いつもとは逆の立場になりました
秋も深まり、学園の木々が赤や黄色に鮮やかに色づき始めた頃。
ハルシオ男爵領の領地改革のため、キリルはひとり頭を抱えていた。
ハルシオ領は主食である小麦の栽培には適しているものの、根菜や葉物といった野菜の収穫量が長年伸び悩んでいた。これまでは近隣の領地から購入することで賄っていたが、近年の不安定な天候を鑑みると、自領での自給率を少しでも引き上げておかなければ、将来的な食糧難に対応できない。
そう考えたキリルは、幼馴染であるライラと共に、土壌を改善するための新しい肥料の研究をずっと試行錯誤していたのだ。
「うーん……落ち葉と糠の配合を変えてみても、やっぱり土の保温性と水はけのバランスがうまくいかないな……」
放課後の図書室のテラス席で、珍しく眉間にシワを寄せて眉をひそめるキリルの姿があった。
「どうしたんだい、キリル。珍しく悩ましげな顔をしているじゃないか」
声をかけたのは、通りかかった王太子ヴァルフリートだった。
「ヴァルフリート様……」
キリルは一瞬驚いたものの、苦笑いを浮かべて事情を説明した。
「実は、僕の領地で野菜の収穫量を増やすために、ずっと土を改善する肥料を作ろうとしているんです。小麦に合う土壌と野菜が好む土壌は違うようで……色々試しているのですが、なかなか成果が出なくて」
ヴァルフリートはふむと顎に手を当て、真剣な眼差しでキリルが広げていたノートを見つめた。ノートにはこれまで行なってきた過程が書かれており、自領の地質に関する分析や近隣河川の状況、主に使用している肥料について、その配合割合を細かく調整してきた結果がわかりやすくまとめられている。
その全体的な内容をおおまかに把握すると、ヴァルフリートは目を閉じて記憶を探っていった。王太子として幼少期から国情や農政、博物学など多岐にわたる高度な知識を叩き込まれている彼にとって、領地の農政は専門分野の一つでもあったのだ。
「土壌の改善か。ハルシオ領の土質はこれを見る限り粘土質が強いようだ。単に落ち葉や糠を混ぜるだけでは、空気の通り道が潰れて根腐れを起こしやすいのかもしれないね」
ヴァルフリートはペンを取り、キリルのノートに滑らかな字で図を書き加えた。
「北部の開拓地で成果を上げた手法なのだが、焼成した炭の微粒子と、腐葉土に少量の石灰を加えてごらん。炭は土中の微生物を増やして空気の層を作り、石灰は酸性に傾きがちな土を中和してくれる。これらを今の配合に加えてみたらどうだろう?」
「炭と石灰……! なるほど、土の『通気性』と『酸度』の視点が抜けていました。流石はヴァルフリート様です、目から鱗が落ちる思いですよ」
キリルの目元がぱっと輝き、長年の悩みに大きな光が差し込んだ。
◇
一方その頃、学園の回廊のベンチでは、ライラがぽつんと座り、小さな溜息をついていた。
ここ最近、土壌改善に行き詰まったキリルが夜遅くまで資料と向き合い、眉をひそめている姿をずっと見てきた。これまで自分も一緒に土をこねたり落ち葉を集めたりと手伝ってはいるものの、専門的な知識が足りず、キリルの力に十分なれていないのではないかと心を痛めていたのだ。
(キリルはいつも私やみんなの悩みを優しく受け止めてくれるのに……私がキリルの力になりたい時、私には何ができるのかしら……)
深く物思いにふけるライラを見かけたのは、風邪からすっかり回復し、元通りの気品を取り戻したメルティールだった。
「おひとりですの、ライラ様? ……なんだか少し、元気がなさそうに見えますけれど」
「メルティール様……」
ライラは顔を上げ、少し迷ったものの、メルティールに胸の内を明かした。
「実は、キリルが領地のために新しい肥料の研究をしていて……とても難航しているのです。私も手伝っているのですが、知識が足りなくて……もっとキリルの支えになりたいのに、自分には何ができるのだろうと悩んでおりましたの」
メルティールは紫水晶の瞳を優しく細め、ライラの隣にそっと腰掛けた。
「ライラ様。ハルシオ様はきっと、あなたに専門的な農業知識だけを求めていらっしゃるわけではないと思いますわ」
「え……?」
「知識や技術なら、専門家や書物から得ることができます。ですが、研究が行き詰まった時に『ハルシオ様がどれだけ領民を想って頑張っているか』を誰よりも理解し、変わらぬ温もりで寄り添って差し上げられるのは、世界でライラ様だけですわ」
メルティールは自身の胸元に手を当て、微笑んだ。
「私にも覚えがありますの。ヴァルフリート様が重圧に押し潰されそうな時、私が専門的な書類を処理するよりも、ただ側にいてお茶を淹れ、信じて見守ることが何よりの救いになったように……。あなたがただ笑顔で『大丈夫よ』と側にいることこそが、ハルシオ様にとって最大の力になるはずです」
