを受け取り、同じくテーブルに置く。

 目の端にヨーギがそわそわしているのが映る、もう少し待っててね。

「いかがでしょう殿下、まずは私に毒見させて貰えないでしょうか?」

 ぼくの意図が分からないなりに、ラクシュが気を利かせて申し出る。

「ありがとうございます、リグ公。しかし彼とはとても複雑な因果(かんけい)にありまして、我が身で受けなければならないのですよ」

 覇気のこもった瞳に炎が揺れる、これは主命(しょうぶ)なのだと。

 ラクシュはある程度ぼくの事情を知っている。けれど婿にと名乗りを上げている方を前にそのセリフは、いらぬ誤解を受けるのではないか。

 聞き耳を立てていたウマー伯爵や有力者たちが、殿下の言葉にざわめいていた。

 ビハーラ嬢が頬を染め声にならない絶叫を――いえ、あなたは知ってますよね?

「妙な話にならなければいいけど……」

 ぼくの苦悩をよそに、殿下が優美な指でパンをつまみ意を決して口にする。

 周囲の貴族にとって、パンを食すのにここまで緊張した瞬間はあっただろうか。

「――っ!?」

 注目の中、ヴィーラ殿下が目を見開き驚愕した。

 舌に意識が集中するのを止めれず、口に手を当て惜しげつつも咀嚼。二切れ目に手を伸ばし――ピタリと止まる。

「がっつく」のを、矜持が許さなかったのだ。

 ぼくを睨むも、持論を発展させ罵倒する隙すら与えない食の魅力。

「なるほど……実に見事な、ただの(・・・)パンだな」

 汗を滲ませ眉を寄せ、笑みと共に必死に言葉を絞り出した。

「嗚呼そのお顔は、鞭に匹敵するほどお美しい……っ!」



 ――パンの起源は紀元前6000年頃の、メソポタミアと言われている。

 小麦粉を水でこね焼いた無発酵パンで、硬く平焼きだった。

 それから約数千年……紀元前3500年頃の古代エジプトで、おそらく偶然にも発酵パンが誕生する。

 以降食べ物としてお供え物として重宝されたパンは、古代ギリシャ古代ローマ、そして欧州へと伝わっていく。

 パンは保存の観点からも優秀で、お金の代わりに給料として支払われたほど。

 粉と水とパン種を用い、酸味があって硬い……単純な「料理」だった。

 ぼくはレーズン酵母の他、バターとスキムミルクを生地に練り込んだ。

 この時代のバターには日持ちと腐敗防止に、大量の塩がふくまれている。まずは溶かして分離させ、無塩バターを作る所から始めなければならない。

 それ以上に入手が難しいのは生乳だった。

 欧州で一般的に牛乳が飲まれ始めたのは150年前――19世紀である。牛乳は「飲む」とは表現せず、「食べる」食品だった。

 一部の料理では食材としたが、バターとチーズを作るために搾られていたのだ。

 商店では買えず、農家に足を運び生乳を別けて貰う。

 遠心分離機で生クリームを得る過程の脱脂乳を乾燥させ、長期保存用としたのが脱脂粉乳――「スキムミルク」である。

「前代未聞昼食会」の時は、ハンドミキサーも遠心分離機もなかった。

 旅をし出会いを経たからこそ、さらなる成長へと繋がる得がたき経験。

 ただのパンに変わりはない――だが。

 より甘く、より軟らかく、より香り高い……手間のかかる「料理」にしたのだ。


「これは、これは本当にパンなのか? いや見た目は確かにパンではあるのだが、では今まで食べていたのは……一体なんだったんだ!?」

 ヴィーラ殿下から勧められ、恐る恐る口にしたラクシュが混乱して叫ぶ。

 新王都にはレーズン酵母によるパンのレシピは渡してある。パン職人の腕もあるだろうけど、殿下はすでに食べ慣れておられるはず。

 ラクシュにも幾度かデザートをお出ししている。

 しかし日常口にする素の(・・)パンだからこそ、差が歴然と感じれるのだ。

「これぞパンなのだ! このパンだけで、全ての料理が霞んでしまうっ!!」

 ラクシュの大絶賛に、食せなかった貴族の喉が大きく鳴った。

 現代でも通用するパンは、一味も二味も違う――。

「ヨーギの蹄の音が聞こえる気がする、さすがに限界か」

 パイ生地が落ちつき馴染む時間が、少しは稼げただろうか。

 控えていた食堂執事さんに合図を送ると、数人の給仕が木板を持って現れる。

