八十六夜 亜州よりの物体X
晩餐会用のホールは人で溢れていた。
ヴィーラ殿下をウダカ城にお招きすると急使が駆け、大臣格や有力貴族から司教ら都市の有識者たちが、覚えめでたくあろうと詰め掛けたのだ。
「城の晩餐会用ホールとはいえ、立ち入り数には限度がある。地位や役職の席順、交渉に妥協と脚の引っ張り……複雑な駆け引きが、繰り広げられたのだろうなあ」
晩餐会に呼ばれるかどうかが、側近にとってのステータス。
場合によっては貴族間の確執から決闘にも発展する。笑顔の下で行われた戦いを想像して、少しばかりげんなりしたけど……。
厨房が張り詰めた雰囲気になるのも、無理からぬ状況であった。
2階吹き抜けのギャラリーは楽師が静かな音楽を演奏し、香辛料と――飲まない分気になるのか、アルコール臭が充満している。
マナスルと同じくテーブルが壁に沿って並列に並んでおり、給仕が空いた深皿や板を下げ飲み物を運んでいた。
取り皿扱いの平たく硬いパンが、もったいなくも床に捨てられている。
これは別名「施し皿」と呼ばれていた。汁を吸って軟らかくなるので、使用人や家畜に分け与えられていたのだ。
こちらでは放し飼いの犬が処理していたのだろう、今はなぜか姿を消している。
「ふう……よしっ!」
ぼくはひと呼吸し、磁器の平皿を持ってホールの中央へ一歩踏み出す。
ただそれだけで、甘く胸躍る香りが立ち込め場を支配した。
「おお……なんだこの、香ばしさは……」
「なんとも甘い……デザートですかな?」
ウダカの有力者が何事かと顔を向け、視線がぼくに集中する。
それがパンの焼けた香りだと、理解できた者はいただろうか。執事さんほどではないけど、ぼくも緊張しながら歩く。
「なにしろ美味しさに震えた殿下が、悔しさのあまりに鞭振るうかもしれないのだ――なんて理不尽な対応だろう、嗚呼……素晴らしい!」
我が暴君に対し否が応にも背筋が震え、頬が高揚するのを止められない。
見ればラクシュと両国の因果伯だけ、フォークで食事をしていたようだ。ルタがシャンティ卿に説明していたのか、フォークをかざし止まっていた。
「そういえばシャンティ卿に渡してなかった。チャンドラは来てないようだけど、希望するならお2人にもフォークをプレゼントしよう」
ぼくの視線に気づいたルタが、横に座るヨーギの袖をつかむ。パンの香りに釣られ飛び出しかねないからだ。
彼は本当によく気がつく、微笑を浮かべて感謝する。
ヴィーラ殿下は当然、主賓席の真ん中に座っておられた。
向かって右にラクシュ、左に領主であるウマー伯爵。両者が殿下から若干離れて見えるのは、ドレスから顔を出してるカレシーのせいではないと思いたい。
「殿下のあらぬ噂が、また広まりそうだなあ」
「シ――~?」
「縄張り」から犬を遠ざけた蛇の王が、苦笑するぼくを見て首を傾げる。
ふと見ると、殿下のテーブルにフォークが置いてあった。ラクシュのではない、ならばサーガラの噂を聞き独自で用意されたのだろうか?
正直殿下が「がっつく」姿は見たくなかったので、喜びがさらに増さる。
そう思っていると、殿下がおもむろにフォークをかざして目を細めた。
「さすがでございます殿下。食の安全対策をすでに実地し、素手の食事を止――」
……あれ?
見れば「銀製のやたらと凝った装飾のフォーク」は、記憶にある。
『――っそれは、スーリヤ様のフォークでは!?』
言葉にせずとも口を開け凝視してしまい、殿下がいたずらっ娘のように微笑む。
「マナスル伯爵からの献上品だ、素晴らしいだろう?」
取り上げましたね――!?
