「3日目」
紅く染まった空の下で、真っ赤に染まった彼女を見た。
彼女は笑みを浮かべていて、その手元には凶器と呼べるチェーンソーがあった。そしてその足元には……。
「っ……はぁ、はぁ!」
思い出しただけでも吐き気が込み上げ、走りながらにもかかわらず胃液が逆流する。ギリギリの所で吐かずに口元を押さえ、喉元まで出掛かったモノを吐き出さずに済んだ。
――苦いっ。
そう思いながら、僕は必死に走った。体力が消耗仕切っていたと思ったが、火事場の馬鹿力という奴だろう。もう限界という事を忘れて、僕は夢中になっていた。
「はぁ、はぁ……撒いた、のかな?」
カラカラ乾き切った喉奥から、振り絞った声でそう呟いて後ろを見る。体中が悲鳴を上げていて、全身からダラダラと汗が流れ出ていた。視界も霞んでいて、立っているのがやっとという状態である。
「もう足が……」
路地という路地を利用して、普段は使わない抜け道などを通って走ったのだ。その中には道ではない道だってあって、足には負担があるはずだ。
「とりあえず……何処かで休める場所を探さないと。でも入り組んでる場所じゃないと……」
チェーンソーを持っている以上、それは大きなハンデを抱えていると同じ。ならば広々とした道ではなく、小回りの利く道を行き来するのが無難だろう。
疲労仕切っている頭で考えるのには、現状ではこれが最善であり限界。そう思いながら僕は、再び学校へと戻ってきた。自分の教室ではなく、適当な教室へと入って身を潜めた。
「……」
上がった息を整えながら、僕は教室の中へと差し込む光。それは変わらず紅く染まり、まだこの夢みたいな時間があるという事を悟らせる。
――いつまで続くのだろうか?
そんな事を思ってしまう程、僕は精神的に参っていた。これがもし一日中続くという事があれば、気が滅入ってしまうと容易に想像できる。
「でも、変わらなかったら……いや、考えたくないな」
考えたくない。それは紛れも無い本心から出た言葉だった。だけど今は、疲れ切った身体を休ませるのが優先だ。また彼女に襲われてしまった時、体力が回復してなかったじゃ話にならない。
そんな手遅れな結果は御免だ。
「……喉が渇いたな」
僕は思い出したかのようにそんな事を呟いて、教室の扉をそっと開けて廊下を流し見た。人の気配は無いけれど、廊下へと出れば外からは丸見えとなる。しゃがんで行動しても良いが、それだと前後の警戒しか出来なくなってしまう。
「って……ゲームみたいに考えちゃダメだよな、やっぱ」
自分が出来る事は少ないけれど、それでも何かしらの方法があると思う。例えば彼女に対して、性格や過ごし方を分析する。そこから行動の予想をしたり……あ、駄目だ。
考えを巡らせている内に、僕は決定的な過ちを犯している事に気付いた。それは僕の日常であり、僕が普段からしている事によるツケだろう。
「僕、彼女の事を良く知らないんだ」
自問自答のように呟き、僕は片手で顔の半分を覆う。見える景色が半分となると同時に、僕は何かの視線を感じて顔を上げた。
「みーっけ」
「っ!?」
「はい、ストップ。私は今、武器を持ってないよ?ほらほら」
彼女は両手を広げて、左右に振りながらそう言った。確かにチェーンソーは無いけれど、それ以外に小道具を持っている可能性がある。油断は出来ない。
「うっわー、信じてもらえてない。傷付くなぁ、意外と。……んしょっと」
「窓からやってくる人間なんて、信じられる訳無いだろ。ここ何階だと思ってるんだよ」
「3階。……いやー、昇るの大変だったよぉ〜。制服は汚れるし、疲れるし」
何食わぬ顔を浮かべながら、彼女は制服を叩きながら僕の方へ一歩進めた。反射的に下がると、彼女は首を傾げて目を細めた。
「どうして、逃げるのかな?」
「どうして近付くのかな。話すならそこからでも出来るよね」
「はぁ……じゃあ、この距離ならいい?」