 ホールいっぱいに甘い香りが広がった。

甘い菓子(デセール)――ラズベリーパイです、お腹に余裕のある方はどうぞ」

「「おお――――~っ!!」」

 1人ひと切れは渡ると思ったけど、大臣格や有力貴族から司教ら有識者たちが、パイに群がり半ば奪い合いとなっている。

「少し……もったいつけ過ぎたかなあ」



 ☆



「いや俺が食べたのは爪先ほどだぞ! お前の方がよっぽど――」

「もう少しだけでも分けて……いいだろう、給料が入ったら必ず払う!」

「全員に行き渡らないのは分かってるだろ! 皆落ちつけ――~っ!!」

 厨房もざわめきに包まれていた。

 大役を遂げた執事さんに、お詫びにとラズベリーパイを一枚差し上げたのだ。

 どうやら皆で分けたようだが、厨房スタッフはここにいるだけでも約50人。

 さらに衛兵までがパイを挟んで激しく問答している。小さなパイ一枚だけでは、取り合いになるのも当然だろう。

「おお彼の少年だ! 待ちわびたぞ!」

「パイの材料は残ってるか? 窯の準備は整ってるな!?」

「どうかもう一度、焼いてくれないだろうか……っ!」

「ざっ残念ですが食材は使い切っています。それに下準備から始めないとですし、ぼくはそう長居もできません」

 入口で包囲され手を挙げて降参すると、一拍置いて凄いため息がもれた。

 混乱を起こしただけだろうか、なんだか申し訳ない。残ってるのは後で食べようとカットしたパンの端だけで、ジャムも使い切っている。

「ん――~…あっそうだ! 油はありますよね、あとは砂糖と……」

「焼き上がったパンを、もう一度焼くのか?」

「いえ、揚げる(・・・)んです」

 パンの耳を縦長にスライスし、カリッと揚げてグラニュー糖をかけるだけ。

 俗にいう「パンの耳ラスク」である。

 ラスクは20世紀のドイツが発祥。2度焼くことでパンの水分をさらに減らし、保存食として親しまれていった。

 パイが食べれなかった方に渡し、大人がサクサクとほおばる姿に苦笑がもれる。

 バターはなくグラニュー糖だけの手軽さ。パンの耳を貰ってきて揚げ、子供たちにオヤツとして作った思い出。


「坊主! あっいや、あのパイはなんだ!? ラズベリーを使ってるのは分かる、だが生地を切り分けずそのまま食べられるパイなど、聞いたことがない!!」

 そしてこのアゲル菓子も――料理長が周囲を制し、代表して詰め寄ってきた。

ぼくの国(・・・・)の風習です」

 中々に便利な言い回しである、ラクシュに感謝だなあ。

 ウダカは湾岸都市である。海上貿易を行っていれば、地方によって違いがあるのは熟知しているだろう。

 とりわけウマー伯爵は、かなりの収集欲をお持ちみたいだし。

「マナスルやサーガラでも新たな料理が生まれています。自領だけではなく世界に目を向ければ、意識を変えるほどの調理法があるはずです」

「――絶品3食、だな!?」

 職人の1人が叫び、サーガラの船乗りに何度も味と特長を聞いたと主張する。

「そうかアゲルって料理法を、どこかで聞いたと思ってたんだ!」

「待て絶品3食の発祥はマナスルだ、行商人が話してたんだから間違いない!」

「いやサーガラフライって料理が、増えたそうだぞ? そっちもアゲルと――…」

「おい、サーガラの話はよせ……っ!」

 誰かが指摘し、全員が慌てて口をつぐむ。

 ウマー伯爵とサンガ伯爵の確執は継続中であり、タブーとなっているのだ。

「世界……これほどに優れた料理法を、確立している国が……っ」

 1人パンの耳ラスクを凝視していた料理長が、意を決した瞳を向ける。

「少年……親方! 邪魔だと怒鳴ったのは謝ります。他にもレシピをご存じなら、どうか教授していただけないでしょうか!?」

 給仕――厨房使用人がいる前で、料理長が深々と頭を下げた。

 額に汗を落とし苦渋に歪んでいる、道理の通らぬ話なのは分かっているのだ。

「俺は幾人かの貴族に料理人として仕え、此度はウマー伯爵に乞われて登城した。自信もあったし、未知のレシピを探し研究もしてきた。だがこのパイほどの料理を作れたことは一度としてない! ――どうか、お願いいたしますっ!!」