スーリヤ様のすがる光景が思い浮かび、磁器の平皿を持ったまま天をあおぐ。
ぼくの驚きがよほど可笑しかったのか、殿下が顔を伏せて喉を鳴らした。殿下は時に周囲が困惑するほどの余興を好み、反応を見て喜んだ。
「年相応ともいえるけど……スーリヤ様に対しては、本当に容赦がないですねえ」
少し羨ましくもあったけど。
――銀には殺菌剤や、抗生物質としての用途がふくまれている。
古代ギリシャやローマでは腐敗予防に銀の器や壺を使い、エジプトでは疫病予防に効果があったと記述が残っているほど。
すでに銀による病原菌の殺菌作用が知られていたのだ。
医学や医薬品の整わない時代においては予防こそが重要だった。だが王侯貴族で銀食器が貴重品とされたのは、もう一点別の理由がある。
毒による、暗殺予防。
暗殺で使用された硫砒鉄鉱――水溶性のヒ素は無味無臭であり、食事に混入されると判断が難しく多くの悲劇が起こった。
そこでヒ素にふくまれる硫黄に触れると黒変する、銀の特質で検知したのだ。
晩餐会などで銀の食器を高位の方に提示するのは、不敬な行いをしないと安全のアピールもふくまれている。
スーリヤ様に鉄ではなく銀のフォークをプレゼントしたのは、領主である立場を配慮してであった。
「殿下のお立場を考えるなら、銀のフォークをお持ちいただくのに適してるか」
それに「サーガラフライ」はサーガラの名物であり、フォークだけが広まるには相応の時間を要するだろう。
比べてヴィーラ殿下のひと声は、瞬く間に国を駆け巡る。
すでに貴族の中には給仕に、殿下がお使いの熊手はなにかと訊き。自分にも用意するよう申しつける姿も見受けられた。
殿下が妙な食器を使っていたと、此度の晩餐会の様子も噂が広まるに違いない。
フォークが「正しい行為」に見直され、欲しがる者も出てくるはず。
「殿下に使っていただくのが、フォークを広めるのに一番近道……かなあ?」
スーリヤ様にはまたプレゼントしよう、すでに持っているかもしれないけど。
「――殿下、ご要望の「唸らせる料理」でございます」
気を取り直しヴィーラ殿下のテーブルにそっと配膳する。食器の丁寧な扱いに、横に座るウマー伯爵が盛大に肩を落としていた。
平皿には丸いパンが数個と、スライスした長方形のパンが数枚が乗っている。
白き器とまさしく小麦色のパンが、温かな彩色をほどこす。カレシーが舌を出し入れして観察する、さして興味はなさそうだ。
「ほおお――~…」
周囲に息を呑む音が響いた。食事をしてすでにお腹いっぱいなのに、香りと色が相まって生唾が溢れたのだ。
だが幾人かは露骨に眉をしかめている。
教義においてワインは神々の飲み物であり「血」を表す。そしてパンは「聖体」であり洗礼にも用いるのだ。
布の上にあるべき体を、硬い石の上に置くのかと。
「アユム卿……このパンだけか? いやこれが、殿下を唸らせる料理?」
しかし教義以上に、ラクシュは大層な料理を想像していたのだろう。テーブルに残っている白パンと遜色のなさに、唖然と呟く。
殿下も真剣な眼差しでパンを睨み、真偽を探ろうとしていた。
「……確かに良き香りだし厳選された品だろうが、これはただのパンだろう?」
「はい、ただのパンです」
ぼくは当然とばかりに頷く。
殿下に対して聞き方によれば……いや、そのままでも煽る返答。
「まずはそのまま、スライスしたパンをどうぞ。物足りなければこちらに、プラムのジャムもご用意いたしました」
後ろに並ぶ給仕から木製コップを受け取り、同じくテーブルに置く。
目の端にヨーギがそわそわしているのが映る、もう少し待っててね。
「いかがでしょう殿下、まずは私に毒見させて貰えないでしょうか?」
ぼくの意図が分からないなりに、ラクシュが気を利かせて申し出る。
「ありがとうございます、リグ公。しかし彼とはとても複雑な因果にありまして、我が身で受けなければならないのですよ」
覇気のこもった瞳に炎が揺れる、これは主命なのだと。
ラクシュはある程度ぼくの事情を知っている。けれど婿にと名乗りを上げている方を前にそのセリフは、いらぬ誤解を受けるのではないか。
聞き耳を立てていたウマー伯爵や有力者たちが、殿下の言葉にざわめいていた。
ビハーラ嬢が頬を染め声にならない絶叫を――いえ、あなたは知ってますよね?
