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M属性 ~嗚呼、あなたに踏まれたい~  作者: 高谷正弘
第一章 城郭都市マナスル
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二十五夜 国と政略

 新王都の王宮をステューパ卿が歩く。

 平時でありながらも、プレートメイルと膝下までのサーコート。ステューパ卿はヴィーラ殿下のおられる場では、常にステューパ卿なのだ。

 石畳にメトロノームを思わせる、規則正しい靴音が響いた。


 武骨な重い扉を開き、礼節をわきまえ入室する。

 石壁に囲まれ明かり取りの窓しかない二十畳の部屋。飾り気のなさの穴埋めか、紋章の入った盾が複数掲げられていた。

 二脚づつならんだ簡素な机と長椅子を、燭台に灯った小さな火が浮かばせる。

 兵士が休憩するための簡易的な空間であり、特筆すべき場所ではない。

 指定されて向かった先には二名の――こちらは特筆すべき人物が、チェスに興じながら待っていた。

 この時代、すでにチェスの原型は存在している。

 一人は元ではあるが国王直属の騎士団において、将軍号を博した騎士団総長。

 今一人は現在将軍号を博している騎士団総長。

 ヴィーラ王国の「唯一」がそろって、ステューパ卿を召集したのだ。

 二名とも王宮におもむくに無礼な姿ではなかった。とはいえ立場を考慮すれば、控えめな服装ではある。

「お呼びでしょうか、ハスター将軍閣下!」

 どちら(・・・)に対してか、ステューパ卿はキッチリいち礼をとって直立不動となる。

「……あ――~…うむ、ステューパまずは座れ」

「はっ!」

 意気を吐き着席すると木製の長椅子が軋み、チェスのコマが盛大に崩れた。


「おいサードゥ、ちっとばかし固く育てすぎてやせんか?」

 目尻のシワも深い好々爺、「元騎士団総長」ことハスター伯爵は御年五十七歳。

 ハスター伯爵家も例にもれず属性婚であり、現在唯一のS属性である。

 肉体強化のおかげか引退しても体は一向に衰えていない。場合によっては対面に座る息子のサードゥ卿よりも、若く活力に満ちていた。

「……私は父上に教えられたとおり、育て申した」

 やや憮然と答える、「現騎士団総長」ことサードゥ卿は御年四十歳。

 偉大な父の跡を継ぎ、騎士団を指揮するかたわら政治に所領の安定にと翻弄し、いささかながら堅物な気質をまとっていた。

 息子が乱した盤上をキッチリと元に戻す、ステューパ卿の父である。

「私としても早急に妻をめとり、ハスター伯爵家の跡継ぎを切望しておるのです。ですが一向に話を聞きません、まったく誰に似たのやら頑固で」

「お前だよ」

 ハスター伯爵は結局は自分に返ってくる気がして、言葉を呑んだ。

「ステューパよどうかね、浮いた話とかないのかね?」

「ございません」

 孫は不動を崩さず、まっすぐ前を見てひと言だけ発した。孫と戯れるお爺ちゃんを演じたのに、コミュニケーション失敗である。

 彼らは別段スキンシップのため、王宮の一室に集ったわけではない。

 マナスルに魔獣を引き入れた「男」の事情聴取が済み、経緯の説明と情報のすり合わせをする必要があった。

「ではステューパも混ぜよう」

 サードゥ卿が父のハスター伯爵に相談すると、思いがけない返答が返る。

 ステューパ卿を指揮官に、いずれは騎士団総長にと鍛える思惑があったのだ。

 当初は所領でおこなう予定だった。しかしステューパ卿がヴィーラ殿下のそばを離れなかったため、新たに機会を設けたのだ。

 なんだかんだ言って子や孫には甘いのである。

「仔細は伺っておりませんが、政治的判断を必要とする場に一介の近衛兵が――」

「ええい! いいから聞いとけっ!」

「はっ!」

 このほうが早かったと愚痴るも、少々寂しいハスター伯爵だった。



 ――プールヴァ帝国には「綺人(きじん)」を利用し、獣を操る戦獣部隊がある。

「男」は指揮官であり、三十名からなる小隊を従えていた。

 実戦を想定した操作訓練と同時に、獣の補充も兼ねての演習中。不運にも突如、魔獣の襲撃を受ける。

 戦獣を使い追い払っても、魔獣は執拗に追いすがった。

 大切な部下を犠牲にはできない、「男」が少数を連れ囮となる。いつナディ川を越えたかも覚えていない。

 ただ魔獣を国に向かわせてはいけないと、西に向かってしまった。

 食料がつき命もつきたと祈ったそのとき。神の慈悲か堅牢な城郭都市を発見し、一縷の望みをかけ死に物狂いで飛びこんだ。

「男」はマナスルの惨状を知り、盲目の目に涙を流して謝罪する。

「帰国して喪に服し、必ずや両国の平和のためつくします――」



「取ってつけたような嘘じゃな」

「はい、嘘です」

 元騎士団総長の指摘に、現騎士団総長が苦もなく答える。

 わからないのはステューパ卿だけらしい、居心地が悪かったのか目が泳ぐ。

「指揮官の『男』は簡素な鎧すら身につけておらん、ボロいが行商人姿じゃった。今の説明のどこで、ローブやらを調達したのかね」

 魔獣相手に肩書を偽造する必要もないしのうと、ハスター伯爵が孫を諭す。

「…――はっ!」

「亡くなった二名の隊員も、プールヴァ帝国を明示する紋章は所持していません。意図的に隠ぺいされております。さらに少数を連れ囮となったと申していますが、ナディ川の上流――モルディブまで多数が移動した痕跡が見つかりました」

 洞窟に数日立てこった跡もと続け、チェスのコマを一手進める。

「ふむっ虚実おりまぜておるのう、ステューパよどうみる?」

「はっ! 以前より戦獣部隊の噂は耳にしております。ですが魔獣に襲撃を受けた(・・・・・・)にしては、退陣戦の手際が良すぎます。おそらくは秘密裏にモルディブへ潜入し、魔獣を引き連れてマナスルに……っ!?」

