七十五夜 セントエルモの火
「コーティ!?」
誰かいるとは思わなかったのだろう、キラナ船員長が叫ぶ。
それ以外の驚きもあったかもしれない……ぼくは気にもせず、若い船員を背後にしたまま話を続ける。
船員長からすれば、異様な光景に見えただろう。
「昨夜嵐の峠が過ぎ、当直を残して交代要員は仮眠を取りに船室に戻りました」
この時雨はまだ降っていましたが、ほどなくして上がります。明け方前には……交代要員が起き出した頃には、すでに止んでいました。
それなのに1人だけ、奇妙な状況で当直を交代している者がいます。
「あなたですよ、コーティ」
振り向き名を呼ぶ、若い船員は驚いて体を震わせた。
「フードで顔が見えなかった」「交代した」……ぼくは彼の発言を思い出す。
「あなたが交代した時、雨はまだ降っていませんでしたか? それゆえフードで、顔が見えなかったのではないでしょうか?」
「――あっ!」
コーティが口を覆い、そうだったと目を見開く。
長時間見張り台にいた疲労で、記憶が曖昧になっていたのだ。
「ですが被害者となったカター船長のマントは、濡れていませんでした」
船倉で感じた違和感――。
1人シュラウドに足をかける船員長の手に、ビクリと力が入る。
「つまり船長は、雨が止んでから見張り台に向かったんです」
若き船員と視線が合い、思わず微笑む。
「コーティは雨の中で当直を交代していた、船長を害した犯人ではありません!」
「――っ!」
先輩船員に疑われ身の置き場がなかったのに、この因果伯は信じてくれた。
コーティの心情はいかほどであったろう。微かに何度も頷き、ぼくを見つめ返す目が潤んでいる。
「――ではコーティの勘違いだ、交代した時雨は止んでいた」
キラナ船員長が即座に異論を唱えた。
コーティは信じられないと言った表情で口を開ける。
「いっいえ降っていました、確かです! キラナ船員長、なんでそんなこと……」
「確か見張り台の交代要員であるナムダは、マントをはおっていませんでしたね。雨も上がったと言っていたはずです」
「でも俺は確かに! 雨が降ってて、フードを被った奴と……っ!」
「因果伯様他の当直にも訊いてください。嵐の峠が過ぎてすぐに雨は止みました、交代要員の誰もがそう証言するはずです!」
時間的な証拠が追及しがたい時代、幸い今回は「雨」が時を特定するポイント。
だが降っていたか上がっていたかを、証言でしか確認できない。
ぼくは見張り台から手を伸ばし、船員長と手を繋いでいる。手に伝わる揺れは、シュラウドによるのか心によるのか。
「――マントをはおりフードを被るのには、いくつかの理由があります」
見張り台の軋む音だけが場に響く。
ぼくはインバネスコートを、船員長の顔を隠すようにはためかせた。
「雨を避け体を守るため、そして……姿を隠すため」
「キ……キラナ、船員長っ!?」
後ろに立っていたコーティが、驚愕の声を上げる。
昨夜の状況、同じ時間と角度。雨こそ降っていないが、自分の足を引き交代しに来た船員がそこにいた。
船員長が、雷に打たれたように震える。
「船員長……あっあなたが!?」
コーティが一歩後ずさりながら声を詰まらせた。
天候が読める、それは海を漂う船員にとってどれほど頼もしいか。船に乗ってから今まで、何度も助けられ学んだ先輩。
心が崩れていく感覚がしていただろう……。
キラナ船員長が腕を引き、ぼくも合わせて力をこめると見張り台に上がる。
狭い見張り台に、3人の男がそろう。
「コーティ昨日も言ったが、君が殺った証拠はどこにもない。そのように主張する船員もいるが、自重をうながしている」
コーティの困惑をあえてだろう無視し、キラナ船員長が続ける。
甲板を見下ろしながら話すのは、だれの顔を見ないためか。
「私は組合で因果伯様がおっしゃる自殺説を押す、けっして君を冷遇しない」
だから皆を混乱させる主張は慎むように、とつけ足した。
コーティが複雑な顔でうつむく。自分は未だ疑惑の縁から抜けていないことに、気がついたのだろう。
実績のある船員長の主張と、記憶もあやふやな若手船員の主張。
科学的検証を行わない時代にあって、どちらの印象がより人を納得させ得るか。
供述証拠――人的証拠だけでは、不十分すぎるのだ。
「確かにそうなんです、キラナ船員長の主張は正しい。交代要員が船室に下がってすぐに雨は止みました」