そう言って彼女は、教室にある机に座って口角を上げた。そんな彼女を見ていた僕だったが、一つだけ違和感を感じた。
「……」
「どうしたの?私の顔に何か付いてる?」
いや付いて無い。普通ならば付いて無い程度で眺めないが、今は状況が違う。何処にも、何所にも……付いていないのが逆にオカシイのだ。
「……ん?」
首を傾げて戯けたように笑う彼女が、僕には不気味に見えた。アレを見たのだから、それが付いていなくちゃオカシイというのに。
「あぁ、君が何を探してるのか。分かったよ。けど探しても無いものは無いよ?だって洗えば落ちるのは普通でしょ?」
「洗ったのなら、あれから全然時間は経ってない。その場合、君の制服は濡れてないと駄目だ。あの一瞬で、あの量の血を流せる訳がないよ」
そう、血液。彼女の制服や頬、そして靴というあらゆる場所に付いていた血が、最初から無かったかのように消えている。
彼女の言う通り洗い流すというなら、制服は濡れてなければ矛盾することになる。途中で着替えれば良いとは思ったが、それでもそんな時間があったとは思えない。
「色々と考えてるって顔だけど、そんな事を考え無くても答えは簡単だよ?」
「……何が言いたいのさ」
「だって、この空間はこういう事が出来るんだもん」
ビリっと制服の袖を破り、彼女は口角を上げて僕に見せてきた。オカシイ所は何もないただの制服の一部。それを見せられても、僕はどう反応すれば良いのだろうか。
「まぁ、見てて?――Access」
「……?」
何かをボソッと呟き、彼女は目を瞑って手を中空に差し出した。破れた袖口が自然と僕側に向けられ、僕の視線は袖口へと誘導される。
「Reboot」
「っ……な、直った?」
彼女が言い放った言葉に反応するようにして、破れた袖口が修復された。まるで魔法みたいに直り、彼女は袖の中に手を引っ込めてユラユラと揺らして見せた。
「ジャーン。こういう事が出来ちゃうんだなぁ……ドヤァ♪」
「ドヤァって、自分で言っちゃうんだ……」
確かに直った事には驚いたし、凄いとは思った。だけど僕は、本題へと戻って口を開いた。
「それで血を消したんだ。証拠隠滅の為に」
「そうだよ、って言ったらどうするの?私は悪い事をした覚えは無いし、悪いのはあっち。正当防衛だよ」
「警察が調べたら、バレると思うけど?」
「それは大丈夫。さっきのを使えば、証拠なんて無いのと一緒だから」
そう言って彼女は、直った袖元をフリフリと振った。やがて袖口から手を通して、手の平を出して見せる。
「さて、話したい事はたくさんあるけど……どうしよっかな。着いて来てって言ったら着いて来る?」
「……」
僕を殺すつもりは無いのか、そんな事を彼女は言って首を傾げた。何を考えてるか分からない以上、すぐに離れた方が良いだろう。
だが、どうしてだろう。彼女からは殺意を感じないうえに、アレを見たのにもかかわらず恐怖心が込み上げて来ない。
ならば僕が取る選択肢は……
「何もしないと誓うなら、着いて行くよ。色々と聞きたい事があるし」
「へぇー、意外。着いて来るんだ。逃げなかった事を後悔するかもよ?」
「その時に考えれば良い」
「んじゃ、移動しよっか。ほら、行くよ」
「っ……」
彼女はそう言って僕の手を引き、廊下へと出た。
――パリンッッ!!!
その瞬間だった。ガラスが割れたような大きな音が耳に入り、僕はハッとしながら周囲を確認した。何処かのガラスが割れたのかと思ったが、僕は言葉を失った。
「ほら、行こ。販売機、行くんでしょ?」
「っ、ちょっと待っ」
「待たないよ〜♪」
真っ赤に染まっていた空が青くなり、廊下には生徒たちの姿があった。こちらを指差して、驚いたような表情を浮かべている。
僕は何がなんだか分からないまま、ただ彼女に引っ張られるまま廊下を駆けた。ただ一つ分かってるのは、元の世界に戻って来た。
ただ……それだけだった。




