後日談
学園の騒動から数ヶ月が経ち、王立ヴァルハイト学園には例年より少し早い新緑の季節が訪れていた。
庭園の白いアネモネは青々とした葉を茂らせ、暖かな木漏れ日が回廊のレンガを優しく照らしている。その穏やかな静寂の中で、二組の男女の新しい関係が静かに芽吹いていた。
◇
生徒会室の執務机には、相変わらず山のような書類が積まれていた。しかし、そこに漂う空気は以前のような刺すような緊張感ではなく、どこか柔らかく温かい。
「……ヴァルフリート様。こちらの来期の学食への食材納入案ですが、少し気になるところがございます」
「どれだい、メルティール? ……ふむ、確かにここの輸送費の試算が少し甘いな。僕の方で商業ギルドに確認をとっておくよ」
二人は肩を並べ、軽やかに意見を交わしていた。
かつてのメルティールのように一人で完璧に背負い込むこともなければ、ヴァルフリートが情けない自分を隠して一人で思い悩むこともない。分からないことは分からないと言い、疲れた時には素直に手を休める。
「ヴァルフリート様、少し休憩にいたしましょう。……今日は、私が焼いてみたのです」
メルティールが照れくさそうに取り出したのは、少し不格好な形のクッキーだった。完璧な公爵令嬢として育てられた彼女が、初めて自分の手で焼いたお菓子である。
「メルティールが自分で? 嬉しいよ、いただきます」
ヴァルフリートが一口かじると、少し焼きすぎた香ばしさと優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「……とても美味しいよ、メルティール。君が僕のために作ってくれたと思うと、なおさらだ」
「もう、お上手ですこと……形がいびつで恥ずかしいですわ」
真っ赤になって俯くメルティールを、ヴァルフリートは愛おしそうに見つめた。
あの日、情けなく涙を流して互いの弱さを晒し合ってから、二人の関係は劇的に変わった。完璧な仮面を脱ぎ捨てた王太子と公爵令嬢は、今や学園でも評判の「お互いを高め合える最高のパートナー」となっていた。
「そういえばヴァルフリート様、例の『人生相談の男爵令嬢』と『実直柔和な男爵令息』には、もうお礼はお済みになりましたの?」
「ああ。ハルシオ男爵令息には、彼が希望していた博物学の文献集を贈ったよ。まあ、最初はなかなか受け取ってくれなくて、最終的には貸すという形になったがね。戻ってきたら学園の図書室に置いて誰でも読めるようにするつもりさ。彼はそれを聞いて、とても喜んでくれた。……レーベン嬢にも、メルティールと一緒に選んだ茶葉を贈った。二人で飲むのが楽しみだと言われたよ」
ヴァルフリートは遠くを見るような目で微笑んだ。
「彼らには本当に救われたな。僕たちがどれほど愚かなすれ違いをしていたか、気づかせてくれたのだから」
「ええ……本当に。私、今度ライラ様をティーパーティーにお招きしようと思っていますの。側妃の件のお詫びではなく、一人の友人として、お話ししてみたいのです」
「それは素晴らしい思いつきだね。僕も影ながら応援しているよ」
二人は微笑み合い、静かに手を重ねた。そこには、互いを心から信頼し合う、未来の国王夫妻としての確かな絆が存在していた。
◇
一方、中庭の大きな楠の木の下。
相変わらず派手さとは無縁な二人が、小さなベンチに並んで座っていた。
「ライラ、王太子殿下とローゼンベルク嬢からいただいたこの紅茶、すごく美味しいね」
「ええ、本当に。香り高くて、とても心が落ち着くわ」
キリルが淹れた温かい紅茶を手に、ライラは穏やかな笑みを浮かべていた。
あの騒動の後、王太子夫妻(予定)からの謝礼や特別な配慮を辞退した二人だったが、「せめて個人的な友人としての感謝を受け取ってほしい」と届いたこの茶葉だけは、ありがたくいただくことにしたのだ。しかもその際、ライラにいたってはメルティールから名前でぜひ呼んでほしいと許されてしまった。
「最近、学園内もすっかり落ち着いたわね。殿下とメルティール様が仲良く生徒会室から出ていらっしゃる姿をよくお見かけするけれど、お二人ともとても晴れやかなお顔をされているわ」
「うん。殿下も最近は、クラスの男子生徒と気さくに剣術の稽古について話されているよ。以前のような、どこか近寄りたいのに近づけないような悲壮感がすっかり消えたみたいだ」
キリルは自分のサンドイッチを一口かじり、満足そうに頷いた。
「ライラのおかげだね」
「私? 私は何もしていないわよ。ただメルティール様のお話を聞いて、キリルが殿下とお話ししてくれただけ」
「ううん、ライラがローゼンベルク嬢の心を解きほぐしてくれたからこそだよ。……でもね」
キリルは少しだけ困ったような、甘えるような顔でライラを見た。
「最近、ライラに相談に来る生徒がまた増えたでしょう? 放課後、図書室で待っている時間が少し長くなって、僕はちょっとだけ寂しいんだ」
「まあ……キリルったら。キリルだってクラス外の方からも頼りにされてるって、私知っているのよ?」
普段は誰に対しても誠実で落ち着いているキリルが見せる、自分だけに向けられる小さな独占欲。ライラは胸の奥がキュッと温かくなるのを感じた。
「ふふ、ごめんなさい、キリル。今日の放課後はもう誰も約束していないわ。だから……ふたりで、あの街外れの小さな丘に行かない?」
「本当かい? ……うん、行こう! あそこなら静かだし、二人でゆっくり話ができるね。嬉しなあ」
キリルの目元が柔らかく緩み、嬉しそうにライラの手に自分の手を重ねた。
貴族社会の華やかな社交界や、権力争いとは無縁の場所。
自分たちの身の丈に合った小さな幸せを、ひとつひとつ大切に積み重ねていく。
「卒業したら、どんな家に住もうか」
「小さくて、陽当たりが良くて……裏庭に小さな花壇があるお家がいいわね」
「いいね。僕が毎日、美味しいお茶を淹れるよ」
「まあ!それは素敵ね。ありがとう」
木漏れ日が二人を優しく包み込み、爽やかな春風が楠の葉を揺らす。
派手なドラマはなくても、互いの声に耳を傾け、寄り添い合って歩む二人の未来は、どこまでも静かで、温かな光に満ちあふれていた。