 ステューパ卿は自身の推測と可能性に驚いた。

「まさか祖父上! プールヴァ帝国は意図して、マナスルに魔獣を誘導したのではありませんか!?」

 我が孫は根は素直なんじゃろうなあと、ハスター伯爵は頷く。

「なんと卑劣な! 魔獣を操り、『魔獣部隊』を組織するつもりかっ!」

「まあ落ちつけ、もし操って(・・・)誘導したのなら、被害はこの程度で収束したかね?」

「……外側城壁を破壊され、都市部にも甚大な被害を受けたと聞きましたが」

 ステューパ卿は祖父上の問いに驚き、問で返してしまう。

「うむ、その程度(・・・・)じゃな」

「え……?」

 ハスター伯爵はもてあそんでいたコマを一手進め、サードゥ卿に視線を送る。

「魔獣を操り城内に入られたのなら、全軍をことごとく……市民をふくめ皆殺しにされていても、不思議ではありませんな」

「――っ!?」

 ステューパ卿が戦慄し、椅子が奇声を発し揺れた。

「年代記によれば蛇の王(バジリスク)は、国家存亡危機の魔獣です」

成体(・・)ともなればそうじゃろうなあ……将軍ともてはやされた者としては、真実(まこと)に情けないが正鵠じゃ」

 セリフとは裏腹に、こともなげに肯定して銀の髭を整える。

「城壁や建物を破壊されただけ(・・)で討ち取った、むしろ奇跡じゃろう」

「奇跡……か、確かにそうとしか思えませんね。アラヤシキの少年が討伐したと、噂されているようです」

「それは言い得て妙じゃのう」

 サードゥ卿の肯定と噂話に、ハスター伯爵が幾分愉快そうに頷く。

 それゆえに、危ういのじゃがのう――そして銀の髭を整える手が止まり、呟いた危惧は口内で消えていた。

「それほどの、魔獣だったのですか……っ」

 行商人や過客からの情報は、噂が伝わるにつれ誇張され尾ひれがつく。

 話半分とみる癖が先入観となり、ステューパ卿の認識を阻害させていた。

「計画した上での軍隊行動ならずさんすぎますな。蛇の王レベルの魔獣をけしかけておいて、まさしくけしかけただけで終わっているのですから」

 ある意味「男」は嘘を言ってはいないのだ、サードゥ卿が盤面を睨む。

「魔獣が追いかけてきたから逃げた、城郭都市があったから逃げこんだ……」

「ならば小隊を従えておきながら、無計画に行動したのですか!?」

 ステューパ卿は愕然とした表情で父に問いただし、それには祖父が答える。

「呆れたことにの、なぜなら侵略にも侵攻にもなっておらん。無意味な破壊(・・・・・)をしただけじゃな、むしろ因果伯(きちょうなコマ)を失うておる」

 無意味どころか損害じゃなと、敵陣のクイーンをナイトで弾く。

 ステューパ卿は納得しがたかった。

「マナスルが被害を受けたにも関わらず、行き当たりばったり(・・・・・・・・・)だったと!?」



「プールヴァ帝国」は此度(こたび)の悲劇は予期せぬ遭遇戦であり、侵略ではないと言及。

 むしろ我が国と「ヴィーラ王国」とを仲違いさせる陰謀ではないかと、西の大国「パシュチマ連合王国」を牽制しだす。

 明らかな挑発だが放置もできず、「パシュチマ連合王国」は事実無根と叫ぶ。

 被害を受けた国を挟み、舌戦や意趣返しが起こってしまう。

「ヴィーラ王国」としてははぐらかされた形となる。しかし「プールヴァ帝国」は隣国への復興援助(・・・・)の名目で、マナスルへ資金の譲渡を発表した。

「まだ問題(もんく)があるのなら、正面から雌雄を決する」

 武力を背景にこの件の追及を止めさせる――飴と鞭の最終通告。

「男」の虚偽は疑いようがない。さらに「プールヴァ帝国」が領土の拡大を謳い、「ヴィーラ王国」を虎視眈々と狙っているのは自明の理。

 しかし風潮の変化も、確かに訪れていた。

 ヴィーラ殿下が「両国どちらかより王配を迎える」――と発表したからだ。

