三十二夜 畏怖
新王都の王宮――夕刻。
広い中庭に少ない松明が爆ぜ、一種異様な空気が漂っている。
剣と盾、槍を構えたプレートメイル姿の騎士が九名。分隊規模とされる人数が、あらんかぎりの気合と雄たけびをあげていた。
荒い呼吸と滝の汗、手足の震えをごまかしているのだ。
なかには甲冑下のギャンベゾンを重ね着し、異様に着ぶくれした姿もある。
素手で猛獣と戦えと言われたら、このような精神になるのかもしれない。
さらにクロスした杭に鉢型兜と、胸部甲冑を飾ったかかしが三本立っており、異様さに拍車をかけていた。
周囲には魔獣との戦闘経験がある騎士数十名だけ、観戦を許されている。
血走り凝視する目と、固唾を呑む音だけが支配する世界。
目の前の、十四歳の少女に怯えているのだ。
「殿下、ご要望くださいました正騎士です。選抜の基準は戦で幾度か死地を越え、名が通っている者ばかりでございます」
頭二つ以上は低い少女に、巨漢の近衛隊長が丁寧な敬礼をする。
しかし発された説明は誰もが目を見開き、「誰がそこまでしろと言ったっ!」と突っこまれて当然の暴挙だった。
対して少女は無言で頷き、正騎士に視線を向けさえしなかったが……。
国で唯一殿下と呼ばれる少女は、短剣さえ帯びてはいない。白に近い上着を腰で縛り、膝丈の半ズボンを履いている。
一見すれば平民の少年にすら見えた。
だが炎の瞳に見据えられ、たじろがないのは彼の少年だけだろう。
王族であり遠目に見る存在、それが当然だったと認識する。立っているだけで、常人ではない輝きを放っているのだから。
「――はじめっ!」
巨漢の近衛隊長こと、ステューパ卿が戦闘開始の号令をかけた。少女は初手から武器を構えた騎士九名に半包囲されている。
「不意をつく賊との邂逅」――を想定しての訓練。
「私がおそばにいるかぎり! そのような事態は万が一も起こしません!!」
もし具申を許されたなら、身のすくむ気鋭が発せられたのは想像に難くない。
「っふ――…ふぅ――~…」
鉢型兜のバイザーを下ろし、自身の呼吸音が耳に響く。数歩で攻撃範囲なのに、固唾を呑み身動きできないでいる。
すでに少女の体から、淡い光が揺れていたのだ。
S属性がしめす肉体強化の光。意識せずに「力」を発するための訓練でもあり、騎士にとっては災厄だった。
王族にそして、この少女に敵対するのだ。
二重の意味でためらう姿を、批判できる者はこの場にいない。
「失礼のないよう、殺すつもりでいきます……っ」
槍を構え汗を流して、ステューパ卿に匹敵する巨漢の騎士が言葉を落とす。
槍の穂先は刃引きされていない。実戦と同様に鋭く研ぎすまされ、松明を反射しぬらりと光る。
覚悟を発せねば一歩も動けなかったのだ。
『殿下は剣どころか、護身用の短剣すら持たれてはいない。槍を構え距離の優位を誇示しておきながら動けずでは、騎士を名乗れん……っ!』
『そうだ、殿下とて神ではない! ならば破門されることは……本当にそうか? 神である王に剣を向けては、異端とされても――待て待て落ちつけ!!』
自問自答しながらも、刃圏の間合いがジリジリとつまっていく。
選抜された騎士は蒼白となっていたが、バイザーのおかげで見せずにすんだ。
『突け! つけっ! ツケ――――~…っっ!!』
「手加減を感じたなら、灰とする」
冷笑を浮かべなされた死の宣告。
「はぃあ――――っ!!」
槍の間合いに入ると同時に放たれた渾身の突き――が穂先を補強する口金を少女につかまれ、完全に止められた。
突きこんだ騎士のほうが若干浮き、両手を滑らせたたらを踏む。
どれほどの握力があればできる芸当だったか。槍を構えた騎士二人が横合いから突くと、回し蹴りで弾かれ折れて吹き飛んだ。
少女は口金を無造作に握り潰し、穂先を巨漢に投擲する。
「っう!?」
短剣となった穂先が足先に立ち、当たらなかったのを安堵すべきか怒るべきか。
そんな逡巡さえも許されない。
少女が炎の残滓を残す速度で内懐に飛びこむ。剣に持ち替える暇さえあたえず、防御するガントレットに手刀を食らわせた。
「ぐっおおお――~っ!!」
「一」
冷静すぎる呟きが聞こえた者はいただろうか。手首を押さえて悶える巨漢から、口金が折れた槍を奪い取る。
騎士たちはうめき声をあげる仲間に意識が向き、少女を見失う。
一瞬で半包囲の背後に回りこまれたのだと、観戦者だけが理解できた。
「きっ消え……っ」
「うかつに飛びこんではならん! 隊伍を組んで周囲を警戒!」
「捜せ! なんとしても包囲をとくな――っ!」
顔面をおおうバイザーは、驚くほど視野が狭い。あるいはかぶっていないほうが対処できるのではと、何人かが理解しつつも実行はできない。
この少女の前で防具を解くなど、自殺行為でしかない。
影でもいいから姿をとらえようと、息荒く周囲に目を凝らす。しかし肉体強化により間近を疾走する少女を、目で追うのは至難の業である。
「どっ……どこに……っ」
『邪土』!
