音楽祭
秋の深まりとともに、王立ヴァルハイト学園では年に一度のビッグイベントである「秋の伝統音楽祭」の準備がたけなわを迎えていた。
この音楽祭は貴族子弟たちが日頃の嗜みを披露し合う場であり、生徒会が主催する最大の行事の一つでもある。校舎には日夜、バイオリンやチェンバロの美しい音色が響き渡っていた。
生徒会室では、ヴァルフリートとメルティールが膨大な進行プログラムの確認に追われていた。
「ヴァルフリート様、オープニングの合奏の配置案ですが、こちらの通りでよろしいでしょうか? 各家の格式を考慮しつつ、音の響きが最も美しくなるよう調整いたしましたわ」
「ああ、完璧だよ、メルティール。相変わらず君の差配は見事だな」
ヴァルフリートは労うように微笑んだが、その表情にはどこか小さな陰りがあった。それを見逃さないメルティールが、そっと声をかける。
「ヴァルフリート様……何かお悩みですの? もしや、トリを務められる『王太子のソロ演奏』の件で……?」
「……隠せないな、メルティール」
ヴァルフリートは苦笑いを浮かべ、手元の楽譜を見つめた。
「曲目は完璧に暗譜しているし、技術的には問題ないはずなんだ。だが……どこか曲に『感情』が乗らない気がしてね。かつてのように『完璧に弾かなければ』というプレッシャーからは解放されたはずなのだが、いざ大勢の前で自分を表現するとなると、どうにも響きが硬くなってしまうのだよ」
「ヴァルフリート様……」
完璧な技術の先にある、聴く者の心を揺さぶる「何か」。真面目すぎるがゆえに再び壁にぶつかっているヴァルフリートを心配したメルティールは、放課後、とあるふたりを生徒会室へ招くことにした。
◇
「——なるほど。ヴァルフリート様のバイオリンの音色が、少し硬くなってしまっているのですね」
生徒会室のソファで、キリルは温かいお茶を一口含みながら深く頷いた。隣ではライラも心配そうに耳を傾けている。
「ええ、ハルシオ様」
メルティールは困り顔で吐露した。
「私はヴァルフリート様のバイオリンの音が大好きなのです。だからこそ、ご本人が納得のいく『心からの演奏』をしていただきたくて……。ハルシオ様は音楽を嗜むと聞きましたし、人の心に寄り添うのがお上手なライラ様にも、何か助言いただけないかしらと」
「キリル、レーベン嬢、どうか力を貸してくれないだろうか」
ヴァルフリートも真摯な眼差しで二人を見つめた。
キリルは少し考え込んだ後、柔らかい微笑みを浮かべて尋ねた。
「僕は嗜むといっても手慰み程度ですが…、ヴァルフリート様。その曲を演奏される時、どんな景色や、どなたのお顔を思い浮かべていらっしゃいますか?」
「え……?」
ヴァルフリートは思いがけない質問に目を丸くした。
「音楽というのは、技術を披露するだけのものではありません。自分の胸の中にある『大切な想い』を、音に乗せて届けるものだと僕は思っています。……僕も昔、ライラに贈るために小さな笛を練習したことがあるのですが、上手く吹こうとすればするほど音が裏返ってしまって。でも、『ライラに喜んでほしい』ということだけを考えて吹いた時は、拙い音でもライラはとても笑ってくれたんです」
「キリル……あの時の笛、とても優しくてステキな音色だったわ」
ライラが懐かしそうに微笑み、それからヴァルフリートに向き直った。
「殿下。音楽祭では、会場に大勢のお客様がいらっしゃいますわ。ですが……殿下が『たった一人の大切な方』のためだけに演奏されるお気持ちになられたら、きっと音色は変わるのではないでしょうか?」
「たった一人の……大切な人……」
ヴァルフリートはハッと息をのんだ。彼の碧眼が、隣で自分を心配そうに見つめているメルティールへと吸い寄せられる。
幼い頃、野の花を摘んで輝くような笑顔を見せてくれた少女。
自分を支えるために血の滲むような努力をし、今は自分の弱さも丸ごと受け止めて愛してくれる、かけがえのない婚約者。
(私は……『王太子として学園の生徒たちに素晴らしい演奏を聞かせねば』と、無意識に大衆に向かって弾こうとしていたようだ……)
ヴァルフリートの胸の内に、温かく大きな感情がこみ上げてきた。
「……解かったよ、キリル、レーベン嬢。私は大切なことを見失っていたようだ」