 無理をせずとも十数年で、版図を広げられるやもしれない。「ヴィーラ王国」を無血攻略できるのに、魔獣をけしかけて台無しにするだろうか。

 ゆえに両国間の妥協点は、「悲劇の遭遇戦」辺りとならざるを得なかったのだ。

 どの国にとっての悲劇かは、三者三様だが……。


「まあ呆れておっても仕方がない。政治的判断としては――せいぜい駄々をこね、可能なかぎり復興費を吐き出させるってとこかのう」

「しかし父上、死者が出なかったとはいえ国の体面もありましょう」

「ではどうする、国を挙げ領民が死に絶えるまで戦うか? それもいいが」

「よくはないでしょう……しかし此度(こたび)も文官、外交官の仕事ですかな。武官はお呼びではなさそうです」

 そのほうがよいではないかと好々爺は頷き、一定の結論を得てチェック。

 盤上は完全なるつみ。うなるサードゥ卿をよそに、ハスター伯爵は手元の資料をあさり独り言ちた。

「そういえば『男』が黙秘を貫いたため、確定情報ではないが魔獣は――」

「――魔獣は、なんらかの目的があった……のでは、ないでしょうか……?」

 ステューパ卿が視線を伏せ、うめきながら語る。

 あるいは自分で納得したかっただけなのかもしれない。

「操ってはいなかったとして、襲われたから逃げたのだとして……では逆になぜ、被害はそれほどで済んだのでしょうか?」

「ステューパ、魔獣の理など誰にも……」

 サードゥ卿が指摘しようとするのを、ハスター伯爵が目で制した。

「魔獣は『男』を執拗に追いかけた。ゆえに周辺は深刻な痛手を追わなかった……『男』に追われる理由があったと、みるべきではないですか?」

 魔獣の卵の件は、極秘事項としていっさいが口外無用。

 ちっとばかし固い孫が導き出した推論。元騎士団総長はステューパ卿の成長に、頬が緩む思いだった。

 ステューパ卿は気がついて我に返り、いったん息を吐く。

「祖父上が……父上が私に期待をかけてくださるのは恐縮です。しかし政治的判断なら弟が、軍事的なら姉上の義兄がすでに大隊長になっておられます」

「ステューパ――…!」

「お許しください! 私は――己の立つべき場所を、見つけてしまったのです!」

 偉大な先達二名を前に意をただし、まっすぐな瞳で宣言する。

 認めてほしいのだと。


「それは……あ――~ヴィーラ殿下の、おそばかね?」

 父上それは禁句です――サードゥ卿の心の叫びは遅かった。

「そうです!」

 ご覧くださいと胸元から銀製の箱を出す。刺繍が重なる豪華なハンカチーフを、宝物とばかりに捧げ持つ。

甲冑(そんなところ)に入れてたら痛いだろうに……」

 祖父上の言葉は流された。

 ステューパ卿は当然とばかりに立ち上がり、壁際までいって振り返る。

「――あれは私がまだ叙任式を受ける前の、従騎士であったころの話です。慣れぬ重き甲冑と手に食いこむ槍に、心挫ける日が訪れるのではと不安な日々」

 胸を張り今にも(ひざまず)きそうな勢いで、ハンカチーフを捧げる。

 明かり取りがスポットライトを灯し、ステューパ卿を照らし出していた。

「ご幼少のみぎりであった殿下のご尊顔を拝するだけではなく。嗚呼、うな垂れる私になんと……なんとハンカチーフを託されたのです!」

 この時代ハンカチーフは男性の持ち物である。

 貴族の娘が自分のイニシャルを刺繍したハンカチーフを騎士に送り、婚約の印とした逸話も多い。

 王女殿下にハンカチーフを賜るなど、騎士としてどれほどの誉だったか。

「ステューパ、それはもう何十回も聴い――…」

「嗚呼、しかも! ほんのり濡れているではないですかっ! わざわざ水に濡らし私に与えてくださったのです! いいえこれは涙の暖かさ? 私の境遇に憐れんで降臨された女神であったのです! なんという気高さ、美しさでしょうか! 尊き御心に魂が震えました! この方を守ることが我が使命、我が忠誠と開眼したとき『カルマ』が啓いたのです――~!!」