背後に声を聞いた、プレートメイルの騎士は絶望した。
少女は淡く発光する文様にすくった土を撒くと、容赦なく背を蹴りこんだ。
「ぎゃっ!!」
「ぐおっ!?」
「二、三……」
文様を通過した右足には脛までおおう鉄靴――ソールレットが装着されていた。
弾かれもんどり打って意識ごと吹っ飛んだ騎士は、手を広げながら仲間三人をも巻きこみ仲良く倒れ伏す。
甲冑の背は貫通こそ逃れたが、靴の形にへこみができている。
巻きこまれた騎士も容易に起き上がれない。プレートメイルは約四〇キロの重量があり、仲間の体も障害となるのだ。
少女も無防備な姿を見逃しはしなかった。
背を蹴った後、返す刀で隣の騎士の腹を蹴って行動不能にさせる。反射を使って吹っ飛ぶ騎士と同じ速度で走り寄ったのだ。
倒れた三名の騎士は、瞬時に現れた少女を見上げる。
「六――」
ひと息で三つの頭部を蹴り打たれ、騎士はバイザーをかぶっていてよかった……と祈る間もなく失神を強要された。
「はああ――っっ!」
「うおおお――っ!!」
仲間が倒れようとも、姿を現した少女に残りの三名が盾ごと群がり押し包む。
踏まれた騎士が知れば、ぞんざいな扱いに文句の一つも叫ぶに違いない。
仲間の批判も顧みずおこなった突進だったが、口金が折れた槍を支点に棒高跳びされ上空に逃れられてしまう。
騎士が振り返り、追いつめようと姿を探す――が遅かった。
少女は二〇メートルも先にいたのだ。
着地の衝撃でソールレットが砕け、銀の波間に立つ女神に見えた。
騎士には死の女神だったが……距離が空いてしまったのだ、そうさせないための半包囲だったのに。
悲鳴はなんとかこらえても、すでに腰が砕けていた。
けっして空けてはならない距離、炎の鞭の距離――。
『炎生』!
少女の前方に見慣れない文様が浮かび、虹色にいっそう激しく発光する。触れた槍の柄が影に包まれ、槍の柄の形を保ったまま崩れて消えた。
残された石突きから、紅蓮の炎が鎌首をもたげ舞う。
「炎の蛇……」
騎士は我を忘れ、弧を描く炎の美しさに魅入る。
太陽のごとく発光する少女から赤き蛇が突出し、瀑布すら興じていたのだ。
『紅炎』!!