 レシピを読むため文字を習ったのなら、それだけで料理長の真剣さが分かる。

 料理人は社会的に、けっして高い地位ではない。

 農民に至っては未だ日に二食がざらで、まずは「食べる」ことが大前提。調理に手間をかけ、味に工夫し、一品を彩るなど贅沢なのだ。

 兵士や他の職人に比べ、必要とされてはいなかった。

 だが「食」の魅力に勝てる者は、そう多くはない。「美味しい料理」を作れるに至れば、諸侯や貴族がこぞって重宝し引く手あまたな好待遇を得る。

 味への探求心が妥協できぬプライドをも培い、足掻き切り開いてきた道。

「この方も……プロなのだ」


 ――レシピは料理人にとっての命である。

 ぼくが絶品3食のレシピを公開すると発表した時、疑われたのは当然だった。

 親方から弟子へと受け継がれ、世代を重ね研磨されていく門外不出の技術。

 識字率が低くほとんどが口伝となり、残されたレシピに調理法の記載は少ない。

 歴史に埋もれ、再現が困難な料理のなんと多いことか。

 だがレシピは「覚え書き」であり、不変の「回答」であってはならないと思う。

 修得するのはいいが信じ切ってはならない。料理の黎明期であるならいっそう、新たな発想の芽吹きの邪魔をする。

 季節によって食材の質は変わるし、国ごとに得られる時期や水の硬度すら違う。

 なぜこうするのか、なぜ必要なのか、試行錯誤しないと「理解」に繋がらない。

 絶品3食のレシピも実地研修を行い、部分的に口伝となっていた。

 レシピを「回答」とせず、受け継いで磨かなければ……平皿と同じく一旦消え、数百年後に再び現れる料理となるだろう。


回答(すべて)を、教えることはできません」

 自分の旅を振り返り強く実感していた。

 さらなる成長へと繋がる道……己で得なければ、育たない感覚なのだと。

「ですが計量と調理手順、そして重要性は是非ともお伝えしたい!」

「うおおおおお――――~っっ!!!」

 厨房スタッフから、大歓声が響き渡る。

「は……っ! あっありがとうございます!!」

 料理長も落胆はあるが理解をしめし、できる限り多くを学ぼうと身体を震わす。

 盛り上がる厨房に、ぼくは一つ手を打ち全員を見渡して宣言した。

「では石鹸で手を洗い衣服を交換してください。大切なのは、何より安全です!」

 今後の実地を見越し、1階の食料保管庫に立ち入らせてもらう。

 ラズベリーパイ同様、説明を受けるだけより「舌」で理解して貰うのだ。

「最終的には各地でお任せした、コース料理の入り口までは辿りつきたい」

 打って変わって丁寧に食材の説明を受けていた時……ふと、目についた。

 それはM属性の予感か、単なる偶然か。気温の低い石壁に囲まれた雑多な倉庫に――ごく普通の、茶色い小さな袋。

 紐をほどき中身を検めると、穀物が詰まっていた。

「……精製前の、小麦?」

 謎の物体がアレ(・・)であるのを、脳が一時的に拒否する。

 間違っていた場合精神の受けるダメージが大きすぎる、覚悟が必要だった。

「アユム親方、その穀物がどうかしましたか?」

「まっ待って! うん……まさかねえ、よく似てはいるけど在るはずがないよ!」

 テスト前に勉強しなかったと保険をかけ、失意の痛みを和らげる。

 しかしダーナ卿の存在……もし、もし異世界(こちら)に日本に類似した国があり、中国に類似した国があり、インドに類似した国があったなら――。

 アレ(・・)のルーツが脳内を駆け巡った。

 手の平ですくい一粒取って、蝋燭(ろうそく)の光に当てる。小麦ほどはつるっとしていない独特の房、だが……いやでも。

『――種もみっ!!』

 ガマンしきれずに記憶が叫ぶ。

 ぼくは三度見し、意味もなく周囲を確認し、石化が治ると後頭部で叫んだ。


「米だ――――~っっ!!!」