船員長がぼくを見て頷く。
コーティは理解できていないのか、焦点の合わない目でみつめる。
「ですから、時間的に奇妙な証言が生まれるのです」
「奇妙……?」
「ぼくは昨夜ふいに目が覚め、見張り台の交代要員であるナムダと会いました……おっしゃる通り、マントをはおってはいませんでしたね」
思えば豪雨が天板を叩きそばにいる者の声も聞こえなかったのに、船倉の階段側にいたナムダの声は聞こえていた。
風こそ強かったけど、雨はすでに上がっていたのだ。
そしてナムダと2人、マストを見上げる。
「セントエルモの火――守護聖人様を迎える幸運に、恵まれたのです」
コーティは状況も忘れ、昨夜いらしたのかと呟く。交代せずにいれば、あるいはお会いできたのだろうかと。
キラナ船員長は認めて頷き――そして、口を覆った。
「そうですね、キラナ船員長もご覧になったとおっしゃった。嵐が過ぎたとホッとしますよ……と」
「――っ」
船員長が蒼白の表情を浮かべ、汗が流れる。
コーティがその態度を怪しみ、ぼくの視線と共に船員長の顔に注がれた。
「……嵐の峠が過ぎ、キラナ船員長ふくめ交代要員が船室に戻った頃に雨が止む。これは複数の証言からも事実です、その後マスト上に守護聖人様が現れた」
「キラナ船員長、いったいどこで守護聖人様をご覧になられたのですか?」
☆
「そしてキラナ船員長はこうもおっしゃった、ナイフは海に捨てればいい……と」
月の下、うつむくキラナ船員長の表情は見えない。
ぼくは誰の反論も受けずに話す。
「確かにそうなんです、捨ててしまえばいい」
犯行に使用した凶器など誰かに見られては、自供しているに等しいのですから。
それなのに犯人は、短剣を保持するため船長のマントで血を拭っているのです。
犯人の取った異質ともいえる行動。
海に捨てれば捜しようのない完全な消滅、誰もがそうできた……ですが。
「船長と船員長だけは短剣の所持を許されています。所持を認められてるがゆえ、捨てることができなかったのではないですか?」
船員長が知らずの内に腰の短剣を押さえ、思い返して離す。
間接的事実――唯一といっていい、情況証拠。
「犯罪に使用された凶器の所在。先ほども言いましたが、船長の短剣に使用された形跡は一切ありませんでした」
船員長に詰め寄り、手を差し出す。
「キラナ船員長、短剣を検めさせてください! 一滴でもカター船長の血が付着していたなら、ぼくの『カルマ』で心を読めます!」
昨夜その時に、なにが起こったのかを。
普段なら少年のハッタリ、しかし今は「因果伯」の先入観が支配している。
おそらくしっかりと拭いただろう、しかし使用した形跡まで消せるだろうか?
血が残っているかも――そう思わせるだけでいい。
犯行を逃れることはできない、疑惑を押さえ決定的証拠だと自ら認めさせる。
自白――直接証拠が必要なのだ。
船員長がうつむいたまま、ジワリと下がるも狭い見張り台の上。
ぼくはコーティの隣へ、すり足で移動していた。若い船員は気がつかず、憧れの先輩を口を閉ざし見つめている。
――16世紀の後半まで、衣服には「ポケット」を備える習慣がなかった。
後に懐中時計を持ち歩くのに適し、金品を入れるのに必要不可欠となっていく。
「佩刀はしていないし、剣帯はおろか巾着すら持っていない。キラナ船員長には、ぼくが丸腰に見えているだろう」
事実装備のほとんどを、船倉のバックパックと共に置いてある。
この場で唯一武器を、短剣を持つのは船員長……追い詰められた被疑者。有利な立場だと、選択を突きつけているのは果たしてどちらか。
短剣の柄を握ったまま、その目がなんらかの決心をしぼくに向けられた。
「――くっ!」
短剣を鞘から抜き、有無を言わせず海に向かって投擲。
どんなに不自然だろうと、凶器がなくなれば追及を逃れられる可能性はある。
「そっちを、選択してくれましたか」
安堵のため息は、誰に向けられていたのか。
ポケットで握り込んでいた、催涙スプレーが汗でぬめっていた。
鞭がしなり、空気が弾ける。
虚空へと投げ捨てた短剣に、黒のレザーに酷似したフック付きの紐が絡みつく。
「え、ええ……っ!?」
キラナ船員長がコーティが、驚きと困惑の目で状況を見守った。
釣り上がった銀の魚が、たわんだ紐と共に彼女の手元に収まるまで。