 ステューパ卿が「ヴィーラ殿下(Mirabilis)恩寵(Gratia)」を、朗々と謳い始めてしまう。

 穏やかな歌声ながら狂った音調は、聴く者の三半規管を狂わせ自律神経を乱し、立っていられなくすると一部で有名である。

 ステューパ卿にはおよそ政治的野心がない。

 近衛隊長が最高の地位と公言しているほどだった。ゆえに上役に媚びへつらい、部下の手柄を横取りはしない。

 近衛隊員や衛兵から人気の理由である。

 匿名希望の狼すら耳を塞ぐ、超音量破壊兵器(ボゲ――――~ッ)さえなければ……。

「嗚呼これを神託と呼ばずしてなんとあろうっ! まさに奇跡っまさしく神器! 殿下のおそばに控える以上の理など、あろうはずがございません――~っ!!」

 両騎士団総長は開幕した戯曲に、しばしつき合う羽目になってしまう。

 異名の二つ名、「魔王の子守り唄」の真価が発揮されていた。


「ヴィーラ殿下も侮れぬお方じゃ……『悪あがき』と称したアラヤシキの少年が、このように絡んでくるとは」

 件が殿下への忠誠心である。

 現騎士団総長が制止できずグッタリするなか、一部で「魔神の矢」と恐れられる元騎士団総長は視点を変えていた。

「とても見かけどおりの少女ではない、その手腕には悠久の年月すら感じる。

 あのお方(・・・・)の生命を、因果を背負った幼子がなんとも恐ろしく成長なさった。

 サードゥには悪いことしたのう。挫けそうな孫にハンカチをお願いしたさいは、ここまで効くとは思わなんだ。

 一度マナスルへ行ってみるか、もう二度とおもむきはしないつもりじゃったが」

 さて鬼が出るか蛇が(・・)出るか――。

 盤上のキングが燭台の光を受け、微かに瞬く。

「その黄金色に眩く輝く王冠は、まさしく軍神にして至宝! 騎士の叙任式に臨む取るに足らぬ不安も、国をおおう暗雲すら俗世の世迷い言。神々も御照覧あれ! ヴィーラ殿下の御威光を――~っ!!」