ライラは目を見開き、それから胸の奥が温かな光で満たされるのを感じた。
「メルティール様……。ありがとうございます。私、自分の役目を見失っておりましたわ。キリルが緊張を解くことができる温かい場所でいること……それが私にできる一番のことですね」
「ええ。それに、もしよろしければ……公爵家の農園で使っている最新の農業書を何冊かハルシオ様にお貸ししましょうか? 差し出がましいかもしれませんが」
「まあ! 本当ですか? キリルもきっと喜びますわ!」
ライラは晴れやかな笑顔を取り戻し、メルティールの手をギュッと握りしめた。
◇
それから数日後。
学園の温室の片隅にて、キリルとライラはある実験用のプランターを囲んでいた。この温室では希望を出せば場所の一部を借りることができるのだ。
ヴァルフリートから教わった「炭と石灰を加えた新肥料」を混ぜ込んだ土と、メルティールから借りた書物を参考にライラが心を込めて整えた土壌。そこに蒔かれた野菜の種が——。
「ライラ、見てごらん! 芽が出ている……! しかも、今までの試作プランターよりずっと数が多くて、茎も力強いよ!」
「本当ですわ、キリル! 小さくて可愛い芽が、こんなにたくさん……!」
緑色の小さな新芽が、ふかふかの土を押しのけて元気に顔を出していた。二人は顔を見合わせ、まるで自分のことのように手を取り合って喜んだ。
◇
後日、学園の東屋。
「ヴァルフリート様、ローゼンベルク嬢。この度は本当にありがとうございました」
テーブルの上には、元気な新芽をつけた小さなプランターが置かれていた。キリルとライラは、ヴァルフリートとメルティールに向かって深々と頭を下げた。
「ヴァルフリート様のアドバイス通り、炭と石灰を混ぜてみたところ、土の通気性が劇的に改善されまして……! 試作プランターの芽が、今までにないほど元気に増えたんです」
「メルティール様からお借りした本も、本当に役に立ちました。キリルが『これで領地の野菜がたくさん育つかもしれない』と、とても晴れやかな顔をして、私本当に嬉しくて……」
二人が感謝を伝えると、ヴァルフリートとメルティールは顔を見合わせ、心からの笑みをこぼした。
「感謝するのはこちらの方だよ、キリル、レーベン嬢」
ヴァルフリートは穏やかな表情で二人に語りかけた。
「私たちはお互いのすれ違いを正してもらい、何度も二人には心を救われてきたのだからね。たまには私たちが力にならなければ、友としての示しがつかないじゃないか」
「ええ、まさにヴァルフリート様のおっしゃる通りですわ」
メルティールも誇らしげに微笑む。
「ハルシオ様のお役に立てて本当に光栄ですわ。ライラ様がハルシオ様を想うお姿を見て、私も元気をいただいたのですから」
「そんな……僕たちの方こそ、お二人には感謝してもしきれません」
キリルが柔らかい笑みを浮かべると、ヴァルフリートが爽やかに言った。
「さあ、堅苦しいお礼はここまでにして、せっかくの素晴らしいティータイムを楽しもうじゃないか」
「はい! 今日の紅茶は、私が感謝の気持ちを込めて淹れさせていただきますね」
ライラが手際よく温かな紅茶をカップに注ぎ、香ばしい湯気が東屋を満たしていく。
「レーベン嬢の淹れてくれたお茶は、心が安らぐな」
「本当に……ライラ様の淹れるお茶は優しさに満ちておりますわ」
「キリルが淹れる紅茶も、と〜てもおいしいのですよ」
「ほお?確かに、前に飲んだ紅茶はほっと一息できるような味だった気がする。…だが、あのときはキリルに相談をしていたときだったから、気もそぞろでじっくり味わえなかった」
惜しいことをした、とヴァルフリートがうなだれるので、メルティールが少し大げさに声を上げる。
「まあ!そんなにおいしいだなんて、私も興味をそそられますわね。ぜひ次回はハルシオ様の紅茶をいただきたいわ!」
「あはは、ライラ、そんなに期待値を上げないでよ。ヴァルフリート様もメルティール様もそんな風にのらないでください」
キリルが困り顔で頭をかくと、4人は顔を見合わせて思わず「ふはっ」と破顔した。
「ふふふ、冗談ではなかったのですが、ハルシオ様とレーベン嬢の二人が育てた新芽の成長も、今後の楽しみが増えましたね」
「ああ、またこうして近況報告がてらティータイムに招待してほしいな。もちろん、ただこうして話すだけでも私は嬉しいがね?」
「はい!またよければお声掛けさせてくださいませ。ね?キリル」
「ふふ、では、僭越ながら次回は僕が淹れますね」
王太子と公爵令嬢、そして男爵令息と男爵令嬢。
かつては分厚い身分の壁とすれ違いの中にいた4人だったが、今やそこには何の隔たりもない、固い絆と信頼で結ばれた「友人」たちの笑い声が響いていた。
木漏れ日が柔らかく降り注ぐ東屋で、4人は和やかにカップを傾け、どこまでも穏やかで温かな午後の時間を共に過ごすのだった。