一転大気を切り裂き、雷鳴が轟く。
「中身」の入った騎士三名の間を、炎の蛇が縫った。甲冑をまとうかかし三本を、熱したナイフでバターを切るがごとくガラクタへと変貌させる。
鉄の破片が落ちる乾いた音が中庭に響き、杭は落雷を受けて燻った。
「九――!」
炎の蛇は三〇メートルにも達し、威力も謁見の間とは雲泥の差である。アユムに対しては、あれでも手加減をしていたのだ。
半分になった鉢型兜が残った騎士を、恨めしそうに見つめた。
「今私は、こうなったのだ――…」
不可思議な「カルマ」の存在は、魔獣討伐のさいに幾度か目撃している。
しかしこの少女の、異様なまでの「力」はいったい何なんだ。
戦意を喪失し、呆然と立ちすくむ騎士を責められる者はいない。むしろ膝を折らなかっただけ、称賛に値するではないか。
自尊心か、恐怖によるかはわからないが。
刹那、十人目が石柱の影から疾走した。
黒いローブがはためく音もなく、短剣を構えて少女の背に突進――。
「ぐぅ……っ」
鈍い音がし、ローブの男がよろめいて片膝をつく。
距離が半分も埋まっていない。少女が振り向きもせずに石突きを投擲し、胸部に深々と突き刺さっていたのだ。
あるいは男には冥府が見えていた。
柄は返還されほぼ石突きしか残っておらず、革鎧に凹みが入っただけですんだと――理解するまでは。
「……十」
少女がひと息つき、ステューパ卿に視線を送る。
「それまでっ!!」
それが合図だったのか終了が告げられ、同時に騎士が膝を折って喘ぐ。
この数分間でいったい何度、耳元で死神がささやいたのか。従者が呼ばれ急いで甲冑を脱がせ、乾ききった喉にワインをふくませ治療をする。
拍手は……起こらなかった。
観戦していた騎士は喘ぐ選抜者を自分と重ね。名のある方ですらこうなのだと、無名の身を神に感謝していたのだから。
畏怖が少女の姿をまとっていた――。
周囲の騒然さを気にもせず、ヴィーラ殿下は自室への渡り廊下へ向かう。
防御と移動と攻撃を淡々と確かめ、気の緩みもチェックする。召喚の儀の後遺症は認められなかった。
まずまずだった結果に髪をまとめていた紐を取ると、黄金色のオーブが弾ける。
首筋にうっすらと汗が浮かんでいた。
「……指揮官がいないと烏合だな」
走り寄ってきたステューパ卿に、視線も向けず呟く。
「はっ! 申し訳も、ございません!」
「次回は小隊五十名前後、四個分隊と指揮官を置き訓練をおこなう」
「はっ!」
騎士たちが聞きたくもない未来が決定していた。
「近衛兵の増員はまだ遠いか……だがせめて百名――」
中隊規模が動かせればと、少女は独り言ちる。
思考とは別に立ち止まって振り向き、いたずらっ娘がほほえんだ。
「十人目を隠しておいたのは褒めてやる。だが騎士たちの意識が幾度か石柱に向けられていた、あれでは所在を明かしているのと同じだ」
バイザーの隙間から判断されたのか、動きで悟られたのか――。
巨漢が目を見開き、自分が仕えるべき少女の計り知れなさに感嘆した。
「最少人数であろうと部隊行動が果たせなければ兵は務まらん。練度の問題だな、個別の武勇はこのさい因果伯に譲ってやれ」
叱責に硬直し石像と化した巨漢に声をかけると、少女は再び歩きだす。
「鉄が冷めぬうちに打っておけ」
「はっはは――! 御意にござります!」
色を失いつつも、右手を胸に敬礼する。
殿下につき従う侍女が頭を下げる巨漢を見て、卒倒するのを辛うじてこらえた。
「――未熟っっ!!」
ステューパ卿はヴィーラ殿下が扉の奥に消えても、微動だにしなかった。
きっかり一分後にやっと頭を上げる。敬意と、感銘と、鉄の鍛え方と――何より不甲斐ない自分を心底叱責していた。
「カルマ」を啓いていない者にも怒気が感じられ、心音が跳ね上がる。
「なんと情けないっ下々の由無しごとに、殿下の御心をわずらわせてどうする! 図体ばかりで脳無しの役立たずめ、ああ殿下っ愚鈍な私をどうかお許しください。一刻も早く相応しい近衛兵にたたきあげまする――~っ!!」
松明のスポットライトに滂沱の涙を光らせ、決意を歌いあげる巨漢の近衛隊長。
「全員整列――――っっ!!」
不吉な予感に顔を見合わせていた騎士に、『魔王の子守り唄』の怒号が響く。
集った騎士たちの災厄は、これより幕開けするのだ。
☆
「すばらしいっ! 思わず見惚れてしまいましたよ殿下!」