「ありがとう、ジャーラフ!」
ぼくの礼に合わせ、マストの影から4人目が現れた。
「ダブルリフト」――カードを1枚だけ開いたように見せかけ、実際は2枚開いているトリック。
コーティには見張り台にいるよう頼み、気配を絶ったジャーラフに隠れて貰う。
船員長がどういった行動に出ても、これでコーティの身は安全。
突如出現した亜人が短剣を検める。手が届く距離に関わらず、船員長は手出しも抵抗もしなかった。
『カルマ』が見えずとも、ジャーラフの発する剣呑な覇気が感じられるのだろう。
無防備な姿に見え、気配の読める彼女に隙はない。夜目の利くジャーラフの瞳が鞘の根元に固まった血痕を発見し、ぼくに頷く。
無言で頷き返す、決定的な証拠。
「キラナ、船員長……?」
コーティの、悲しみに満ちた問いかけ。一連の行動は事情を知らぬ者が見ても、自白に等しい。
船員長がうな垂れ、膝を折る。
風が吹きマストが揺れた。誰の心情を表しているのか、シュラウドが呻り軋みが悲鳴を上げる。
「――っ!」
その時キラナ船員長が座った姿勢で天をあおぐ。狭い見張り台の上、物凄い形相でぼくに迫った。
気配を察したジャーラフが即座に対応する。
ぼくは避けるのは無理と判断し、右手に握った催涙スプレーを取り出し彼に――突如底板が弾け、世界が横転した。
「……え?」
突き上げられた衝撃に、こらえることもできず足が空を蹴る。
大きな波を受け、世界がズレたのだ。
船倉にいても体をぶつけるほどの揺れ。見張り台では信じられないほど増幅し、慣れていないぼくには致命的だった。
しかも手には催涙スプレーを握っており、手放すべきか反応が遅れる。
「しまった……ここは、見張り台の上――」
他人事みたいに呟く。
下半身が見張り台の縁にぶつかり、腰が乗り上げ重力が消失した。ひと呼吸する間の出来事に、血の気を失い思考が停止する。
月が全身を照らし平衡感覚が狂う。
「――っアユム!!」
ジャーラフがマストにつかまりながら、フック付きの紐を弾き伸ばす。
「危ない――っ!!」
コーティが見張り台の縁をつかみ手を伸ばす。
差し伸べられた2つの手が――無情にも、すれ違った。
咢を開く漆黒の穴、背に迫る死の予感。右手からすべり落ちた催涙スプレーが、奈落に吸い込まれていく。
――瞬間、右手をつかまれた感触で我に返る。
先ほどの揺れを見越し、船員長が一瞬早く駆け寄っていたのだ。
その顔は己に対しての驚きと疑問、そして船員を守ろうとする船員長の義務感に彩られていた。
だがぼくの体は縁から完全に乗り出し、手の平は汗で滑りとても支えきれない。
「ジャ――ッ!!」
カレシーが右袖から躍り出て、船員長の腕に巻きついた。
ほんの数秒体が固定する――左手でベストを引き千切り、胸を開けるまでの。
起死回生の数秒。
『飛翔』――っ!!
背中とシャツの間が淡く発光する。長めに入れたサイドタック風の切込みから、空気を返還した暴風が吹き出す。
インバネスコートがはためき、ぼくは完全に空中へと投げ出された。
落下による空気抵抗を最大限に活かし、揚力を得て甲板を避け暗闇の水面に――落ちる寸前、体を無理矢理水平に傾ける。
足が波を受け、月光に照らされた飛沫が銀のレールを築く。
カレシーを抱きしめ、流れる水から逃げて上空へ舞い上がった。
「あっ……りがとう、シーちゃん……っ!」
「シ――~!」
首に巻きついたカレシーが頬を寄せる。
空で幾度か咳き込んで、やっと意識が落ちつく。深く深呼吸して気を静めると、不思議に周囲が鮮明に見渡せた。
眼下に小さな帆船が葉っぱみたいに浮かんでいる。
他に対象となる物がないので距離感がつかみがたいのか、恐怖は沸いてこない。
夜空を舞う、それが当たり前に感じられた――。
「よし、よし……落ちつけ、そうだ練習通りだ」
背の暴風はそのまま左右の袖からも噴出し、手の平の角度で微調整を行う。
泳げないぼくにとっては海の上こそ危険。ポカリと浮かぶ月を背に、ゆっくりと帆船に向け降りて行く。
マストの最上部、3人の表情が見える距離。
ジャーラフがこれ以上ないほど不機嫌な顔で、ぼくを睨みつけている……。
キラナ船員長が呆然と手を組み、祈りにも似た姿勢を取っていた。
コーティがぼくを見上げ、身動きもせずポツリと呟く。
「守護聖人……様」