ヴァルフリートは立ち上がり、心からの感謝を込めて二人を見つめた。そして、バイオリンのケースへと手を伸ばした。
◇
そして、音楽祭当日。
学園の大講堂は、煌びやかなドレスや制服に身を包んだ生徒や貴族たちで満員となっていた。様々な素晴らしい演奏が繰り広げられ、いよいよプログラムの最後——王太子ヴァルフリートのソロ演目が訪れた。
ステージの中央に立つヴァルフリート。スポットライトを浴びるその姿は、誰もが息をのむほど美しく威厳に満ちていた。
客席の最前列には、祈るように胸の前で手を組むメルティール、そしてその隣で見守るキリルとライラの姿があった。
ヴァルフリートは目を閉じ、深く息を吐いた。
そして目を開けた瞬間、その碧眼は会場の誰でもなく、ただ一直線にメルティールだけを捉えた。
——君へ捧げよう、この音色を。
弓が弦に触れた瞬間、講堂の空気が一変した。
奏でられたのは、威風堂々とした王者の旋律ではない。まるで春の木漏れ日のように温かく、時に秋の澄んだ風のように優しく、聴く者の心を締め付けるほどに切なく、愛おしさに満ちた音色。
完璧な技術の上に乗り移ったのは、ヴァルフリートの胸の奥底にある「言葉にならない情熱と感謝」そのものだった。
観客の誰もが息を忘れてその音色に引き込まれ、メルティールの紫水晶の瞳からは、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
「ヴァルフリート様……」
最後の一音が静かに会場の空気に溶けて消えた時——一瞬の静寂の後、雷鳴のような万雷の拍手が講堂を揺らした。
ヴァルフリートは優雅に一礼し、ステージを降りると、まっすぐに舞台袖のメルティールのもとへ駆け寄った。
「メルティール……! どうだった……?」
「素晴らしかったです……! 素晴らしいなんて言葉では足りないくらい……! ヴァルフリート様の想いが、胸がいっぱいになるほど伝わってまいりました……!」
メルティールが感極まって涙を拭うと、ヴァルフリートは愛おしそうに彼女を抱き寄せた。
「君のために弾いたんだ。君がいたから、私はあの音を出すことができた」
◇
音楽祭が無事に終演し、賑やかな喧騒が去った放課後。
静まり返った庭園の東屋には、仕事を終えた4人が集まっていた。
テーブルの上には、ライラとキリルが準備した焼き菓子と、メルティールが淹れた特製のハーブティーが並んでいる。
「改めて、素晴らしい演奏でしたわ、ヴァルフリート様」
メルティールが頬を染めながら紅茶を差し出すと、ヴァルフリートは嬉しそうに受け取った。
「ありがとう、メルティール。……だが、今日最高の演奏ができたのは、間違いなくキリルとレーベン嬢のおかげだよ。『誰のために奏でるのか』を思い出させてくれた二人に、心から感謝する」
「いいえ、ヴァルフリート様」
キリルはいつもの柔和な笑みを浮かべ、丸眼鏡の位置を直した。
「僕たちはほんの少しきっかけを言っただけに過ぎません。あのような美しい音色を出せたのは、ヴァルフリート様がローゼンベルク嬢をどれほど深く愛していらっしゃるかという、お二人の絆の強さゆえですよ」
「まあ……キリルったら」
ライラがふっと胸を暖かくして微笑む。
「でも本当に、とっても素敵な音楽祭になりましたね、メルティール様。私、殿下の演奏を聴いていて、胸が熱くなってしまいましたわ」
「ありがとう、ライラ様。ふふ、実は私、演奏を聴いている間、感動のあまり周りのことが何も見えなくなってしまって……後で思い返すと少し恥ずかしいですわ」
照れるメルティールを囲み、東屋に和やかな笑い声が広がる。
「こうして素晴らしい音楽を聴き、美味しいお茶を大好きな人たちと楽しめる……これ以上の幸せはないね」
ヴァルフリートが穏やかに言うと、キリルも頷いた。
「ええ、ヴァルフリート様。どんな高価な楽器や完璧な演奏よりも、こうして大切な人と心を通わせる時間が、一番素晴らしい音楽なのかもしれません」
「ふふ、キリルは上手いことを言いますわね」
「本当ですわね、ライラ様」
秋の夕暮れ、黄金色に染まる庭園に、4人の温かな笑い声がいつまでも心地よく響き渡っていたのだった。