 年々増える「ヴィーラ殿下(Mirabilis)恩寵(Gratia)」は、すでに第七章まで存在し……まだ第二章が幕開けしたばかりだった。



 ☆



 太陽の光を反射する衛星が全身を自己主張して――数刻。

 魔獣の襲撃に備え、衛兵の意識が外に向いていなければ、内側城壁塔に立つ女性の姿を見たかもしれない。

あんなこと(・・・・・)があったでしょ? 街は混乱してて息がつまりそう、少しでいいから独り夜風に当たりたい……」

 女性は「優しい騎士様」にしなだれ、許可をもらっていた。

 城壁塔は城に近づく不審者を見張るための、迎え撃つための重要な防御設備。

 有事に備え穀物なども貯蔵してあり、出入り口は地上から一〇数メートルの高さに作られている。梯子を引き上げれば籠城もできる小さき砦だった。

 実質本位の最上階は十畳ほどの丸い空間。

 薄暗く色相に乏しく明度はさらに乏しい。石壁に四角く空いた監視用の窓だけ、明るく切り取られている。


『――プールヴァ帝国に関しては以上です』

 そばに誰かいるかのごとく、フードをかぶった女性が独り言を――というには、はっきりと言葉にしていた。

 見れば口元に見慣れない文様が浮かび、淡く発光している。

『件のアユム卿はケガも癒え、現在は精力的に街を〝視て〟周っております』

 風の精霊に語るには優雅に乏しい「報告」をおこない息を吐く。ここにはいない誰かに、右手を左胸にいっさい隙のない礼をとった。

 聞こえた者がいれば情報のみの、やや硬すぎる印象を受けたに違いない。

 女性の口元からすでに光は消えていた。同時にノックには強すぎる力と言葉で、「優しい騎士様」が扉をたたく。

「なあもういいだろ!? さすがに配置場を離れるのは、ヤバイんだ!」

 扉の前で待っていた衛兵がせかして入れ替わる。追い出された形になったのに、女性は意に介さず衛兵の腰に手をまわす。

 次いでうす桃色の唇を、吐息がかかるほど頬に近づけた。

「また独りになりたくなったら、お願いね」

「しょ……しょうがねえなあ、俺が警備してるときだけにしとけよ?」

 女性の甘いささやき声は、「報告」をしていた同一人物とは思えない。

 高ぶった衛兵が胸元に引き寄せ、顔をよく見ようとフードに手を伸す。

「あら愛の営みに、ここの匂いはちょっと……」

 鼻を隠す身ぶりも、上唇を舌先で湿らせるしぐさまで色っぽい。

 城壁塔の内部は空気の流れがとどこおる。人の汗や食料の匂い、生理現象を一手に引き受ける後架穴(トイレ)により刺激臭が漂う。

 衛兵は虚空を見上げ、二の腕を鼻に近づけた。

 絡めた手が緩むと女性は体をかわし、らせん階段を軽やかに降りていく。

「街で有名な公衆浴場(おふろ)に入ってから、続きをしましょうね――~!」

「オイほかには声をかけるなよ、優しいのは俺くらいのもんだぞ――っ!!」

 残念そうな、開きなおった声が追従する。

 衛兵は彼女が裸足だったことに気がついていたのか。

「……まあボクは入浴(アレ)、苦手だけどね」

 軽快な姿が街中の闇に同化すると、フードが弾んでまくれた。