「ウマー伯爵! ウマー伯爵! ウマー伯爵――~っ!!」

 ホールではラズベリーパイを食せた幸運な貴族が得意げに感想を語り、手に入らなかった貴族が給仕を取り囲み大騒ぎとなっていた。

 そんな騒動も視野に入らず、小さな袋を命とばかり抱きしめウマー伯爵に迫る。

 領主は弾かれたようにお腹を揺らし、今度は何事かと顔をこわばらせた。

「あっああこれも、懇意にしている行商人から購入した野菜(・・)ですな。珍しいと聞いたのですが、いかんせん調理法が分からず放ってありました。アユム卿が驚くほど珍重なのですか?」

 さして重要に思えず、なんだ野菜かとその目が安堵している。

「在ってはならない――いえ、在るとは思えなかった品ですっ!!」

「……こんなに興奮しているアユムを見るのは、初めてだな」

 ラクシュがポツリと呟く、ええそうでしょうね。

 何度夢見て、そして諦めたか……主食が失われた喪失感は計り知れなかった。

 それが今、ぼくの手中にあるのだ――。

「この野菜は、それほどに貴重なのか」

「ああ――っ!?」

 ヴィーラ殿下がひょいっと、ぼくの手の平から袋を取り上げる。

 身長で言えばぼくの方が高いのだが、まさか殿下に迫る訳にもいかず……まるで魂を失って、ポッカリと空いた手が空虚に彷徨う。

「き、貴重です! ぼくにとって「米」は、命に意味するほど重き響きです!!」

「ほう……それほどか」

 殿下の唇の端が、意味ありげに上がった。


「貴様は主命(しょうぶ)を果たしたのだからな、報酬(ほうび)を払わねばメンツの問題となろう」

 お腹はいっぱいだったでしょうに、磁器の平皿にはパンの欠片もない。

 しかし我が主君が報酬? 首を傾げつつも、ぼくの心は奪われた袋に集中する。

「あっありがとうございます、ならば是非ともその「米」を……」

「そう慌てるな、我が招いた(・・・)者の素晴らしさを褒めておるのだ」

 弟のおもちゃを取り上げた姉が、得意げに自説の正しさを語りだす。

「旅での貴様の立ち振る舞いも聴いている。マナスルで魔獣の討伐、サーガラ領で盗賊の撃退、アマゾネスで部隊の指揮官、船上で犯人捜し――」

 ジャーラフが伝えたのだろう、思えばこの半年は本当に色々あった……けっして疫病神ではないと思うけど。

 指折り数えながら袋を投げお手玉するので、ぼくの首も上下した。

「なるほど……謁見の間にて、我の鞭を微動だにしなかった訳だ」

 瞬時に意識が、炎の瞳に吸い寄せられる。スーリヤ様がおっしゃっていた、瞬きすらしない瞳で他者の動きを封じる微笑。

 女王(メデューサ)の微笑が、ぼくに向けられていた。

「功を許す! 褒美として、我と戦う権利を与えるっ!!」

 勝利のトロフィーとばかりに袋を掲げる。

 見事「(いのち)」を、その手に取り戻してみせよ――。


「ひ……っ」

 周囲の至る所で、驚愕とも悲鳴ともとれる音がもれた。我と戦え……それは褒美ではなく、極刑と呼ぶべき宣言ではないのか。

 ぼくとて鞭振るうのは期待したけど、さすがにこれは想定外だった。

 ヴィーラ殿下はぼくの反論(パン)に対し一歩も引かず、さらなる持論(しょうぶ)を発展させ服従を迫る手段を講じたのだ。

 驚くぼくの顔を直視し、意地の悪い笑みを浮かべどうだと胸を張る。

 拒否の反論もできるだろう、だが……。

 ぼくは暴君(・・)に突きつけられた無理難題に、胸の高鳴りと興奮を覚えていた。

「謹んで、お受けいたします……っ」

 本望(それをこそ)である――と。




アレ(・・)は殿下への献上品です、全て殿下の御心に従うばかりです――」

「米」本来の所有者であるウマー伯爵はこれ以上関わりたくないと、息を止め完全に気配を消していた……。

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