「妙な話にならなければいいけど……」
ぼくの苦悩をよそに、殿下が優美な指でパンをつまみ意を決して口にする。
周囲の貴族にとって、パンを食すのにここまで緊張した瞬間はあっただろうか。
「――っ!?」
注目の中、ヴィーラ殿下が目を見開き驚愕した。
舌に意識が集中するのを止めれず、口に手を当て惜しげつつも咀嚼。二切れ目に手を伸ばし――ピタリと止まる。
「がっつく」のを、矜持が許さなかったのだ。
ぼくを睨むも、持論を発展させ罵倒する隙すら与えない食の魅力。
「なるほど……実に見事な、ただのパンだな」
汗を滲ませ眉を寄せ、笑みと共に必死に言葉を絞り出した。
「嗚呼そのお顔は、鞭に匹敵するほどお美しい……っ!」
――パンの起源は紀元前6000年頃の、メソポタミアと言われている。
小麦粉を水でこね焼いた無発酵パンで、硬く平焼きだった。
それから約数千年……紀元前3500年頃の古代エジプトで、おそらく偶然にも発酵パンが誕生する。
以降食べ物としてお供え物として重宝されたパンは、古代ギリシャ古代ローマ、そして欧州へと伝わっていく。
パンは保存の観点からも優秀で、お金の代わりに給料として支払われたほど。
粉と水とパン種を用い、酸味があって硬い……単純な「料理」だった。
ぼくはレーズン酵母の他、バターとスキムミルクを生地に練り込んだ。
この時代のバターには日持ちと腐敗防止に、大量の塩がふくまれている。まずは溶かして分離させ、無塩バターを作る所から始めなければならない。
それ以上に入手が難しいのは生乳だった。
欧州で一般的に牛乳が飲まれ始めたのは150年前――19世紀である。牛乳は「飲む」とは表現せず、「食べる」食品だった。
一部の料理では食材としたが、バターとチーズを作るために搾られていたのだ。
商店では買えず、農家に足を運び生乳を別けて貰う。
遠心分離機で生クリームを得る過程の脱脂乳を乾燥させ、長期保存用としたのが脱脂粉乳――「スキムミルク」である。
「前代未聞昼食会」の時は、ハンドミキサーも遠心分離機もなかった。
旅をし出会いを経たからこそ、さらなる成長へと繋がる得がたき経験。
ただのパンに変わりはない――だが。
より甘く、より軟らかく、より香り高い……手間のかかる「料理」にしたのだ。
「これは、これは本当にパンなのか? いや見た目は確かにパンではあるのだが、では今まで食べていたのは……一体なんだったんだ!?」
ヴィーラ殿下から勧められ、恐る恐る口にしたラクシュが混乱して叫ぶ。
新王都にはレーズン酵母によるパンのレシピは渡してある。パン職人の腕もあるだろうけど、殿下はすでに食べ慣れておられるはず。
ラクシュにも幾度かデザートをお出ししている。
しかし日常口にする素のパンだからこそ、差が歴然と感じれるのだ。
「これぞパンなのだ! このパンだけで、全ての料理が霞んでしまうっ!!」
ラクシュの大絶賛に、食せなかった貴族の喉が大きく鳴った。
現代でも通用するパンは、一味も二味も違う――。
「ヨーギの蹄の音が聞こえる気がする、さすがに限界か」
パイ生地が落ちつき馴染む時間が、少しは稼げただろうか。
控えていた食堂執事さんに合図を送ると、数人の給仕が木板を持って現れる。
ホールいっぱいに甘い香りが広がった。
「甘い菓子――ラズベリーパイです、お腹に余裕のある方はどうぞ」
「「おお――――~っ!!」」
1人ひと切れは渡ると思ったけど、大臣格や有力貴族から司教ら有識者たちが、パイに群がり半ば奪い合いとなっている。
「少し……もったいつけ過ぎたかなあ」
☆