侍女を従え、薄く影の射す廊下をヴィーラ殿下が歩く。
少し先には年の頃なら二十代中盤、少し目尻の下がった美丈夫の男性が、大きく拍手をして立っていた。
立場ある者に廊下で、しかも先に声をかけるなどそれだけで処罰の対象である。
「屈強な騎士十名を物ともしない苛烈さ! 太陽が顕現したかのごとき神秘さ! まさしくヴィーラ殿下は、王国の至宝でございますなあ――~!!」
「キールティ公……護衛もつけずお独りで出歩くなど、不用心でございましょう。まだ寒さも移ろっており、陽が陰ることもございますよ」
「私は身も心も殿下に捧げております、春の訪れを露ほども疑っておりません」
私には手出しできない……それを十分に理解した上での無礼だった。
プールヴァ帝国――皇位継承第二位。
全名をノドゥス・セクンドゥス・ネク・キールティ。過日ヴィーラ殿下の婿にと名乗りを上げた、キールティ公爵その人である。
彼の意志表明により、相次いだ打診は鳴りをひそめた。
――意外な国からの、たった一人を除いて。
「しかし恥ずかしい姿を見られてしまいました、どうかお忘れください。家令にも因果伯みたいだと怒られているのです」
「なんの美と知と勇を兼ね備えた殿下を、凡百な者が図れるはずはございません」
滑るように「右」横にならび歩を進める姿に、侍女は数歩下がる。
「あの者らも稽古をつけてもらえるとは、まこと幸せの極み! 殿下の愛の鞭に、感涙すること疑いありません!」
「よければキールティ公にも、つけましょうか?」
肉体強化の光が手袋みたいに白く残る、「左」手を振ってほほえむ。
手出しはできないがやり方はあるとの示威。
「それは嬉しい『カルマ』は啓けませんが、ぜひ手を取って教えていただきたい」
腹を探り、真意を拾い、言質を選びあう。諸侯たちの揶揄合戦がお遊びなほど、深く暗い火花が弾けていた。
不気味な笑顔の下に、どれだけの真実がふくまれているのか。
「実はお待ちしていたのは、一つお願いがございまして……」
「相談してもよろしいのですか?」
殿下でなければならないのです――幾分、真面目な表情で見つめる。
「いかがでしょう、そろそろ愛称でお呼びする許しを願えないでしょうか?」
そっと差し出された手には、シルクに包まれたピアスが一つ。キールティ公爵の左耳に揺れる、金色がかった緑……ペリドットのピアスが輝いていた。
古代エジプトでは「太陽の宝石」と呼ばれた国石。
この時代の貴族や裕福な商人は、魔除けとしてピアスを愛用する。男性は意中の女性に右のピアスを外して送り、受けた女性は右耳につけた。
二人はカップルだと、周囲へアピールする意図があったのだ。
さらに剣を持ち右側で女性を「守る者」と、「守られる者」の表明でもある。
王配として歩を進めてもよいか……場合においては不敬な問いを、許してしまうほどには魅力的な笑みだった。
「それは困りましたね」
意外な即答を受け、キールティ公爵のほうが身動ぎしてしまう。
だがかけ引きの笑みは絶やさない。
「マナスルは今なお復興中、悲劇の遭遇戦の爪痕は残っているのです。そのような時期に浮かれた話をしてよいのかどうか……」
「おお――~殿下を困らせるとは! 魔獣への憎しみが増すばかりです!」
額に手を当てて大きくかぶりを振る。表情は見えなくとも、演劇なら遠い観客にも嘆きが伝わっていた。
受けてもらえず握られた手のひらに、ピアスの冷たさが鈍く浮かぶ。
「キールティ公が復興援助の申し出に駆けつけなければ、開戦を叫ぶ諸侯を止める術はなかったでしょう。感謝いたします」
「此度の事故で両国の平和が揺らいではなりません。お優しい殿下のためならば、この身などいつでも捧げる所存ゆえ」
では持ちつ持たれつでしたね――双方の合意を認め、ふくみ笑いが廊下に響く。
どちらにとってより有利な政策だったかは、のちの世に委ねられるだろうが。
「己の未熟さを痛感しているのです……アラヤシキの少年にも戦功叙勲式を開き、手厚く遇するよう通達したのですが――」
「件のバジリスクを一刀のもとに倒されたとか、恐れ多い存在ですな。まさしく神の所業と呼んで差支えありません」
「――ですがあの程度の魔獣、物の数ではないと断られました。目を見張るまでの『力』はさすがとしか申せません」
頬に手を当て目を伏せ、自分では足元にもおよばないとため息をついた。