 ウェーブのかかった黒髪と猫耳が(あら)わになり、漆黒のマントがいっさいの無駄を省いた肢体をおおい、フルテイルの尻尾が波打って飛び出す。

 緊張した衛兵が張りついていたため、屋根まで到達できず搦手を用いたのだ。

 色気を振り払い腕を伸ばすと、健康な肌の張りが少年の印象を与える。瞳が月に反射し、縦に一筋ナイフの光を放った。


 新王都への長距離すらものともしない。

 ジャーラフは満月時、最大限の「力」を発揮する。



「大国は存外、女性の扱いが下手だな……焦ると(ほぞ)を噛むぞ」

 小隊が全滅したとは、他国に知られたくもないか――「魔神の矢」に恐ろしいと評された少女は、公文書の束の前で独り言ちていた。

 誰に対してか、皮肉と意地の悪い笑みを浮かべる。

 新王都にある王宮の最奥、強固な整備と警備に守られた王族専用の執務室。

 受けた「報告」を整理するために軽く頭を振る。黄金色の髪が波打ち、惜しげもなくオーブが舞い散った。

「『風舌(ふうぜつ)』は便利だが、思考が直接流れてくるのはいささか不快だな」

 年齢に見合わない主張をし、ふと手元の親書に気がつく。

「その一方で彼の御仁は、またもや漫遊されておられるのか。立場を考えぬと苦言を呈したい反面、自由さが羨ましくもある」

 少女は椅子の背もたれに体をあずけ、親書を胸に抱き瞳を閉じる。

 しばし脳のしびれと、夢のなかで世界を駆ける自由を楽しんだ。

「早くも啓いた(・・・)か、そうでなくてはな」

 そうだお前は、すべてを知らなければならない――。

 微かな呟きは羽虫の羽ばたきより小さく消えていく。口元には打って変わって、優しい笑みが浮かんでいた。


 時が止まったと錯覚する執務室に、静かでいて確かなノックの音がこだまする。

 家令が侍女を連れ、休息用の蜂蜜酒(ミード)を持ち入室してきた。

「――殿下」

 呼ばれたヴィーラ殿下は、感情を殺した抑揚のない声に軽くため息をつく。

 一部の隙もなく固められた、少女と違い年月を重ねたがゆえの銀の髪。幾層にも重なる深いシワだけで、歴史の証人であるのを示唆していた。

「殿下、就寝の時刻が過ぎております。十分な睡眠と休養をとり、体調を崩さないのも王族の義務です」

 頑固を煮詰めて姿形をあたえたのでは――などと邪推したくなる厳格な家令は、想像通りのお小言を言い終える。

 苦言と行動にある矛盾は、深く追及してはならない。

「思えばこの顔しか記憶にない」

 少女を殿下と呼び、一度として態度を崩さないのだ。

 侍女を下がらせ見事な手つきで蜂蜜酒(ミード)を淹れる。仕事で埋まっていた執務室に、甘い香りが返還された。

 子供のころから何度もくり返してきた空間。

 ……彼にも子供のころがあったのだろうか? 想像もできないが友とはしゃぎ、走り回ったセピア色の記憶が?

其方(そなた)は奥方とダンスに興じるさいも、能面をかぶるのか?」

 ふいに気になって、あるいは話題を変えるため少女は軽口をたたいてみた。


 それがまた、次のお小言を引き出す予感はしていたのだけど――。

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