「いや俺が食べたのは爪先ほどだぞ! お前の方がよっぽど――」
「もう少しだけでも分けて……いいだろう、給料が入ったら必ず払う!」
「全員に行き渡らないのは分かってるだろ! 皆落ちつけ――~っ!!」
厨房もざわめきに包まれていた。
大役を遂げた執事さんに、お詫びにとラズベリーパイを一枚差し上げたのだ。
どうやら皆で分けたようだが、厨房スタッフはここにいるだけでも約50人。
さらに衛兵までがパイを挟んで激しく問答している。小さなパイ一枚だけでは、取り合いになるのも当然だろう。
「おお彼の少年だ! 待ちわびたぞ!」
「パイの材料は残ってるか? 窯の準備は整ってるな!?」
「どうかもう一度、焼いてくれないだろうか……っ!」
「ざっ残念ですが食材は使い切っています。それに下準備から始めないとですし、ぼくはそう長居もできません」
入口で包囲され手を挙げて降参すると、一拍置いて凄いため息がもれた。
混乱を起こしただけだろうか、なんだか申し訳ない。残ってるのは後で食べようとカットしたパンの端だけで、ジャムも使い切っている。
「ん――~…あっそうだ! 油はありますよね、あとは砂糖と……」
「焼き上がったパンを、もう一度焼くのか?」
「いえ、揚げるんです」
パンの耳を縦長にスライスし、カリッと揚げてグラニュー糖をかけるだけ。
俗にいう「パンの耳ラスク」である。
ラスクは20世紀のドイツが発祥。2度焼くことでパンの水分をさらに減らし、保存食として親しまれていった。
パイが食べれなかった方に渡し、大人がサクサクとほおばる姿に苦笑がもれる。
バターはなくグラニュー糖だけの手軽さ。パンの耳を貰ってきて揚げ、子供たちにオヤツとして作った思い出。
「坊主! あっいや、あのパイはなんだ!? ラズベリーを使ってるのは分かる、だが生地を切り分けずそのまま食べられるパイなど、聞いたことがない!!」
そしてこのアゲル菓子も――料理長が周囲を制し、代表して詰め寄ってきた。
「ぼくの国の風習です」
中々に便利な言い回しである、ラクシュに感謝だなあ。
ウダカは湾岸都市である。海上貿易を行っていれば、地方によって違いがあるのは熟知しているだろう。
とりわけウマー伯爵は、かなりの収集欲をお持ちみたいだし。
「マナスルやサーガラでも新たな料理が生まれています。自領だけではなく世界に目を向ければ、意識を変えるほどの調理法があるはずです」
「――絶品3食、だな!?」
職人の1人が叫び、サーガラの船乗りに何度も味と特長を聞いたと主張する。
「そうかアゲルって料理法を、どこかで聞いたと思ってたんだ!」
「待て絶品3食の発祥はマナスルだ、行商人が話してたんだから間違いない!」
「いやサーガラフライって料理が、増えたそうだぞ? そっちもアゲルと――…」
「おい、サーガラの話はよせ……っ!」
誰かが指摘し、全員が慌てて口をつぐむ。
ウマー伯爵とサンガ伯爵の確執は継続中であり、タブーとなっているのだ。
「世界……これほどに優れた料理法を、確立している国が……っ」
1人パンの耳ラスクを凝視していた料理長が、意を決した瞳を向ける。
「少年……親方! 邪魔だと怒鳴ったのは謝ります。他にもレシピをご存じなら、どうか教授していただけないでしょうか!?」
給仕――厨房使用人がいる前で、料理長が深々と頭を下げた。
額に汗を落とし苦渋に歪んでいる、道理の通らぬ話なのは分かっているのだ。
「俺は幾人かの貴族に料理人として仕え、此度はウマー伯爵に乞われて登城した。自信もあったし、未知のレシピを探し研究もしてきた。だがこのパイほどの料理を作れたことは一度としてない! ――どうか、お願いいたしますっ!!」