質疑に幾分か事実をふくませるのは、かけ引きにおいての常套手段。
「さっさようなことが……残念ですな、ぜひともご尊顔を拝したかったのですが」
「それがほかにも美容にとてもいい、そうキールティ公は入浴をされましたか?」
「ニューヨーク……ですか?」
準備するよう、少女が侍女に目配せをする。
これは本当に初聞きだったのか、キールティ公爵から素の質問が出た。
「ええ、これもマナスルの英雄――『アラヤシキの少年』が製作した、すばらしい未来なのですよ。ぜひ感想をお聞きしたいですね」
「殿下のお勧めとあらば、たとえ地獄とて喜んで――」
恭しくあるいはわざとらしく、大袈裟に礼をとって見せる。
隠したかったのは表情か心か。
夕食をごいっしょしましょうと約束し、侍女には休息すると伝えて下がらせた。
「――っ」
少女は独り部屋に入るとグラリ倒れ、扉に体をあずける。
抑えこんでいた疲労が吹き上がり、蓄積された倦怠感に息までつまった。脂汗が浮かんで視界が揺れ、顔に血の気を失う。
震える膝を殴って押さえ、神の前でも屈しないと炎の瞳に訴える。
「抗ってやると、決めたのだ……っ!」
それは誰に対しての冷笑か――…。
「…――プラーナ様」
ほんの数秒意識が混濁し、現れた痩身のフードに気がつかなかった。
少女は己を恥じ、天を見上げて息を吐く。
「……毒気に当てられたな。魔境は宮廷にあると、スーリヤに教えねば」
無理をして笑う、悟らせてはいけないのだと。
「お戯れを……」
痩身のフードも必死に言葉を呑んでいる。
殿下が「排除」を望むのなら、相手が誰であろうと果たす覚悟があった。なのに問うことすら困らせると理解していたのだ。
体調不良を近衛隊長にすら気づかせず、自分だけで背負わねばならない地位。
どうして自分が口を挟めよう、振り上げられない拳を床に押し当てる。主従関係でありながら、断ち切れない絆が互いの心を震わせた。
「塩……そのためサーガラへ、か」
「はっ! 理由はあるようなのですが、見当もつかない説明だったと」
ハスター伯爵も同様の報告をしていた、やはり「塩」だと。
新王都の塩は近隣である西の港湾都市、ウダカから得ていた。少量ならサーガラからナディ川を使い、マナスルを経由して届けられている。
「新王都への誘いを断り……か」
「プラーナ様がおつけになられた口輪を、外そうとしてるのではないでしょうか。あるいは逃走を目論んでの偽装やもしれません」
なぜウダカではなく、サーガラなのか。
浮かんだ疑問に少女は震えた。アユムの行動は些事に関わらず報告させており、それにも増して見えてこない底の深さ。
得体のしれぬ生物、さながら魔獣と相対した気配――。
「見よジャーレー……っ奴のほうがよほど不気味ではないかっ!」
双方の瞳に太陽が発現し、覇気が戻っているのを実感する。
それは歓喜だった、面白かったのだ。
「心配せずともいい、奴は我が懐よりけっして逃げはしない!」
それは確信に近い予感――。
「ジャーラフに伝えよ! 好きにさせよと!!」
「御意っ!」
ウェーブのかかった肩までの銀髪が揺れ、猫の耳が立つ。
少年を思わせる顔に傷が走り、右目を潰していた。精悍な肢体は女性の特徴以外のいっさいを無駄として省き、なかばから断たれた尻尾が存在を表して揺れる。
黄色い瞳が縦に一筋、ナイフの光を放っていた。
ワーキャット。
彼女は敬愛する殿下により、月の名を冠して「ジャーレー」と呼ばれている。
月の名を冠する姉妹に距離の概念はなく。少女の……太陽の光でのみ、その姿を輝かせることができた。
「では、いってきま――す!」
ぼくは準備に数日をかけ、晴れた日を選んで出発した。
御者を頼んだ行商人が一人、ホーマ親方の弟子であり鍛冶職人が二人。どこかにいるらしいジャーラフさん。
計五名と、従者のカレシーはお腹に巻きつき寝ている。
量産型薪ボイラーを二基と連結用パイプに補助部品を積んで、馬車が走りだす。
スーリヤ様、アカーシャ、ウールド、ラヴィ、トリコナー、バクティ卿がともに見送ってくれた。
来てからまだ数ヵ月なのに、マナスルが故郷になっていて嬉しい。
スーリヤ様が領主とは思えないほど、大きく早く手を振っている。アカーシャが半泣きで、それでも両手を振っていた。
笑って手を振り返して答える、少し照れてしまいさらに笑う。
一路、港湾都市サーガラへ――。