レシピを読むため文字を習ったのなら、それだけで料理長の真剣さが分かる。
料理人は社会的に、けっして高い地位ではない。
農民に至っては未だ日に二食がざらで、まずは「食べる」ことが大前提。調理に手間をかけ、味に工夫し、一品を彩るなど贅沢なのだ。
兵士や他の職人に比べ、必要とされてはいなかった。
だが「食」の魅力に勝てる者は、そう多くはない。「美味しい料理」を作れるに至れば、諸侯や貴族がこぞって重宝し引く手あまたな好待遇を得る。
味への探求心が妥協できぬプライドをも培い、足掻き切り開いてきた道。
「この方も……プロなのだ」
――レシピは料理人にとっての命である。
ぼくが絶品3食のレシピを公開すると発表した時、疑われたのは当然だった。
親方から弟子へと受け継がれ、世代を重ね研磨されていく門外不出の技術。
識字率が低くほとんどが口伝となり、残されたレシピに調理法の記載は少ない。
歴史に埋もれ、再現が困難な料理のなんと多いことか。
だがレシピは「覚え書き」であり、不変の「回答」であってはならないと思う。
修得するのはいいが信じ切ってはならない。料理の黎明期であるならいっそう、新たな発想の芽吹きの邪魔をする。
季節によって食材の質は変わるし、国ごとに得られる時期や水の硬度すら違う。
なぜこうするのか、なぜ必要なのか、試行錯誤しないと「理解」に繋がらない。
絶品3食のレシピも実地研修を行い、部分的に口伝となっていた。
レシピを「回答」とせず、受け継いで磨かなければ……平皿と同じく一旦消え、数百年後に再び現れる料理となるだろう。
「回答を、教えることはできません」
自分の旅を振り返り強く実感していた。
さらなる成長へと繋がる道……己で得なければ、育たない感覚なのだと。
「ですが計量と調理手順、そして重要性は是非ともお伝えしたい!」
「うおおおおお――――~っっ!!!」
厨房スタッフから、大歓声が響き渡る。
「は……っ! あっありがとうございます!!」
料理長も落胆はあるが理解をしめし、できる限り多くを学ぼうと身体を震わす。
盛り上がる厨房に、ぼくは一つ手を打ち全員を見渡して宣言した。
「では石鹸で手を洗い衣服を交換してください。大切なのは、何より安全です!」
今後の実地を見越し、1階の食料保管庫に立ち入らせてもらう。
ラズベリーパイ同様、説明を受けるだけより「舌」で理解して貰うのだ。
「最終的には各地でお任せした、コース料理の入り口までは辿りつきたい」
打って変わって丁寧に食材の説明を受けていた時……ふと、目についた。
それはM属性の予感か、単なる偶然か。気温の低い石壁に囲まれた雑多な倉庫に――ごく普通の、茶色い小さな袋。
紐をほどき中身を検めると、穀物が詰まっていた。
「……精製前の、小麦?」
謎の物体がアレであるのを、脳が一時的に拒否する。
間違っていた場合精神の受けるダメージが大きすぎる、覚悟が必要だった。
「アユム親方、その穀物がどうかしましたか?」
「まっ待って! うん……まさかねえ、よく似てはいるけど在るはずがないよ!」
テスト前に勉強しなかったと保険をかけ、失意の痛みを和らげる。
しかしダーナ卿の存在……もし、もし異世界に日本に類似した国があり、中国に類似した国があり、インドに類似した国があったなら――。
アレのルーツが脳内を駆け巡った。
手の平ですくい一粒取って、蝋燭の光に当てる。小麦ほどはつるっとしていない独特の房、だが……いやでも。
『――種もみっ!!』
ガマンしきれずに記憶が叫ぶ。
ぼくは三度見し、意味もなく周囲を確認し、石化が治ると後頭部で叫んだ。
「米だ――――~っっ!!!」
「ウマー伯爵! ウマー伯爵! ウマー伯爵――~っ!!」
ホールではラズベリーパイを食せた幸運な貴族が得意げに感想を語り、手に入らなかった貴族が給仕を取り囲み大騒ぎとなっていた。
そんな騒動も視野に入らず、小さな袋を命とばかり抱きしめウマー伯爵に迫る。
領主は弾かれたようにお腹を揺らし、今度は何事かと顔をこわばらせた。
「あっああこれも、懇意にしている行商人から購入した野菜ですな。珍しいと聞いたのですが、いかんせん調理法が分からず放ってありました。アユム卿が驚くほど珍重なのですか?」
さして重要に思えず、なんだ野菜かとその目が安堵している。
「在ってはならない――いえ、在るとは思えなかった品ですっ!!」
「……こんなに興奮しているアユムを見るのは、初めてだな」
ラクシュがポツリと呟く、ええそうでしょうね。
何度夢見て、そして諦めたか……主食が失われた喪失感は計り知れなかった。
それが今、ぼくの手中にあるのだ――。
「この野菜は、それほどに貴重なのか」
「ああ――っ!?」
ヴィーラ殿下がひょいっと、ぼくの手の平から袋を取り上げる。
身長で言えばぼくの方が高いのだが、まさか殿下に迫る訳にもいかず……まるで魂を失って、ポッカリと空いた手が空虚に彷徨う。
「き、貴重です! ぼくにとって「米」は、命に意味するほど重き響きです!!」
「ほう……それほどか」
殿下の唇の端が、意味ありげに上がった。
「貴様は主命を果たしたのだからな、報酬を払わねばメンツの問題となろう」
お腹はいっぱいだったでしょうに、磁器の平皿にはパンの欠片もない。
しかし我が主君が報酬? 首を傾げつつも、ぼくの心は奪われた袋に集中する。
「あっありがとうございます、ならば是非ともその「米」を……」
「そう慌てるな、我が招いた者の素晴らしさを褒めておるのだ」
弟のおもちゃを取り上げた姉が、得意げに自説の正しさを語りだす。
「旅での貴様の立ち振る舞いも聴いている。マナスルで魔獣の討伐、サーガラ領で盗賊の撃退、アマゾネスで部隊の指揮官、船上で犯人捜し――」
ジャーラフが伝えたのだろう、思えばこの半年は本当に色々あった……けっして疫病神ではないと思うけど。
指折り数えながら袋を投げお手玉するので、ぼくの首も上下した。
「なるほど……謁見の間にて、我の鞭を微動だにしなかった訳だ」
瞬時に意識が、炎の瞳に吸い寄せられる。スーリヤ様がおっしゃっていた、瞬きすらしない瞳で他者の動きを封じる微笑。
女王の微笑が、ぼくに向けられていた。
「功を許す! 褒美として、我と戦う権利を与えるっ!!」
勝利のトロフィーとばかりに袋を掲げる。
見事「米」を、その手に取り戻してみせよ――。
「ひ……っ」
周囲の至る所で、驚愕とも悲鳴ともとれる音がもれた。我と戦え……それは褒美ではなく、極刑と呼ぶべき宣言ではないのか。
ぼくとて鞭振るうのは期待したけど、さすがにこれは想定外だった。
ヴィーラ殿下はぼくの反論に対し一歩も引かず、さらなる持論を発展させ服従を迫る手段を講じたのだ。
驚くぼくの顔を直視し、意地の悪い笑みを浮かべどうだと胸を張る。
拒否の反論もできるだろう、だが……。
ぼくは暴君に突きつけられた無理難題に、胸の高鳴りと興奮を覚えていた。
「謹んで、お受けいたします……っ」
本望である――と。
「アレは殿下への献上品です、全て殿下の御心に従うばかりです――」
「米」本来の所有者であるウマー伯爵はこれ以上関わりたくないと、息を止め完全に気配を消していた……。




